復讐心
アイラは、生きたまま“死ねない部屋”に入れられた。
全ての軍の留置場には、被疑者の自殺を防ぐための魔法が施されている。静まり返った石の部屋。壁の灯が淡く光り、鉄格子の影が床に長く伸びている。
「…なんで、私を殺さなかったんだ、スイ!」
響いた声は、痛みに濡れていた。あれから数時間後、スイは面会の許可を得て、アイラのもとを訪れていた。
「お前のせいじゃないからだ。」
スイは低く、静かな声で答える。
「今も、お前を操った犯人を追っている。いずれ、お前の無実は証明される。」
「そんなもの…望んでない!」
アイラの叫びが石壁にぶつかり、虚しく反響した。
「シアを…結婚を誓った恋人を、この手で殺したんだぞ!?そんな私が、生きて何になる!」
嗚咽が続き、声にならない息が震える。
「私は…最初から、シアの恋人に相応しくなかったんだ。」
「そんなこと――」
スイは否定しようとして、言葉を失った。胸の奥が締めつけられる。
自分もまた、シアを愛していた。その痛いほどの真実が、喉を塞いだ。
「こんなことになるくらいなら…スイがシアと付き合えばよかったのに。」
静かに落とされたその一言が、心臓を殴られたように響く。スイは反射的に拳を握りしめ、鉄格子を叩きつけた。
「そんなことを言うな!」
金属の軋む音が、冷たい空気を裂いた。沈黙が落ちる。
アイラは俯いたまま、小さく笑った。それは、壊れた笑みだった。
「お前なら…シアを死なせなかった。私が弱かったから、迂闊だったから、シアは死んだんだ。」
スイは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
「確かに、そうかもしれない。」
その言葉に、アイラの体がわずかに震えた。
「でもな。」
スイは目を開けた。瞳は涙を堪えるように強く光っている。
「シアは、自分の意志で死を選んだ。二人で生き残る道だってあったのに、あいつはそれを選ばなかった。」
アイラは唇を噛みしめ、俯いた。そんなこと、わかっている。わかっていても、心が許せなかった。
「洗脳を解除する魔法。対象者を廃人にする代わりに、どんな精神支配でも打ち破れる魔法だ。シアもそれを使えたはずだ。それでも使わなかったのは、お前のためだ。お前を心から愛していたからだ。お前が廃人になるくらいなら、自分が死ぬほうがいいとそう思ったんだ。」
「でも、私はそんなこと望んでない。私がどうなろうがいい。シアに、生きていてほしかった。」
アイラは膝の上で拳を握りしめ、堪えきれずに涙を零した。スイは少しの間、黙って彼女を見つめ、それから柔らかく言った。
「わかるよ。その気持ちは。でも、生かされた側は、生きるしかないんだ。助けてくれた人の分まで、生きていくしかない。」
その言葉は、まるで呪いのようだった。シアの犠牲の上に残された命。それを無駄にしないために、アイラは生き続けなければならない。スイはそう告げていた。
アイラは俯いたまま、動かなかった。きっと今は、何を言われても届かない。考える時間が、いや、痛みと向き合う時間が、必要なのだろう。
「…また来る。」
それだけ言い残して、スイは留置場を後にした。
重い扉が軋みを上げて閉じる。外の廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
その壁にもたれていたトリスと目が合う。彼女は、ほんの少し苦い笑みを浮かべていた。
「残酷なことを言うね。」
「仕方ないだろ。今のアイラには、それくらいしか……生きる理由がない。」
スイの声は低く、疲れていた。その視線が床へと落ちる。胸の奥で渦巻くもの。後悔か、怒りか、悲しみか、自分でも分からなかった。
「お前は、アイラに会わないのか?」
問いかけると、トリスは少しだけ首を振った。
「今はやめておく。今の彼女に必要なのは、一人の時間だと思う。」
そう言って、少し間を置いてから付け加える。
「それに――」
トリスはちらりとスイを見やる。
「今の貴女を、一人にしておけないから。」
「…え?」
不意を突かれたようにスイは顔を上げる。
取り乱していたから、アイラは気づかなかった。スイの顔に浮かんでいた、凍りついたような表情に。感情を押し殺し、立ち尽くすその姿に。
シアを失ったのは、アイラだけではない。
静かな廊下に、二人の足音だけが響いた。
「それで、アイラを洗脳した犯人は見つかったの?」
トリスの問いに、スイは短く息を吐いた。その表情に、ほんのわずかな疲労が滲む。
「いや。まだだ。今のところ、百人近い容疑者を拘束したが…本命は、まだ引っかかっていない。」
「うへぇ…百人?えげつないことするね。そんな乱捕りして大丈夫なの?」
帝国軍が百人もの人間を無実のまま拘束している。それがどれほど危ういことか、トリスにもわかっていた。だがスイは、まるで気にも留めないように淡々と答えた。
「問題ない。もしこの件で軍に不利益が出るようなら、私が責任を取って辞める。」
「はぁっ!?」
思わず、トリスの声が裏返った。
「貴女、それがどれだけの意味を持つか分かってるの?もう、貴女は“ただの人”じゃないんだよ!?」
たった半年でスイは少将に上り詰めた。
その地位は、実力だけで手にしたものではない。彼女は確かな戦果を挙げてきた。
それは、まだ学校を卒業したばかりの頃。敵国との小競り合いの最中、スイはたった一人で戦線を覆した。いや、“一人で”というより“一撃で”だった。
