第8話 望まぬ未来
「何ですって⁉」
松実が息を呑むと同時に、美華も目玉がこぼれおちそうになりそうなほど大きく目を瞠る。華恋も驚きのあまり言葉を失っていた。
何ですって、はこちらの台詞だと思いつつも、美華たちはこのことを知らなかったのかと呆気にとられた。やはり自分を嗤うためだけにここまで足を運んだらしい。
だが、今はそんなことどうでもいい。松実は父から告げられた真実を脳内で反芻し、ざわついた胸中を宥めることに徹する。
――私に縁談? しかも、藤浪家って……。
藤浪家は華族のなかで最も序列が高い公爵の地位を持ち、なおかつ皇家とも遠戚関係にある由緒正しい家柄。同じ華族といえど、天と地ほどの差がある。それに藤浪家の次男である縁は冷艶清美な青年で、この世の者とは思えないほどの美貌の持ち主だと噂されていた。
今まで見合い話は一つとして持ちかけられたことがない。いや、あったかもしれないが、松実の耳に入る前に父母がその縁談を断っていたはずだ。人ならざるものが見え、令嬢らしからぬ変わった趣味嗜好を持つ娘を他家に嫁がせるのは恥だとでも考えたのだろう。
松実自身もそれを承知のうえで今まで気儘に過ごしていたのだが、まさかここにきて縁談が舞い込んでくるとは露ほどにも思わなかった。それも、華族の頂点に君臨するあの藤浪家――『六花の貴公子』と渾名される青年が相手だとは。
「今回の縁談はあちらたっての希望だ。縁殿が直々にお前と婚約したいと言っている」
「六花の貴公子が直々に? ありえないわ! よりによってあんな子を指名されるなんて」
美華は松実を指さして、激しく夫に抗議する。
「華恋のほうが器量も良くて社交界でも引く手あまただというのに! どうして華恋じゃないの⁉ 花嫁修業だってあんなに頑張って――」
「まだ話は終わっていない」
厳格な一言に美華はひるんで渋々押し黙る。そして、恨みがましく松実を睨めつけた。華恋にいたっては面伏せて花唇を噛み、わなわなと華奢な肩を震わせていた。
「この縁談はすでに私が承諾した」
「なっ……!」
流石の松実も、今回ばかりは父の胸倉を掴みたくなった。
自分たちより遥かに地位があるあちら側の意向とはいえ、本人の意思に構わず二つ返事で受け入れるとは。あまりにも自分勝手が過ぎる。
「最近、こちらが手掛けている紡績事業の業績が芳しくない。このままでは事業が立ち行かなくなって、いずれ破産することになるだろう。だがそんな時、藤浪家の次男坊がお前を嫁に迎えたいと言ってきた。これに承諾すれば多額の結納金と資金援助を惜しまないと」
「そんな、ことがっ……!」
いちいち自身の心中を代弁してくれる美華はともかく、松実はふつふつと湧き上がる怒りを抑えるのに必死だった。このまま激情を野放しにしておけば、父に何をするかわかったものじゃない。
「……私は、あなた方にとっての都合の良い道具ではありません」
凛然とした音が一室に冴えわたる。
美竹がお茶をもって入室したのも同時で、ただならぬ雰囲気と主の寒慄させるような剣幕に愕然としていた。
「確かに私は普通とは遠くかけ離れた難儀な娘です。お父様たちが私を汚点として持て余しているのも重々理解しています。ですが、いざという時にその汚点を利点に変えて家の窮地を脱しようとするのは、あまりにも虫が良すぎるのではありませんか? それに、華族としての沽券にかかわると思いますが」
威風堂々と対峙する娘に松司は目を細める。美華にいたってはついに堪忍袋の緒が切れたのか、腰を持ち上げて美竹が配膳したばかりの緑茶を松実にぶちまけた。
「お嬢様!」
そばに控えていた美竹が顔を真っ青にして松実に近寄る。だが、松実は熱さで一瞬顔を顰めた後、すぐに毅然とした面持ちに戻って両親をとらえた。
「何よその目はっ……!」
柳眉を逆立てて歯噛みする義母だが、その憤怒をもってしても松実の心が揺らぐことはない。
「化け物とつるむ薄汚い小娘のくせに、偉そうな口をたたくんじゃないわよ!」
帰るわっ‼
美華は癇癪を起こし、そのまま応接間を出ていった。華恋も急いで母の後を追い、母娘ともども慌ただしく退室する。
「お嬢様っ」
「大丈夫」
すぐに手巾を取り出して顔や着物を拭ってくれる美竹に、松実は微笑んだ。
「ありがとう。あとは自分で拭くから」
「ですが」
「その代わり、すぐに手ぬぐいと冷水を用意してくれる?」
「はい……! 今すぐに」
美竹は血相を変えて弾かれたように応接間を飛び出した。
騒々しい空間が一転、重苦しい沈黙と静寂が支配する。
――やけどしちゃったかな……。
残熱でひりつく肌を手巾で撫でながら、松実は口をへの字にする。
――まさか、お茶をかけられるとは。
流石に今回の事態は想定外だった。義母が気分屋であることは知っていたが、直接手を出してくることはほとんどなかった。妖が視える体質ゆえに幼い頃からこの松乃の別邸で過ごしてきたので、彼女たちとそれほど接点がなかったせいだとも言える。
上村家で過ごしていたらどうなっていたことやらと、松実は軽く溜息をつく。同時に、取り残された松司の呆れを含んだ重い嘆息も耳朶を打った。
「まったく……あいつは己の感情に翻弄されすぎだ。華族としての自重が足りなさすぎる」
松司はおもむろに立ち上がり、実の娘を見下ろしながら冷然と言い放つ。
「お前が何と言おうと現実は変わりはしない。近々、縁殿が屋敷に来ることになっている。その時はお前も顔を出すように」
「お父様」
「私が迎えに来るまで、部下をここに置いていく。ゆえに勝手な真似はしないことだ」
日取りは追って連絡すると、松司は有無を言わさずして応接間を去っていった。
「……実の娘がこんな姿になっても表情一つ変えない。本当、相変わらずだね」
松実は薄く自嘲する。
物心つく前から妖の存在を認知できた松実から早々に距離をおき、家の存続のために再婚した父。もはや松実を血のつながった我が子だと認識しているのかどうかも怪しい。
「ずっと放置してたくせに」
膝に置かれた両の拳を強く握りしめる。
勝手に見捨てて、親としての愛情を一切与えてこなかったというのに。
突如、政略結婚という望まない未来だけを強引に押しつけて檻に閉じ込める。
「……顔、冷やさなきゃ」
失望と慨嘆の影をまといながら、松実も膝を伸ばして美竹がいる台所のほうへと赴いた。