人形みたい
その日、教室には重苦しい空気が漂っていた。
理由は明白だった。いつも朗らかな笑みを浮かべるメリンダ先生が、珍しく神妙な顔つきで教壇に立っていたからだ。
「わかっていると思うが、今から一月後に学外演習を行う。その前に、みんなには二つの誓約書にサインをしてもらわなければならない。」
机に配られた誓約書には二つの項目が記されていた。
一つは、学外演習で見聞きした一切を口外してはならないこと。
もう一つは、学外演習における死傷に対し、学校は一切の責任を負わないこと。
「これはすべての魔法使いが通る道ではない。君たちのように選ばれた者だけに与えられるものだ。だから、無理にサインをしなくても魔法使いにはなれる。親御さんとよく相談して決めなさい。」
そう言われてもなお、迷いなくペンを走らせた者がいた。
「先生、提出しても良いですか?」
シアだ。
「…保護者のサインは?」
「もらえるような人は、もういませんから。」
その時のシアの笑みは、どこか死人のように色を失っていた。
放課後。シアの表情が頭から離れなかったアイラは、思わずスイを引き留めた。
「お前…何か知ってるか?」
「知ってる。けど本人に聞きなよ。なるべく聞かないで欲しい話だけど…君なら、きっと答えてくれるはずだよ。」
アイラは胸の奥がざわついた。
今まで自分は、無邪気に笑う彼女を羨ましく思い、苛立ち、つい刺々しい態度をとってきた。だが、あの笑顔の裏に、もし暗い影があったのだとしたら――
焦燥に突き動かされるように、校内を駆け回った末、屋上で夕焼けを見上げるシアを見つけた。
「シア…!」
「ん?あ、アイラ。どうしたの?」
ふわりと微笑む。けれどその笑顔は、どこか寂しげで。胸が締めつけられる。
「今まで、ごめん!」
唐突に頭を下げたアイラに、シアは目を丸くした。
「え?な、なに急に?」
「能天気だとか、箱入り娘だとか、色々言った!本当はすごい努力してるのも知ってたのに!だから、ごめん!」
「...ふふ。気にしてないわよ。」
そう言って、また夕陽に視線を戻す。その横顔に引き寄せられるように隣へ座ったアイラに、シアはちらりと見てから小さく問いかけた。
「私の過去が気になるの?」
「え?」
「だって、急に謝ったり、優しく寄り添ってくれるなんて。貴女らしくないから」
――図星だった。
アイラは思考を巡らした末、こくりと頷いた。
「ふふ、やっぱり。じゃあ話す前に、私からも謝っていい?」
「何を?」
「実はね。貴女が一人で訓練してるところ、見ちゃったの。『もっと頑張らないと』って、自分を追い詰めてるのも聞こえちゃって。ごめんね。」
「っ…!」
顔を赤らめたアイラは、しばらく沈黙したのち、小さく息を吐いた。
「…それより、お前の話を聞かせろ。」
シアは静かに頷き、語り始めた。
「私はハースの名家の生まれ。あそこは信仰が深い土地柄だから、生まれたときから強い信仰心を持つように育てられた。」
――人を恨んではならない。人を妬んではならない。すべての人を平等に愛せ。常に慈しみの心を持て。そうすれば天国に迎えられる。
「その言葉を何千回も聞かされて育った。十歳で治癒魔法を発現したとき、両親は『神の奇跡だ』と泣いて喜んだ。」
彼女の魔法は骨折も臓器損傷も触れるだけで癒すほど強力だった。戦争で失った足や不治の病、寿命わずかの老人でさえ、彼女の前では誰もが元気になった。それは神の奇跡と呼ぶに相応しい力だった。だが、その奇跡の力は同時に人々の欲望を呼び寄せた。
ある夜、叔父が彼女の家を訪れ、ワインを両親に振る舞った。それには毒が盛られていた。
「知ってるぞ。毒は治せないだろう?これからは俺が“親”だ。」
シアは、どんな怪我や病も治せる代わりに、毒だけは治療できなかった。彼女は両親を抱きしめたまま、為す術なく見送るしかなかった。泡を吹き、痙攣する身体。しかし両親は死の間際ですら同じ言葉を繰り返した。
