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初めてばかり

モニカが穏やかな寝息を立てているのを確かめてから、ローゼはスイに連れられて病院を後にした。


外は夕暮れに差し掛かっている。わずか一日の間に、路地裏から温かい家へ迎えられ、妹と再会できたという現実をローゼはまだ直視しきれずにいた。


「なんか…夢みたいです。」


ぽつりと漏れた声。モニカの寝顔を見て安心した途端、抑えていた気持ちがふとこぼれ落ちた。


「夢みたい、か。じゃあ、これからすることは、もっと君を驚かせるかもしれないね。」


「すること…?」


小首をかしげるローゼに、スイはいたずらっぽく笑みを浮かべる。そして彼女を伴って家へ戻ると、リビングの椅子に腰を下ろさせた。


「座ってて。すぐに用意するから。」


スイは穏やかに言い、キッチンへ向かう。鍋に火が灯り、野菜を刻む軽やかな音が響いた。ローゼは椅子に腰掛けたまま、その音を聞いていると、胸の奥がなぜか安らいでいくのを感じた。


やがて、香ばしい匂いとともにテーブルへ並んだのは、湯気を立てるスープ、柔らかなパン、煮込まれた鶏肉と野菜の皿だった。見慣れない料理に、ローゼは思わず目を瞬かせる。


「さあ、召し上がれ。急にたくさんは無理だろうから、少しずつね。」


スイが穏やかに微笑み、ローゼの一口を待つ。その視線に背中を押され、気づけば彼女は匙を手にしていた。


「いただきます。」


一口含むと、野菜の甘みと優しい塩気が舌に広がる。温かなスープが喉を伝うと、今まで冷たく固まっていた心まで解けていくようだった。


「あったかい…。」


ぽろりと零れた声は震えていた。味を語る言葉よりも先に、その温もりへの驚きが胸を満たす。スイがそっと笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、ローゼの瞳に熱が滲み、視界がかすんでいった。


――翌日。スイは、ローゼに再びおしゃれをさせると、彼女をとある場所へ連れて行った。それは、煌びやかなファッション街だった。


ショーケースには色鮮やかなドレスや洒落た服がずらりと並び、通り全体が眩しいほどに輝いている。


「こ、こんな場所…私には相応しくないです。」


ローゼは思わず立ち止まる。


「ん?そうかな。今の君の姿は、ここに相応しいと思うけど。」


スイの言葉に、ローゼは恐る恐るショーケースに映る自分の姿を見やった。


確かに、スイから譲り受けた綺麗な服を着ている今の自分は、場違いには見えないかもしれない。けれど、本来の自分はただの路地裏の子供で、犯罪者として扱われた身。体だってまだ痩せ細っていて、汚れも残っている。こんな場所に立ってていいはずが――


