復讐劇・終幕
「私は絶対に信じない!」
号外を目にしたララが叫んだ。普段は冷静な彼女の声が震えている。その異変に、むしろ周囲の方が静まり返る。
「私だって信じたくはないわよ。でも…ここに、スイ先生ご自身が認めたって書いてあるの。」
バニラの言葉に、空気が凍りついた。しんとした沈黙。それを破ったのはウォルフだった。
「真実か嘘かなんて、今はどうでもいい。問題は、スイ先生がどうしてこんなことをしたのか、だろ。あの人のことだ、きっと理由がある。話を聞くまでは何も決められない。」
落ち着いた声に、皆がわずかに息をつく。だが、シズクだけは俯いたまま口を開いた。
「…その話を聞けるかどうかすら、わからないけどね。」
低く落とされた言葉が、場の熱を奪っていく。新聞には、スイが今朝、自らリリスタ軍本部に出頭し、拘束を要請したと書かれていた。
その事実を全員が知っている。だからこそ、誰も何も言えなかった。
「シズク!なんでそんなネガティブなこと言うのよ!」
沈黙に耐えかねて、バニラが声を上げた。指先がシズクを指す。その勢いとは裏腹に、声の奥には不安が滲んでいた。
「すまない…。でも、スイ先生が自首したってことは、少なからず本人に罪の意識があったってことだと思うんだ。だから、もし大義があったとしても、しばらくは出てこないだろう。スイ先生自身の意志で。」
「それは…そうかもしれないけど。」
バニラが言葉を濁す。再び沈黙が落ちた。シズクの言葉があまりに現実的で、誰も反論できなかった。
その静寂を破ったのは、マロンの足音だった。彼女が踵を返し、扉の方へ歩き出す。
「マロン、どこへ行くんだ?」
シズクが問いかけると、マロンは短く答えた。
「スイ先生の家。…あの二人が心配だから。」
スイのことを案じるのは皆同じだった。だがマロンの脳裏にあったのは、スイだけではない。ローゼ、そしてモニカ、彼女たちの顔が浮かんでいた。
最も信頼する恩人が、新聞の一面で“殺戮者”のように描かれている。その現実を、彼女たちがどんな思いで受け止めているのか。想像するだけで胸が締めつけられた。
「待って。私も行く。」
ララがマロンの横に並ぶ。彼女もまた、ローゼだけでなくモニカとも面識のある数少ない一人だった。
二人の背を見送るほか、誰も言葉を続けられなかった。
それから、二人は一度も口を開かずに歩いた。人通りの多い大通りを抜け、整然とした高級住宅街へと足を進める。見慣れたスイの家の前に立つと、胸の奥で何かが冷たく沈んだ。
マロンがドアベルを押す。しかし、いつものような慌ただしい足音も、明るい返事もない。ただ、家の中の静けさだけが広がっていた。嫌な予感がした――
その時、静かに扉が開いた。隙間から現れたのは、顔色の悪いローゼだった。目の下には深い影が落ち、今にも倒れそうなほど力がない。
「大丈夫!?」
マロンが思わず声を上げ、彼女の体を支える。ローゼはその腕に力なく身を預けた。
「あ…ごめんなさい、マロンさん。ちょっと、力が抜けちゃって。」
「いいのよ。それより、具合が悪いの?」
腕の中で、ローゼがか細い息を吐いた。
「いえ…体は平気なんです。ただ、気が…少し滅入って。」
「本当に?無理してない?」
「うん。本当に大丈夫。心配してくれて…ありがとう。」
言葉の端々に、無理に作った笑みが滲んでいた。マロンとララはそっと彼女を支えながら、家の中へと入る。リビングには、重い空気が漂っていた。
「モニカさんは?」
マロンの問いに、ローゼは小さく首を振る。
「もう寝てるわ。相当、ショックだったみたい。」
「そう。」
短い返事のあと、三人の間に再び沈黙が落ちた。時計の秒針の音だけが、部屋の静けさを刻んでいる。窓の外では夕暮れがゆっくりと沈み、薄明かりがリビングを淡く染めていた。
――ローゼさんを励まそうと思って来たけど…何て声をかければいいんだろう。
マロンは落ち込むローゼの横顔を見つめ、言葉を探していた。ふと視線をララに向けると、彼女もまた唇をかみしめ、思いつめたような顔をしている。その沈黙を破ったのは、意外にもローゼだった。
「この新聞…二人は、どう思うの?」
テーブルの上には、折り目のついた新聞が置かれていた。それを指して、彼女は二人に問いかけた。
最初に口を開いたのはララだった。
「…信じてない。だって、あの人がそんなことするわけない。どんな理由があったって、命を奪うなんて。スイ先生は絶対にしない。」
感情のこもった声が震える。ララの拳が膝の上で強く握られていた。それを見て、ローゼはほんの少しだけ目を伏せた。
マロンが、ゆっくりとその隣で言葉を紡ぐ。
「私は…まだわからない。スイ先生が何を思ってそうしたのか、本人の口から聞かない限り、真実なんて判断できない。だから、信じるとか信じないとかより…今は、話を聞きたい。」
二人の言葉を聞き終えたあと、ローゼは少し口元をほころばせる。
