呼吸
婦女失踪事件から一か月。あの衝撃はいまだ消えてはいない。だが、生徒たちの前にはそれ以上に避けられない壁が立ちはだかっていた。
――進級試験である。
一年を締めくくる定期試験にして、運命を左右する分かれ道。ここで落第すれば即退学となる試験である。シズクたち上位陣には縁遠い話ではあるが、それでも順位は大いに気になる。
「絶対に勝つ。」
ララは虎視眈々と首位を狙い――
「負けられない…絶対に負けられない…!」
マロンは三位を死守するため、必死に努力を積み重ねていた。その背中を引きずり落とそうと、バニラやウォルフもまた歯を食いしばって研鑽を続けている。
そんな中、シズクは魔法の修練もせず、図書館で本の山に囲まれていた。
「ずいぶん余裕そうじゃないか、シズク君☆」
声をかけてきたのはトリスだった。
「トリスちゃん。別に勉強してないわけじゃありません。僕にとって、これは必要なことなんです。」
「というと?」
「魔素容量も心肺機能も、今の体格で到達できる限界まで来ています。であれば、伸ばせるのはここだけです。」
シズクは自分の頭を指差す。
「知識を詰め込み、魔法を効率的に発動できる方法を体系化する。それが今の僕にできる成長なんです。」
「ふむふむ。なるほど、いい心がけだね☆」
「ありがとうございます。」
シズクは真剣な表情でページをめくり続ける。
「で、成果は出たのかい?」
「いえ、全くです。」
「そっか~。」
いかにシズクといえど、膨大な知識を整理し体系化するのは至難の業。無意味に終わる可能性すらある。
だが、それでもやる。今の自分にできることはこれしかないのだから。
そんなシズクにトリスはとある提案をする。
「じゃあさ、気分転換にトリスちゃんの本気の魔法、見せてあげようか?」
「えっ!?いいんですか!」
「もちろん☆ただし、これを着けた状態で、だけど。」
トリスは手首の魔素分散装置を軽く揺らす。だが、シズクにとっては些細な問題だった。
「それでも十分参考になります!」
「そっか。なら、訓練場に行こうか。」
そうやって訓練場に移動すると、訓練場にはすでに人だかりができていた。
「ん?どうしたのかな。もしかしてトリスちゃんの魔法を見に来たのかな?」
「そうです!」
冗談半分で問いかけたのに、返ってきたのは真剣な答え。さすがのトリスも嬉しそうに頬を赤らめる。
「そっかそっか~。みんな私の魔法を見に来たんだ。それじゃあ、ちょっとだけ張り切んないとね。」
トリスは真剣なまなざしで定位置に立つ。
「じゃあ、みんな少し下がってね。一度しか撃たないから、よ~く見ておくんだよ~。」
トリスはスイと同様に、魔素分散装置の装着を義務づけられるほどの実力を持っている。その”本気”を見たいと思うのは当然のことだった。
「それじゃあ、いくよ。」
空気が震え、魔素が揺らぐ。超一流の魔法使いだけが放つ魔法の前兆だ。展開された魔法陣は滑らかで、鮮やかで、そして簡略化されすぎている。シズクでも理解することさえ難しい。
そこから解き放たれたのは火の龍。火を操る魔法における究極の一撃だった。
シズクを含め、実力ある生徒は違和感を覚える。発動までの魔素の取り込み時間が、あまりにも短すぎたのだ。だが魔法は完璧に成立している。
その答えは単純。トリスの魔素効率が常識外れに高いから。少量の魔素でさえ、これほどの大技に変換できてしまう。それこそが、トリスフェルミアという魔法使いの力だった。
火の龍は天へと舞い上がり、炸裂した。一瞬にして空が虹色の光に染まり、その美しさは誰の記憶にも鮮烈に焼き付いた。
「どうだったかな~?」
「すごく綺麗でした!」
「さすがトリスちゃん!」
返ってきたのはそんな純粋な感嘆の声。トリスは「そうかな~」と頬をかきながらも、どこか物足りなさそうに視線を伏せる。期待していた答えはそれではなかったからだろう。だが、ふと見やった先でシズクだけは真剣な顔をして考え込んでいた。
しばらくして人だかりがはけ、二人きりになったところで、トリスは改めて問いかける。
「シズク君、どうだった?」
問いかけに、シズクは少し考え込んでから顔を上げる。
「やっと分かりました。僕はずっと呼吸で魔素を取り込んでいました。でも、トリスちゃんは違う。全身のあらゆる部位から同時に取り込んでいたんですね。だから、あれほどの大技を一瞬で成立させられた。」
「その通り。魔素は目に見えないのに、そこまで察するとはやるね☆」
トリスが試すように微笑むと、シズクはさらに言葉を重ねた。
「大したことではありません。魔素の流れを読むのは得意なのに、トリスちゃんの魔素だけは、途中でふっと消えてしまったように感じられたんです。だから、途切れることなく全身で取り込み続けているのではないか、と推測したまでです。」
「ふふ、いい勘してるね☆」
