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復讐劇・中幕

「…ん?雨だ。」


ぽつり、と頬に落ちた冷たい雫に、ウォルフが空を仰いだ。つい先ほどまで青空が広がっていたはずの空が、いつの間にか鉛色に染まっている。


「本当ね。急いで帰りましょ。」


バニラは焦ったように声を上げ、ウォルフの腕を引いた。その直後、空が裂けたような轟音とともに、滝のような雨が降り出す。咄嗟に二人は近くの屋根の下に逃げ込んだ。


「天気を予想する魔法って、本当に当てにならないわね。今日は快晴のはずだったのに。」


「まぁ、あれは確率を示すだけの魔法だからな。外れる時もあるさ。」


ウォルフは苦笑しながら折り畳み傘を広げ、二人は肩を寄せ合って寮へと駆け戻った。道はあっという間に水に沈み、靴の底から冷たさが染み込んでくる。


寮に戻ると、廊下にはびしょ濡れの生徒たちが次々と避難してきていた。中でも、髪から雫を滴らせるシズクの姿を見つけてウォルフは目を丸くする。


「珍しいな、シズクまでびしょ濡れじゃないか。」


「ああ。まったく、急に降り出すんだから。」


「まさか、お前も天気を予想する魔法に頼ったんじゃないだろうな?」


冗談めかした言葉に、シズクが気まずそうに目を逸らす。


「…嘘だろ。」


「仕方ないだろ。僕は魔法を信じてるんだから。」


「ははっ、お前にも子供っぽいところがあるんだな。」


ウォルフは思わず笑い声を漏らした。しかし、シズクは不思議そうに首を傾げて、自分の掌を見つめた。


自信の天気を予想する魔法は、今まで一度も外したことがなかった。翌日の予想を外すことはあっても、当日の予想を外すことなんてなかったのだ。それなのに、今日に限ってまるで裏切ったかのように狂った。


まるで、何かの前触れのように。


――その頃。


「止むまで待たせてもらってもいいかな。」


「もちろんよ。」


スイの家の玄関先で、マロンとララが雨宿りをしていた。窓の外はすでに白い雨幕に覆われ、屋根を叩く音が次第に激しくなっていく。一度リビングに戻り、椅子に座って雨が止むのを静かに待った。


「スイさんの方は…大丈夫かな。」


唐突にローゼが不安げに呟いた。


握りしめた手がかすかに震えているのを見て、マロンはそっとその手を包む。その手も、ほんの少し震えていた。


「きっと大丈夫よ。」


「…ありがとう、マロンさん。」


ローゼは小さく頷き、胸の奥で祈るように繰り返す。


――きっと大丈夫。そう信じるように。


けれどその夜、雨は止むことを知らなかった。雷鳴は一晩中鳴り響き、東大陸全土を覆う未曾有の豪雨となった。


それでも翌朝、新聞の一面を飾ったのは大雨の被害ではなかった。そこに大きく踊っていた見出しは、こうだ。


「セリパ首脳陣、全員失踪。セリパ軍将軍、遺体で発見」


誰もが、あの唐突な夜の雨を思い出した。まるで、何かが世界の均衡を壊した夜だったかのように。


時間は、その前日の夜へと遡る――


セリパ庁舎の会議室は油断と焦燥で満ちていた。窓外では雷鳴が断続的に唸り、雨粒がガラスを叩きつける。魔法協会ハース支部に尻尾を掴まれたと悟った領主は、当時から仕えている側近たちを集め、臨時の協議を開いていた。


