第11話 父の本心
「どういうことですかあなた!」
太陽が中天に差しかかった正午、穏やかな春風を切り裂くような甲高い声音が上村邸の一室で響いた。
松乃が所有していた別邸とは異なり、上村本邸は洋風建築だ。クリーム色の壁に赤屋根と絵本の世界に登場しそうな可愛らしいデザインで、三階建てになっている。
今は一階にあるリビングで紅茶を啜っていた松司に対し、美華が怒髪天を衝いて激昂していた。
「松実さんを藤浪家に嫁がせるなんて正気⁉ 今すぐ華恋に変えるべきだわ!」
美華は愛しい我が子の両肩を掴み、引き合いに出す。華恋もまた己の矜持を傷つけられ、唇を引き結んだまま父を睨めつけた。
だが、そんな母娘の瞋恚に表情一つ変えることなく、松司は呆れ交じりの溜息をついて言う。
「何度も言わせるな。この縁談はもともと藤浪家の子息が持ち出してきたもの。あちらが松実を希望している以上、華恋を嫁がせるわけにはいかない」
「な、ならっ!」
ここでようやく華恋が口を開き、己の胸に手を当てて懸命に訴える。
「わたしが松実お姉さまの身代わりになります!」
携えていた湯呑みを机に置き、松司はおもむろに視線を持ち上げる。
「縁様はまだお姉さまの顔を知らないんでしょう? なら、わたしが松実として嫁げば何の問題もないはずです」
「そうね、それがいいわ! 流石、私の娘ね」
美華は愛娘に抱きつき、これでもかと頭を撫でる。華恋もまんざらでもない様子だ。
そんな母娘の仲睦まじい様子とは裏腹に、松司はもはや日常と化している溜息を盛大につく。
「あちらは松実がどんな人物かを知ったうえで、あいつを嫁にと望んでいる」
「えっ?」
「あなた、それは一体どういう……」
母娘が愕然とする一方で、松司は縁と面会した際に言っていた彼の言葉を回顧する。
『もし、あなたが本当に娘のことを想うのなら、この縁談は決して悪いものではないはず』
これは、松乃さんとの約束でもあります。
――約束、か……。
彼――藤浪縁という青年のことは、〈六花の貴公子〉の噂が喧伝される前に母から聞いたことがあった。幼い頃の彼に会ったことがある。彼と、ある約束をしたのだと松乃は言っていた。
その約束について聞き、かつ縁自身の口から改めて確認したうえで、松司の決意が固まった。
松実はこの青年とともに生きたほうが自由に――より幸せになれると。
「縁様は、松実さんが化け物を認識できることをご存じなの? 世間知らずで絵を描くことしかできない陰気な娘であることも承知のうえで、自身の伴侶にと望んでおられるの?」
ねえ、あなたと執拗に語りかけてくる妻にこれ以上話すことはもうない。ここから先は不毛な押し問答になるだけだと、松司は何も言わずに席を立ち、自身の書斎へと足先を向けた。
「あなた!」
美華の鼓膜をつんざくような呼声が背を打つが、それにはお構いなしに松司は黙々と歩を進める。そんな父の背を、華恋は悔しげに睥睨した。
「どうしてお父様はお姉様を……!」
〈六花の貴公子〉も、なぜよりによって世俗から疎まれている異端の姉を望むのか。甚だ疑問でならず、華恋は納得できなかった。
「陰気で絵を描くことしか取り柄のない能なしのくせにっ!」
鬱憤が弾け、華恋はぎりぎりと歯噛みした。
「こうなったら――」
お姉様を消して、わたしが縁様の妻になるしかない……!
華恋が秘かに奸計を企てていたところで、松司は書斎のドアを開け、部屋の奥にある瀟洒な木製椅子に深く腰かけた。そして額に手を添えて重い息をつく。
「……頼む。大人しくこの縁談を受け入れてくれ」
恨まれているのは百も承知。
すべては、松実をあるべき場所へと送りだすためなのだと、松司が秘かに娘の幸せを願っていたなか――
「松司様! いらっしゃいますでしょうか」
ドア越しから秘書の下田が切羽詰まった声音で問いかけてきた。
何事かと松司は顔を顰めて立ち上がる。そのままドアを開けると、焦燥に満ちた表情でこちらを見据える下田の姿が。
「どうした」
「実は、松実様が屋敷からお逃げに……」
「監視役は何をしていた」
「それが、同居している男子学生と一緒に逃げたところを追いかけて捕まえようとしたところ、霧散するように消えてしまったようで」
「……幻覚か」
おそらく、栴檀乾闥婆が仕向けた攪乱だろう。幻覚を囮にし、本人たちは監視の目をかい潜ってどこかへ逃走した。
――まさか、松実がすでに乾闥婆を召喚し、従えるようになっていたとは……。
こればかりは想定外だと、松司は歯噛みする。
「すぐに屋敷のなかを隈なく捜索しましたが見つからず、唯一、屋敷内にいた使用人たちにも松実様たちの行方を問いただしましたが、一向に口を割らなくて……」
「それ以上の問答は不毛だ。人員を増やして引き続き捜索に専念しろ。私はこれから妖伐局に出向いて縁殿に事情を説明する」
「承知いたしました」
下田が颯爽と部屋を立ち去ってから、松司は重い溜息をついてから外出準備にとりかかった。