第9話 思わぬ真実
「おいおい。これ絶対に何かあっただろ」
「あったね」
仁墨と黎は誰もいないがらんどうと化した応接間を見つめて言葉を交わした。
畳の一部分と松実が座っていたであろう座布団に黒い染みができており、その付近に湯呑も無造作に転がっている。
「あいつがうっかりお茶を零した、なんてことはねえだろうし」
「何かが原因で美華さんと口論になって、お茶をかけられたと考えるのが妥当だろうね。そうなればさっき勢いよく美華さんたちが出ていったことにも辻褄が合う」
黎と仁墨が部屋で大人しく待っていた時、応接間から玄関へと繋がる回廊から慌ただしい足音と怒声がうっすらと聞こえてきた。言葉までは聞き取れなかったが、その声音は明らかに美華と華恋のものだったので、松実に何かあったのかもしれないとすぐに部屋を飛び出して仁墨と合流し、応接間まで足を運んで今に至る。松実が部屋を出てからわずか十数秒後のことで、彼女とすれ違うことなく応接間に辿り着いたのは台所が反対方向にあったからだ。
「松翠、どこに行ったんだ?」
「自分の部屋かな」
とりあえず、一度引き返して松実の自室を確認したが、予想は外れてしまった。それから一人と一柱で松実を探して邸内を歩き回っていると――
「お嬢様、一体何があったのですか?」
台所の近くに来たところで美竹の声が耳に入った。
「お、あいつらこんなとこに」
そう言って仁墨が回廊から姿を見せようとした瞬間、黎は彼を勢いよく掴んで引き戻す。
「いでででっ! てめえ、何す――」
「しっ! 静かに」
黎は仁墨の筆先を押さえ、そっと壁から顔を出す。
ちょうど美竹が台所と居間を繋ぐ段差に腰かけている松実に、手ぬぐいを差し出しているところだった。松実はそれを受け取って頬に当てながら苦笑した。
「どうやら私、藤浪家に嫁がされるみたい」
「え……⁉」『えっ⁉』
美竹の驚愕と黎たちのそれが重なる。
三者ともに唖然として言葉を失ってしまった。
「どうしてかはわからないけど、藤浪家の次男――縁様が私を指名したんだってさ。まったく、こんなへんてこりんな娘を嫁に欲しがるなんて、公爵家のお坊ちゃんもとんだ好事家だよね」
「お嬢様……」
「しかも、もう確定事項なんだって。私の気持ちを無視して勝手に相手の条件を呑むとか、ひどいよね。それでも親かって怒鳴りたくなったくらい。まあ、あの人に親としての情なんてあるはずないけど」
利権のために娘を他家に売るくらいだからさ。
翡翠の明眸に翳が差し、自然と声色も沈重なものになる。
美竹や黎たちも、松実の境遇を一番近くで見守ってきたからこそ彼女の心痛がどれほどのものかが計り知れなかった。
「近いうち、上村家に行って縁様と顔合わせすることになってる。だから、ここを出る日もそう遠くはないと思う」
松実は内装を見渡しながら、しみじみと言う。
「離れたくないなぁ。私にとって、これ以上ない居心地が良い場所なのに」
「で、ですがお嬢様」
松実は美竹に視線を戻して、困惑と懸念が綯交ぜになった彼女の表情を見据える。
「お嬢様は坊ちゃんのことを……」
「うん。好きだよ」
薄く笑んで、松実は緑瞳を伏せる。
対して黎は幼馴染の想いを知り、息を呑んだ。
「松実が、僕を……?」
「お前、本当に気づいてなかったのかよ」
呆れた風に小声で囁いてくる。黎は困惑を隠せないまま仁墨のほうを向いて言った。
「僕は松実を妹のように思っていたから……。松実も同じように見てるはずだって」
「鈍感にもほどがあるぜ」
仁墨に溜息をつかれつつも、返す言葉が見つからなかったので黎はおずおずと視線を松実に戻す。
いつの間にか彼女の声音は震えを帯びていた。
「黎だけじゃない。美竹さんも、尾花さんも、仁墨も、この家も――みんな大好き。みんなと一緒に過ごす日常が私にとってかけがえのないもの。絶対に、手放したくないのに……」
ついに、心に留めていた悲嘆が雫となって零れ落ちる。
胸が締めつけられ、美竹は咄嗟に松実を強く抱きしめた。松実も感情があふれ、従者の胸のなかで嗚咽を漏らす。
「どうして、お嬢様だけがいつも理不尽でお辛い仕打ちを受けなければならないのでしょう」
松実の背を優しく撫でつつ、美竹はやるせなさと一抹の憤怒を滲ませて言う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。美竹も一緒に破談の方法を考えます。必ず別の道があるはずですから」
「……ありがとう。美竹さん」
美竹の抱擁を解いて、松実は涙を拭いながら精一杯の笑顔を作った。
「でも、私はお嫁にいくよ」
予想外の返答に、美竹は目を大きく見開いた。同時に黎も愕然として、気づけば一歩踏み出していた。
「どうして……⁉」
闖入した黎の声に、松実と美竹は一驚して咄嗟に彼を見る。
「黎⁉」
「坊ちゃん……! 聞いておられたのですか」
「ごめん。松実を探していたら二人が話しているのを見つけて、それで……」
「盗み聞きすることにしたんだよな?」
黎に続き、仁墨も姿を露わにして主たちのもとへ近づく。
「仁墨まで……」
「盗み聞きだなんて人聞きの悪い。僕は二人の会話を邪魔しちゃいけないと思っただけだよ」
「だったらなんですぐに引き返さなかったんだよ」
「そ、それは……」
気まずそうに視線を逸らす黎に、仁墨はしてやったりと愉快そうに笑う。
両者が他愛ないやり取りをする一方で、松実は緑瞳を伏せて自嘲する。
「まさか、こんな形で私の気持ちを知られてしまうなんてね。伝えるならもっとちゃんとした場所で――黎の目を見て言いたかったのに」
漂う哀感と切なさに、黎は両の拳を握りしめる。
「ごめん、松実。僕は……」
「わかってるよ。黎は私のことを妹のように思ってたから、そういう目で見たことはないんでしょ?」
図星を指され、返す言葉が見つからず黙りこくることしかできない。
「でも、ずっと大事にしてきてくれた。それだけで十分だよ」
「松実……」
黎は唇を噛み締め、やがて松実の両肩を掴んで言った。
「僕だって、松実のことをすごく大事に思ってる。……それは、松実が僕に向けてくれる気持ちと同じとは言えないけれど」
「黎……」
「でも、だからって松実が見ず知らずの男性と一緒になるのを見過ごす理由にはならない。松実――」
僕と一緒にどこかへ逃げよう。