花のように美しい画家の初恋、そしてその末路
芸術の街アルト、そこは音楽や絵に秀でた者、また芸術を好む者達によって栄えており、観光客が多い街である。
広場には大きな噴水があり、時間帯によって水の噴き出し方が変化する。広場正面の街道と広場の境には地面からアーチ状に水が噴き出しており、そこを通り抜ける者は多い。
街のあちこちで絵を描く者、演奏する者の姿があり、往来する人々は時として立ち止まってその様子を眺める。
広場からは離れ、やや喧騒が遠い東の方で一人、絵を描いている青年がいた。その周りにはうっとりした表情で、青年の様子を眺めている若い女性たちの姿があった。その数は約20人ほどで、彼女たちは皆一様に装飾品を身に着け、着飾っていた。
女性たちは小声で囁くように話す。
「ラズネ様、今日も美しいわ〜。まるで花から生まれた王子様のよう」
「だとすれば、きっと春の日に花を咲かせる桃色の可憐な花からお生まれになったに違いないわ」
「春のやわらかく暖かな日差しに爽やかな春風、そのすべてはきっとラズネさまのためにあるのよ」
「そうに違いないわ」
ねー、と彼女たちは絵を描いている青年、ラズネの姿を眺めながら同調する。顔を見合わせて頷かずとも、その心は一つであった。
一方でラズネは周囲の言葉など一切気にしていない様子で、黙々と絵筆を動かしている。その視線はスタンドで支えられているキャンバスに注がれていて、後ろを振り返る気配はない。
「はあ……真剣でお美しい横顔がとても素敵ですわ……」
「わたくし、ラズネ様に見つめられるキャンバスになりたいわ〜」
「だったら私はラズネ様に握られる絵筆になりたいわね」
「いいえ、やはりそこは重宝される絵の具よ」
自分はパレットになりたい、キャンバスを支えるスタンドになりたい、帽子になりたいなどと女性たちは互いに願望を口にする。その会話に近くを通る人々は怪訝な表情を浮かべるが、我関せずといった様子で通り過ぎていった。
絵を描くラズネを眺めながら小声で言葉を交わすこの女性たちは、毎週のように決まった場所で集まっている。
決められた日にちはないが、ラズネは毎週のように今いるこの場所で、昼から夕方にかけて絵を描く。その姿をラズネのファンである女性たちの中の誰が見つければ、たちまちに情報は共有され彼女たちはこの場に集うのだ。
集いには暗黙の了解があり、必ず話すときは小声でなければならず、ラズネに声をかけることは許されない。挨拶ですら禁止である。
もちろん、ラズネの身体に触れることも禁止であり、道具に触れるのは言語道断とされる。そしてルールに抵触した人物が出た場合、集いからは永久追放となり、集い自体は解散となって誰一人として今後ラズネの絵を描く姿を見に行くのは禁止となる。
何故このような厳しい規則があるのかというと、約1年前にラズネに思いを寄せる女性が集いに一人いて、彼女がラズネの絵を汚したり、身体接触をしては絵を描く邪魔をしたり、挙句の果てには恋人を名乗って後ろから抱き着くという暴挙に出たからであった。
複数の罪によって現在、彼女は牢の中にいる。
集いの仲間である彼女を止められなかったということで一度、女性たちはそろってラズネに頭を下げて二度とラズネの前に現れないと宣言したのだが、被害者である本人が「彼女の罪は彼女のものであって、君たちには関係ない。連帯責任を負いたいなら好きにすればいいが、別に僕は君たちにそうしろとは思わない。これからも見に来たいときに見に来たらいい」と寛容な態度だった。
彼女たちはそう言ってくれたラズネの優しさを裏切らないべく、厳しい規則を作り、互いに監視している。
そして、集いに女性ばかりいる理由はラズネの容姿にあった。
彼は花を連想させる桃色のキレイで長い髪に、淡い橙色の瞳を持ち、その顔立ちは美しく中性的で女性と見紛う人は少なくない。肌は色白で身体は細身だった。そのため、ラズネの外見を目的に絵を描くところを見に来る女性は多かった。
恋人の有無は不明だが、そのような雰囲気は一切ないので尚更女性人気に拍車がかかった。
芸術の街アルトに美青年がいるというのは一部で噂になっている。
日が傾いてきた頃、ラズネがパレットに絵筆を置き、帽子をとる。それはラズネの活動の終了であり、集いの終わる合図であった。
「ラズネ様、本日も大変美しかったですわ〜。良い夢が見れること間違いないですわね」
「きっと宝石のような煌めく夢よ」
「でしたら、わたくしは甘いパフェをお腹いっぱい食べられる夢を所望しますわ〜」
「じゃあ私は肉いっぱい食べられる夢で」
ラズネが片付けを始めると同時に、2列に並んで女性たちは会話をしながら去っていく。ラズネの活動が終われば、すぐにその場から去る……それは暗黙の了解ではないが、ラズネの片付けや帰宅を邪魔しないためであった。
「あの人たち、また今日もあそこで何時間もあの画家眺めてたよ」
「よく飽きないよなあ。いくら美人な画家とは言え、本人と一切話さずにずっと突っ立って眺めてるだけって変人だろ」
「でもあの画家の人、本当に美人だよ。私、初めて見たとき女の人だと思ったもん」
「だとしても俺に無理だわ〜。あそこまでいくと最早宗教だな」
去っていく女性たちとすれ違い、その後ろ姿をちらりと見ては呆れた様子で若い夫婦はそんなことを話すのだった。
*****
ラズネは今日、外で完成させたキャンバスを抱えながら、灯りをつけてからアトリエの中に入る。広いアトリエの端、人物画が並んで置かれている場所に抱えたキャンバスを置く。そして、今しがた置いたばかりのキャンバスに描かれた少女の顔を見て、
「フィー」
と呟いた。
並んで置かれたキャンバスには全て同じ少女が描かれていた。
2つに結ばれた黒い髪に水色の瞳、明るい表情。構図や背景に違いはあるが、どれも共通してその少女が主人公のように絵の中にいる。
ラズネは街の中では若い女性達に人気だが、画家としては老若男女問わず一定の人気があった。
彼は風景画で生計を立ている一方、売らずに個人でずっと描いている絵があった。それがフィーという少女を描いたものだった。
彼女は実在した人物であり──ラズネの学友でもあった。
