第26話 運命の邂逅
縁が何も答えられないままでいると、清麗な声音が耳朶を震わせた。
はっとして後方を振り返ると、着物姿の女性が浮遊する珍奇な筆を連れてこちらに歩み寄ってきていた。
『でも、藤浪さんの美しいお庭を傷つけてしまったことをどう釈明するつもり?』
『そ、それは……』
たおやかな笑みを浮かべつつも得も言われぬ覇気と圧力を放つ女性に、猛将はたじろぐ。辟邪の眷属神、武神の毘沙門天はおそるおそる己が過失をとらえる。
有名な石工が作り上げたであろう巧緻な岩壁は見る影もなく、単なる岩石同然のように小川や芝生の上に転がっている。小滝から流れる河水も堰き止められ、今にも水で溢れ返ってしまいそうだ。
『すまん……』
厳粛な容姿にそぐわずしゅんと肩を落とす毘沙門天に、松乃は嘆息する。
『起きてしまったことは仕方ないわ。藤浪さんには私から謝っておくから、あなたは早く力加減を覚えてちょうだい』
『……承知した』
すっかり小さく縮こまってしまったまま、毘沙門天は霧散するように現世から姿を消した。
――き、消えた……⁉
助けてくれたお礼すら言えず、毘沙門天が何者かわからぬまま去ってしまったので、縁はますます困惑する。
当然の反応を示す少年に、松乃は目尻を下げて言う。
『混乱させてしまってごめんなさいね。けがはない?』
『は、はい。あの、さっきの人は……』
『ああ、毘沙門天ね。妖を祓う善神よ。仁墨の力を借りて現世に来てもらったの』
女性は隣にいた筆を一瞥する。
『その筆は、もしかして……』
『ええ。私が契約している妖よ。付喪神で名前は仁墨』
『感謝しろよ、餓鬼。おれたちがいなけりゃお前は今ごろ邪魅の腹の中だ』
揶揄する仁墨に松乃は問答無用で柄の部分を強く弾く。
『いって! 何すんだ!』
仁墨が怒声をあげたところで、『縁!』と老齢の男性の呼声が闖入する。
声の主を振り返ると、縁の祖父である敬と聖、それから何人かの家人が駆けつけた。
『おじい様、聖』
傷一つ負っていない縁を見るや否や、聖は涙を流しながら彼の胸に飛び込んだ。
『良かった! お兄ちゃんが無事で……』
『心配かけてごめんな』
妹の頭を撫でてやる縁に、敬もほっと安堵の息をついて松乃に謝意を述べる。
『松乃君、孫を助けてくれて本当にありがとう』
『いえ。ですが、お庭が……』
『孫の命に代えられるものなどない。庭なんかいくらでも作り直せる』
『申し訳ありません。寛大なお心遣い、感謝いたします』
『ああ、そう頭を下げないでくれ。君は孫の命の恩人なんだから』
敬に促され、松乃は微苦笑を浮かべて頭を上げる。
――上村……。
敬の知り合いだったのかと縁が松乃を凝視していると、松乃と敬がこちらに体を向けた。
『縁。こちらは上村松乃さん。私の古くからの友人で、妖退治の専門機関、妖伐局の一番隊隊長を務めている腕利きの退魔師だ。今日は会食でうちに来てくれていたんだ』
『上村松乃です』
松乃が淑やかにお辞儀をしたので、縁もあわてて頭を下げる。
『ふ、藤浪縁です。さっきは助けていただき、ありがとうございました』
『いいえ、お礼を言われるほどのことはしていないわ。これは私の仕事でもあるから』
穏やかな声色に、たおやかな笑み。
縁にとって、松乃は物腰が柔らかで凛とした佳人だった。
「以来、松乃さんが実家を訪れた時は必ず顔を合わせてよく遊んでもらっていた。松乃さんが俺にとって初めて同じ感覚を共有できる人だったから、話も弾んだ」
自然と縁の口角が上がっており、松乃のことを慕っていたことがありありと見てとれた。
松実も口元を綻ばせつつ、引き続き縁に問いかける。
「ご家族は縁様以外、誰も妖が視えないんですか?」
「不思議なことにな。祖父いわく、先祖に見鬼能力をもった人間がいたらしいから隔世遺伝だと思う。それにしても、なぜ俺だけなんだと当初は思っていたが」
テーブルに置かれたティーカップを手に取り、縁は紅茶を一口啜る。
「じゃあ、縁様はおばあちゃん――祖母に会うなかで私のことを聞いたんですね」
「ああ。松乃さんと知り合ってから一か月が経とうとしていた時、彼女が教えてくれたんだ。俺と同じ妖が視える孫娘がいるのだと」
それから縁は彼女に住所を聞き、叱責される覚悟で車を出してくれた家人にともに秘かに家を抜け出した。上村邸に着くや否や、縁側で一人泣いている松実を見つけ、道に迷ったふりをして声をかけたという。
その経緯を耳にして、松実は唖然とする。
「じゃあ、クッキーをくれたあの時の男の子って……」
「俺だ」
驚きを隠せず、松実はしばし言葉を失ったまま縁を見据えた。