「やはり何としてでもアイラは排除するべきだったんだ」


領主の声は怒号に近く、それに応じて額の血管が脈打つ。だが、その言葉に側近たちがひるむ様子はない。むしろ冷めた合理性が、その部屋の空気を支配していた。


「仕方がないでしょう。相手はアイラです。我が軍で彼女を安全に排除できるのは将軍か相応の実力者のみ。そんな者を動かせば、我々の正体を曝すことになります」


「ではどうすればいい?ハースもリリスタも動き出している。逮捕は時間の問題だぞ!」


声を荒げる領主を、隣の将軍が軽く笑った。


「何がおかしい」


「逮捕される…?能天気だな。警戒すべきはハースでもリリスタでもない。スイだ。」


その一言に、会議室の空気が凍る。復讐に燃え、止まることを知らぬスイ。彼女ほど恐ろしい存在は、この世にあるまいと皆が思っていた。


「スイか。…ラグネリア将軍、君なら彼女を止められるか?」


領主は食い下がった。その声には、露骨なまでの弱さが滲んでいた。責任を取らぬ者ほど、声だけは大きい。


ラグネリアは静かに目を閉じ、短く息を吐く。


「無理だ。一分でも足止めできれば上出来だろう。」


冷徹な判断を口にしたその瞬間、庁舎の外から雷鳴が轟いた。空気が一瞬にして張り詰め、圧倒的な“何か”が近づいてくるのを感じる。ラグネリアの頬を、汗が一筋伝った。


「…噂をすれば、だな。スイが、もう近くまで来ている。」


その言葉に領主の顔色が変わる。椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、怒鳴った。


「スイが来ているだと!?お前の軍は何をしていた!こんな所まで侵入を許すとは…ラグネリア、貴様が時間を稼げ!我々が逃げるまでの間、何としても足止めしろ!」


「…全く、人使いが荒いお人だ。」


皮肉を漏らしながらも、ラグネリアは立ち上がる。


「かしこまりました、領主様。セリパ軍将軍、ラグネリア。命令に従い、スイを足止めしてまいります」


そう言って一礼すると、ラグネリアは背もたれに掛けていたマントを翻し、重い扉に手をかけた。背中には迷いの色は見えない。しかし、その足取りはいつになく静かで、どこか諦観を帯びていた。


庁舎前は雨に洗われ、石畳が鈍く光っている。ラグネリアは深く息を吸い、立ち尽くした。やがて、身を震わせるほどの存在感が夜を裂くように近づいてくる。


スイだ。その体には制御装置のようなものは一切まとっていない。


「…なんで、貴女のような人が、そっち側にいんですか。」


雨の幕に紛れて、スイは訊ねる。声は冷たく、それでいて悲しみに満ちていた。雷光が二人の影を交差させる。


ラグネリアは肩をすくめ、答える。


「仕方ねぇだろ。俺はセリパ軍の将軍だ。俺が領主に逆らえば、下の者たちに示しがつかねえ。歪な内政でも秩序がなければ、無辜の民が路頭に迷う。それが俺の言い訳だ。」


「そんなことのためにシアを…アイラを犠牲にしたんですか。」


スイの声が震え、瞳が濡れる。


「アイラはあなたを慕っていた。姉のようだって、いつも話してたんですよ…!」


ラグネリアは目を閉じ、短く唇を噛む。忠誠でも義務でもない。そこにあるのは、謀反を選べなかった者の後悔だと、スイには見えた。だから言葉は続ける。


「今ならまだ間に合う。貴女だけは見逃すと約束します。だから、そこを――」


言いかけの言葉は魔法の閃光に掻き消される。ラグネリアの掌から放たれた火弾が、雨の帳を裂いた。轟音とともに赤い閃光が走り、スイの頬をかすめる。皮膚が焦げ、血が一筋、雨に混じって流れ落ちた。スイは驚きも怒りも見せず、ただ静かにその手を見つめる。


「それが答えで、いいんですね。」


「もう後戻りはできねぇ。」


「そうですか。」


悲しみに満ちた声。次の瞬間、スイの存在がふっと消えたかのように見えた。ラグネリアが気づいた時、彼女はすでにすぐ側にいた。


「おやすみなさい、ラグネリア将軍。」


水の刃が弾け、世界が一瞬で横倒しになった。視界はぐらりと斜めに傾き、胴と脚が無情に分かたれる。


ラグネリアはどしゃりと倒れ、雨と混じった血が背を流れ落ちる。冷たい雨と温かい血が肌を打ち、何が己を濡らしているのか判別がつかない。体温は急速に奪われていくが、その顔には不思議な安堵が浮かんでいた。


「…ありがとう。」


それが彼女の最後の言葉だった。生き場所を失い、役割だけを抱えていた人間が、やっと自分を終える場を得たという、静かな解放のようにも見えた。


スイの胸は重くなる。


ラグネリアは確かに事件の関係者だ。しかし、彼女が進んで悪に与した、とはスイにはどうしても思えなかった。ラグネリアは悪人ではなく、むしろ悪に加担させられた者だったのだ。