ラズネは少女の絵を15の頃から21歳になる今まで描き続けている。もう何度、何枚描いたかは覚えていない。全て完成まで描ききったが、学生の頃に描いたものはほとんど自分の手で処分した。大人になった今も、時々気に入らないものは処分している。
──記憶の中のあの子と違うものは全てダメだ。そんなものは存在してはいけない。あの子はこんなふうには笑っていなかったのだから。
ラズネは眉間にしわを寄せ、今日描いたばかりのキャンバスをポケットにしまっていた小さなナイフで傷をつける。何度も何度も、たたきつけるように。
「こんなのは違う……!」
あの子はこんな笑い方じゃなかった。もっと眩しい笑顔だった。
何度も何度も切りつけ、最後にラズネは少女の顔にナイフを突き刺した。自分が何をしているのか、疑問すら抱かなかった。
この絵は明日燃やす、心の中でそう呟いてラズネは俯く。そしてまた彼女の名前を口にする。
「フィー……」
──もう君がどんな顔で笑っていたのかすら、はっきりと思い出せない。
かの少女は天真爛漫でいつも笑っていた。表情も声も明るく、好奇心旺盛でありとあらゆるものに目を輝かせていた。
「ラズネちゃん、おはよう!」
「おはよう」
学生寮の食堂で毎朝、彼女はこちらの姿を見つけると小走りで寄ってきて笑顔で挨拶をする。そして隣で朝食を食べる。それから、宿題やった? 今日はどんな風景を描くの? 時間あったら街行こうよ。などと続けて彼女は話す。
「街にギンユーなんとかが来てるんだって! なんか歌ってくれるらしいよ! 一緒に聞きに行こ!」
「分かった」
「やったー! ありがとう、ラズネちゃん! ノアくんも誘っとくね!」
彼女はいつも楽しそうに話しながら食事をしていた。「これおいしい!」とか「もっと食べたい!」とか食事自体も楽しんでいた。
食事の最中に鼻歌を歌うことは何も珍しくなく、ラズネは毎日のように賑やかな少女と共に過ごしていた。
「フィー! ラズネ!」
朝食の途中に食堂に入ってきて、ラズネとは反対の少女の隣に来る金髪の友人が一人いた。彼は3人のうちだと最後に来ることが多く、今日も陽気な笑みを浮かべて駆け足でこちらへと近付いてくる。
「ノアくんだ! おはよう!」
「おはようございます! フィーは今日も元気ですね」
「ありがとう! ノアくんは今日も走ってきたの?」
「はい! カッコイイ騎士になるためにはタン……ええっと、そう! 努力は大切ですから!」
「かっこいー! すごーい!」
「あ、ありがとうございます!」
笑顔で拍手する少女にやや照れたようにノアは笑う。これはよくみる光景だった。
「ノア、食事取ってきたら」
「あっ、そうですね! 取ってきます!」
「いってらっしゃーい!」
「いってきます!」
ラズネが言うと、びゅんとノアは配膳カウンターの方まで走って行く。毎回、生徒の歩行の邪魔もせず、ぶつからずに危なげなく行く姿にラズネは微妙に感心していた。
短時間でノアは戻ってきて席につくと、美味しそうに食事をする。
「今日のたまごやき美味しいですね! 前のより甘くないですか?」
「そうなの? わかんない! どっちも美味しい!」
「それはオレもそう思いますけど、今日のほうが絶対甘いですよ! ラズネもそう思いませんか?」
「そう思う。でも僕は前の方がいい」
「ラズネはしょっぱい方が好きですもんね!」
「ノアくんアマトーなの?」
「はい! 甘いものは大体好きです! 中でもチョコレートパフェが一番です! 街のカフェのは特に美味しいですね! 今度3人で行きませんか?」
「行く行く!」
「分かった」
「じゃあ、約束ですね! 日程はまた後で……」
「あっ! そうだ! ノアくん、今日街行こう! ギンユーなんとかが来てて、歌ってくれるんだって! ラズネちゃんも行くって!」
「もちろん行きます! あ、じゃあカフェも今日行きましょうか!」
「うん!」
「ラズネもいいですか?」
「いいよ」
「なら、決まりですね!」
それから、カフェはどんな感じなのか、何が食べられるのかと少女が食い気味に質問しては、ノアが丁寧に溌剌と答える。そのやりとりを聞きながらラズネは、相変わらず元気だなと一人思う。
普段からノアと少女が中心となって会話をしては、その中でラズネに話を振るという形だった。ラズネは口数が多い方ではないし、積極的に会話に参加する方でもない。会話が嫌いなわけではないが、特に話したいことはなく自分から話すよりは聞き手に回るほうが楽だった。なので、この3人でいるのは居心地が良かった。
座学の成績が3人とも揃って悪いために、無教養トリオだのワーストスリーだの呼ばれたこともあったが、ラズネは特に気にしなかった。寧ろ、悪口であってもトリオ扱いされることに好感情すらあったもしれない。それほどラズネは3人で過ごす時間が好きだった。
そんな時間は5年と経たないうちに、一人が欠けたことによって呆気なく失われてしまうだと、この時のラズネは知る由もなかった。
ラズネたちのいる国、セレン王国では数え年で13になる頃に魔力の使い方を学ぶべく、学校に入学して5年間学ぶことが義務付けられている。ラズネも例外ではなく、故郷の森からは随分と遠い地にある学校へ入学し、学生寮で生活している。
別にそこに不満はない。しかし、ラズネは魔法を主に扱う職に就くつもりは毛頭なく、幼少期から絵で生きていくのだと心に決めていた。そのため、魔法の勉強にラズネは興味がなく、魔法に関する授業は睡眠こそしなかったが一切努力しなかった。
一方、ラズネの父親は違った。父はラズネの夢を真っ向から全否定し、魔法を扱う職について安定した暮らしをしろと命じた。お前は絵ではなく、魔法に生きろ。筆は捨てろ。ある時から父は口うるさく、何度も何度もそう言うようになった。
そんな命令のような言葉にラズネは激しく反抗した。
「僕の将来を勝手に決めるな! 父さんがどれだけ夢を否定しようと僕は画家になる! 絶対に!」
「お前は現実が分かっていない……! 画家になって食っていけるやつなんてほんの一握りだ! お前がそうなれる保証はどこにある!? いいから俺の言うことに従え!」
「僕には才能がある! それが保証だ! 逆に、父さんの言葉に従って幸せになれる保証がどこにあるんだ!」
「才能があると思ってるのはお前だけだ! お前に絵の才能なんてない! 俺のほうが長く生きている分、現実を知っている! 子供は大人の言うことを聞いておけばいいんだ……!」
