初めての夏休み
一年の全学期が終わり、待ちに待った夏休みがやって来た。
ストックへ帰省したシズクは、何をするでもなく丘の上に寝そべり、青空を仰ぎながらのんびりと昼寝を楽しんでいた。柔らかな草の感触と、夏の風が頬を撫でる心地よさに、時間を忘れそうになる。
「シズク。」
「ん?」
名前を呼ぶ声に顔を向けると、そこに立っていたのはララだった。明るい陽光を背に、笑みを浮かべた彼女の手には一通の手紙が握られている。
「ミア先輩から手紙が届いたの。来週、別荘に遊びに来ないかって。」
「別荘か。本当にすごいな、あの人は。」
シズクは上体を起こし、ララから手紙を受け取る。開封すると、流麗な筆跡で丁寧に綴られた文面が現れる。そこには、海岸の別荘でのんびり過ごそうと誘う、柔らかな言葉が並んでいた。
シズクは思わず笑みをこぼす。胸の奥には、小さな期待と温かさが広がっていた。
そして翌週。二人は記された住所へと向けて出発した。目的地はストックから三つ隣の街、海岸沿いのリゾート地だ。
ストックは漁船と市場が中心の、潮の匂いが染みついた素朴な港町だ。しかし、二つの街を超えて見えたその地はストックとは正反対の景色だった。
視界に広がったのは、どこまでも続く白い砂浜と、太陽を浴びて瑠璃色に輝く海だった。波は穏やかに打ち寄せ、光を受けて砕ける度に細やかなきらめきを散らす。
浜辺には色鮮やかな天幕が並び、旅人や富豪にみえる人々が休暇を楽しんでいる。椰子の木のように背の高い木々が影を落とし、潮風が心地よく頬を撫でた。
「わぁ…!すごい!」
ララが砂浜を見下ろして思わず歓声をあげる。
「ほんと。ストックとは全然違うな。」
シズクも目を細めて、その光景に見入った。
港町が「働く海」なら、この街はまさしく「楽しむ海」だ。華やかで洗練された空気に、自然と胸が弾む。
やがて、海を見下ろす岬の上に、白壁と赤屋根の瀟洒な別荘が姿を現した。広々としたテラスからは、紺碧の水平線を一望できる。潮風に吹かれるたび、白壁は陽光を弾き返し、まるで宝石のように輝いていた。
その場所で二人を待っていたのはミア、だけではなかった。
「遅ーい!」
馬車を降り、ミアに挨拶をしようとした瞬間、聞き慣れた声が響いた。
「マロン。それにバニラも。」
砂浜を背景に立つ二人の姿に、ララは思わず目を瞬かせた。
マロンは白のワンピースドレスに淡いブルーのショールを羽織り、長い髪をまとめ上げている。その大人びた装いは、彼女の落ち着いた雰囲気をより一層引き立て、まるでこのリゾートの景色に溶け込んだ貴婦人のようだった。
一方のバニラは、淡いピンクのリボンがあしらわれたひらひらのワンピースに身を包み、麦わら帽子を両手で押さえている。潮風に煽られてはしゃぐ姿は年相応の可愛らしさそのもので、見ているだけで場が明るくなる。
「二人とも、もう来てたんだな。」
シズクの声に、マロンとバニラは笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。だが、その足はララの姿を目にした瞬間、ぴたりと止まる。
「えっ…!?天使モードのララだわ。」
「ほんとだ…。」
思わず見惚れるような声が二人の口から漏れる。
ララが身を包んでいるのは、以前ミアに買ってもらった白いフリルのワンピース。陽光を受けて淡く輝くその純白の装いは、彼女の美貌をひときわ際立たせ、周囲の景色さえ引き立て役に変えてしまうほどだった。
「二人とも、やめてよ…。」
頬を染めて小さく抗議するその姿さえ、彼女の可憐さを際立たせるに過ぎない。
「シズク…! この子に一言くらいないの!?」
マロンが思わず問い詰めると、シズクは少しも動じず、いつもの調子で答えた。
「可愛いと思うけど?」
あまりにも平然としたその一言に、マロンとバニラは同時に叫ぶ。
「即答かい!」
「もうちょっと照れなさいよ!」
場の空気は一気に和み、笑い声が潮風に溶けていった。
「――それで、今いるのはマロンとバニラだけか?」
シズクが周囲を見渡しながら尋ねると、マロンが頷く。
「今のところはね。でもあとで、一年だとウォルフとシードも来るよ。二、三年生も、ミア先輩の知り合いが何人か来るって。」
「なるほど。」
シズクは軽く相槌を打ち、これからどんな顔ぶれが集まるのかと胸の内で思い描いた。海風が頬を撫で、別荘の夏の始まりを告げているかのようだった。
「キャー!うそ、ララ、その服を着てきてくれたの!?」
扉を開き、ララの姿を目にした瞬間、ミアは歓声をあげて駆け寄り、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「前に着たとき、ミア先輩が喜んでくれたから。」
