第15話 裏切り
時は少し遡る。
松実は縁に連れられて、郊外にある稲見の家を訪れていた。
「稲見。いるか」
黎が戸を叩くと、「はいはーい」とのんびりとした口調で稲見が出迎えてくれた。
「黎、松実ちゃん。二人そろってどうしたん?」
「おい、しれっとおれを無視すんな!」
松実の隣に浮遊していた仁墨が怒声をあげる。
「おお、仁墨くんもおったんか。これは失敬失敬」
「喧嘩売ってんのかてめえ!」
稲見に嚙みつこうとした仁墨を松実が押さえている間、縁が真剣な面差しで口火を切る。
「すまない稲見。急で申し訳ないんだけど、しばらくここで匿ってほしいんだ」
「え、匿ってほしい?」
「実は――」
松実は事の経緯を端的に説明する。
ふむふむと相槌を打っていた稲見も、次第に剣呑な眼差しに吊り上がっていく。
「何やそれ! 松実ちゃんの気持ち完全に無視して他家へ嫁がせるって! ほんまクソみたいな親やな!」
「稲見、言い方」
「ああ、ごめん。つい」
とにかく中入り、と稲見が勧めてくれたので、二人はありがたく敷居を跨いだ。
「ごめんな。狭くて汚いけど」
「とんでもないです。突然なことにもかかわらず、私たちを受け入れてくれてくれただけでもありがたいですから」
「受け入れるも何も、親友たちの頼みやからな。断る理由なんかあらへんよ」
「ありがとうございます」
稲見は客間に二人を座らせ、「お茶持ってくるわ」と部屋を後にした。
「稲見さんの家も郊外にあったんだね」
「ああ見えて稲見も人が多いところは苦手なんだ。自然豊かなところが性に合って、創作意欲もかき立てられるんだって」
「へえ……」
松実は部屋を見回しながら相槌を打つ。
稲見の家はごくありふれた平家だった。ただ彼がいつも洋装をしているので、彼の自宅は都内の洋風建築だとばかり思いこんでいた。それこそ、上村家の本邸のような。
「おまたせ」
稲見が湯呑を長机に置き、二人の前に差し出した。次いで今の時代は高価でなかなか食べられないクッキーが配膳された。それを見た松実は顔を明るくさせる。
「わ、クッキー!」
「お、松実ちゃんクッキー好きなん?」
「はい。小さい頃、ある男の子からもらって初めて食べた時、すごくおいしくて。それで大好物になったんです」
『ある男の子?』
黎と稲見が揃って鸚鵡返しすると、松実は色とりどりの洋菓子を見つめながら頷いた。
「黎がまだうちに来る前、一日だけ知らない男の子が道に迷って家を訪れたことがあったんです。その時の私は見鬼能力を嫌っていて、おばあちゃんが任務に出ている時は美竹さんたちに隠れてずっと一人で泣いていました。そしたら、その子が何も言わずに『クッキーがあるから一緒に食べよう』って言ってくれて」
「めっちゃええ子やん」
「そうなんです。その子を探していた家の人が迎えにきて別れて以降、それきりになってしまったんですけど……」
あの時、ちゃんと名前を聞いておけば良かったと、松実は今になって後悔する。
――お兄ちゃん、元気だといいな。
『―――――――――』
悲涙が溢れてとまらなかった自分に、かの少年は今でも心の支えとなっている言葉を授けてくれた。
――会いたいなあ。
懐かしさを抱きつつ、松実はきつね色に焼けたクッキーを一枚つまんだ。
「いただいてもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
一口齧ると、さっくりとした食感とともにほどよい甘さが口内いっぱいに広がった。
「ん~、おいしい」
「良かった」
稲見と黎もそれぞれクッキーをとり、甘味を楽しんだ。
三人で余すことなく食べ終え、銘々に緑茶を啜る。
『ごちそうさまでした』
松実と黎が両手を合わせると、稲見は「お粗末様でした」と莞爾を返す。
「にしても、黎と松実ちゃんが駆け落ちとはなあ」
和やかな空気が一変、稲見のあけすけな発言に松実と黎は頬を紅潮させた。
「駆けっ……!」
「ち、違います!」
「あれ、違うん? ていうか、俺はてっきり二人はそういう関係やと思ってたんやけど」
稲見が両者を指さしながらあっけらかんと言うので、松実たちは互いを一瞥しつつも気恥ずかしげに視線を逸らす。仁墨も呆れたように息をついた。
「……私の、一方的な片思いです」
松実は視線を伏せたまま、訥々と言う。
「辛い時も、楽しい時も、黎はいつも傍にいてくれた。優しい手を差し伸べてくれた。だから私は黎を好きになったんです」
「松実……」
