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束の間の幸せ

実戦課程の二年生となったスイたちは、それぞれ軍に派遣され、現場での実地演習に臨むことになった。

仲間を守りたいスイとしては、本当なら誰とも離れたくなかった。


だが現実は非情で、スイは帝都の帝国軍第一軍へ、トリスは第二軍へ。シアは故郷ハースの軍に、アイラはセリパ軍に配属された。スイとトリスを除けば、皆がそれぞれの故郷の軍に派遣される形となった。


幸い、この数か月の間に大きな事件は起こらなかった。だが、再び学園に戻ったとき、シアの瞳はどこか虚ろだった。


「シア…大丈夫か?」


声をかけたスイの前で、シアは貼りついたような笑顔を見せた。


「私は大丈夫よ。心配しないで。」


その笑顔に一片の陰りもない。だからこそ、怖かった。本心からそう言っているように聞こえるほど、彼女は壊れかけていた。


彼女の過去を知るスイとアイラには、その危うさが痛いほど伝わっていた。


「心配するに決まってるでしょ!」


アイラが真っすぐな瞳でシアの手を取る。その手は小さく震えていたが、言葉は強かった。


「どうして…?」


「友達だから!」


それはかつて、シアがアイラに告げた言葉。


今度はそのまま、彼女の胸に返ってきた。胸の奥が熱くなり、込み上げてくるものを抑えきれず、シアはそっとアイラを抱きしめた。


「ふぇっ!?ちょ、ちょっとシア!?どうしたの急に!」


「…今は、このままでいさせて。」


珍しく強情なシアに、アイラは顔を赤らめながらもその肩に身を預けた。その二人を見つめて、スイは静かに微笑む。


――よかった。シアが笑ってる。


そう思いながらも、胸の奥が少しだけ痛んだ。自分の居場所が、少しだけ遠くに感じた。スイはその痛みに気づかないまま、そっとその場を離れた。



「なんかあの二人…最近、距離近くない?」


数日後。校舎の渡り廊下で、シアとアイラが笑い合う姿を見かけたトリスが、隣を歩くスイに小声で呟いた。


「付き合ったんだってさ。」


「えっ!?そうなの!?なんで私には言ってくれないのよ…!」


トリスが肩を落とすと、スイは口の端を上げてからかうように言った。


「信用されてないんじゃないか?」


「なにそれ!私だって、友達の恋路を言いふらしたりしないよ!ていうか、そう言ってるスイが勝手に暴露してるじゃない!」


「あはは、冗談だよ。あの二人、昨日の夜に正式に付き合い始めてね。最初に私にだけ話してくれたの。今日、みんなにも伝えるつもりだったんだ。」


「なによそれ~。一足先に聞いてたなんてずるい。」


トリスはむくれながらもスイの肩を軽く小突く。そんな彼女を見て、スイは少し安心したように笑った。


「…でもあの二人が恋人同士か~。」


そう言った後、トリスは少しだけ遠くを見た。窓の外、柔らかい陽の光の向こうに、誰かの面影を探すように。


「…私も、恋人ほしいなぁ。」


ぽつりと零れた言葉に、スイは意外そうに目を瞬かせた。


「お前が?てっきり、まだサラ先生のこと引きずってるのかと思ってた。」


「うん、引きずってるよ。」


トリスはあっけらかんと答えた。だがその声の奥には、微かな震えがあった。


「でもね、サラ先生に言われちゃったんだ。“いい人を見つけなさい”って。」


スイの瞳が驚きに見開かれる。


「…サラ先生の言葉を、聞いたのか?」


「うん。あの島から戻ってすぐの頃に。夜も眠れなくてね…。目を閉じると、サラ先生の最後の姿ばかり浮かんで、苦しくて。息をしてるのも痛くてさ。気づいたら、あの指輪に魔素を流してた。」


明るく笑って話しているのに、その言葉は、胸に刺さるほどに痛かった。


「“トリス。私は先生として、元気で明るい貴女が大好きよ。だから、私がいなくなっても、貴女は貴女のままでいなさい。私なんか忘れて、幸せになりなさい。きっと、貴女なら私よりも素敵な人と出会えるわ”…だってさ。」


静かに微笑むトリス。その瞳の奥には、まだ消えない涙の痕があった。


「そんなこと言われたら、立ち止まってられないよね。だから、私、ちゃんと前を向こうって思ったの。サラ先生が安心できるように。それに、“幸せになれ”って言われちゃったからね。サラ先生と同じくらい素敵な人を見つけてみせるよ。まあ、いないかもしれないけどね。」