「っその現実って何だよ……! 子供は大人の言いなりだって、従わせるのが現実なのか!? そんなの僕はいらない!! 大体、父さんは自分のことしか考えてないだろ! 僕を言いなりにして満足したいだけだ! 僕のことなんて一切考えてないくせに……!!」
「違う!!! 自分のことしか考えてないのはお前の方だ! 俺はお前のことを思って言っている……!」
話は平行線だった。父はラズネの夢を否定して従わせようとし、ラズネはそんな父親の言いなりにはなるまい、必ず夢をかなえると言い張った。
このやり取りはラズネが入学する1年前から約半年続き、あとの半年は家の中で一切親子の会話はなかった。
母親はラズネが幼い頃に病死しており、家には父子の2人きりだった。だから尚更、大喧嘩が始まってからというものの家は居心地が悪く、ラズネは部屋にこもりきりになるか、森の中で朝から夜まで絵を描くかのどちらかだった。
ラズネの住んでいる村は森の中にあり、人口は100人程度で子供は少ない。人口が少ない分、家の事情というものは外部に漏れやすい上に、その情報は広まりやすく、ラズネの親子喧嘩も例外ではなかった。
村の人々が心配してか見兼ねてか、ラズネに声を掛けてきたがその全てが煩わしかった。
「あまりお父さんに心配をかけちゃ駄目よ。たたでさえ片親っていうのは結構苦労するものなんだから」
「まあ、許してやれよ。あの人もお前のことを思って言ってくれてるんだからよ」
「ラズネちゃん、お父さんとケンカしたの? ダメだよ、家族は仲良しじゃないといけないんだから」
──うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!! 黙れよ……!!!
こちらの心情も知らず、たしなめるように声をかけてくる村の人々にラズネは激しい怒りを抱いた。
誰しもがラズネを心配するように装ってその心には寄り添わず、父親の味方をする。そこにはラズネを心配する気持ちが本当にあったのかもしれない。だとしても、それは一つもラズネには届かず、寧ろ苛立ちを刺激するだけだった。
誰も僕のことなんて考えていない。大切なのは父さんの気持ちだけだ。父さんだってそうだ。僕を大切だと言っておきながら、本当に大切なのは自分だけ。自分の意見を押し通すことしか考えていない。
僕に絵の才能がない? 何故、そう決めつける。あれだけ一緒にいて僕の何を見てきたんだ。僕の何を……何を見ていたんだ。大体、僕に才能があると言ったのは──父さんなのに。
ラズネは苛立っていた。そして、傷ついてもいた。
まだ母が生きていた幼少期、父は母とそろってラズネの絵を褒めに褒めた。
「ラズネには才能があるね。世界で一番素敵な絵だよ」
「そうだな。さすが俺たちの子供だ。お前はきっと世界一の画家になれる。その才能があるよ」
両親が幸せそうに微笑んでそう言ってくれたのをラズネは覚えている。
その父が何故、夢を否定する。
母がいた頃、父は今より口数が多くて表情も豊かだった。しかし、母が亡くなってから父は口数が減って全く笑わなくなった。暗い表情を見かけることが多くなった。
思えば、あの頃から父は変わってしまったのだろう。そして頭までおかしくなってしまったのだ。あれはもうラズネが知っている父親ではないのかもしれない。
母が亡くなってから男手一つで育ててくれた父にラズネは感謝している。家事も育児も父は全く不平不満をこぼさなかったし、ストレスをぶつけられた記憶はない。優秀でカッコイイ父親だと思っている。……否、思っていた。
今は違う。あの男は僕をただ否定するばかりの分からず屋だ。入学する学校は学生寮があって、ここからは遠い場所のやつにしよう。この田舎から通える学校なんてないんだ。どっちみち、学生寮に入ることにはなる。そして学校を卒業したらもう故郷には戻らないし、あの男には一生会わない。必要な金を払うくらいのことはしてくれるだろう。
最早、ラズネは父も村の人々のことも嫌いになっていた。入学のために村を出るまでほとんど人と話さず、森でただひたらすらに風景画を描き続けた。
父親と会いたくなくて、森の中で数日過ごしたこともあった。幸い、森は食料が豊富でラズネは猟師である父から狩りの仕方を学んでいたので、好物の肉も食べることが出来た。
そうして父と半年間話をしないまま入学の日が迫り、ラズネは故郷を出た。父は見送りにこなかった。そのことに一切の後悔はない。あったのはようやく故郷と父の元から離れられるという安心感だった。
学校に入学してからというものの、ラズネは快適に日々を過ごしていた。夢を全否定する存在はおらず、土足で人の心に踏み込んできて心無い言葉をたちの悪い善意からかけてくるやつもいない。まさに楽園だった。
気の合う友人たちがいて、大して生徒数が多くないためか教師も余裕がある感じがする。それに家の事情に首を突っ込んでこない。ラズネからすれば学校の教師や用務員、食堂で働いている大人たちは"至ってまともな大人"であった。
ラズネが平和な学校生活を送っていたある日、突然手紙が届いた。
「ラズネー! ラズネー! テガミー! テガミー!」
首につけた鈴を鳴らして、手紙をくわえた鳥がラズネの元へとやってきた。学校で飼育されている知能が高く、ある程度人の言葉が話せるため学校に届いた手紙を目的の人物に渡す役目を担っている。
鳥はラズネの肩に止まると「ウケトレー! ウケトレー!」とうるさく鳴く。
学校に入学してから初めて届いた手紙に、怪訝な顔をしてラズネは受け取る。すると、鳥はすぐさま飛び立ち、廊下の窓から出ていった。
「ラズネちゃん、誰から?」
「友達からですか?」
「さあ……」
首をかしげる友人2人に知りたいのはこちらだと思いつつ、手紙封筒を裏返す。そして目に映った差出人の名に目を見開き──破った。
「えっ!?」
「ラ、ラズネ!?」
どうしたんですか!? と驚いているノアを無視して、ラズネは2つに破った手紙をポケットにいれ、眉間にしわを寄せた明らかに不機嫌な表情で口を開く。
「捨ててくる」
「う、うん?」
「えっ、ええ!?」
そう言うと、ラズネは廊下を走って外へと出た。それからゴミ置き場に行って、怒りに任せて手紙を粉々に破き、ゴミ袋の中に突っ込んだ。
