第1話 絵描きの少女
時は大正。明治の文明開化からより深く西洋文化が根づき、人々が行き交う街に新たな時代の風が吹き抜ける今日この頃。
オムライスやトンカツなどのハイカラな洋食に華やかな洋服、それから活動写真などの新鮮で目新しい娯楽が人々を惹きつけてやまないなか、一人の少女は黙々と紙面に筆を滑らせ、一心不乱に趣味に興じていた。
多くの華族令嬢たちが集う千紫万紅の女学校。広々とした校内には季節の花木が植わった庭が四つあり、それらはかの有名な浦島太郎伝説にちなんで四方四季の庭と呼ばれていた。
今は春。東方の庭は桜花爛漫となって、渡り廊下を行く女学生たちを虜にしている。
「今日も桜が一段と美しいこと」
「ねえ、せっかくですからお花見しません? お母さまがサンドイッチをたくさん作ってくださったの。良ければ皆さんもぜひ」
「まあ、それは素敵ね。それではあそこのベンチに……あら?」
女学生が指し示したベンチにはすでに先客がいた。
腰まで伸びた漆黒の長髪は緋色のリボンで一部結わえられ、白を基調とした松柄の着物を身にまとっている。紺色の袴に焦げ茶の編み上げブーツと、他の女学生とは異なりどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している清美な女学生だった。しかし彼女は今、同級生の談話に目も暮れず、桜の木と紙面に視線を往復させては無心に筆を動かしている。
「松実さん、また絵を描いているわ」
「ご友人を一人も作らずに暇さえあれば絵を描いている風変わりな人だものね。しかも今時鉛筆ではなく筆なんて。なんだか古臭いわ」
「男爵家とはいえ、あの方も華族の一員でしょう? 女性が絵を描くなんて珍奇な光景だこと」
大輪の花々はひそひそと嘲笑し、やがて彼女の元へと歩み寄った。
「松実さん」
名を呼ばれ、松実はハッとしてすぐに筆を止めて写生用の和本を閉じた。そのまま背後にいる同級生たちを振り返る。
「何でしょう」
「わたくしたち、これからお花見をするの。申し訳ないけれど、その席を譲ってもらえないかしら?」
「え? でも、私はまだ……」
和本を一瞥しながら渋る松実に、女学生たちは眉間に皺を寄せて苛立ちの表情を浮かべた。
「絵を描くのは立ってでもできるし、別に今じゃなくてもいいでしょう。授業が終わればまたここに来て描けばいいじゃない」
「そ、そうですね……。すみません」
言外にいいから早くどけと催促してくる同級生たちに、これ以上何を言い返しても無駄だろう。松実は仕方なく席を譲り、愛用の画材を抱えて春の庭園を後にした。
「ご両親もお気の毒に。あんなんじゃ、縁談をいくら持ちかけたとしても先方から反故にされるだけでしょうね」
「世俗に疎い陰気な女流絵師なんて、殿方の興を削ぐだけだわ」
振り返ると同級生たちが揶揄し、自身を軽侮している姿が視界にちらついた。しかし、松実の視線はすぐに桜の木のほうへと移される。
「ごめん。また来るから」
正確には桜の木の下。桜舞い散る美景に佇む女性をとらえていた。
淡い薄紅色の長髪に桜柄の着物。彼女は松実を見据え妖艶な微笑をたたえている。まるで、松実の言葉に対し首肯しているかのように。
一見、誰もが見惚れてしまいそうな佳人だが、彼女は松実以外の人間には見えていない。
あの女性は妖。木霊と呼ばれる善妖の一種で、樹齢百年以上の古樹に現れる。善なる妖とは言われているものの、本体である木――今回の場合は桜の木を傷つけられると悪妖に転じて害を与えた者を呪殺するとされている。
――やっぱり、学校が終わってからのほうがゆっくり描ける。
松実が描いていたのは、何も桜の木だけではない。
空に知られぬ雪のなかで桜木に寄り添う妖姫をその目に収めていた。