とある島での戦闘。彼女が放った魔法により、その島ごと敵軍が消滅した。その事実は世界に衝撃を与え、スイの名は恐怖とともに刻まれた。
彼女は、もはや個人ではなく、帝国の抑止力そのものだった。そんな彼女が「軍を辞める」と言う。
それは、ただの退官ではない。国家の均衡が揺らぐという意味だ。
「わかってる。」
短い返答だった。だが、その声音に一片の迷いもなかった。
トリスは言葉を失った。スイの瞳は、静かに、けれど何かを燃やすように光っていた。
「貴女、本気なんだね。」
「アイラの名誉を守るためなら、何だってやる。それがシアのためにもなるから。」
その言葉は、決意というより、すでに覚悟の報告だった。
その時、廊下の向こうから駆け足の音が響いた。
「スイ少将!犯人が発見されました!」
スイは即座に顔を上げる。
「どこにいる!」
報告に来た兵士が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「す、すでにこちらに。ですが…。」
歯切れの悪い言い方に、スイの眉がわずかに動く。嫌な予感が胸を過ぎった。
「案内しろ。」
軍人の背に続き、スイとトリスは無言のまま廊下を進んだ。空気が、冷たい。地下の奥、重い扉の前で足が止まる。
中を覗いた瞬間、スイの表情が固まった。
そこにあったのは、ひとつの遺体だった。頭部は完全に吹き飛び、原形を留めていない。血の跡は乾きかけており、死後それなりの時間が経過しているようだった。
「…どうして、これが犯人だと?」
冷静を装いながらも、声の奥に硬いものが混じる。
「アイラ少尉の体内に残っていた魔素の残滓と、この遺体の魔素が一致しました。」
報告を受けたスイは、目を細めた。
一度、体内に取り込まれた魔素は、その者の特性に合わせて変化する。それゆえ、魔法の痕跡から“誰の魔法か”を特定することができる。
「そうか…。しかし、用意周到だな。」
スイは遺体に視線を落とす。
「逃げるつもりなど、最初からなかったわけか。これで、首謀者を探すのがより難しくなったわけか...。」
「申し訳ありません。我々がより早く見つけられていれば。」
「いや、十分早いさ。それに悪いのはこいつらだろう。」
低く落とされた声が、凍りつくほど静かだった。トリスは息を呑む。スイの横顔には怒りも悲しみも滲んでいない。ただ、氷のように冷たく引き締まった決意だけが残っていた。
「必ず、見つけ出してやる。」
その短い言葉が静かに重く響き、部屋の空気が引き締まる。
しばらくして、スイは再び面会室の扉を開け、アイラの前に立った。トリスは扉の外でじっと待ち、スイだけが中へ入っていく。
「どう?決めた?」
アイラの瞳はまだ腫れている。それでも、表情には先ほどより柔らかさが戻っていた。
「うん。スイのおかげで目が覚めた。シアのためにも、私は必死に生きる。そして、今回の件に関わった奴らを絶対に許さない。スイ、協力してくれる?」
アイラの力の籠った瞳を見て、スイは静かに頷いた。
「ああ。全員、根絶やしにしてやろう。」
スイは、安心させるつもりでふっと微笑んだ。
だが、アイラの瞳にはその笑みがまるで違うものに映っていた。
――かつてのシアを思わせる、壊れかけた笑顔。
復讐だけに突き動かされる、冷たい誓いの笑みだった。
そして今もなお、彼女はその復讐心だけに支えられている。
「…ああ、最悪な寝覚めだな。」
びっしょりと汗に濡れたシーツを見下ろしながら、スイは静かに呟いた。洗面台に映る自分の顔は、思った以上に暗い。ため息を一つ吐き、両手で頬を軽く叩く。
――もう一人じゃない。そう言い聞かせるように。
その後、いつもより少し濃いコーヒーを啜りながら、久しぶりの静かな朝に退屈さを覚えていた頃、ぎぃ、と床が軋む音が廊下の向こうから聞こえた。
「スイさん!おはようございます!」
「おはよう。」
まだ朝も早いというのに、ローゼは元気いっぱいだ。
「寝られなかったのか?」
「いえ、むしろぐっすりです。ただ、早く寝すぎちゃったので、早く起きちゃいました。」
「そうか。」
健康的な笑顔に、スイは思わず口元を緩めた。その笑みの違和感に、ローゼはそっと歩み寄ると、彼女の顔に触れる。
「スイさんの方こそ、眠れてないんじゃないですか?顔色がすっごく悪いですよ。」
「…え?」
突然の行動に、スイは頭が真っ白になる。狐につままれたようなスイの表情に、ローゼは慌てて手を引き、頬を赤く染めた。
「す、すみません!つい気になってしまって…!」
せっかく取り繕った顔色を、彼女には一瞬で見抜かれた。しかも、心の底から心配されてしまった。
――君にだけは、心配されたくなかったのに。
その悔しさからか、気づけばスイは、彼女を強く抱き締めていた。
「え!?きゅ、急にどうしたんですか!」
「ごめん。少しだけ、このままでいさせて。」
「え、えっと…少しだけですよ?」
恥ずかしそうにしながらも、ローゼは抵抗せずに受け入れた。その温もりは不思議なほど、スイの乱れた心を静めてくれる。壊れかけたものを、そっと繋ぎ止めてくれるように。
――ああ、もう本当に。君と離れたくなくなるじゃないか。
「ス、スイさん…?」
気づけば、スイは彼女の腕の中で眠っていた。安心しきった表情で、穏やかな寝息を立てながら。
「寝てるんですか...?少しだけって言ったのに。もう、しょうがない人ですね。」
ローゼは小さく微笑んで、スイの髪をそっと撫でた。