「二人は、そう思ってるんだね。」
静かに言ってから、ローゼはゆっくりと新聞を指先で撫でる。インクの擦れた見出しが、淡い光を反射した。
「私はね…この新聞は真実だと思ってる。」
「えっ…?」
ララとマロン、二人の声が重なった。まるで一瞬、空気が止まったかのようだった。ローゼはその驚きを受け止めるように、穏やかに続ける。
「スイさんがあの日、私に別れを告げたとき…あの人は、怒ってもいるのか、悩んでもいるのかもわからない、そんな、複雑な顔をしていたの。その表情からわかることが一つあるとすれば、何かを“覚悟してた”ってこと。だから、もしこの記事がその裏付けなら…私は納得できるの。」
言葉を選ぶように、ローゼは一拍置いた。そして、少しだけ目を細めて続けた。
「それにね――」
その先の言葉を聞いた瞬間、ララとマロンは息を呑んだ。驚きと、どこか納得の混じった表情。
彼女らしいと、二人は同時に思った。どんな真実を突きつけられても、恩人への信頼を手放さない。
それが、ローゼという人なのだと。そう確信できた。
やがて夜が近づくころ、マロンとララはスイの家を後にした。別れ際のローゼは、二人が来たときよりもずっと穏やかな表情をしていた。自分の思いを口にし、人に聞いてもらえたことで、少し心が整ったのだろう。
「心配…いらなかったね。」
「うん。やっぱりローゼさんは強い人だ。」
互いに頷き合い、二人は微笑んだ。わずかに冷え始めた風が、帰り道の街灯を揺らしていた。
――そして、その夜。
「ん…。」
ローゼはベッドの上で身を起こした。何度も寝返りを打ってみたが、眠れない。目を閉じれば、スイの顔が浮かんでくる。あの日の表情が、まぶたの裏で何度も繰り返された。
――どうしても、思い出しちゃうな...。
隣では、モニカが静かな寝息を立てている。その寝顔をそっと見つめ、ローゼは小さく息をついた。起こさないように毛布を整え、静かにベッドを降りる。
足音を忍ばせながら廊下を抜け、玄関の扉を開ける。夜気が肌を撫でた。街はすでに深い闇に沈み、月だけが白く浮かんでいる。
ローゼは一歩、外へ出た。夜風が頬を撫で、髪を揺らす。吐く息が白く浮かぶ中、彼女はそっと空を見上げた。胸の奥に残るざわめきは、まだ静まらない。
――その時だった。
「…ローゼ?」
門扉の方から、聞き慣れた声がした。耳がその響きを捉えた瞬間、ローゼの体が勝手に動いた。思考よりも先に、足が地面を蹴っていた。
「スイさん…!」
声が震える。ローゼは門の影に立つスイのもとへ駆け寄り、その胸へ迷いなく飛び込んだ。スイの体がわずかに揺れる。戸惑いを隠せないままも、彼女は腕を伸ばし、ローゼを抱きとめた。
「次からは…絶対に、どこに行くのか教えてください…!何も言わないままいなくなるなんて、心配で…不安で、不安で仕方がないんです!」
「…ごめん。」
スイの胸元に顔を埋め、ぐりぐりと頭を押しつけるローゼ。スイはただ小さく謝ることしかできなかった。その声に重ねるように、ローゼは必死に言葉を紡ぐ。
「どんなことがあっても、私は貴女を信じます。貴女がどんな選択をしても、私は受け入れますから。」
その言葉にスイの腕がわずかに強くなる。けれど、その声は低く、どこか遠い。
「…でも、私は人を殺したんだぞ。それでも君は、受け入れるのか?」
ローゼは顔を上げ、涙に濡れた瞳でまっすぐにスイを見つめた。夜の灯がその瞳に揺れて、決意の光を映している。
「はい。たとえ世界のすべてが貴女を責めても、私は貴女の味方でいます。」
その言葉に、スイは息をのんだ。胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。
自分はこの少女の人生を狂わせた。救ったはずが、縛ってしまった。それでも今、この想いを拒む力はもう残っていなかった。
「…はは。重いね。」
苦笑に逃げた声はかすかに震えていた。けれどローゼはその震えを責めず、ただ柔らかく笑う。
「はい。私は、すごく重い女なんです。」
涙の跡を残したままの微笑みが、あまりにもまっすぐで。
スイの胸にあたたかい痛みが走る。
どうしてこんなにも、この子のことを――
ローゼは一歩、近づいた。夜風が二人の髪を揺らし、指先がほんの一瞬触れ合う。それだけで、互いの呼吸が止まった。
「…嫌でしたか?」
小首をかしげる声が、夜に溶けて消える。スイはそっと目を伏せ、そしてゆっくりと答えた。
「いいや。嫌じゃない。」
言葉よりも先に、視線が交わる。息をすることさえ惜しいほどの静けさが、二人のあいだに落ちた。やがてスイがかすかに笑い、ローゼも同じように微笑んだ。
それだけのことだったのに、夜の空気は少しだけやわらかくなった。遠くで木々が揺れ、風が二人の髪を撫でて通り過ぎる。まるで、その沈黙をそっと包み込むように。




