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第46話 最後の温もり

 ――早く松実の援護に向かわなければ……!


 縁は逸る思いを何とか抑えつつ、白狐の九尾による刺突攻撃をかわし、鋭利な氷の雨を降らせる。だが、最上位たる大妖も一歩も引かず、降りしきる氷塊を俊敏な尾ですべて叩き落とした。


『醜悪かつ奸佞かんねい邪智じゃちな人間が。この俺に牙を剥こうなんざ千年早いわ』


 そこで白狐が吠えたかと思うと、縁の周囲には瑞々しい若苗色の稲穂が群生した。やがてあちこちで陸稲の狐が形作られ、縁に迫り来る。一体ずつ斬り伏せるにはきりがない。


「珂雪」

「はあい」


 氷雪の妖姫を呼び寄せる。

 顕現した珂雪は凍てついた息吹を放ち、縁は〈珂雪〉を横一閃して雪風巻を起こした。

 極寒の冷気が稲狐を凍らせ、動きを封じる。氷像と化した分身たちは呆気なく砕け散り、残すは本体のみとなった。


「これで終いだ」


 縁が白狐との間合いを詰め、白刃を振りかざす。が、しかし――


「縁さん」


 なぜか、そこにはたおやかに笑む松実の姿があった。


「っ……⁉」


 言葉にならない驚愕と焦燥が縁の刃を鈍らせる。〈珂雪〉は彼女の首元寸前でぴたりと止まり、かすれた当惑の吐息だけが愛する者に降りかかった。


『阿呆』


 決して彼女が口にしないであろう蔑みの後、花唇は歪に吊り上がり、あるはずのない尾が縁を弾いた。


「縁っ!」


 珂雪が叫ぶと、縁は近くにあった木の幹に強く叩きつけられ、うつ伏せに倒れる。受け身を取ることができず、衝撃が全身に集中したため縁の口元から赤いものが繁吹いた。


「この卑劣な化狐が!」


 激憤した珂雪が創成した数多の氷刃を松実――いや、白狐に差し向ける。松実に化けた白狐は軽やかに氷刃を避けつつ、群生した稲穂を操作して氷刃をとらえては地面に叩き割った。


「ちっ」

『こんな簡単な罠に引っかかるとは、お前の主人も大したことないな』

「松実の姿で縁を侮辱するんじゃないわよ!」


 大妖同士が猛攻を繰り広げているなか、縁は辛くも立ち上がって珂雪の元へ向かう。その際、本物の松実が一心不乱に辟邪の墨絵を描いているのが垣間見えた。


 ――良かった。


 本当の彼女は一緒に戦ってくれている。これ以上、幻惑に翻弄されるわけにはいかない。

 縁は気を引き締め、珂雪の隣に立った。


「縁! 大丈夫なの」

「ああ。すまない」


 両者ともに狡猾な妖狐を睨み据える。依然として白狐は松実に化けたまま、ゆらゆらと九尾を蠢かせていた。


「珂雪」


 縁の呼声に珂雪は頷き、白狐の頭上に向かって氷雪の息吹を吐いた。すると灰色の雪雲がたちこめてひらひらと雪華が舞い落ち、白狐の体毛に溶けこんでいく。

 白狐は九尾で雪雲を払いのけ、妖艶に笑う。


『ついにヤケにでもなったか』


 対して縁は眉間に皺を寄せて斬りかかった。


「いい加減、陰湿な幻影を見せるのはやめろ」


 縦横無尽に振り捌く縁と援護の妖力を放つ珂雪。最初こそ綽然とした様子で迎え撃っていた白狐だったが、だんだんと回避速度が落ち、九尾の勢いも衰えだす。


『何や……』


 思うように体が動かせず、ついに縁の一太刀を浴びてしまう。

 ようやく化けの皮が剥がれ、白狐は元の姿に戻る。裂傷を受けた胴部から血が流れていると思いきや、あろうことかその流血は氷結し始めていた。


『これは!』

「さっきお前が浴びた雪は〈死雪しせつ〉。文字通り、死をもたらす雪だ。その雪を浴びれば血液細胞に至るまで徐々に氷結していき、やがて氷像と化す」

『っ――!』

「氷像になる前に、こんなこともしてあげられるわよ」


 珂雪は得意げな微笑をたたえるなり、軽く指を弾いた。すると、白狐の全身から氷柱が生えて骨肉を貫いた。


『があっ』

「安心しろ。お前を氷像に留まらせるような生ぬるい真似はしない」


 冷暗な双眸と声色をもって、縁は憎き妖狐に切っ先を向ける。


「せいぜいあの世で松実を騙ったことを後悔するといい」


 壮麗な氷像が出来上がる前に、縁は苦痛に喘ぐ白狐の首を斬り落とした。そのまま残された胴体や尾も原形がなくなるまで木っ端微塵に斬り裂く。


「白狐!」


 薄水の氷片に紛れて、白亜の血肉がばらばらになる様が黎の目にも焼きついた。


「っ……!」


 声にならない痛哭と慨嘆が零れ出て、黎は面伏せる。

 初めて見せた、黎の人らしい情動に縁は小さく息をついた。


「松実は……」


 視線を動かすと、彼女はあともうすぐで辟邪の絵を完成させるところだった。

 白狐の遺骸が塵となるのを見届けて、縁は珂雪とともに松実のもとへと疾駆した。





 縁が白狐と対峙していた頃、光は逆手に携えた〈紅炎〉を振り薙いで猛々しい火炎を放っていた。玄狐はそれを避け、憤怒の雄叫びをあげる。すると光の足元から小麦が群生し、まるで蔦のように彼女の足元に絡みついた。彼女の身動きを封じた隙に、玄狐は尖鋭の九尾を差し向ける。


