第16話 化けの皮が剥がれる時
『この子は黎。今日から一緒に暮らすことになったから、挨拶しなさい』
黎との出会いは、松乃が突然見知らぬ男の子を自宅に連れてきた時だった。
艶のないぼさぼさの髪に、ぼろぼろの衣服。長く風呂にはいっていないのか悪臭がして、当時は幼いながらに顔を顰めたものだ。
――なんで、この子と一緒に暮らさなきゃいけないの。
本当はいやだと拒否したかった。こんなにも汚くて見ず知らずの少年と一緒にいたくはないと。けれど、大好きな祖母が引き取ってわざわざ家に連れてきたくらいなのだから、深い理由があるのだろうと、己の気持ちを胸の内に留めた。
それに、少年のつぶらな瞳はまるで、ぽっかりと開いた穴のようで。
一切の光を通さない漆黒の闇の如く、その眼差しは常に下を向き、何もとらえていなかった。それがあまりに悲しく痛切に思えて、松実は戸惑いながらも黎という少年を受け入れた。
懐かしい過去の記憶で作られた夢境から遠のいていくのを感じて、松実はゆっくりと花瞼を持ち上げる。
ぼんやりとした視界に映るのは、古書独特の黴臭さがうっすらと漂う仄暗い空間。そこには数多の木箱や巻物が保管されており、見知った景色に松実の意識はすぐに覚醒した。
「ここは、蔵……⁉」
立ち上がろうとした時、両手首が縄で縛られて動けないことがわかった。
「あの時、急に眠気がして……」
そのまま気を失うように、夢の世界へ入ってしまったのだろう。
「仁墨……」
いつもそばにいる付喪神の姿が見えない。
黎と稲見もどこかと周囲に視線を巡らせていると、こちらに向かってくる足音が聞こえた。
「目が覚めたんだね。松実」
「黎……!」
彼の背後には、思わずぞっとしてしまうような美しさと悍ましさを併せ持つ白亜の妖狐と、妖尾にとらわれた筆の付喪神がいた。
「仁墨っ!」
「大丈夫。いま返してあげるから。白狐」
黎の指示を受け、白狐が仁墨の拘束を解く。
ようやく自由の身となり、仁墨は急いで松実のもとに駆け寄った。
「松翠! 体は何ともないか?」
「大丈夫。眠らされていただけだから。私よりも仁墨のほうが……」
「おれは何ともないから心配すんな。それよりもすまねえ。蔵の場所をあいつらに……」
「謝らないで。私を人質にして、蔵がどこにあるのかを教えるよう迫られたんでしょ?」
「……ああ」
「私を助けることを何よりも優先してくれた。それだけで十分だよ。ありがとう」
「松翠……」
目を細める松実に、仁墨は感極まったようにわずかに震えを帯びた声音で愛称を呼ぶ。
「僕からもお礼を言うよ、仁墨。おかげでやっと《《母さんたち》》を救える」
松実たちが黎に剣呑な眼差しを向けると、彼の右手には巻物が収まっていた。それだけでなく、黎はこの蔵で監禁されているすべての妖たちを慈しむように目元を和らげた。かつての松実に向けていた、あの優愛に満ちた微笑。
「母さんたち……?」
一体、何を言っているのだろう。
松実が怪訝な視線を向けていると、仁墨が重々しく真相を口にした。
「あいつは、妖に育てられた人間なんだよ」
「え?」
仁墨を見て、さらにまた黎を二度見した時、彼と視線がかち合った。
だが、それは春陽のような温かい眼差しではなく、厳冬の如き冷酷無情な眼光だった。
彼にそんな顔ができたのかと疑いたくなったが、おそらくこれが黎の素顔なのだろう。
「そう。僕は孤児にして、狐児だ」
言って、黎は巻物の紐を解き、上から下へと垂らす。
それは一幅の掛軸だった。掛軸の主は、暗夜を思わせる漆黒の妖狐。白狐と同じ九尾で、妖絵であっても気圧されるような妖気と禍々しさを放っており、松実は思わず身震いする。
「僕は四つの時、親に捨てられた。理由なんか聞かずともわかった。見鬼の能力は両親にとって忌避の対象でしかなかったからだ」
抑揚のない声音で、黎は淡々と追憶する。
「食べるものも尽きて、寄る辺なくあたりをさまようことしかできなかった僕は、とうとういつの間にか辿り着いていた森林のなかで倒れてしまった。ああ、死ぬんだなって……幼いながらぼんやりと死期を悟った時に現れたのがこの――」
そこで黎は漆黒の妖狐を指さす。
「玄狐だ。僕の母さんだよ」
壮絶な過去に言葉を失い、松実はただただ彼の読み語りに傾聴することしかできなかった。仁墨も白狐も、相槌を打つことなく沈黙している。
「母さんは僕に知識を与え、育ててくれた。たくさんの妖たちにも出会わせてくれた。白狐もそのうちの一匹さ」
黎が白狐のほうを振り返ると、純白の妖狐は返事の代わりに瞑目した。心なしか、口角が上がっているようにも見える。
「……白狐はあなたと契約した妖なの?」
少し掠れた声で問う松実に、「いいや」と黎はかぶりを振る。
「君たちと一緒にしないでほしいね。白狐は僕の友達。母さんとは旧知の仲で、時折母さんに会いにきていたんだ。最初こそ、距離を縮めるのに時間がかかったけれど」
「フン」
鼻息をついて、白狐は顔をそむける。
「他にもたくさんの妖たちと一緒に僕たちは暮らしていた。みんな僕の友達――いや、家族だった。それを君の祖母や妖伐局の連中はっ……!」
黎の目端が吊り上がる。
偽りの仮面が剥がれ、封じてきた憎悪と怨恨が弾けた。
「いきなり僕たちの前に現れては武器を振るった! 人間の僕には憐れみの手を差し伸べ、妖たちには無慈悲な死を与えた!」




