第21話 父娘
おずおずとした問いかけに、縁は大きく目を見開いた。
「不思議と初めて会った気がしないもので……。申し訳ありません。ご不快に思われましたよね」
「いや……。まさか、君の記憶に残っていたとは思わなかった」
「え?」
縁は頬を緩め、喜びをかみしめるかのように目を細めていた。先ほどとは打って変わった柔和な表情に、松実は引きつけられる。
「縁のあんな顔、初めて見たぞ」
「私もです」
光は両膝を折って胡桃の耳打ちに相槌を打つ。
「普段は仏頂面で冷淡なのにな。数多の縁談をこの子のために突っぱねてきたあの堅物も、あんな優しい顔ができるんだな」
「聞こえていますよ」
縁の凍てついた一瞥に、「やば」と胡桃がひそひそ話を打ち切った。
縁は小さく嘆息して、松実に向き直って言う。
「救臓の力で回復が早くなっているとはいえ、心の整理がまだついていないだろう。熱もまだあるから、しばらくの間はゆっくり心身を休ませてほしい」
「きゅうぞう……?」
聞き慣れない単語に松実が首を傾げていると、胡桃が部屋の隅にある戸棚に置いた救急箱を持ってきて「こいつのことだ」と言って差し出してきた。
「救う臓器と書いて救臓。字面にインパクトがあって覚えやすいあたしの付喪神だ」
「付喪神……!」
「今は寝ていて、ただの救急箱同然だけどな。この天才医師が認めた優秀な助手なんだが、仕事以外の時間は常にすやすやしているから、いちいち叩き起こさないといけないのが玉に瑕だ」
「私は、その付喪神に治してもらったのですか」
「おっと、あたしのことも忘れてくれるなよ。こいつの体内――中に入っている医療器具はすべて特殊な妖力を持っている。君の場合はメス、ペアン、縫合糸を使って気道熱傷を治療した」
確かに、あれだけ煙を吸い込んだはずなのに今は普通に声が出せる。
胡桃たちの手術がなければもっと回復に時間がかかっていただろう。
「生憎、熱までは下げられなくてな。あたしたちが治せるのは火傷や骨折、切り傷、それから疾病による細胞の損傷だけだから、こればかりは自然治癒に任せるしかない。ごめんな」
「いえ……! 荻野さんと救臓さんの力がなければ、今ごろ私は声すらまともに出せていなかったはずですし。感謝しかありません」
ありがとうございます、と深謝する松実に胡桃は「いいってことよ。これが本分だから」と無邪気に笑んだ。
――だめだ。私よりも年上なのに、つい頭を撫でたくなっちゃう。
可愛さゆえの衝動をぐっとこらえ、松実も微笑を返した。
「さて、長話も今の松実さんにとっては負担でしょうから、私たちはそろそろお暇しましょう。松司さんもこの三日間、松実さんに付きっきりでお疲れでしょうから、ひとまず別室でお休みください」
「そうさせていただきます」
松司も椅子から腰を持ち上げ、光とともに松実に背を向ける。
「お父様」
呼ぶと、彼はおもむろに振り返った。
あまり寝ていないのか、その顔にいつもの威厳はなく、疲労が滲み出て、目元にもうっすらとくまができていた。
――ああ、そうか。
お父様は私のことを……ちゃんと娘として見てくれていたんだ。
偽りではないその様相が、親子としての情があるのかという松実の疑念を払拭させた。
「ありがとうございました」
謝意を述べる娘に、父はかすかに目を見開いて緩やかに口角をあげた。
「礼を言われるようなことは何もしていない」
その一言を残して、松司は光とともに退室した。
「俺もここで失礼する。詳しいことは君が本調子に戻ったら話そう」
「わかりました」
「あたしも隣の部屋にいる患者を診てくるから、何かあったらすぐに呼んでくれ。じゃあでんぼく、松実のこと頼んだぞ」
「でんぼくじゃねえ! 仁墨だ!」
「しーっ。医局ではお静かに」
胡桃が人差し指を立てて口元に近づける仕草は非常に愛らしく。
仁墨が激憤している一方で、松実はすっかり彼女のファンになってしまっていた。
――この見た目で男の子みたいな口調は反則だ……。
ああ、これが性癖というやつか。
「お大事に!」
手を振りながら彼女を見送った後、松実は軽く息をつく。
「さ、お前も寝た寝た。まだ熱あってしんどいだろ」
「そうする」
仁墨に促され、再び眠りにつこうかというところで、ベッドの隣にある小机に置かれた衣服が目についた。
煤汚れてしまった着物と袴。特に着物は白を基調としているので、洗濯しても汚れが目立ってしまうだろう。
だが、何よりも松実の胸を締めつけたのは、黎が贈ってくれた緋色のリボンだった。
「黎……」
だめだ。あんな仕打ちを受けてなお、どうしても優しかった彼のことばかり思い出してしまう。
松実の視界が緩み始めた時、仁墨がリボンの前に立ちはだかった。
「寝ろ」
語気を強める相棒の言葉には、彼なりの優しさが内包されていた。
細長い体躯ゆえに、リボン全体を覆い隠しきれていなかったが、それでも自身のことを気遣ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「……うん」
零れ落ちそうになっていた雫を拭い取り、松実は横になってふかふかの布団を肩までかける。
「ありがとう。仁墨」
「……別に」
照れ隠しでそっぽを向く仁墨にくすりと笑みを零してから、松実は瞼を閉じた。
熱による倦怠感と心強い相棒が傍にいるという安心感で、すぐに睡魔が襲った。ものの数秒で松実は規則正しい寝息を立てる。
今回は悪夢にうなされることはなかった。