「まぁ、物は試しってことで。」


考え込む間もなく、スイに背中を押され、ローゼは店の中へと足を踏み入れた。高級感漂う店内で、スイはいくつかの服を手に取ってローゼへ差し出す。


「さ、試着してみようか。」


「わ、私…こんな服、着たことなくて…。」


複雑なデザインに戸惑うローゼ。袖の通し方すらわからず、どう動けばいいのか立ち尽くしてしまう。見かねたスイは店員に事情を説明し、手伝いを頼んだ。


「かしこまりました。スイ様のお連れ様のお世話をできるなんて、光栄ですわ。」


店員はにこやかに試着室へ入り、ローゼの痩せた身体を目にして思わず息を呑んだ。だが、表情に出すことなく、優しく、丁寧に彼女の着替えを手伝った。


やがて、試着室のカーテンが静かに開いた。


「まぁ…!とっても可愛らしいですわ!」


「うん、すごく似合ってるよ。」


スイと店員に褒められ、ローゼは頬を赤らめて恥ずかしそうに俯いた。そんな微笑ましい光景を、少し離れた場所から見つめる影が三つあった。


「な、なんか…スイ先生が超絶美少女とショッピングしてるんだけど!?」


放課後、ララとバニラを連れて買い物に来ていたマロンは、偶然にもスイとローゼの姿を目撃してしまった。


「気分転換にと思って来たけど、まさかこんな場面に出くわすなんてね。」


三人はここ最近、リーナの捜索にすっかり根を詰めていた。そんな彼女たちを見かねて、ミアが「少しは気分転換をしてきなさい」と背中を押してくれたのだ。


当のミアは今も親友を探し続けているが、彼女の言葉とあらば三人も逆らえず、こうしてショッピング街に足を運んでいた。


「にしても…スイ先生とあの子、どういう関係なのかしら?」


マロンが小首を傾げる。


「それはわからないけど…すごく可愛い子。」


「確かに誰が見ても美少女だね。」


客観的に見ても、ローゼはひときわ目を引く存在だった。儚げで美しい少女と堂々とその隣に立つスイ。二人の姿はどう見てもただの師弟や友人には見えない。


「まさか…恋――」


バニラが言いかけた瞬間、マロンが慌てて制止する。


「いや、まだわからないわ!」


「いやいや、わかるでしょ!」


バニラは力強く言い返す。


「高身長の王子様系お姉さんと、儚げなお姫様系美少女が仲良くショッピングしてるのよ?どう見てもデー――」


「だから!まだ、わからないってば!」


マロンの声が店内に響き、店員がちらりと怪訝そうな視線を向けてきた。三人は慌てて口をつぐむ。が、当然スイの目をごまかすことなどできなかった。


「何やってるの、三人とも?」


買い物袋を片手に振り返ったスイに見られ、三人は慌てて背筋を伸ばす。


「い、いえ!決してスイ先生が女の子と一緒に歩いているのを見かけて、気になって尾行してたなんて…全然そんなことは…。」


「馬鹿!」


口を滑らせたマロンの口を、バニラが慌てて塞ぐ。しかし、当のスイは眉一つ動かさず、むしろ楽しそうに笑った。


「あはは、なるほど。あの子と私の関係が気になって見てたってわけか。」


図星を突かれ、マロンは頬を赤らめて、「はい」と小さく頷いた。


「悪いけど、今は詳しく言えないかな。明日、改めて関係者を集めて彼女を紹介するつもりだから。もちろん、君たち三人も呼ぶ予定だよ。だから今は、そうだな、“同居人”ってことだけ教えておこうかな。」


