幸せが壊れる瞬間
三年の夏。スイたちはついに卒業式を迎えた。
卒業後の道は、それぞれに違っていた。だが、想いの根は一つだった。
スイは帝国軍第二軍に配属し、トリスは宣言どおり、ランダ魔法学校の教師として新たな人生を歩み出す。
一方で、シアはハース軍の医療部に、そしてアイラはその恋人としてハースに迎え入れられ、研究開発部に所属することになった。
――それから半年後。
スイの軍での生活はすっかり安定していた。任務にも慣れ、信頼できる上官――ヴァイオレット少将との関係も良好だった。
実に順風満帆。そう思えた。
けれど、心のどこかに空白があった。
風の噂で聞いた話によれば、アイラはシアの育ての親、叔父を蹴り飛ばし、強引に罪を認めさせたという。
「実にアイラらしい」とスイは思った。だが、その時、胸の奥にひときわ強い痛みが走った。
――羨ましいな。
真っすぐな心でシアを支えるアイラに羨望の念を抱いた。
彼女は薄々気付いていた。二人が恋人になったと知ったときの痛み。抱き合う姿を見たときの、言いようのない寂しさ。
その全部が、恋だったということを。
けれど、スイは押し殺した。笑顔で、心から祝った。「おめでとう」と、何度も言った。本当にそう思っているふりをして。
そして今。彼女の手にあるのは、二人の結婚式の招待状。封を開ける指先が、ほんのわずかに震えていた。
「結婚式の招待状じゃないか。いつだ?休みを取れるようアミルカ将軍に口添えするよ。」
静かに声をかけてきたのは、ヴァイオレット少将だった。長い紫紺の髪を束ね、柔らかく笑う彼女は、スイにとって尊敬する上官であり、時に姉のような存在だった。
「あ…ヴィオラ少将。」
スイが顔を上げると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「珍しいね。そんな浮かない顔、初めて見た。」
スイは視線を落とし、小さく答えた。
「親友の結婚式の招待状が届いたんです。でも、どうしても素直に喜べなくて…。」
少将はふっと笑みを浮かべた。
「もしかして、その子のこと、好きだったんだろ?」
「…っ!」
思わず目を見開くスイ。図星を突かれ、言葉が出なかった。
「やっぱりね。」
ヴァイオレットは軽く笑いながら、自分の胸に手を当てた。
「わかるよ。その気持ち。私も姉妹のように育った親友のことが好きなんだ。」
「え…!」
「しーっ。あいつには内緒だ。」
悪戯っぽく人差し指を立てて、ウインクする。あまりに自然なその仕草に、スイは思わず笑ってしまった。
完璧超人だと思っていた少将にも、そんな過去があるなんて――
「でもね、スイ。」
ヴァイオレットは優しく続けた。
「もし好きな人が別の人と結婚するってなったら、きっと辛いと思う。でも行かなければならないのよ。」
「どうしてですか?」
「親友の幸せを、きちんと祝ってあげなければならないからだ。心の底から祝えなくてもいい。そこに立って、見届けるだけでいいんだ。それを逃したら、きっと一生後悔するから。」
スイは静かに息を飲んだ。少将の穏やかな声が、胸の奥に沁みていく。
「わかりました。行きます。」
ようやくそう答えたとき、スイの瞳にはほんの少し、涙の光が宿っていた。
「よし。立派だね。」
ヴァイオレットは軽くスイの肩を叩いた。
――そうだ。たとえ、どんなに胸が痛くても。それでも、私は彼女たちの幸せを祝いたい。それがきっと、愛するということだから。
スイはその日の夕方、帝都を発った。偶然にも翌日は休日だったから、結婚式を待たずに、直接ふたりに会って祝おうと決めたのだ。
事前にシアには通信機で連絡をしてあった。「待ってるね」と弾むような二人の声が耳に残っている。その明るさが、彼女たちの幸せを物語っていた。スイの表情は不思議と柔らかくなっていた。親友と友人の幸せに胸が温まっていたからだ。