これで明日には燃やされて消えているはずだ。ラズネは忌々しげにゴミ袋をにらみつけた。
手紙封筒の後ろに書かれていたのは父親の名前だった。その名を目にした途端、心が荒立つのを確かに感じた。今も完全に落ち着いたわけではない。父親の名を誰かに出されれば、その人を殴らない自信はラズネにはない。
今更──今更、何を話すことがある? 伝えることがある? どうせ破った手紙の中に書かれているのは夢を諦めろとか、魔法の勉強に全力を尽くせとか、俺の言うことをきけとかそんなつまらない文章に違いない。
あいつは僕の夢を否定した。なにも理解を示さなかった。自分のことしな考えていない。それだけだ。それで終わりだ。
ラズネは舌打ちをしてから、ノアと少女の元へ戻った。2人は心配そうにしていたが、ラズネは何も言わなかった。
その日、2人にひどい言葉をぶつけることはなかったが、ラズネは一日中明らかに不機嫌で、いつにも増して口数は少なかった。苛立ちは夜になっても収まらなかった。
結局、苛立っているせいかなかなか寝付けず、ラズネは寝間着のまま静かに部屋を出て、学生寮から抜け出した。
秋の半ばの夜風は涼しく、夜空にはいくつもの星が輝いている。
学生寮から少し離れたところにある林に足を踏み入れた。林は人の手が入っており、中の道もほどほどに整備されていて歩きやすい。
林に生息している固有の虫が光を放っている。それを頼りにラズネは静かな林の中を歩き、川のせせらぎの音が聞こえる方へと向かった。
そうして小川へと到着し、その傍で小さく歌いながら回っている少女の姿を見つけた。少女もまた寝間着姿だった。
「フィー」
名前を呼ぶと少女は回転するのを止め、ラズネの方へと顔を向けて目を丸くした。その直後、にっこりと笑顔を浮かべる。
「ラズネちゃんだ! ラズネちゃんも夜ふかしー?」
てってっ、と跳ねるように駆け寄ってきて少女は笑顔のまま首を傾げる。その問いにラズネは小さく頷いた。
「ラズネちゃん悪い子だ!」
「そっちこそ」
「うん! しかも何回もやってるからすごく悪い子なの!」
あはは! と少女は楽しげに笑う。一方で、そんなに抜け出していたのかとラズネは意外に思った。
「ここで何を?」
「自由に過ごしてるだけ! 寝れないときにたまーに来るよ! なんか歌ったりおどったり、川でばしゃばしゃしたり!」
「ふーん……」
「ラズネちゃんもやる?」
「何を?」
「今日はおどるよ!」
「……僕はいい」
「わかった〜! じゃあ歌うね!」
じゃあ、とは? そんなラズネの疑問をよそに、少女は宣言通り歌い始めた。
ラズネは近くにあった切り株に座り、少女の歌を聞きながらその姿を眺める。彼女はとても楽しそうに歌っていて、自然体という言葉が似合う気がした。
少女の歌声は溌剌としていて無邪気だ。思いついた好きな物や、何かしらの感想を繋げて歌詞にしているようだった。特別上手いとラズネは思わないが、見る人によっては和むかもしれないし、元気をもらうかもしれない。なんというか少女の歌っている姿は、幼い子供が親の前で好きな歌をただただ楽しく歌っているような、そんな姿なのだ。
まるで幼い子供。その言葉が似合う姿だった。
幼い子供……ラズネはそう思うことがこの時だけではなく、以前に何度もあった。
少女もノアも基本的に元気で純粋であり、言動も性格も似ている。しかし、少女のほうが幼い印象がある。それは彼女から聞いた生い立ちに関係しているのだろう。
少女はかなり閉鎖的な環境で育ったために、世間にとても疎いのだと言った。閉鎖的な環境、と言っても人里離れたところで病気の療養をしていただけで、非人道的な環境にいたわけではないらしい。周囲の人々は優しかったと笑顔で語っていたし、本人の無邪気で明るい性格からも愛されていたことは間違いない。
少女はひじょうに人懐っこく、活力にみちていて、とても好奇心が強い。あれなに? これなに? あれやってみたい、これやってみたい! と彼女にとって未知の物に出会うたびにそう口にする。そのためか、ノアと比べて少女は幼い子供のようなのだ。
ノアはノアで活発ではあるが、少女と比べるとありとあらゆるものに目を輝かせるわけではないし、意外とルールには厳しいところがある。と言っても情に弱い彼のことなので、少女と共にラズネが夜中の抜け出しに誘えば、規則違反なのにも関わらず来ることだろう。
加えて彼は常に敬語を使っている。難しい言葉は使わないし、そもそも知らないのだろうけれど丁寧な口調というだけでそれっぽくは見える。それにノアは礼儀正しい。そういうところも相まって少女ほど幼くは感じないのだろう。
「ててっ、テントウムシ、ムシャムシャ〜。おいしくないよ〜。りんごのほうがきっとおいしい~」
それはそうだろう、と内心でつっこみつつ、ラズネは苛立ちがほとんど収まっているのを感じていた。少女のへんてこな歌を聴いていると、手紙程度で苛立っていたのが馬鹿らしく感じるほど、毒気が抜かれる。
ラズネは大きく息を吸って、静かに吐き出す。
……もう、大丈夫。
落ち着きを取り戻し、平常心に戻っていた。
また手紙が来ても同じように捨ててしまえばいい。手紙を見る権利も見ない権利も自分にある。だからそんなに苛立つ必要はない。それに、あの男の性格からして、返信がなかったのに続けて手紙を送ってくるとは考えづらい。
きっとなんとかなる。そう楽観的に考えられるほど気が楽になり、ラズネは目を閉じて少女の歌を耳を傾けた。
そうしてしばらくして歌が終わった頃、少女はラズネに笑顔で近付き、その場で飛び跳ねる勢いで尋ねる。
「ねえねえ! ラズネちゃん! どうだった! 楽しい歌だったよね!?」
「確かに、楽しい歌だった」
「やったー! また聞きに来てくれたら歌うよ!」
「考えておく」
「やったー!」
両手をあげたまま、少女は飛び跳ねて喜ぶ。こういった反応も彼女が幼く感じる原因だった。ノアも笑顔で喜びはすれど、全身で感情を表現したりはしない。
ひとしきり喜び終えたあと、少し落ち着いて少女は思い出したかのように首を傾げ、ラズネに問うた。
「あっ、そうだ。ラズネちゃん、今日は調子が悪そうだったけど大丈夫? ノアくんも心配してたよ」
「ああ……大丈夫だから、そんなに心配しなくていい。ありがとう」
「よかった!」