健気な理由に、ミアはさらに腕の力を強める。
「ほんとにもう…可愛すぎるでしょ、この子。ねぇシズク君!今から私の妹にしてもいいかな!?」
「構いませんよ。というか、もうずっと妹みたいに扱ってるじゃないですか。今さら確認します?」
「それもそうね!」
ララの意志を完全に無視したやり取りに、彼女は諦めたように小さくため息をつくしかなかった。
「じゃあ決まり!この子はしばらく私が貰っとくわね。マロン、バニラ、あんたたちも一緒に来なさい!」
そう言うと、ミアはララを抱えたまま奥の部屋へと消えていった。マロンとバニラも慌ててついていき、玄関にはシズクひとりが取り残される。
「…あれ?僕はどうすればいいの。」
困惑気味に呟いた瞬間、背後から落ち着いた声が響いた。
「お待ちしておりました。貴方がシズク様ですね。」
振り返ると、年配の紳士が姿を現す。背筋は真っ直ぐで、仕立ての良い燕尾服を纏い、目元には柔らかな笑みを浮かべていた。
「えっと、あなたは?」
「おお、これはご挨拶が遅れました。私はミアお嬢様に仕える執事、アーロンと申します。どうぞこちらへ。」
「執事…。」
驚きを隠せないまま、シズクは促されるままに屋敷の奥へと進む。
通されたリビングは、高い天井と大きな窓に囲まれた広々とした空間で、まるでホテルのラウンジのようだった。磨き込まれた調度品に、お洒落な椅子やソファ、壁に飾られた絵画が整然と並び、上品な雰囲気を漂わせている。
普段は冷静なシズクも、あまりの豪奢さに思わず背筋を伸ばし、落ち着かない気分を覚えるのだった。
「少々お待ちくださいませ。」
執事アーロンは静かに一礼すると、ほどなくして香り高い湯気を立てたティーカップを運んできた。淡い黄金色の液体からはやさしい香りが漂う。
「カモミールティーでございます。緊張を和らげる効果もございますので。」
「…ありがとうございます。」
カップを両手で受け取ったシズクは、一口含んだ瞬間、胸の奥にあった固さがふっとほぐれるのを感じた。窓の外では、夏の海から吹き込む風がカーテンを揺らし、別荘の午後はゆったりとした時の流れに包まれている。
しばらくすると、何人かの先輩たちも到着し、リビングには次第に賑やかな空気が広がっていった。
「おっ、シズクも来てたのか。」
シズクの姿に気付いた二年の先輩が声をかける。彼らはジャレクと親しい間柄で、あの事件以降、シズクの様子を気にかけ、度々見守ってくれていた。
「はい!先輩方も来ていたんですね。」
「ミアはあの性格だからな。ちょっとでも仲のいい奴は呼ぶんだ。」
「それで言うと、レント先輩はいないですね。」
その言葉に、先輩たちの動きが一瞬止まる。
「まぁ…仲が悪いからな、あの二人は。」
「何かあったんですか?」
ばつの悪そうな先輩に、シズクは気にせず問いかける。
「全面的にレントが悪い話だぜ。」
先輩たちが語る内容は、その言葉通りレントに非のある話だった。
なんでも、レントは素行不良を注意したミアに対し、「俺より弱いくせにガミガミ言うな」と噛みついたという。
その態度がミアの逆鱗に触れ、進級試験では遂にミアがレントを抑えて一位を獲得。逆にミアは「私より弱いんだから、大人しくしていなさい」と冷たく言い放ったのだそうだ。
普段の優しい雰囲気とは正反対の言葉に、今の二年生の間にはピリリと冷たい空気が漂っているのだという。
「そうなんですか。なんだか、レント先輩らしいですね。」
その話を聞き、シズクは肩の力を抜いて軽く笑みを浮かべた。その表情は、事情を知る者なら少し呆れつつも微笑ましく思うほど、あっけらかんとしている。
先輩たちは息をのむ。
「なんか…お前もちゃんと変わってるよな。」
「何がですか?」
「いや…なんでもない。」
強い者はみなこういう余裕を持つのかと感心した様子の先輩たち。しかし、シズクの軽やかで自然体な態度は、場の毒気をすっと抜いてしまう。冷たい空気の中にあっても、彼ひとりだけが柔らかい空気を運ぶかのようだった。
「そういえば、他の一年は?シズクだけか?」
先輩は周囲をキョロキョロと見回しながら問いかける。
「ああ。ララとマロンとバニラは、ミア先輩に連れられてどこかへ行ってしまいました。」
「そういえば、確かに家主がいないな。客人を置いてどこに行ってるんだか…まぁいいや。それで、それ以外の一年は?」
「あとはウォルフとシードが来ます。」
その言葉に先輩は思い出したように目を輝かせ、声を上げた。
「あの魔道具使いも来るのか。俺、あいつと話してみたかったんだよ!でもなーんか逃げられちゃうんだよな。よし、これはいい機会かもな。」
