幸せ②
「シズク先輩。スイ先生を見ませんでしたか?どこにもいなくて。」
特別訓練場を訪れたレオニスは、ちょうど訓練をしていたシズクに声をかけた。
「スイ先生なら、今日はお休みだよ。モニカさんが退院するからって、昨日のうちに休みを取るって言ってた。」
「モニカさん…?」
「そうか。お前たちは知らなかったな。スイ先生の助手、ローゼさんの妹だよ。」
――場面は変わり、ダスター総合病院。
「今まで、本当にお世話になりました。」
モニカは、主治医やリハビリを支えてくれた看護師たちに深々と頭を下げる。そしてゆっくりと、けれど確かな足取りで病院の外へ踏み出した。
「わ、わぁ…!」
わずかに外に出て歩いただけで、彼女の瞳から感動の涙がこぼれる。病院の中庭なら何度も歩いていたのに、空の広さも風の匂いも、外の世界は格別だった。
「よかった…!本当に、よかったね…!」
その姿に胸を打たれ、ローゼはこらえきれず涙をこぼしながら、妹をぎゅっと抱きしめた。長い時間を乗り越えて、ようやく迎えた日。二人の肩越しに差し込む陽の光は、まるで祝福のように柔らかく降り注いでいた。
少し落ち着いた頃、スイがそっと近づき、優しく声をかける。
「さぁ、帰ろう。私たちの家に。」
差し出された手を見つめ、モニカは一瞬だけ戸惑った。けれど、ローゼが「大丈夫だよ」と耳元で囁くと、その声に背中を押されるように、勇気を出してスイの手を握った。
「ふふっ。」
その愛らしい仕草に、スイは思わず柔らかな笑みを零す。その笑顔に引き寄せられるように、ローゼもモニカも自然と笑みを浮かべ、三人の間に穏やかな空気が広がった。
こうしてモニカは、スイとローゼに両手を握られながら、ゆっくりと新しい生活へと歩み出した。
「わぁ…!お姉ちゃんたち、こんなに大きなお家に住んでるの!?」
目の前に広がる豪邸に、モニカは目を丸くして感嘆の声を上げる。その姿が、かつて初めてここを訪れた自分と重なって、ローゼは懐かしさと嬉しさに笑みを深めた。
「そうだよ。これからはモニカも一緒に、ここで過ごすんだ。」
「ほんとに…!?」
胸を弾ませながら、モニカは大きな扉をくぐった。
「ここが、モニカの部屋だよ。」
一通り家の中を案内したあと、ローゼが最後に扉を開く。そこには明るく可愛らしい部屋が広がっていた。壁際にはふかふかのベッド、棚には可愛いクマのぬいぐるみや人形が並んでいる。まるで絵本の中のお姫様の部屋のようだった。
「モニカはもう立派なお姉さんだけど…何が好きかわからなくて。だから、子どもが好きそうなものをいっぱい詰め込んじゃったの。」
自分の過剰さを恥じるように、ローゼは少し頬を赤らめてうつむく。だが、モニカはその部屋を見渡しながら、瞳を輝かせて振り返った。
「ううん、いいの!お姉ちゃんが私のことを考えて、ここを用意してくれたってわかるから…本当に嬉しい!大好き!」
小さな体いっぱいで感情を伝えるその声に、ローゼの胸は熱くなり、もう一度ぎゅっとモニカを抱きしめた。
その後は、まるで失われていた時間を取り戻すように、一日中一緒に過ごした。三人で湯船に肩まで浸かり、モニカが嬉しそうにはしゃぐ声に笑い合い、夕食ではローゼが少し不器用に作った料理を「おいしい!」と頬を緩ませて食べてもらえた。食卓に響く笑い声は、ずっと欲しかったものだった。
夜には同じ布団に潜り込み、モニカは安心しきったようにすぐに眠りに落ちる。ローゼはその寝顔を腕の中で見つめながら、ふと胸の奥に重たい感情を覚えた。
――こんなに一緒にいるのなんて、いったい何年ぶりだろう。
思い返せば、モニカは長い間病院で過ごし、自分はその入院費を稼ぐために必死に働いた。けれど働くだけでは足りず、時には後ろ暗いことにも手を染めた。
無垢な妹と、汚れた自分。本当に、自分にモニカを抱きしめる資格があるのだろうか。
目を閉じると、記憶の底からあの日の光景が蘇る。段ボールを重ねただけの粗末な家。その前で、傷つき、汚され、倒れていた小さな妹の姿――