やっぱり元気が一番だもんね! と少女は笑って言う。その無邪気さと純粋さがいまのラズネにとってはちょうど良かった。
きっとこの時、誰かに話を聞いてほしかったのだろう。気がつけばラズネは父親との確執をこぼしていた。
「……今日届いた手紙は嫌いな父親からだった。だから、すぐに破って捨てた。見る価値もないと思ったから」
「えっ!? そうなんだ!?」
目を見開いて驚く少女に、ラズネは無言で頷く。
「入学前に大喧嘩になって、そのままこっちに来た。僕の夢を全否定して、お前には才能がないって言うんだ。僕に才能があるって言ったのはあいつなのに……。村の連中もうるさかった。親を理解してやれって……誰も僕の気持ちなんて知らないくせに。……あいつらが嫌いだ。二度とあそこには帰らない。僕は絶対画家になる。絶対に……」
「絶対なれるよ! だってラズネちゃんの絵、すごくすてきだもん! ノアくんもラズネちゃんは大天才だって言ってたよ!」
「フ……」
大天才。そこまで言ってもらえるとは思ってなかった、と思わずラズネは笑みをこぼす。それに何より絶対なれる、と少女が言い切ってくれたことが何よりも心強かった。
──そうだ。やっぱり僕は天才で、確かな才能がある。間違っているのはあいつの方だ。僕は夢を絶対に諦めない。
ラズネは今一度、強く心に誓った。
「でも、そんなことがあったんだね。ラズネちゃん、話してくれてありがとう! ラズネちゃんの声いつもより聞けて嬉しいよ!」
「なんだそれ。僕の声が好きなのか?」
「うん! なんかキレイだなって思うから! えっと、キレイで美しい? 感じがして好き!」
「そう……」
個人的なことを教えてくれて嬉しい、ではなく声が聞けて嬉しいという感想にラズネは声を上げずに笑う。そんなことを言われるとは、誰も思わないだろう。
そしてラズネはこの瞬間、初めてノアが少女に褒められて照れる理由がわかった気がした。
直球で好意を伝えられる、というのはなかなか照れくさいものだ。幼少期に両親から愛を伝えられた以外に、まっすぐ好意をぶつけられたのは今が初めてだった。
きっとノアはこの子のことが好き、なのだろう。今までこの子に対してだけ他とはどこか態度が違うと思っていた。それは恋心があるからだと気がついた。
ラズネは恋愛経験が一切無く、またそれをテーマとした創作物に興味がないために、ひどく疎かった。しかし今、なんとなくその一部分を僅かに理解できた。ノアはきっと少女の屈託のない笑顔と純粋さに惹かれたのだろう、と。
秋の夜風が吹く。木々の葉が擦れ合い、揺れる音が静かな林の中でよく聞こえる。
学生寮を抜け出してどれくらいの時間がたったか分からない。しかし、かなり夜は更けていることだろう。今ならよく眠れそうな気がする。
「フィー、そろそろ帰ろう」
「はーい! 帰ってぐっすりねむろう!」
タタッと駆け出し先行する少女の後を追いかけるようにラズネは歩く。
ラズネは賑わっている場所よりも、夜の静けさの方が昔から好きだった。人の気配があるよりもない方が良い。今もその感性は変わらない。
──ああ……でも、静寂の中に強く輝きを放つものがあったって別にいいかもしれない。
目の前を行く少女を見ながら、ラズネは確かにそう思った。
父親から手紙が届いた一件以来、ラズネは特に大きな変化もなく学校生活を送っていた。
いつもの3人で朝食をとってから投稿して、放課後が終わればたまに一緒に遊びに行く。夕食を食べるときもいつも同じメンバーだった。
他の学生との交流はあったし、時々先輩と絡むこともあった。それでも大半の時間を一緒に過ごす相手は入学してから2年以上が経過しても変わらなかった。
3人で仲良く過ごしているのは今も変わらない。しかし、確かに変化したものもあった。
ラズネもノアと同じ感情を少女に抱くようになっていた。
明確にいつからそうなったのかはラズネは分からない。ただ、父親からの手紙を破り捨てたあの日の夜の出来事が転機となったのは間違いなかった。
ラズネがノアの感情に気が付いているように、ノアもまた同じように気がついているのだろう。ノアははっきりと言葉にはしないが、そういう"目"をしている。
とはいえ、3人の関係に変化はなかった。告白だとか抜け駆けだとか、そんな恋愛的なアクションはどちらも起こしていない。
ノアとラズネも同じで気づいているのだ。幼子のような純粋さをもつ少女に告白したところで、恐らくなんにもならないと。
少女はきっと恋愛について微塵も理解していないし、恋人が欲しいとかそんな感情は一切ないだろう。
そもそも外界に出てから数年しか経っていない。恋愛関係なしに諸々の情緒が育ちきっているとは思いづらい。
そんな事情もあり、また3人でいたい気持ちもあってラズネは告白していない。恐らくこの関係を崩したことで得られるものは、「レンアイ? よくわかんない! ごめんね!」という振られる言葉だけだろう。何の利点もないことをラズネはしたくない。
ノアがどう考えているのか、具体的には知らない。少女がいないときがあったとしても2人で恋バナなどした記憶はないし、話題にはし辛い。しかし、彼も告白するつもりは今のところないはずだ。思い立ったら即行動する性格なのに、今まで告白していないというのはそういうことだ。
両者は互いの恋愛感情に触れることはなく、仲良し3人組として過ごしている。ラズネはその日常
不満はない。卒業するまでこれでいいと心から思っている。そう、思っていたのに。
「君の友人の一人──フィーが亡くなりました」
不意打ちのように知らされた訃報にラズネは呆気にとられた。
「昨晩から体調を崩し、そのまま……。手は尽くしましたが力及ばず、申し訳ありません」
沈痛な面持ちでそう言って保健委員の──2つ上の男子生徒は深く頭を下げた。ラズネは呆然としてその頭を見下ろすして、立ち尽くしていた。隣の部屋からは扉越しにノアのものと思われる慟哭が聞こえてくる。
突然突きつけられた惨たらしい現実を、ラズネは呑み込めない。頭がついていかない。
「は……、は…………?」
混乱のあまり、無自覚に声が漏れ出る。
……意味が分からない。だって少女は昨日、食堂で並んで食事をしたとき、いつもと同じように元気だった。おかわりもしていた。笑っていた。話していた。そこにいた。
なのに、なぜ?
