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大人の夏

まだ街が眠りに包まれている頃、スイの一日は始まる。いつもと変わらない朝。ただひとつ、違いがあるとすれば。


右腕に感じる小さな重みに、スイはそっと顔を向けた。


「ん…?スイさん、お目覚めですか。」


「うん。ローゼはまだ寝てていいよ。」


「…ふぁい。」


近頃は、こうしてローゼと同じベッドで眠るようになっていた。


ローゼは今も心に深い傷を抱えており、夜もろくに眠れず、悪夢にうなされる日々が続いていた。だが、それはスイも同じ。彼女もまた心に大きな穴を抱え、悪夢を見ない夜などなかった。早朝に目覚めるのが癖になってしまったのも、そのせいだった。


けれど、こうしてローゼと共に眠るようになってから、悪夢はぴたりと止まった。それはローゼにとっても同じようで、最近では朝七時までぐっすり眠っている。


「…ふぅ。」


目覚めのコーヒーを口に含み、静まり返ったリビングで一息つく。


――こんなんじゃダメだな…。


カップの表面に映る自分の顔を見つめ、スイは思う。正直、今の自分はローゼに依存してしまっている。そして、きっとローゼも、このままいけば自分に依存してしまう。


彼女と一緒なら悪夢を見ない。朝の目覚めも少しずつ遅くなり、コーヒーの味まで濃く感じるようになった。このままいけば、スイの睡眠はきっと良質なものへと変わっていくだろう。だが、それは“彼女ありき”のものだ。


出会ってまだ数か月だというのに、もう手放したくない、そんな感覚が胸の奥に芽生えている。


だが、この想いは心の内に留めなければならない。自分の幸福のために彼女の人生を縛ることは、これまで彼女を傷つけてきた大人たちと同じになってしまうからだ。


――そろそろ。モニカも歩けるようになるはず。


近頃、寝たきりだったモニカがリハビリを始めた。たった数か月でここまで回復するのを目にしたのは初めてだと、医者も言っていた。強い心の持ち主であることは疑いようがない。


――二人は私なんかと違って、本当に強い心を持っている。もし生まれる場所が違えば…こんな心の弱い私に頼らなくても、生きていけたはずだ。


必死に生きようとする二人を見ていると、段々とスイは自分の惨めさを感じ始める。生まれながらに最強だった自分は、家族を失ったときも怒りに身を任せ、犯人を殺すことで心の安定を保てた。孤独さえも耐えられたのだ。


今思えば、どれだけミラーに迷惑をかけてきたことか。


――もう少し…彼女と真正面から向き合うべきだろうか。


「なぁ、シア。私はどうすればいいんだろうか。」


思わず弱音を漏らすスイ。彼女の心の拠り所はもうこの世にはいないというのに。


「ん?もうこんな時間か。」


気付けば時計の針は六時を指している。スイはそっと体を起こし、朝の静かな空気の中でキッチンへ向かった。


「あれ?」


キッチンの明かりがすでに灯っている。そっと覗くと、ローゼがエプロン姿で立っていた。手にはフライパンを握り、テーブルにはクロワッサンや小さなペストリーを並べている。


「あっ、スイさん!」


「どうしたの?」


「今日は早く目が覚めたので、私が朝ごはんを作ろうかと思いまして。」


胸を張るローゼの姿に、スイは自然と笑みを零す。


「そうか。じゃあお願いしようかな。」


ローゼは卵を割ると、自信満々にフライパンを振る。しかし火加減を間違えたのか、焦げ臭さがキッチンに漂った。


「あっ…やっちゃった…!」


ローゼは顔を赤らめ、肩を落とす。しかしスイはすぐに優しい声をかけた。


「大丈夫だよ、ローゼ。初めてなんだから仕方ないさ。焦げたのも、まぁご愛嬌ってことで。」


「でも見栄えが…。」


「見た目なんて気にしなくていい。味はそのままだから。」


スイの言葉に少し安心したように、ローゼは焦げたオムレツを皿に盛りつける。リビングに移動してテーブルにつき、ローゼは不安げにスイを見つめた。


「どうですか…?」


慎重に口に運ぶスイ。ひと口噛むと、にっこりと微笑んだ。


「うん。美味しいよ。」


その言葉に、ローゼの顔がぱっと明るくなる。


「ほんとですか!良かった…。」


喜びと安堵が入り混じった笑みを浮かべながら、ローゼは小さくフォークを動かし、ちょっぴり焦げたオムレツを口に運ぶ。卵の香ばしい匂いとバターの風味が口いっぱいに広がる。