私がもっと、しっかりしていれば。私が、あんな環境でモニカを育てなければ。胸をえぐる後悔と自己嫌悪に、気づけば涙が頬を伝っていた。
その時、寝返りを打ったモニカが、無意識にローゼの手をぎゅっと握った。小さな指の温もりにハッとし、涙を拭う。
「…ごめんね。でも、ありがとう。」
声にならない囁きがこぼれる。妹の寝顔は穏やかで、まるで「もう大丈夫だよ」と告げているようだった。
ローゼは静かに目を閉じる。心の奥に残る痛みは消えない。けれどそれでも、これからは後悔に縛られるのではなく、この小さな命と一緒に未来を歩んでいこうと強く思った。
――今度こそ、必ず守るから。
そう誓いながら、ローゼはモニカの寝息に耳を傾け、ようやく安らぎの眠りへと落ちていった。
その夜、部屋の扉がそっと開く。静かに様子を見に来たスイは、並んで眠る姉妹の姿を目にして、ふっと表情を和らげた。
「…おやすみ。」
小さく呟き、掛け布団をそっと整える。音を立てぬように部屋を後にし、スイは静かに息を吐いた。
――あの子たちは、もう大丈夫だ。
そう思うと胸の奥の緊張がようやくほどけ、彼女も自室の布団に潜り込む。二人の幸せそうな寝顔を思い返しながら、安堵に身を委ねてまぶたを閉じた。
だが、その裏に広がったのは、かつて目に焼きついた凄惨な光景。親友が、親友を刺し殺したあの夜の記憶だった。
――そうか。今日は、あの子がいないんだ。
隣にいつもいるはずのローゼ。その気配のない布団は、恐ろしいほどに静かだった。静寂は優しさではなく、むしろ鋭い刃のようにスイを刺す。
胸の奥に抑え込んできた記憶が疼き出す。その記憶は十一年前、初めてシアと出会った、あの日から始まる。
「ねぇ、貴女!」
「ん…?」
真昼の陽光が校庭を照りつける中、スイはランダ魔法学校のベンチでまどろんでいた。その耳を打ったのは、鈴の音のように澄み渡る声。
目を開けた瞬間、太陽の光を反射してきらめく銀色の髪が視界いっぱいに広がる。
美しい女性だった。絹糸のような髪が風に揺れ、透き通る青い瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。彼女の纏う清らかな気配は、まるで光そのものの化身のようで、スイは思わず息を呑んだ。
「貴女、スイさんよね?午後の試験、もう始まっちゃうわよ!」
その女性の姿には覚えがあった。午前中の筆記試験で、唯一自分と並び満点を叩き出した受験生。
「シア…?」
「あら、私の名前を知ってくれていたの?」
「もちろん。唯一、私のライバルになりそうな人だから。」
今日はランダ魔法学校の入学試験の日。午前を完璧に終えたスイは、太陽の下でうたた寝をしていたのだ。
「そんなことより!早く行かないと失格になっちゃうわ!」
シアは躊躇なくスイの手を掴み、駆け出した。その柔らかな掌の感触に驚きながら、スイは引きずられるように試験会場へと運ばれていく。
「どうして声をかけてくれたの?」
息を整えながら問うと、シアは小首を傾げ、まるで当たり前のことを聞かれたかのように微笑む。
「どうしてって…失格になっちゃうでしょ?」
「でも、それって貴女には関係ないよね。私が失格になれば、貴女は余裕で一番になれるじゃん。助けない方が良かったんじゃない?」
そう言うと、シアは不思議そうに目を瞬かせた。敵を蹴落とす、誰かを利用する、そんな発想が、彼女には本当に存在しないかのように。
「ごめんなさい。ちょっと、言ってる意味がよく分からないわ。」
その答えにスイは戸惑った。競争の世界に生きる自分にとっては、誰かを出し抜くのは当然の思考。けれどシアは、それすら理解できない。
――どうして、こんなに美しい人が、こんなにも純粋でいられるんだろう。
スイはその瞬間、初めて「理解できない存在」に出会ったのだった
次回よりスイの過去編になります。




