第19話 泡沫の夢
『松実』
ある日、庭の縁側で松の木を描いていると黎に呼ばれた。
『黎。どうしたの?』
彼は何かを隠しているふうで、両手を後ろに組んでいた。
松実が訝しむ一方で、彼はいつもより笑みを深めている。
『今日、何の日だ?』
『え? 五月八日って何かの記念日だったっけ?』
うーん、と真剣に熟考する松実に『まったくもう』と黎は呆れたように苦笑する。
『松実の誕生日だよ』
『あ』
すっかり忘れていたとでも言うかのように、幼馴染は照れ笑いを浮かべた。
『自分の誕生日くらいちゃんと覚えておきなよ』
『だって、誕生日って一年に一日しかないし、普段の日常と変わらないから』
『それを言うなら他の記念日や祝日だって一年に一日しかないよ。もっと自分の生まれた日を大切にしないと。ほら、僕なんかは誕生日がわからないし』
黎の誕生日を知るのは、幼少の彼を捨てた実の両親だけ。知りたくても、知る術がない。
『……そうだね』
松実は申し訳なさそうに目を伏せ、彼の説諭を真摯に受け止めた。
『わかった。ちゃんと覚えておく』
『うん』
黎は目を細めてから、ようやく後ろに隠していた両手を前に出した。
『はい。これは僕から松実への誕生日プレゼント』
黎から受け取ったのは、緋色のリボンだった。
『わあ、かわいい!』
『良かった、気に入ってくれたみたいで。いまつけているリボンも良いけど、ずいぶん長く使っているからほつれてきたって前に言っていたでしょ。だから、ちょうどいいと思って』
『覚えてくれてたの? ありがとう! すごく嬉しい』
好きな人からの贈り物に胸がいっぱいになって、松実はずっと愛らしいリボンに目を輝かせていた。
『ねえ、黎』
『ん?』
『このリボン、私に付けてくれない?』
はにかむ松実の頼みに、黎は頷いた。
『もちろん』
緋色のリボンを手に取って、黎は艶のある黒漆の髪に触れながらリボンを結ぶ。
『できたよ』
『ありがとう。大事にするね』
その時の黎の嬉しそうな笑顔が忘れられない。だというのに彼は――
『今までありがとう。さようなら』
燃え盛る炎のなか、あっさりと別れを告げていってしまった。
去りゆく想い人の背に向かって、松実は懸命に手を伸ばす。
「黎……!」
そこに彼の姿はなかった。
いま目に映っているのは、汚れ一つない白亜の天井とモダンデザインの瀟洒な室内灯。それから天井に向かって伸ばされた自身の手。しかし、それらはすべてぼやけてしまっている。それから額がひんやりとしていて心地いい。どうやら冷たい手ぬぐいがあてられているようだ。
「松実!」
『松翠!』
両端から聞き慣れた声がして、松実はおもむろに顔を左右に向ける。
「お父様、仁墨……?」
「良かった。目が覚めて。ずいぶんうなされていたから心配した」
松司はほっと安堵の息をつく。仁墨も張りつめていた体の緊張が解けるように「はあぁ……」と間の抜けた息をついていた。
ぼやけた視界。頬を何かがなぞる感覚。そこで自分が涙を流していたことに気づいた。だがそれよりも――
――お父様が、私のことを心配した……?
仁墨はともかく、なぜ父がこんなところにいるのか。そんな疑問よりも先にあの冷厳な松司が崩した表情を見せていることに驚いた。
――お父様のこんな顔、初めて見た。
もしかすると、思っていたよりも父は自分のことを娘として見てくれていたのかもしれない。
もし、彼が見せる表情や言葉の裏に本心が隠されていたのだとしたら。そう思うと、松司に対する偏見も変化した。
「お父様、どうしてここに……」
「お前と一緒に逃げた男――薊黎が妖絵窃盗事件の犯人だと知って、すぐにお前のところに駆けつけたんだ。その時、縁殿も同行して火の海にいたお前を助けてくれた」
「縁、様が……」
目をこすり、幾分か明瞭になった視線を彷徨わせる。だが、そこに縁らしき青年の姿はない。
「ここは……」
『妖伐局の医局だ。あの男なら、今は別の部屋で医者と妖伐局の局長の三人で話し合ってるぜ』
「そう……」
望んでいない縁談相手とはいえ、窮地から救ってくれたことには感謝の念がつきない。
彼の容姿はぼんやりとだが思い出せる。雪のように白い髪に、藤色の瞳。それから漆黒の軍服。あの色白で浮世離れした美貌は誰が見ても記憶に残るものだった。
「お礼、言わないと……」
松実が呟いたところで、こんこんとドアがノックされた。