その様子を見て、スイも自然と微笑む。二人の間に朝日の差し込む窓から柔らかな光が射し込み、穏やかで落ち着いた空気が流れた。


「それじゃあ行こうか。」


「はい!」


朝食を終えると、二人は鞄を持って家を出る。照りつける夏の太陽が舗道を明るく照らし、砂浜の余韻を運ぶ風が二人の頬を撫でた。向かった先は学校だ。


夏休みの校内は静かで、教員たちだけが研究室に出勤している。ローゼはスイの助手として学校への出入りを許されており、今日もその役目を果たすため一緒に向かうことになった。


「あっ!ローゼちゃんだ☆」


元気な声が響き、ローゼは振り返る。


「トリスちゃん。おはようございます。」


「おはよう!」


スイとトリスの研究室は隣同士で、日常的に顔を合わせる仲だ。ローゼもその輪に加わり、少しずつ打ち解けている様子が伺える。


「トリス。私は?」


スイが気にして問いかけると、トリスは軽く肩をすくめ、笑いながら答える。


「スイはいつも会ってるんだからいいでしょ~。何年来の付き合いだと思ってるのよ。」


素っ気ない態度に苦笑しつつ、スイは研究室の扉を押し開けた。


「トリスちゃんとは長い付き合いなんですか?」


ローゼが好奇心を覗かせる。


「うん。もう…八年くらいかな?」


「そんなに!」


「まぁ、学生時代の同級生だからね。」


スイの言葉に、ローゼは目を大きく見開き、軽く口元を押さえた。スイの過去を少しだけ垣間見たようで、頬が自然に赤く染まる。


「それじゃあ今日だけど――」


しかし、スイはそれ以上は口にせず、机の上から幾つかの資料を手に取り、その日の業務内容を告げる。以降、夕方まで二人は資料の整理や実験の準備に追われた。


「ん…?」


ふと見やると、ローゼは疲れからか机に顔を伏せ、静かに眠っている。体の力が抜け、寝息だけが微かに聞こえる。一方で机の端に重ねられた書類は乱れることなく整然としており、業務はきっちりとこなしていることがわかる。その真面目さと無防備な寝顔のギャップに、スイは思わず微笑んだ。


起こすのが忍びなく、スイはそっと立ち上がると、一人でコーヒーを買いに行った。校内のカフェテリアは夏休みでも開店しており、スイは夕方になると必ずここで一杯のコーヒーを買う。


「コーヒーとココアを一つ。」


職員は慣れた手つきで準備し、すぐに二つのカップをスイに手渡す。二つのカップを抱えながら歩いていると、隣の廊下でトリスが声をかけてきた。


「あれ?ローゼちゃんは?」


「疲れたのか、研究室で寝てるよ。」


「そう。あんまり無理させないようにね。」


「わかってるよ。」


ローゼの体調を気遣う言葉に、スイは軽く笑みを返す。


「そうだ、スイに聞きたいことがあるんだけど。」


突然の鋭い視線に、スイは言葉が詰まる。


「あの子のこと…シアと重ねたりしてないよね?」


「してるわけないだろ。」


即答するスイ。しかし表情はどこか曇り、口調に僅かな迷いが滲む。


「ふーん。まぁいいけど。あの子を泣かせて一番傷つくのは、あなた自身だってこと、忘れちゃダメだよ。」


「わかってる。ありがとう。」


取り繕うような笑みを返すスイに、トリスは頭をかきながら続ける。


「もう、調子狂うな~。いい?何度も言うけど、サラ先生のことも、シアのことも。全部、貴女のせいじゃないからね。」


その言葉に頷くことしかできないスイ。トリスは少し憤慨した表情を浮かべつつも、静かに彼女を見守った。


トリスの視線を感じながら、スイは二つのカップを手に研究室へと戻る。扉をそっと開けると、まだローゼは机に頬をのせて眠っていた。鮮やかな赤髪が肩からさらりと流れ落ち、頬にかかっている。小さな寝息が静かな室内に響き、思わずスイの胸に温かさが広がった。


「ローゼ。起きられるか?」


声をかけると、ローゼはぱちりと目を開け、眠たげに瞬きを繰り返した。


「おはよう。少し休めたか?」


「はい…。すみません、仕事中なのに。」


「いいんだよ。疲れたら休むのも大事だ。」


スイはそう言ってココアのカップを差し出す。甘い香りに誘われるように、ローゼは両手で受け取り、口元に小さく笑みを浮かべた。


二人は並んでカップを口にしながら、窓の外に広がる夕焼けを眺める。赤く染まった空とローゼの赤髪が重なり合い、まるで景色の一部になったように映えた。


「スイさん。明日も、私…お手伝いしていいですか?」


「もちろんだ。君がいてくれると、とても助かるからね。」


そのやり取りの中で、スイはふと肩の力が抜けていることに気づく。いつの間にか、ローゼの存在が自分の心を穏やかに整えてくれていた。


こうして二人の静かな午後は、やわらかな余韻に包まれながら過ぎていった。

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