何かを患ってるそぶりなんて一切なかった。元気だった。よく動き回っていた。それがなんで。
「なん、で……」
無意識のうちにラズネは疑問をこぼしていた。それにたいして男子生徒は頭を上げて、悲痛な表情で重苦しそうに口を開く。
「…………彼女は生まれつき重い病気を患っていました。不治の病です。国一番の名医でも治せない病気です。それを患ってしまった時点で成人まで生きられないことは確定していました。今まで無事に学生生活を送れていたのは、薬で強引に症状を極限まで弱めていたからです。……一般には出回らないような強力な薬です。とても副作用が強く、寿命を縮めます。死の間際にいる患者のみが使用することを許されています。だから……」
「…………だから? な、んで……なんで、っなんでお前がそんなこと知ってるんだよっ……!!」
沸き立つ感情をぶつけるように、ラズネは相手の肩を掴んで壁に押し付ける。衝撃で相手は表情を歪めるが、ラズネはお構い無しに激情をぶつけた。
「僕は……っ僕たちはそんなことあの子から聞いてない……!! なんで僕たちじゃなくて、お前が知ってるんだ……!!」
「……っ彼女自身が口外の禁止を望んだから、です。誰にも病気のことを知られず、普通の学生として過ごしたいと……」
だったら昔語ってくれた、療養のために人里離れたところに居たっていうのは半分嘘だってことになる。……病気が治っていなかった。そういうことになってしまう。
「……いくらでも責めてくれて構いません。君たちにはその権利があります」
「…………」
罪悪感のこもった声に、ラズネは相手の肩から手を離し俯く。もう、口を開く気力がなかった。
──フィー。お前は僕たちの傍で笑っている時、何を考えていたんだ。何を思っていたんだ。寿命を縮めるくらいの薬の副作用が辛くないわけがない。お前は僕が知らないところで苦しんでいたんじゃないのか。泣いていたんじゃないのか。なんでお前は大病を抱えて笑っていられたんだ。もう自分の未来を完全に諦めて割り切っていたのか。自分だけがいない未来を想像して、笑えていたのか。僕はお前が分からない。僕はきっとお前のことをそんなに知らなかった。
その場に座り込み俯いて、ラズネは静かに涙を流した。最後に泣いたのはいつだったか、覚えていない。それくらい久しく泣いた。
扉の向こうからまだ慟哭が響いている。ノアは少女の死に顔を見たのだろう。そしてその亡骸に縋るように泣いているのだろう。
ラズネは扉を開けて、少女の顔を見ようとは思えなかった。見てしまったら、記憶の中にある少女の笑顔が全てきえてしまう気がした。
その日のことをラズネはもうよく覚えていない。ただ、あの日のことが自分に大きな変化をもたらしたのは確かだった。
少女の死後、ラズネは部屋に籠もるようになった。食事も最低限しかとらなくなり、誰とも会話をしない日が続いた。絵筆すら握らなくなり、絵を描きたいと思わなくなった。
少女の葬儀には出なかった。燃やされるあの子を見たくなかったから。
ノアが訪ねてきても無視をした。葬式に出ないんですかときかれても、外に出ましょうと言われても何も答えなかった。
ただ起きて寝るだけの屍のような生活を送った。
最低限の食事しかとっていないのに案外人間は頑丈なものだとラズネは一人で思う。何も楽しいと思えなくなっても、体だけは生きている。
少女は本当に死んでしまった。食堂に行っても教室に行っても、夜中に学生寮を抜け出して林に足を踏み入れても、どこにも少女の姿は見えないし、声は聞こえてこない。
どこにも、もういない。
あの元気で明るい声はもう一生聞けない。あのまぶしい笑顔がこちらに向けられることはもうない。僕の声を好きだと言ってくれたあの子はもういない。
部屋から出ると無意識に少女の影を探してしまうからラズネは外に出なくなった。学校のあちこちに思い出が染み付いているせいで、余計に少女がいなくなった現実が重くのしかかる。
ラズネは瞳を閉じた。ただただ時間が早く過ぎ去ってくれることを願った。少女のいない時間が早く終わってくれることを祈った。
ある日の生徒たちが寝静まった真夜中、ラズネは目を覚ました。体が怠く活力などなかったが、ふとなぜか外に出たくなって学生を抜け出した。
季節は冬を迎え、秋よりもずっと冷たい風が頬を掠める。寒さの中、ラズネはろくに防寒もせずに林の中へ足を踏み入れた。自然と足がそこへ向いたのだ。
林の中では変わらず固有種の虫たちが光を放っている。一方、草木はところどころ枯れていた。
行く当てもなく、ラズネは歩き続けた。そして気がつくと、2年前の秋に少女の歌を聴いた小川の傍にたどりついていた。
「……フィー」
力のない声でぽつりと呟くが、もちろんそこに少女の姿はない。あるのは静寂と、ここに少女の姿が現れることはもう二度とないという生々しい現実だけだ。
「ラズネ……?」
不意に背後から名前を呼ばれ、ラズネは後ろを振り返る。
そこには目を見開いて立っているノアがいた。
ノアは我に返ると、ラズネに駆け寄る。
「ラズネ! 健康……ではなさそうですが、やっと部屋から出てきてくれたんですね……! ずっと心配していたんですよ! 食堂にも学校にもいないし、部屋の前から呼びかけても何も返って来なかったから……!」
ノアは眉尻を下げ、心配そうな顔でそう話しかけてきた。そんなノアの顔を見て、彼からかつてのような溌剌さがあまりないことにラズネは気が付く。
ノアも少女が亡くなってから元気をなくしていたのだろう。以前と比較するとどこか暗い雰囲気が漂っているように感じるし、表情は疲れているようにも見える。
「……なんでここに」
「フィーが……フィーがいなくなってから、あんまり眠れなくなって……。病気のこととか色々、考えてしまって……。……それで体を動かそうと思って外に出たら、林の方に行くラズネが見えたから追いかけてきたんです」
「そう…………」
「……ラズネはどうしてここに?」
「…………分からない」
ノアの問いにラズネはやや俯き、首を小さく横に振った。