――人を恨んではならない。人を妬んではならない。すべての人を平等に愛せ。常に慈しみの心を持て。そうすれば天国に迎えられる。
「私はね、叔父を恨まなかった。両親に言われた通りに、愛して、受け入れたの。笑えるでしょ?」
シアの唇が、ぞっとするほど穏やかに歪んだ。
「そのまま養子になって家名も守った。でも、十三歳の頃にようやく気づいたの。私、壊れてるんだって。普通なら、両親を殺した人間を憎むはずでしょ?なのに私は“愛さなきゃ”って、”許さなきゃ”って思ってたの。」
その声は夕陽の赤を映すように淡々として、それでいて狂気じみていた。
「だから逃げた。受験料と少しのお金と着替えだけ持って、ここへ来た。叔父の呪縛から、そして両親の呪いから解放されるために。」
短い沈黙のあと、シアはぽつりと続けた。
「でもね…たぶんアイラが一番よくわかってると思うけど、私は昔から少しも変わってない。ずっと壊れたまま。まるで人形みたいに、私の行動に私自身の意志はほとんど介在してないの。」
シアはかすかに笑い、さらに言葉を重ねた。
「これはスイにも言ってないけど…夜中は布団の中で毎晩のように泣いてるの。トリスに負けたときは悔しかったし、スイが自分の何歩も先を歩いていくのを見てると、すごく焦る。でも、彼女たちの前では言えないの。本当は普通の女の子みたいに、悔しがったり泣いたりしたいのに…。」
声は震えているのに、表情は不気味なほど穏やかだった。
「ほら。今もすごく悲しい気持ちなのに、涙ひとつ出なかった。多分、他人の前では泣けないようになってるんだ。はは…こんなの人じゃないよね。本当に人形みたい。もしかしたら私って、精巧に作られた人形なのかも。なんちゃって。」
冗談めかした笑みを浮かべるシア。その笑顔が痛々しくて、胸が締め付けられる。気づけば、アイラは彼女を強く抱きしめていた。
「ふえっ!?え、え、な、何なの急に!」
シアは慌てて声を上げるが、アイラは一切気にしない。表情は至って真剣そのもので、勢いそのままに言葉を放った。
「どうだ?私はあったかいか!?」
「へっ!?え、あ、あったかいけど…。」
「よし。じゃあ次!」
「つ、次!?」
戸惑うシアを無視して、アイラは彼女の胸に耳を押し当てた。
「きゃっ!?ちょ、ちょっと、やめっ…!」
「うん。心音もちゃんとあるな。よし!」
ようやくアイラが顔を上げる。真剣な瞳で満足げに頷きながら、シアをまっすぐ見つめた。
「人の温もりも感じられるし、心臓の音も鳴ってる。だからシアはれっきとした人間だ!」
その言葉に、シアの顔は一気に熱を帯びる。胸の奥でドクンドクンと跳ねる鼓動が、今度は自分にだけ痛いほど響いてきた。
――そんな風に言われたのは、生まれて初めて。
「ていうか!そんなの、わかってるに決まってるじゃない!さっきはただの“例え”だから!」
「え?そうだったの。てっきり感傷に浸ってるのかと。」
「感傷に浸ってたけど…!もうっ、抱き締められたのなんて――」
ぷりぷりと怒ったふりをしながらも、心の奥は落ち着かない。
――だって、考えてみれば。
抱きしめられたことなんて、今まで一度もなかった。両親は理想の娘として育ててくれたけど、“私”を愛していた訳じゃない。スイは隣にいてくれるけど、そういうことをするタイプじゃない。
私が誰かを抱きしめたことはあっても、こうして自分が誰かに抱きしめられるのは、これが初めてだった。
初めてだと意識した瞬間、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
「どうしたの?」
首を傾げて覗き込んでくるアイラの顔に、視線が吸い寄せられる。
「な、何でもないわよ!」
慌てて視線を逸らした。
――今の私の顔なんて、絶対に見せられない。
その日、シアは恋に落ちた。それが地獄への片道切符だとも知らずに。