それからしばらくして、ハースの首都ウェーバーに着く。
そこは夜でも不思議と温かい街だった。石畳の道から立ちのぼる光、ゆっくりと回る風車、街灯の下で笑う人々。体も心も自然にほどけ、スイは小さな幸福を感じながらシアの家へと向かった。
魔法で道を示し、迷いない足取りでたどり着いた先は、普通の一軒家。彼女の実家の広大な屋敷とは比べようもないほど小さな家。それでも、スイはすぐにわかった。
シアにとって、叔父と二人で広い屋敷に住むよりも、愛する人と普通の家に暮らすことの方が幸せだということを。
「シア、アイラ。着いたよ!」
スイは迷わずベルを鳴らした。しかし、返事はなかった。
「あれ?」
小さな違和感。
スイは眉をひそめ、家の周りを回り込む。窓辺に近づき、何気なく覗き込んだ。その瞬間。
胸を突き刺すような光景が、視界いっぱいに広がった。
血の海に崩れ落ちたシア。その傍らで、血に染まったナイフを自分の首元に突き立てようとするアイラ。
「――ッ!」
考えるより早く、水弾が弾け、アイラの手からナイフを叩き落とす。割れた窓ガラスの破片が宙に舞う中、スイは飛び込んだ。
「やめろ…っ!」
彼女はそのまま、アイラの体を押さえ込んだ。だがアイラは叫ぶ。
「放せスイ!私は死ぬんだ、死ななきゃならないんだ!」
その声は、スイの耳に届かなかった。目に映るのは、もう助からないシアの姿だけ。
「な…何が…。」
瞳が濁るスイの顔を見て、アイラは息を詰まらせる。そして、ゆっくり抵抗をやめた。震える唇が動く。
「お前を待ってたんだ。二人で…。」
アイラの声が途切れ、部屋の空気が重く沈む。スイはただ、その言葉を受け止めることしかできなかった。
――時間は、三十分前に遡る。
「久々にスイに会えるのか~。楽しみだね。」
「ええ。いつもスイは私たちを一番に祝福してくれたわ。彼女との繋がり、私たちは一生大切にしていかないとね。」
「そうだね。」
二人は笑いながら、スイに振る舞う食事の準備をしていた。そのときだった。
家のベルが鳴った。
「はーい!早いな。私が出るよ。」
「わかったわ。」
アイラはスイがもう到着したと思って、駆け足でドアを開けた。扉の向こうに立つ人物を、確認もせずに。
「えっと…どちら様?」
そこにいたのは、見覚えのない男。深く帽子を被り、サングラスをかけて顔はよく見えなかった。その男が、突然こう言った。
「――任務を遂行せよ。」
その言葉を聞いた瞬間、アイラの体から力が抜けた。自由が奪われ、意識の奥に冷たい闇が入り込んでくる。
「あれ?スイじゃなかったの?」
シアが戻ってきたアイラに声をかける。だが、返事はなかった。
「どうしたの?」
首を傾げるシアを、アイラは突然抱きしめた。
「え!?ちょっと、これからスイが来るのよ。そういうのは後で――」
頬を赤らめるシアに気付かれないように、アイラは包丁を手に取る。そして、その心臓に突き立てた。
シアは抵抗しなかった。治癒魔法も使わなかった。ただ、アイラの濁った瞳を見つめ、死の間際にかすかに呟いた。
「これは…貴女のせいじゃないわ。だから、自分を責めないでね…アイラ。愛してる。」
そう言って、息を引き取った。ようやく体の自由を取り戻したアイラは、迷わず手にした包丁を自分に向けた。
――そして現在に戻る。
スイの腕の中で、アイラの体は小刻みに震えていた。床に散らばるガラス片が、赤黒く染まった血と涙を反射して、揺らめいている。
「わかったら放してくれ…。私は、生きる価値のない人間だろう?」
震える声で訴えるアイラの顔には、絶望の色しか残っていなかった。その目に映るのは、己の罪と、それを許さぬ自己嫌悪。
スイは小さく息を吸い、そして吐いた。その手がわずかに震える。
「…ごめん、アイラ。」
囁くように呟くと、スイは彼女の額に指を当て、強制的に気絶させる魔法を発動させた。アイラの瞼が静かに閉じ、力の抜けた身体がスイの腕の中で沈む。