事実、ラズネはここに来ようと思ってきたわけではない。自然と足がこちらへ向いて、気がつけばこの場に立っていた。夢の中でふらついているような感覚でしかない。
「そうですか……。…………何もかも急でしたよね。オレ……本当にもうフィーがいなくなったって信じられなくて……。遺体も、葬式も全部夢だったんじゃないかって……。でも、夢じゃなくて……。朝ごはんの時、一人で……学校も楽しくない……」
悲痛な声色のノアのその言葉で、ラズネは初めてノアが一人で食事をしていることに気がついた。
少女は死に、ラズネは部屋に閉じこもった。そうなると必然的に彼は一人になる。食堂での食事も、学校の活動も彼は孤独で過ごしていた。
ラズネは顔を上げてノアの顔を見る。彼は今にも泣きそうな悲痛な表情で、ラズネを見つめていた。
「ラズネ、お願いです……。少しでも部屋から出てきてくれませんか……。フィーもあなたもいないのは……辛い。それにあなたと話したいことあくさんあるんです……。聞いてほしいことばっかりで……オレ……」
溢れ出る感情に耐えるように、ノアは苦しげな表情を浮かべている。心の器少しでもつついてしまえば、決壊して大量の水があふれてしまいそうなそんな危うさが彼にはある。
ノアはきっと少女が亡くなって慟哭したあの日以降も、誰もいない場所で泣いていたのだろう。感情を隠すのが何よりも苦手な性格だ。悲しみの一切を表に出さないなんて、無理だ。
少女の死を悲しみ、苦しんでいるのはノアも一緒だった。彼も少女が隠していた病や、その思いについて思うところがたくさんあったのだろう。
「……フィーはなんで、僕たちにも病気を隠していたと思う」
「分かりません……。あの人はフィーが同情されるのを嫌がったと言っていましたけれど……。でもオレたちのことを何とも思ってないからそうしたわけではない、はずです……。……逆に、オレたちだからこそ知られたくなかったのかもしれません。その思いはよく分かりませんけど……」
親しいからこそ、知られたくない。その気持ちはラズネにはよく分からない。
仲が良いからといって何でも話すわけではないとラズネは理解している。ラズネだって何でも話すわけではない。
理解している。そんなことは理解している、つもりなのだ。それでもラズネは他人ではなく少女自身の口から病のことを教えてほしかった。あれだけ一緒にいてそんな大切な隠し事をされているなんて知りたくなかった。
さみしい。その感情をそう呼ぶことをラズネは知らない。
「僕は……隠してほしくなかった」
「……そうですね。でもきっと隠し通せたからこそ……あんなに……」
そこまで言ってノアは口を閉ざす。続く言葉がなんなのかラズネには分からなかったし、探ろうとも思わなかった。
完全な静寂がおとずれ、ラズネは2年前の秋の夜中に少女が歌っていた場所へと視線を向ける。
そこには少女の姿はない。歌声は聞こえてこない。それでもあの日、少女が楽しげに歌っていた姿はまだ覚えている。
──そうだ。もう二度と見れないのなら、いつか忘れてしまうのなら、消えてしまわないように絵にすればいい。僕には才能がある。きっと君を絵にできるはずだ。そうだろう、フィー。
そう考えついた途端、ラズネは絵筆が握りたくなった。白いキャンバスに様々な風景を描き、まぶしい笑顔で笑っている少女をそこに存在させる。
死ぬまであの子を描き続ければいい。
「……ノア、僕はあの子を絵にする」
「……え? それってどういう……」
「フィーを忘れないようにキャンバスに描く」
目を丸くするノアをまっすぐ見つめ、ラズネは強い意志を持って言い切った。その急な変化にノアは少し戸惑っていたようだったが、僅かに明るく笑って頷く。
「いいと思います。描いたら見せてくれますか?」
「自由に見に来ればいい」
「……! はい!」
ラズネのはっきりとした返答に、ノアは笑顔でまた頷いた。
かくしてラズネは生前見た少女の眩しい笑顔を思い出して、それを絵にするようになった。ノアはただ純粋にラズネの描いた少女の絵を称賛し続けたが、当の本人はそうではなかった。
描いても描いても、少女の笑顔を完全に再現できていないとラズネは思ってしまい、何枚も破っては処分した。
そうしているうちに年は過ぎ、学校を卒業し、その後すぐに画家として売れてからもラズネは少女の笑顔を描き続けた。そしていつしか、記憶の中の少女の笑顔はおぼろげになっていた。
卒業後、ラズネは芸術の街アルトに生活の拠点を置いた。
学生時代から学校の近くある街で自作の風景画をたまに売って、将来のための生活資金を貯めていたために初期費用には困らなかった。
芸術の街アルトにはいくつもの画材屋があり、また芸術に関心がある人々が訪れるので画家活動に適した街だった。
ラズネの描いた風景画が売れるのに、時間はそうかからなかった。
アルトでは街道で画家が絵を描き、住民や観光客がその様子を観察するといったことが一種の名物となっている。完成した絵の売買がその場で始まることも多々あり、かなり高値で取引されている。これはアルトに訪れる人々が比較的裕福なのが理由の一つである。
ラズネはアルトのその性質を利用し、早速街道で絵を描き始めた。するとたちまち若い女性を中心に人気となり、その場で完成した風景画を高値で買ってくれる熱狂的な女性ファンがついた。
街道での描画活動だけでなく、アトリエでも風景画を描いて、完成したものをある店で販売してもらっている。そちらは老若男女問わず、買ってくれているようだった。
自身の容姿が女性受けする自覚が昔からラズネにはあった。
ラズネは周囲から美人と称賛される母親の容姿を受け継ぎ、幼少期に村の人々、特に女性からは「可愛い」としょっちゅう褒められた。
女顔だの女子に見えるだの、そういった言葉には憤慨したが、それ以外の褒め言葉は飽きるほど聞かされていたし、最早放っておくようになっていた。
そして決定的だったのが少女の死後から1年ほど経って、ラズネは同学年や下級生の女子によく告白されるようになったことだった。合計10回はあった。
