第2話 恋語り
放課後、松実は最後の授業を終えるや否やすぐに春庭に赴いた。
「おまたせ!」
松実が喜色を浮かべながら声をかけると、木霊も破顔した。
「待っていたわ」
「今日で描き終わるから、あともう少しだけ時間をちょうだい」
ベンチに腰を下ろし、松実は木霊こと桜子を凝視しながら愛筆を動かす。
春風駘蕩――彼女の着物や美しい髪がはためく様を流麗に描き、最後に着物の柄や飛花などの細かい描写を添える。まもなくして、息を呑むほど見事な美人画が完成した。
「できた」
松実はすっくと立ちあがり、完成した絵を桜子に見せる。彼女は「まあ……」と口元に手を添えた
「わたし、こんな姿をしていたのね」
壮麗な桜の木の下でどこか遠くを見つめている艶美な女性。まるで今にも絵のなかの桜子がこちらを振り向きそうな、その躍動的で繊細な筆遣いに桜子は感嘆の吐息を漏らす。
「松実はすごく絵が上手ね」
「ありがとう」
「誰に教わったの?」
「亡くなったおばあちゃんと幼馴染」
祖母の松乃は女流絵師で、松実と同じ特殊な目をもっていた。またそれだけではなく、妖伐局と呼ばれる妖退治専門の機関に勤め、辟邪絵師として多くの悪妖を滅してきた。
辟邪絵師はその名の通り、辟邪という善神とその眷属である五柱の神々を特殊な筆で描いて召喚し、悪妖を殲滅させる者を指す。特殊な筆というのは、筆に思念が宿った付喪神のことで、松実も生前の祖母からそれを受け継ぎ、契約を交わした。流石に学校まで人ならざるものを連れてくるわけにはいかず、今手元にあるのはごく普通の趣味用筆だが。
「幼馴染というのは男の子?」
「そうだけど……」
「ふうん」
「な、何」
「顔が赤いわよ」
「っ……!」
松実は紅潮したまま言葉に詰まり、俯く。可愛らしい乙女の反応に、桜子は「わかりやすいわね」と愉快そうに朗笑した。
「その人に告白はしたの?」
「……ううん」
「じゃあ、ちゃんと気持ちを伝えないと」
「無理」
「どうして?」
「向こうは私のこと、好きじゃないから」
松実はその場にしゃがんで重い溜息をつく。桜子も彼女と同じ姿勢になって、可憐な懸想人の背にそっと手を添えた。
幼馴染の名前は薊黎。松実より二つ年上の青年で、今は美術学校に通っている。
まだ松実が物心ついていない時、松乃が孤児だった黎を引き取り、弟子として育ててきた。彼とは居を共にして十年以上の付き合いになる。
そして奇縁なことに、黎もまた妖を認知することができた。さらには自分と同じく祖母の影響を受けて絵描きが大好きなこともあり、松実の良き理解者でもあった。
「黎は私のことを妹のように思ってる。ずっと一緒に住んでるからか、異性として見られてる気がしないんだよね」
「そんなのわからないじゃない。あくまでそれは松実個人の主観に過ぎないわ」
「でも……」
「ずっとこのまま恋煩っていても苦しいだけよ。それに、松実が想いを打ち明けることで相手の気持ちにも変化が生まれるかもしれない」
「……まさか、妖から恋愛指南を受けることになるとは」
「お嬢様」
なんと滑稽で珍妙なやり取りかと自嘲していると、渡り廊下のほうから自身を呼ぶ声が聞こえた。
顔をそちらに向けると、着物姿の女性が佇んでいた。小柄で松実より身長が低く、ずいぶんと若く見えるが年は五十路を過ぎている。
「美竹さん」
「やっぱりこちらにいらしたんですね」
美竹と呼ばれた女性は温和な微笑を浮かべながら松実たちに近づく。
美竹は松実の付き人だった。松実を産んですぐに亡くなった母に代わって育ててくれた恩人であり、いつも自身のために尽くしてくれる彼女には頭が上がらない。
「さあ、もう日暮れですから帰りましょう」
「はーい」
松実は膝を伸ばし、桜子に向き合う。艶美な桜の精もまた立ち上がって、松実に花笑みを向けた。
「松実、良ければこの絵をもらってもいいかしら?」
「もちろん」
快諾する松実に、桜子は笑みを深めた。
もともと、桜子を描いたのは彼女のたっての願いだった。
ここには鏡がない。そのうえ自分自身は本体である桜の木から離れることができないため、自分がどのような容貌をしているのかがわからなかった。ゆえに自分がどんな者であるかを知りたいと、桜子は松実に自身を描くよう依頼したのだった。
「ありがとう、大切にするわ。あなたも自分の気持ちを大切にするようにね」
「うっ……。わかった」
最後にまた顔に紅葉を散らして、松実は桜子に別れを告げた。そのまま美竹がいるところへ歩いていく。
「以前おっしゃっていた、桜の木霊さんとお話していたのですか」
「うん。今日絵が完成したからそれを渡したの」
「お嬢様が描いた絵ですから、さぞ喜ばれたことでしょうね」
美竹は怪異こそ見えないが、松実が他者とは異なる瞳の持ち主であることを把握している。どうやら彼女の知り合いにも見鬼の能力を保持している者がいるという。
「大切にするって言ってくれた」
「それはようございました」
松実は満悦したように頷き、従者とともに茜さす陽の下、帰路についた。