――誰かが、アイラに精神を操る魔法を使った。そして、シアを…。
脳裏で何度も同じ言葉が繰り返される。スイの喉が焼けるように痛んだ。
「全部、私のせいだ…。」
守ると誓った。どんな時も、仲間を友を守ると。
血に染まるシア。そして気絶するアイラ。その光景が、スイの心に深く突き刺さる。頬を伝う涙が、シアの頬に落ちて混ざった。
どれほど時間が経っただろう。やがて、外から大勢の足音が押し寄せた。ハース軍だ。魔法の反応を察知して駆けつけたのだ。
玄関の扉が激しく破られ、数人の軍人が雪崩れ込んできた。部屋の惨状を目にした彼らは、一瞬で動きを止める。
「な…なんだ、これは…!」
血の匂いが重く漂う。床に倒れ伏す二人の女性。そして、その傍らで静かに立ち尽くす一人の女性。異様な空気を纏い、ただ静かに現場を見下ろしていた。
「誰だ!動くな!」
一斉に魔法陣が展開される。しかし、その中の一人が息を呑んだ。
「…スイ?」
「知っているのか?」
上官らしき男が鋭く問いかける。
「はい。俺たちの同級生です。シアとアイラの友人でした!」
「そうか。」
上官は眉をひそめ、警戒を解かぬままスイに歩み寄る。
「スイ。ここで何があったか説明しなさい。」
スイはそっとアイラの頭を床に寝かせ、深く息を吸った。
「何者かがアイラに精神干渉の魔法を施しました。彼女はその影響下で…シアを殺害したんです。」
短い沈黙。やがて、上官の低く鋭い声が響く。
「そんな話、どう信じろというんだ?」
「アイラの体を調べてください。精神操作の痕跡が残っているはずです。」
スイは一歩前へ出た。その瞳には怯えも怒りもなく、真実を貫く光が宿っていた。静かな声に、場の空気が一瞬張り詰める。
「…医療部隊、前へ。」
上官が命じると、数人の魔法使いが進み出た。淡い光がアイラの額を包み、部屋の空気が微かに震える。
「報告します。確かに精神干渉の痕跡を確認しました。」
ざわめきが起こる。スイは静かに拳を握った。
それは安堵ではない。ただ再び、守るために動けるという決意の証だった。
「わかったなら、すぐに動いてください。」
スイの声が低く響く。
「帝国軍へ連絡を。帝都中の駅を封鎖し、犯人を捕らえます。帽子にサングラスをした男です。」
「そんな格好の男なら、いくらでもいるだろう。」
上官が反論するが、スイの視線が彼を射抜いた。
「それがどうしたんですか。疑わしい者は全員捕らえればいい。」
その一言に、上官の喉が鳴った。スイの放つ圧に、思わず一歩退く。
「わかった。連絡部隊、帝国軍に至急報告しろ。」
「“スイ”という名前を伝えてください。遅い時間でも、すぐに動いてくれるはずです。」
「了解しました!」
連絡部隊は通信機を取り出し、早速帝都との通信を始めた。それを確認した上で上官はスイを目線に据える。
「お前…何者なんだ。ただの軍人には見えん。」
スイは軽く息を吐き、血の匂いの中で静かに名乗った。
「帝国軍第二軍所属、スイ少将です。」
「っ…!少将だったとは、失礼しました!」
上官が慌てて敬礼する。
「構いません。今は軍人としてではなく、二人の友人としてここに来ています。」
「…了解しました。」
短く返す上官の声に、部屋の緊張がわずかに緩む。
スイはゆっくりと視線を落とした。
床に伏せるシアの顔。血の気を失ったその口元には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
――幸せそうな顔して…。
スイはそっと目を閉じた。そして次に開いた瞳は、もう揺れていなかった。
視線の先には、気を失い、血に濡れたまま横たわるアイラ。その胸は、まだ微かに上下している。
「絶対に、死なせないから。」
それが、どれほど残酷な選択であっても。