 光は小さく舌打ちし、炎を帯びた愛刀で妖しい小麦を焼き切った。間一髪のところで窮地を脱したのも束の間、九尾の刺突攻撃に加えて玄狐の口から薄緑色の大量の粒が吐き出された。


 光は軽やかな身のこなしで追撃をかわし炎火の権能をもって燃やしつくすも、種の一つが右腕に付着した。すぐに払おうとしたが、いつの間にか種は自身の血肉を苗床として深く沈み、瞬く間に発芽する。すると枝葉が全身を絡めとるようにぐんぐんと伸びていくのと同時に、自身の生気や力が徐々に奪われていくのを感じた。


 ――私の血肉を栄養としている……!


 最上位という妖位は伊達ではない。〈天妖五劉器〉にも匹敵するほどの妖力の持ち主である以上、苦戦は必至。

 とうとう刀を握りしめる手にも力が入らなくなり、光は奥の手を使うことを決意した。


「紅炎」


 契約している大妖の名を紡ぐと、〈紅炎〉から巨大な赤鬼が躍り出た。最強の妖が顕現したと同時に火の海があたり一面を覆い、凄まじい熱気に玄狐も怯みを見せた。


 ごつごつとした紅蓮の巨躯。だが、人間のように艶やかな牡丹の文様が光る着流しを纏っており、片手には酒瓶があった。二本の赤黒い角と白亜の牙は先端に軽く触れるだけで血が出てしまいそうなほど鋭く尖っており、〈天妖五劉器〉の筆頭たる酒呑童子としての威風が惜しみなく発揮されている。


「ワシを呼び出すたあ珍しいな、光よ。ひっく」


 重厚な低声を発しながらも、いつも酒を呑んでいるかの妖はしゃっくりをしながら陽気に言った。


「紅炎。あれをやります」

「ん? あれとは」

「秘義です」

「ああ、それか」


 にやりと酒呑童子こと紅炎は口の端を吊り上げて、酒を一口煽った。


「ようし、やるか! ひっく」

「ええ。お願いします」


 酒呑童子は意気揚々とすぐに器に戻った。その瞬間、めらめらと燃える炎の如き真紅の妖力が刀身を覆い、柄から光の手、やがて彼女の全身へと伝播した。光を蝕んでいた妖草もしゅうと燃え朽ち、次第に体力が戻ってきた。むしろ体力が漲り、頬の痣も濃くなってさらなる炎が刻まれていく。


「いきますよ。紅炎」

『ああ、いつでもよいぞ』


 刀からの返事を受けて、紅炎の化身となった光は赫灼の一刀を振るう。


「〈炎熱地獄〉」


 大妖の唸り声にも似た轟音とともに、地面を抉りとるほどの火勢がほとばしる。回避する暇もなく玄狐は妖炎に呑まれ、苦悶の叫号をあげた。

 その叫びは黎の耳朶を震わせ、彼の心を嫌というほどに締めつける。


「母さんっ!」


 腕が引きちぎれるのではないかと思うほどに、黎は必死に手を伸ばす。両足にも全身全霊の力をこめて堅氷の足枷を壊そうとするが、やはりびくともしない。


「母さん! 母さんっ‼」


 温かくて美しい漆黒の体毛が炎に焼かれ、灰に帰す。やがて肉も爛れ、骨が見え始めた。


「母さんっ!」


 視界は大きく揺らぎ、愛する母の姿さえ完全にとらえられなくなってしまう。けれど、辛うじて玄狐がこちらを向いたのがわかった。次いで一つの黒尾がおぼつかない軌道を描きながらそっと黎の頬を撫でる。愛してやまない温もりが、黎の胸の内から熱いものをこみ上げさせる。


『黎』


 母の慈愛がこめられた繊美な音。その呼声。



『愛してる』



 黎が目を見開くと同時に、双眸から雫が頬を伝った。

 たちまち玄狐は骨すら残らずに灰燼と成り果て、どこからともなく吹いた緩やかな風に乗って天へと舞う。


「いやだ……いやだよ、母さんっ……!」


 滂沱の涙に構うことなく、黎は母の遺灰に手を伸ばし続ける。


「僕をおいていかないで!」


 母さんっ‼


 母の昇天を留めんと追い縋る子の姿に、光は赤瞳を伏せた。


「松乃さん、すみません。こうするしかありませんでした」


 彼女はかつて子の切願に応え、封魔という形で母を生かした。けれど、数多の人々に牙を剥いた以上、退魔師としてかの妖の罪を看過することはできなかった。それに、このまま玄狐を放っておけばさらに被害が拡大し、人々に負の激情を植えつけていた。


「あなたの想いをこんな形で蔑ろにしてしまったこと、心から謝罪します。でも――」


 光は〈紅炎〉を握りしめ、局長としての威厳ある面差しに戻る。


「悔いはありません。松乃さんが私の立場であれば、きっと同じようにしていたでしょうから」

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