だが、スイは容赦なくラグネリアの殺害した。もう止まることはできない。彼女にこんな最期を選ばせた、残りの関係者たち。それを皆殺しにするまでは。


「おい、ラグネリア将軍を置いてどこに逃げるつもりだ!」


逃げ惑う領主をスイはあっさり追い詰める。領主は鳩のように慌てふためき、下卑た罵声を上げた。


「クソッ!一分も足止めできやしないとは。使えねえ奴め!」


その下劣な言葉が、スイの中で何かを切らせた。胸に湧き上がるのは、深い嫌悪と破滅的な冷静さだ。


「お前のような奴のために、あの人は死んだのか。」


スイの声は低く、刃のようだった。直後、領主の影は霧となって消えた。肉も骨も残らず、血だけが雨に混じって広がり、やがて跡形もなく溶けていく。胸に残ったのは、ただ虚しさだけだった。


それから数分のあいだに、逃げ惑う側近たちも同じ運命を辿った。スイは一歩も動かず、ただその場で関係者を次々と葬っていく。


彼女の使った魔法は、ただの”水を操る魔法”に過ぎなかった。だが、その対象は自身の魔法で生み出した水ではなく、今、空から降り注ぐ雨そのものだった。


スイは一粒一粒の雨滴を精密に制御し、矢のように撃ち出す。無数の水が肉体を貫き、瞬く間に霧へと変える。血だまりは雨に流され、すべてが融けて消えた。


この技は、スイの最強の魔法のひとつにして、彼女が最も忌み嫌う魔法でもある。なぜなら、標的が跡形もなく消えてしまうからだ。


どんな人間にも、還るべき場所がある。死んだあとでさえ、遺された者のもとへ返すのが道理。それがスイの信じる秩序であり、魔法使いとしての理だった。けれど、あの者たちにその権利はいらない。スイの中で、彼らはすでに“人間”の枠から外れていた。


彼女にとって、この殺しは既に害虫駆除に等しい。だからこそ、ラグネリアを殺した事実だけが、鈍く胸の奥に沈んでいた。


雨に濡れた髪をかき上げ、小さく息を吐く。空はまだ灰色を帯びている。


「…ああ、もう、どうでもいいや。」


アイラに語った“覚悟”は、もうどこにもなかった。復讐を果たした今、残ったのは、燃え尽きた灰のような虚無だけ。


「こっちだ!おい、スイ、何やってんだ。風邪引くぞ!」


どれほどの時間が経ったのだろう。気づけば雨は止み、夜は明けていた。


駆け寄ってきたアイラが、タオルでスイの髪を拭う。その仕草は、どこか必死だった。


「…それで、どうなったんだ?」


「…全部、終わったよ。」


その言葉に嘘はなかった。だが、スイの周囲には死体がひとつも残っていなかった。


「…まさか、跡形もなく消したのか?」


「うん。そうなって当然の奴らだったから。」


アイラは息をのむ。スイの瞳には理性の光がない。ただ、静かな虚無だけがあった。


確かに、禁止魔法を用いたセリパの首脳陣は、極刑に値する。その意味では、スイの行為は“正義の執行”と説明できた。死刑執行人として彼女を立てれば、世論を納得させることもできる。


――だが、死体が消えた。尊厳も、証拠も、何もかも。


その瞬間、スイはただの処刑人ではなく、“怪物”として記録されることになる。


全ての死体を消してしまえば、真相を隠すこともできただろう。だが皮肉なことに、スイが最後まで残してしまった、たった一つの遺体。ラグネリアの遺体こそが、彼女が犯人である何よりの証拠となってしまった。


しかし、スイは後悔していなかった。たとえ自分が批判の的になろうとも、ラグネリアだけは還さなければならないと思ったからだ。


翌日、街に配られた朝刊の一面には、こう記されていた。


「セリパ首脳陣、全員失踪。セリパ軍将軍、遺体で発見」


見出しの下には、スイの名が大きく記されていた。まるで、罪を暴くかのように。

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