ニヤリと笑む先輩を見て、シズクは思わずシードに同情する。確かに話せばいい人なのだが、見た目がすこぶる怖い。そのため気弱なシードが逃げるのも無理はない。しかし本人は、自分が怖いとは思っておらず、むしろ親しみやすいキャラクターだと思い込んでいるのだった。
「何を話したいんですか?」
「実はよ、俺の弟も魔素欠乏症なんだ。だから、アドバイスをもらえたらなって思ってさ。」
その言葉に、シズクは目を見開く。
「それを早く言ってくださいよ。わかりました。僕が仲介役になります。シードが来たら、思う存分話してください。」
「ほんとか!?ありがとな。」
魔素欠乏症は決して珍しい病気ではない。時代が進めば病気とさえ言われなくなるかもしれない。それほど魔道具の技術は発展しているのだ。しかし、魔道具使い黎明期の今、シードたちの世代はその恩恵を十分に受けられず、苦労を重ねていくことになるだろう。
だからこそ、シードが注目を浴び、こうやって魔道具の可能性を見出す人が増えるのは喜ばしいことだ。当然、シズクも快く力を貸す。
「こんにちは…。」
その声とともに、アーロンに連れられてシードが姿を現した。少し緊張した面持ちで、周囲をキョロキョロと見渡す。
「あっ。先輩、行きましょう。」
「えっ。も、もうか…。」
先輩は一瞬戸惑うも、深呼吸してからシズクの後に続く。
「シード。こちらの先輩がお前に話があるらしい。」
「え!?な、なんですか…。」
単刀直入なシズクの言葉に、シードも思わず困惑する。
「初めまして、シード君。俺はビルドだ。君に聞きたいことがあってさ…。」
「硬いですよ、先輩」
「いや、これでも頑張ってるんだよ!」
ぎこちない雰囲気を和らげようと、シズクが茶々を入れる。その様子にビルドは一瞬戸惑うが、緊張した表情が少し緩む。それを見たシードは、思わず笑みを浮かべてしまった。
「あはは…あ、すみません。」
謝りながらも、シードの肩の力はもう十分に抜けているようだった。
「えっと、それで話というのは?」
「そうなんだ。実は、俺の弟も魔素欠乏症でな。だから、お前が今までどう練習してきたかとか、アドバイスをもらえたらと思ってさ。もちろん、ただで教えてもらおうなんて考えてるわけじゃ――」
「なんだ、そんなことですか!もちろん、喜んで話しますよ!」
思わず声を弾ませるシードに、ビルドは一瞬目を丸くする。話を聞けるならお金でも何でも払うつもりだったが、シードの返答はあまりにもあっさりしている。
「え、えっと…本当にいいのか?」
「もちろんです。僕も昔は同じように苦労してきたんです。だから、その経験が誰かの役に立つなら、喜んで伝えたいんです。」
シードの言葉に、ビルドの顔に少しずつ笑みが戻る。初めて会った少年なのに、この素直さと前向きさに心を打たれたのだ。
「じゃあ、基本から教えてもらってもいいか?」
「もちろんです!」
完全に打ち解けた二人の様子を、シズクは静かに見守りながらその場を離れた。こうして交流の輪が広がっただけでも、既に有意義な時間だった。
気付けばウォルフも到着しており、知り合いの先輩たちと談笑している。あとはミアが戻ってくるのを待つだけだ。そう思った矢先、軽やかな声がリビングに響いた。
「みんな注目!」
その声に、自然と全員の視線が集まる。声の主はもちろんミアで、その傍らにはララ、マロン、バニラの三人も揃っていた。
「今日は集まってくれてありがとう。さて、みんなお腹空いてるんじゃないかと思ってね。実はこの子たちと一緒に、バーベキューの準備をしてきたんだ。というわけで、中庭に移動しようか。頑張って準備したから、たくさん食べるんだぞ!」
意外にもララを可愛がるのではなく食事の準備をしていたミア。そんな彼女に感心しつつ、シズクは流れに身を任せて中庭へと向かった。
時計はすでに午後五時を少し回った頃。中庭に出ると、広々とした芝生が夕陽に染まり、海からの風が潮の香りを運んでくる。遠くには紺碧の海と穏やかな波が見え、砂浜にはいくつかの帆船が揺れていた。
「シズク君、こっち手伝って!」
ミアの声に、シズクは軽く頷き、用意された食材を運ぶ手伝いをする。ウォルフやシードも共に到着し、先ほどの交流の余韻を胸に、それぞれ自然に手を動かす。
風に揺れる木々の葉音、遠くで波が砂浜を洗う音、そして炭火のはぜる音が混ざり合い、夏の午後の穏やかな時間を演出していた。
準備が整うと、三人ずつで小さなテーブルを囲み、海風に吹かれながら食事が始まる。笑い声が絶えず、普段の訓練や学業の疲れも忘れてしまうような、穏やかで幸福な時間だった。
空は次第に朱に染まり、夕陽が水平線に沈む頃、中庭は柔らかいオレンジ色の光に包まれる。海の香りと風、炭火の匂い、そして仲間たちの笑顔が重なり、別荘の夏のひとときは、まさに夢のような時間としてみなの胸に刻まれた。