「でも、小さい頃から一緒に育ってきたからか、お互いに対する気持ちに違いがあったみたいで……」
悲哀を帯びた翡翠の明眸に、黎は深く胸を抉られたような感覚がした。
「黎、お前なあ」
稲見もこちらを非難するような眼差しを突きつけてくる。
こればかりは何も言い返すことができず、黎はただただ苦悶の表情を浮かべたまま沈黙した。
「黎は何も悪くないです。自分の想いを受け取ってくれるかどうかは相手次第。無理に気持ちを押しつけて黎を困らせたくはありませんでしたから」
黎には今まで通り、普通に接してほしい。
柔和に細められた松実の双眸に、黎も自然と頬が緩んだ。
「そうか」
稲見も口角をあげて、それ以上は追及しなかった。
「今ごろ、松実ちゃんのお父さんが血眼になって探してるんやろうな。藤浪家っていったら大貴族みたいな家やろ? 世俗に疎い俺でも知ってるぐらいやし」
「できれば、向こうが折れてくれるまでここにおいてほしいんだけど」
「かまへんよ。好きなだけおってくれたらええ」
「本当にありがとうございます。ご厄介になるお礼とまではいきませんが、今日からの食事は私がご用意させていただきたく」
「え、ほんま⁉ 松実ちゃんの手料理を毎日⁉」
「ええ。稲見さんさえ良ければですが」
「全然良いです! むしろそうしてくれるとありがたいわ。いやあ、松実ちゃんの料理楽しみやなあ」
上機嫌になった稲見に松実が微笑んだその瞬間、突如、強烈な睡魔が襲った。
「え……」
瞼が次第に重くなり、視界が強制的に閉ざされる。やがて松実の意識は完全に闇に落ち、そのまま床に伏した。
「松翠⁉」
突として倒れこんだ主に、仁墨は愕然としてすぐに彼女の容態を見る。
すうすうと規則正しい寝息を立てているので、命に別状はないようだ。それがわかっただけで仁墨は安心する。
「大丈夫。彼女には少し昼寝をしてもらっただけだから」
「……てめえ、松翠に何しやがった」
おさえきれない憤怒を滲ませて問う仁墨に、黎は穏やかな笑みをその顔に貼りつけたまま淡々と答える。
「僕は何もしてないよ。やったのは彼だ」
「ちょっと、俺のせいにすんの? 人が悪いなあ、黎は」
稲見もまたこれまで見せてきた人好きの良い笑顔から一転、歪に口の端を吊り上げていた。その不気味で妖気漂う微笑は仁墨ですら戦慄したほどだ。
「お前、まさか――」
「はあ、やっとお役御免か」
すると、稲見の双眸が異様なほどに吊り上がり、さらには白い耳と九尾が生え始めた。やがて顔や体も獣化していき、最後には妖艶な真白の妖狐に変貌を遂げた。
「お疲れ様。白狐」
『金輪際、人間なんぞに化けたらん』
そっぽを向いて吐き捨てる白狐に微笑む黎。
急変した光景に仁墨は駭然とするほかなかった。
「何で白狐がここにっ……! しかも、お前は人間嫌いだったはずじゃ――」
そこで真白の尾が仁墨を捕らえ、言葉を遮る。
『やかましい。たかだか二百年しか生きてない付喪神風情が、偉そうな口叩くな』
「ッ――!」
仁墨は必死にもがくが、長尾に絞めつけられる一方でもはや為す術がない。みしみしと体が不吉な音を立て、自分はもはや風前の灯であることを否応なく突きつけられた。
「白狐。あんまり仁墨をいじめちゃだめだよ。彼にはまだ聞きたいことがあるんだから」
「もたもたしてるとそのうちこの筆折ったるからな」
「はいはい。すぐに終わるよ」
肩を竦め、黎は仁墨に顔を寄せる。
「僕が聞きたいのはただ一つ」
君たちの蔵はどこにある?
闇をはらんだ睛眸が自身をまっすぐに見据えて離さない。
仁墨は歯を食いしばるように苦悶の声をあげながら答える。
「やっぱり……お前の目的は……!」
「わかってるのなら話すまでもない。いいから早く答えて」
黎が強迫すると同時に、美しい白尾が松実に絡みついて彼女を持ち上げた。
「敬愛しているご主人様の無残な姿は見たくないだろう?」
ついに松実を人質にとられ、仁墨は呻いた。
黎たちに従ったとしても、松実が無事でいられる保証はない。それは自分も同じだ。
だが、ここで蔵の在り処を吐かなければ松実はもう二度と目覚めない。
『仁墨。あの子のこと、よろしくね』
先代の主から託された大事な娘。
掟の遵守を優先して手放していい命など、あってはならない。
仁墨は刹那の逡巡の末、蔵の在り処を打ち明けた。
「……おれたちが住んでいた家の西側に森林がある。蔵はそのなかだ」
「なるほど。じゃあ、僕たちをそこへ案内してもらおうか」
黎は立ち上がり、客間の襖を開ける。白狐も松実と仁墨を拘束したまま黎の後を追った。