満足そうに頷いたトリスは、続けて正確な説明を始めた。
「肺呼吸をすることで、魔素を取り込むことができる。それはわかるよね。」
シズクは静かに頷く。
通常の呼吸と同様に、魔素も肺呼吸によって取り込むことができる。そして、その二種類の呼吸は生物であれば誰しも意識的に切り替えることができるし、魔法使いであれば、誰しもそのシステムを理解している。
「それじゃあ、それとは別に皮膚でも魔素をやり取りしてるってのは知ってるかな?」
「はい。ですが...。」
魔素は皮膚呼吸でも取り込むことができる。しかし、通常の皮膚呼吸と同様にこれは意識的に行えるものではない。自然と体が、不要になった魔素と空気中の新鮮な魔素を交換してくれるのだ。
「そうだね。一般的にこの方法は意識的にできないものとされている。」
「では...?」
「うん。実際は可能だ。」
トリスは軽く袖をまくり、その白い肌を指差す。
「目には見えないけど、体の表面には魔素を出入りさせる“孔”がある。普段はほとんど閉じているけど、呼吸で魔素を取り込むとき、補助として少しだけ開くんだ。これが皮膚呼吸で魔素を取り込むメカニズム。そして本当に熟練した魔法使いは、その孔の開閉を意識的に制御することができる。」
説明を最後まで聞いて、シズクは思わず息を呑む。
「それが、トリスちゃんの方法なんですね。」
「うん。肺ひとつじゃなくて、体全体を肺に変える…そんな感覚だと思って欲しい。」
トリスは誇らしげに語るでもなく、ただ事実を述べるように淡々と口にした。
「ありがとうございます。何か…掴めた気がします」
「そっ!なら見せた甲斐があったかな♪」
シズクはその場に留まっていられず、掴んだ感覚を試そうと特別訓練場へ駆け出していった。その背中を、トリスは温かい眼差しで見送った。
「あっ、シズクじゃん。」
訓練場の扉を開けた瞬間、ちょうど鍛錬をしていたバニラがぱっと顔を上げた。
「久々に来たでしょ?」
「うん。ずっと調べ物をしてたんだ。でも、トリスちゃんのおかげでようやく見つけたよ。」
「へぇ~。よくわかんないけど…あんたがまた強くなるのは、なんかちょっと嫌。」
あまりに率直な言葉に、シズクは思わず苦笑した。
「なんでさ。」
「だって、最近ようやく背中が少し見えてきたかな~って思ったのに…また置いてかれそうだから。」
「いや、僕が習得したらちゃんとみんなにも教えるから。」
その一言に、バニラの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!?絶対だからね!」
「もちろん。」
「やった~!」
自分が強くなれるかもしれない。その可能性を純粋に喜ぶバニラ。その無邪気さにシズクは感心しつつ、定位置に立つとすぐに集中へと切り替えた。
皮膚呼吸で魔素を取り込む。その感覚を掴むために、体表面へ意識を張り巡らせながら深く息を吸い込む。
――呼吸で魔素を取り込むとき、少しだけ孔が開く。
トリスの言葉を胸に、シズクは何度も深く息を吸い込み、吐き出す。そのたびに体表へ意識を集中させ、魔素の流れを感じ取ろうと繰り返していた。
「あいつ何してんの?」
いつの間にか、マロンやウォルフも特別訓練場に顔を出しており、深呼吸を繰り返すシズクを訝しげに眺めていた。
「なんか、トリスちゃんにアドバイスして貰ったんだって。」
バニラが答えると、マロンが思い出したように口を開く。
「へぇ。あ、そういえばさっき先輩たちが、トリスちゃんがすごい魔法を披露したって言ってた。もしかして、それに関係してるのかな?」
「わかんないけど…何かを掴んだみたいな顔してたよ。」
バニラの言葉に、三人の視線が再びシズクへと集まる。彼のひたむきな横顔に、不思議と誰も声をかけられなかった。
――そして、一時間が過ぎた。
「くそっ…駄目だ。」
結局その日、シズクは感覚を掴むことができなかった。悔しそうに目を閉じ、その場に座り込む。
「お疲れさま。」
「ん?ああ、ありがとう。」
いつの間にか隣で訓練を始めていたララが、水筒を差し出してくれた。シズクは礼を言うと、水をひと口含んでほっと息を吐く。
「ただ呼吸をしてるようにしか見えなかったけど…何をしてたの?」
静かな問いに、シズクはトリスから受けた説明をそのまま繰り返した。
「…なるほど。それができれば、魔法の発動速度が飛躍的に上がるってわけね。」
「そういうことだ。」
説明をすぐに理解したララは、興味を隠さず自分でも試してみる。体表に意識を集中させ、深く息を吸い込んだ。
次の瞬間、ララの瞳がぱっと見開かれる。
「なにか掴んだのか?」
その反応にシズクは期待を込めて身を乗り出す。しかし、ララはすぐに表情を戻し、平然とした声で答えた。
「…何もわからない。」
あまりにあっけらかんとした言葉に、シズクは思わずずっこけて、笑い声を上げた。