最後に笑ってみせたその表情は、どこまでも眩しくて、どこまでも切なかった。


スイは黙って頷いた。その笑顔の強さも、脆さも、全部わかっていたから。


「…そっか。」


その一言に、スイの想いが滲んでいた。だが、彼女が本当に立ち直ってなんかいなかったのだと、スイは数日後に思い知らされることになる。


それは偶然だった。


トリスが朝食に現れなかったのだ。いつもなら誰よりも早く食堂に顔を出す彼女が。胸の奥に嫌な予感が走り、スイは彼女の部屋へ向かった。


「トリス?いるか?」


ノックをしても返事はない。ためらいながらもドアノブをひねる。鍵はかかっていなかった。


軋む音とともに、扉がゆっくりと開く。


部屋の中は薄暗く、机のランプだけが小さく光を落としていた。その光の下で、トリスは椅子に座り、ノートに何かを書き続けていた。


「…トリス?」


呼びかけると、彼女はペンを止めて振り返る。その瞬間、スイの呼吸が止まった。


肌は蝋のように青白く、目の下には深く沈んだクマ。笑おうとする唇が、かすかに震えている。


「スイ…おはよう。」


「お前…いつから眠れてないんだ?」


「え?言ったじゃん。あの島から戻った頃、夜眠れなかったって。」


その声には、妙な明るさがあった。それが余計に、痛かった。


「…それって、もう治ったんじゃないのか?」


「治ってないよ?でも大丈夫。夜は寝れないけど、ちゃんと元気だし。ほら、明るいでしょ?」


無理に笑うその姿は、壊れかけのガラス細工のようだった。スイの喉が詰まり、言葉が出ない。


彼女は“立ち直った”んじゃない。サラが好きだった“明るいトリス”を、演じ続けているだけだ。その笑顔で、自分を守りながら、ゆっくりと削れていっている。


「…なんで、泣いてるの?」


トリスが小首をかしげる。その無垢な瞳に、スイの心が軋んだ。気づけば、頬を伝う涙が一粒、床に落ちていた。それでも、スイはその涙を拭い、震える唇を噛みしめて一歩踏み出す。


「――ふざけるな!」


「え…?」


掴んだ胸倉に、力がこもる。スイの瞳は、怒りと哀しみで揺れていた。


「サラ先生は…そんなお前が好きだったわけじゃないだろ!」


「…そんなの、私だってわかってるよ!」


トリスが叫び返す。そのまま勢いでスイを押し倒し、膝の上に覆いかぶさった。


「でも…仕方ないじゃん!眠れないんだよ…!目を閉じたら、サラ先生の最後の姿しか浮かばないの!私だって、ちゃんと元気でいたいよ…でも、できないんだよ!」


トリスの頬を涙が伝う。その叫びは、悲鳴のようだった。


スイは言葉を失い、ただ見つめるしかなかった。だが胸の奥から、衝動のように別の言葉がこぼれ落ちた。


「サラ先生は…お前が好きだったんだぞ。」


「…え?」


トリスの涙が一瞬止まる。スイは唇を震わせながら、バイエルから聞いた話を告げた。


「もしお前が卒業しても、その気持ちが変わらなかったら…受け入れるつもりだったんだって。バイエル大将が…そう言ってた。」


その事実は、まるで刃のように空気を裂いた。トリスの瞳が揺れ、震える手がスイの胸元を掴む。


「なんで…!そんなの今になって聞きたくなかった…。」


スイは苦しげに目を閉じる。それでも、言葉を止められなかった。


「サラ先生は最後の最後まで本当の気持ちを言わなかった。それが、お前を縛る呪いになるってわかってたからだ。」


声が掠れ、喉が痛む。スイは震える手でトリスをそっと押し返した。


「だからお願いだ…これ以上、先生を悲しませるなよ。」


トリスの瞳が、ぼやける。


「きっとサラ先生は天国でお前を見てる。元気で明るくなくてもいい。泣いても、弱くても、それでも…。」


スイはトリスの頬に手を添え、静かに微笑んだ。


「サラ先生は、お前を嫌いになんて、絶対にならないから。」


その言葉が落ちた瞬間、トリスは小さく嗚咽を漏らし、スイの胸に顔を埋めた。二人の間を満たしたのは、涙と、ようやく溶け出した痛みだけだった。


どれほどそうしていたのだろう。やがて、涙の粒が止まり、トリスは鼻をすすって顔を上げた。


「…スイに慰められるなんて。なんか屈辱。」


泣き腫らした目のまま毒づくトリス。ぎろりと睨むその表情は、まるでサラに恋してスイに嫉妬していた、あの頃の彼女そのものだった。


スイは少し呆れたように笑う。


「あはは。そっちの方がトリスらしくていいよ。無理に明るく振る舞うより、ちょっとくらい毒がある方が安心する。」


その優しい笑みを見て、トリスの胸がわずかにざわめいた。ああ、この人は本当に、まっすぐでずるい。


「――もし、サラ先生に出会ってなかったら…」


思わず、声が漏れた。


「貴女を、好きになってたかもね。」


小さく呟いた言葉は、スイの耳に届かず宙に消える。


「え?なんか言った?」


「な、なんでもないっ!」


顔を真っ赤にしてごまかすトリスに、スイはきょとんと首を傾げる。そんなやり取りが、どうしようもなく懐かしかった。


「…ありがとね、スイ。」


不意に、トリスが微笑む。その顔にはもう陰りはなかった。


「サラ先生が私を好きだった。それだけで、少し救われた気がする。」


ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。差し込む朝の光が、暗い部屋を一瞬で照らし出した。


「天国で待っててね、先生。私、立派な教師になってたくさんの子供を導くよ。そしてお婆さんになって死んだら、天国で先生と結婚する。」


トリスは指輪を外し、右手の人差し指から左の薬指へと移す。光を受けて小さく煌めいたそれを、スイに見せびらかすように掲げて笑う。


「見て。似合うでしょ?」


スイは苦笑を漏らした。


「いや…ちょっとキモいかも。」


「何でよ!」


ぷくっと頬を膨らませ、ぽかぽかとスイの胸を叩く。その姿に、スイは目を細めた。


――やっと、前を向けたんだな。


理由は少し不純かもしれない。けれど、それでもいい。生きようと思えるなら、それで十分だ。


スイはそっと微笑んだ。その笑みは、トリスの新しい一歩を静かに祝福していた。

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