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第10話 幻夢の逃避行

 真摯な思いと眼差しを向けられ、松実は息を呑む。それには美竹や仁墨も愕然としていた。


「逃げるってどこへ……」

「稲見なら僕たちの力になってくれるはずだ。まずは彼を頼る」

「でも、すでに監視としてお父様の部下が残っているわ。何人いて、どこにいるかはわからないけど、たぶん屋敷を取り囲むようにして目を光らせてるんだと思う。ますはその包囲網を突破しないと」

「なあに、そいつらは栴檀せんだんの幻覚を見せればイチコロだぜ」


 辟邪の眷属神五柱が一柱、栴檀せんだん乾闥婆けんだつば。栴檀とは白檀の別名であり、かの神は香りと音楽を司る。芳醇で心安らぐ白檀の薫香を漂わせ、かつ天にも昇るような心地よい音色を響かせることで対象を眠らせたり、幻覚を見せたりすることができる。

 あっけらかんと言う仁墨に、松実は顎に手を添えて頷く。


「乾ちゃんに協力してもらうのは妙案だね」

「だろ?」

「じゃあ、さっそく行動に移そう」


 黎が真剣な面持ちで言ったのに対し、松実は「待って」と制止の声をあげた。


「美竹さんと尾花さんは……」

「わたくしどもはこちらに残って、このお屋敷をお守りします。尾花さんにはわたくしから話しておきますから」

「でもっ……」

「年老いた爺婆は不要。大勢で動けばそのぶん見つかる危険も高まります」

「美竹さん……」


 憂い顔の松実に、美竹は柔く笑んだ。


「大丈夫ですよ。お嬢様。尾花さんもついていますし、いざという時は二人で対処します」


 皺の寄った手が、白皙の繊手を包み込む。


「ここはお嬢様の家です。いつでもお帰りをお待ちしております」


 惜しみなく注がれた慈愛に、松実の涙腺は再び緩んだ。

 気づけば美竹の背に両腕を回し、その温もりを一身に浴びるかのように強く抱きしめていた。


「絶対に、帰ってくるから」

「はい」


 抱擁を解いて、松実は涙を拭う。そして黎に、決意に満ちた力強い眼差しを向けた。彼もまた頷いて開口する。


「必要最小限の荷物だけまとめよう」

「うん」


 松実と黎は各々自室に戻り、風呂敷一枚に収まる程度の荷支度を進めた。その後、居間で落ち合って松実は仁墨を右手に収めた。


「いくよ。仁墨」

「おう」


 仁墨の妖力が淡い光となって筆先に集まり始める。


 松実は瞑目して深呼吸し、おもむろに目を開けて勢いよく空に筆を滑らせる。

 力強く、それでいてしなやかな筆致は、まるで透明な壁に描かれているかのように鮮明に浮かび上がり、その黒線はやがて竪琴を携えた人神を形作った。

 壮麗な辟邪絵を描き終えて、松実は高らかに召喚のことばを唱える。


なんじに命ず。佳芳と清音をもって、濁乱を祓い給え」



 栴檀乾闥婆!



 かの神名を叫んだ瞬間、妖力を含んだ辟邪絵は眩い光を放ち始める。

 松実が刹那、目を細めてすぐに視界が元に戻ると、眼前には辟邪絵が消失した代わりに息を呑むほど美しい善神が降臨していた。


 男性とも女性ともつかない中性的で端整な顔立ち。胸のあたりまで伸びた銀髪と同色の双眸。白檀の香りがほのかに漂うゆったりとした白の衣装に身を包み、竪琴を片手に佇む姿は精緻せいちな彫刻と見紛うばかりだった。


「久しぶり。乾ちゃん」

「松実……!」


 主を呼ぶ声音もまた男女の区別がつかない。しかし、典雅な弦の音と遜色のない麗しさを兼ね備えていた。

 乾闥婆は松実を視認するや否や、突如、松実に抱きついた。


「きゃーっ! 久しぶり!」


 親が子にするのと同じく、松実はよしよしと乾闥婆の頭を撫でる。乾闥婆はまんざらでもない様子だ。


「相変わらずだな」


 仁墨が呆れたように言い、黎や美竹は神の予想外の振る舞いに唖然としている。


「呼んでくれて嬉しいわあ! どうしたの今日は」

「乾ちゃんにお願いがあって」

「何でも言ってちょうだい!」


 胸を拳で叩く乾闥婆に目を細めてから、松実はいま自身がおかれている状況について説明した。


「それで、乾ちゃんには〈幻夢香げんむこう〉で監視役の目を引きつけてほしいんだ。その間に私たちは逃げるから」

「わかったわ。お安い御用よ」


 ウインクして快諾の意を示す乾闥婆に、松実の表情は華やぐ。


「ありがとう乾ちゃん。大好き!」

「私も松実がだーいすきっ!」


 再度、主従が抱き合う姿に仁墨は「けっ!」と辟易した素振りを見せる。


「松実をどこの馬の骨ともわからない男に嫁がせようとするなんて……。卑劣極まれり! 愚の骨頂よ!」


 地獄に突き落としてやる。


 一段と低くなった怒声と厳冬の如く冷え切った銀瞳が周囲を寒慄させる。

 神としての威厳と覇気を改めて感じたところで、松実は苦笑して乾闥婆をなだめた。


「気持ちは嬉しいけど、やり過ぎちゃだめ。普通に幻覚を見せて私たちから注意を逸らしてほしいだけだから」

「はーい」


 再び溺愛姿勢に戻ったところで、乾闥婆は松実に問う。


「さっそくやっちゃうけど、準備は大丈夫?」

「うん。お願い」


 主従は頷き合い、黎と美竹、それからあとから事情を聞いて駆けつけた尾花も含めて全員で玄関に向かうことにした。


「〈幻夢香〉は香りを嗅いだ者すべてが幻覚を見る。松実たちも外に出ればその影響を受けかねないから、しばらくの間は布か何かで鼻や口元をおさえておいたほうがいいわね」

「わかった」


 言われた通り、松実と黎はあらかじめ手巾を取りだしておく。


「じゃ、いくわよ」


 乾闥婆は玄関を出てそのまま息を吹きかけた。

 白銀の吐息が屋敷内外を包み込むようにして広がっていく。まるで霧に覆われたように、あたり一帯は神の息吹に満ちた。

 すると、屋敷の外から複数の声が聞こえ始めた。


「松実様だ!」

「男と一緒に逃げるぞ!」

「絶対に逃がすな!」


 慌ただしい足音が遠ざかり、やがて男性たちの喚声も消えていく。どうやら裏口から出て裏山へ逃走した松実と黎の幻覚を見たらしい。


「今よ。行きなさい」

「ありがとう。乾ちゃん」

「またいつでも呼んでちょうだい。毎日呼んでくれたって構わないから」


 茶目っ気に言って、乾闥婆は〈幻夢香〉に溶け込むようにして姿を消した。


「お前みたいなめんどくせえヤツ、毎日なんてごめんだぜ」

「仁墨」


 憎まれ口をたたく仁墨を窘めてから、松実は背後にいた従者たちを振り返った。


「美竹さん。尾花さん。行ってきます」

「お気をつけて」

「何かあったら連絡を。すぐに馳せ参じますから」

「ありがとう」


 美竹と尾花の見送りを受けて、松実は黎と仁墨とともに一歩を踏み出す。


「行こう」


 すると、黎が自身の手を掴んで先導した。

 大きくて力強い手に驚いて頬を赤らめつつも、松実は黎に連れられるがまま白檀香る幻夢のなかを突き進んだ。

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