「ど、同居…!?」


マロンが大げさにのけぞって倒れ込み、ララとバニラが慌てて支えた。しばらくして落ち着いたマロンは、ちらりとローゼに視線を向け、遠慮がちに口を開く。


「あの…名前を聞いても?」


「もちろん。」


スイに軽く背を押され、マロンは改めてローゼと向き合う。


「あなたの名前は?」


ローゼは小さな声で答えた。


「…ローゼ、です。」


「ローゼ…!くっ、なんて素敵な名前なの!」


マロンが拳を握りしめ、悔しそうに呟く。その純粋な反応に、ローゼの頬はみるみる赤く染まった。それから少しの間を置いて、ローゼも勇気を振り絞り、問いかける。


「えっと…あなたの名前は?」


「あっ、言ってなかったわね。私はマロンよ!明日もう一度、貴女に会えるのよね。楽しみにしてるわ。ほら、あんた達も自己紹介しなさいよ。」


マロンに促され、ララとバニラも続いた。


「私はララです。私も明日、楽しみにしていますね。」


「私はバニラよ。これからよろしくね!」


次々にかけられる気軽な言葉に、ローゼは目を見開く。


――初めて会ったばかりなのに、こんなにも簡単に受け入れてくれるなんて。


胸の奥が熱くなり、気づけば頬を涙が伝っていた。


「えっ!?ど、どうして泣くのよ。わ、私、変なこと言ってないわよね!?」


慌てふためくマロンを横目に、スイは柔らかく微笑む。


「ローゼは、嬉しくて泣いてるんだよ。」


「…あ、そういうことですか!?なーんだ、よかった。」


マロンが胸をなで下ろすのを見て、スイは目を細めて微笑んだ。自分の教え子に、こんなにも優しく、思いやりのある子たちが集まってくれた。その事実が、何より嬉しかった。


「それでは、もうこんな時間ですから、私たちは帰りますね。ローゼさんも、また明日!」


「…また、明日。」


ローゼは小さく呟く。


“また明日”。そんな当たり前の言葉を、自分が使う日が来るなんて思いもしなかった。今日という一日は、初めてのことばかりだ。


三人を見送ったあと、ぽつりと口にする。


「凄く…いい人たちでした。」


「そうだろう?あの子たちは、私の自慢の教え子なんだ。」


誇らしげに笑うスイの横顔を見て、ローゼは胸の奥がじんわりと温かくなる。


――ここでなら、私もきっと変われるかもしれない。


翌日。ランダ魔法学校の空き教室に、スイが関係者だと判断した生徒たちが集められていた。


シズクやララをはじめ、リーナの捜索に関わった面々、そしてジャレクと親交のあった生徒たちが席を埋める。


「薄々気づいている者もいるかもしれないが、婦女失踪事件の犯人はジャレクだ。」


「っ…!?」


教室内がざわつく。ジャレクは軽薄で節度を欠くところはあったが、これまで犯罪歴はなく、恋愛にも一線を引いているように見えた。それだけに、衝撃は大きい。


「当人はまだ意識不明だが、彼の両親が、彼が起こした数々の事件を隠蔽していたと証言している。リーナもその一人だ。」


その言葉に、ミアが机を強く叩いた。


「あのクズ野郎…今すぐ殺してやる!」


立ち上がろうとするミアを、ララが必死に押さえる。


「落ち着いてください!」


「落ち着けるわけないでしょ!?あいつ、捜索中に『きっと生きてる。俺も協力する』って言ったのよ!」


ララは言葉を失い、力なく手を離した。


「自ら手にかけておいて…ですか?」


「そうよ!」


ララも拳を握りしめる。


「そうですか。なら今すぐ、あの男の息の根を止めましょう。」


「落ち着きなさい。」


スイは静かな声で二人を制止した。冷静さを失った怒りを、そのまま暴発させてはならないと分かっているのだ。


「ジャレクを許せない気持ちは私も同じよ。でも、早まってはならない。彼が意識を取り戻したときに、法の下でしっかりと罪を償わせる。それが貴女たちのためにも、リーナのためにも正しい道よ。」


スイの言葉に、ミアとララは肩を落とし、教室のざわめきはゆっくりと収まっていった。重苦しい空気の中、スイは深く息を吸い、話題を切り替えるように教室を見渡した。


「…さて。今日君たちを集めたのは、ジャレクの件だけじゃない。一人、紹介したい子がいるんだ。」


教室の隅。皆が気づかぬふりをしていたが、そこには一人、見知らぬ少女が静かに座っていた。


「彼女の名前はローゼ。ジャレクを意識不明に追い込んだ張本人だ。」


教室は再びざわついた。幼い顔立ちの少女が、事件の当事者だという事実に、戸惑いと驚きが広がる。


「彼女は妹をジャレクに襲われ、その復讐心を抱いてダスターまでやって来た。復讐に至るだけの事情があったことは理解してほしい。だが、ジャレクを襲ったのは紛れもない事実だ。ジャレクの友人として言いたいことがあるなら、遠慮なく言ってほしい。それを彼女自身も望んでいる。」


静まり返った教室で、スイの言葉だけがはっきりと響いた。


――昨晩のことだった。


「本当にいいのかい? ジャレクに恨みを抱いている者だけを呼ぶようにしても構わないんだよ?」


その問いに、ローゼは迷いなく答えた。


「大丈夫です。もし、あの男を刺したことで、私を恨んでいる人がいるなら、それを真正面から受け止めるのが私の責任ですから。」


ローゼの言葉を思い返して、スイは視線を教室の生徒たちへと戻した。静まり返った空気の中、しばらく誰も口を開こうとしなかった。しかし、唐突に一人の男子生徒が椅子を軋ませて立ち上がった。


「俺が、代表して言うよ。」


ジャレクと特に親しかった同級生だ。普段は陽気なお調子者だが、今は笑みなど一つもない。


「ジャレクは、俺にとって大事な友達だった。馬鹿で軽薄で女好きで…でも、根はいい奴だと信じてたんだ。」


その言葉に、教室のあちこちでうなずきが漏れる。しかし彼は続けた。


「でも…リーナも、たぶんユーリも、あいつに襲われたんだと思う。二人とも、俺らにとって大切な友人だった。それをあいつが…!」


約一年前に失踪したユーリ、そして先日失踪したリーナ。彼らはずっと“事故”か“失踪”だと思い込んでいた。だが、犯人がずっと隣にいて、笑っていた友人だったと知った衝撃は大きい。


「本当に、吐き気がするよ。あいつはずっと俺たちを騙していたんだ。正直、死んで当然だと思ってる。でも、ローゼさんは結局あいつを殺さなかったんだろ?俺なら殺してたかもしれない。」


彼はローゼの顔を真正面で見て続けた。


「あんたはすごくいい人だよ。だから、そんなに自分を責めることはないって言いたいんだ。これはあくまで俺個人の気持ちだけどな。」


彼は周囲をちらりと見渡した。反論する者はおらず、むしろ静かな同意が教室を包んでいるのがわかった。


「どうやら、みんな俺と同じ意見みたいだな。ほら、ローゼさん。自分を責める必要なんてないぜ。何なら今からみんなでジャレクをボコボコにしてやってもいいくらいだ。そしたらみんな共犯ってことだろ。」


その乱暴な冗談に、教室の空気はわずかに和らいだ。だがローゼだけは、震える声で小さく、しかし真摯に答える。


「…ありがとうございます。」


その瞳から、かすかな涙がこぼれ落ちる。


「お、おいおい。泣かれると困るんだけど…。」


慌てふためく彼に、教室のあちこちからくすくすと笑いが漏れた。重苦しい空気はすっかり薄れ、温かな雰囲気のまま、スイの報告会は静かに幕を閉じていった。

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