そうなればどれほど鈍感な人でも、自分は異性受けがいいのだと気が付く。
だからラズネは自分の容姿を活かした。予想通り女性に人気が出て、瞬く間に見物人の数は増えた。
街道で活動する画家のなかにはファンサービスと称して、見物人に笑いかけて話したり、簡単な手品をする者もいるがラズネは何もしなかった。
もともとそういうのが得意な性質ではないし、ファンサービスとやらをする気もない。そんなことをせずと仲間内でこちらの容姿について盛り上がって、その仲間を増やしてくれる女性たちにラズネは感謝している。
一度、彼女たちの中で暴走した者が現れたが、彼女たちはその犯罪者を強く非難し、自分たちに非はないのにラズネに頭を下げた。くわえて「連帯責任でもう二度と同じことを起こさないために姿を消す」とまで言うのだ。あまりの責任感の強さにラズネは引いてしまったが、連帯責任を望まないと言えば彼女たちは感激した様子でまた頭を下げて、何やら厳しいルールを作りうまく統制するようになった。
彼女たちはラズネが絵を描いている最中は絶対に大きな声で話さないし、ラズネに話しかけてこない。ラズネが片付けを始めれば、ささっと帰っていく。
正直そのあり方はラズネにとっては有り難かった。絵を描いている時に話しかけられても、ラズネは自分の世界に入り込んでいるためにろくな返答ができず、またそれ以外で話しかけられても相手を喜ばせるような対応をできる自信はない。
良いファンに恵まれたと思っている。
ラズネは街道では主に風景画を描いているが、少女の絵もたまに描く。そして、少女の絵は必ず外でしか描かない。
ひだまりの下が似合うほど眩しい笑顔を浮かべていたあの少女を描くには、外でないと相応しくない。あの子はその笑顔を周囲に振りまいていたのだから。
ラズネは花を思わせる美しい容姿をもつ風景画家として一定の人気がある。その一方、ある噂もあった。
『ある少女に呪いをかけられた青年』、一部はラズネはそう呼ばれている。
もちろんラズネはそのことを知っているし、噂している者をどうにかしようと思わない。
15の頃から初恋の少女を今に至るまで描き続け、その作品を破ったりナイフで切り刻んでは捨ててる人間なんて傍から見れば頭がおかしく感じるだろう。
ラズネだって自分が正常とは思っていない。きっと彼女が死んでしまったあの時から、自分の中で何かが狂っているとさえ思っている。最早自身の中に消えずにある感情が恋心と呼べるのかどうかすら、分からない。これはただの執念なのかもしれない。
噂する者はラズネを『ある少女に呪いをかけられた』と称するが、それは違う。
少女はラズネに何の呪いもかけていない。呪いすらかけずに静かに死んでいってしまった。だから、呪をかけたとすればきっとラズネの方だ。少女を失った喪失感、どうしようもなくなった恋心、確かにあった友情、その他諸々の感情が絡み合ってラズネは自分自身に呪いをかけた。あの子を永遠に描き続けるという呪いを。
学生時代に描いた少女の作品は、ノアにあげた一つを除いて全て処分した。今も新しい作品を作っては処分し続けている。
こんなことを何年も続けていたら、嫌でもわかってしまう。きっともう、彼女の眩しい笑顔を完全に再現して描ききるのは不可能なのだと。
ラズネはここまで自分が少女の死に囚われ続けることになるとは思っていなかった。しかし、これは自分が望んで進んできた道であり、今更他の道に行こうとは思わない。これが自分の生き方なら、それでいい。この呪いとともに心中してやるのだ。そうすることでしかもう自分を満たせない。
死ぬまであの子を描き続ける。それが僕の人生だ。
今日のラズネは街道で少女を描く。既におぼろげになっている記憶の中の笑顔を頼りに。
描いて、描いて、描いて、描き続けるだけだ。
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ある年、花の生まれ変わりとも呼ばれた画家が生前描いたとされるいくつもの絵が芸術の
街アルトの市にて販売された。
その全てに黒い髪に水色の瞳をもつ、10代前半ほどの可憐な少女が描かれていた。
風景は全て異なるが絵の中の少女は共通して、ひだまらのような笑顔を浮かべており、一部の人々に熱狂的な人気をはくした。
現在、少女が描かれた全ての絵を収集したがるコレクターが幾人か存在しているが、かの有名画家によって描かれた絵であるうえに、一部の層によってひじょうに高い値段で取引されているために収集は困難を極めている。
専門家の間で、一体この少女は何者なのか幾度にわたり議論されており、かの画家と強い関係性があることは間違いないとされている。
かの画家──ラズネ氏は美しい容姿をもつ風景画家として有名であったが、生前に少女の絵を世に出したという記述は残っていない。
しかしアルトにてラズネ氏が黒髪の少女を描いていたとされる記録は残っている。
世間ではラズネ氏は絵の少女に呪われたと言われているが、ある者は彼らを兄妹と言い、またある者は恋人だったのではないかと噂している。
アルトにてラズネ氏が描いた少女の絵が販売された数年後、王都の骨董品屋で同じ少女の絵と思しきものが一点発見された。
それはアルトで販売されたものよりも小さなキャンバスに描かれており、どの作品よりも一際眩しい笑顔を浮かべていた。
これはラズネ氏が学生時代に描いた少女の絵の初作と考察されており、所有者は不明である。
ラズネ氏の熱狂的なファンである小貴族の令嬢が書いたと思われる手記に、『あの少女を描いている時の彼の横顔は憂いを帯びていて、その目には悲哀の感情が宿っていたように見えた』と書かれており、ラズネ氏とかの少女は死別したのではないかと考察する者もいる。
そういった噂や考察からラズネ氏をモチーフとした創作物がいくつも作られ、中には一世を風靡したものも誕生した。
絵に描かれた少女が何者か一切の情報はなく、実在したかどうかも不明である。
好きな女に先立たれる男家系に生まれた男の娘のお話でした