幸せ
大通りを抜け、石畳が整然と敷かれた高級住宅街へと足を踏み入れる。その瞬間、ローゼの足取りは自然と重くなった。白壁に赤い屋根、手入れの行き届いた庭木や噴水。通りを歩く人々さえ、陽の光を反射して眩しく見える。
「…ここ、本当に同じ街?」
怯えたようにスイの袖をつかみ、ローゼは周囲を見渡した。路地裏の湿った石壁や煤けた窓しか知らない彼女にとって、この明るさは異世界そのものだった。
やがて、スイがその足を止める。
「ここが、私の家だよ。」
スイが指差したのは、二階建ての石造りの邸宅だった。壁をつたう緑の蔦はやわらかく揺れ、窓からは夕暮れの光が温かくこぼれている。黒い鉄の門扉の向こうには芝生の庭が広がり、白い砂利の小道が玄関まで続いていた。
「…っ!?」
ローゼは目を見開き、声を失った。
「これが…お家?お城じゃなくて?」
狭い路地裏の薄汚れた寝床しか知らない彼女にとって、それはまるで童話の中の情景だった。そんな彼女に、スイは苦笑しながら門を押し開け、中へと促す。しかし、玄関をくぐった途端、ローゼは再び言葉をなくす。
広々としたホールは派手さこそないが、磨かれた木の床はしっとりとした艶を放ち、壁には季節の花を描いた素朴な絵画や小さな棚に並べられた陶器が置かれている。階段の手すりや扉の取っ手には年季がありながらも丁寧に手入れされており、家全体に人の気配と温もりが息づいていた。
その空気は、高級でありながらもどこか優しく、ローゼの胸を締めつけるほど心地よかった。
「ひ、広い…!」
小さくつぶやいた声は震えていた。
「私、迷子になっちゃうかも知れません。」
そんなローゼを見て、スイは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「一人で住むには広すぎるんだ。だから、君がいてくれてちょうどいい。」
ローゼの胸に、じんわりと温かいものが広がった。路地裏では決して味わえなかった安心感と居場所。その匂いが、この家には満ちていた。
それから一通り家の案内をされたあと、最後にローゼの部屋となる場所に案内された。
「ここがローゼの部屋。隣が私の部屋だから何かあったら、いつでも声をかけていいからね。」
扉をそっと開けるとそこには見知らぬ光景が広がっていた。ふわふわのベッドに綺麗な机、本棚にクローゼットまで何でも揃っている。
「わ、私には勿体なさすぎます…!」
キラキラとした部屋にローゼは思わず、目を瞑る。
「ふふ。勿体ないと思うなら、この部屋に見合う女性になることだね。」
緊張するローゼにスイはいたずらっぽく笑いかけると、無理やり彼女を部屋へと押し込んだ。
「はい。これで、もうここは君の部屋だよ。」
「ズ、ズルいですよ。お姉さん。」
可愛らしく頬を膨らめるローゼに苦笑しつつ、スイは問答無用でローゼの少ない荷物を部屋に入れる。
「さて。早速だけど、少し出かけようか。でもその前に――」
スイはローゼの体を見回して少し微笑する。
「お風呂に入ろうか。」
その言葉にローゼは顔を真っ赤にして「はい...」と呟いた。
早速、脱衣所に向かいローゼは恥ずかしがりながら服を脱ぐ。そして、浴室に足を踏み入れた瞬間、ローゼは思わず立ちすくんだ。
白く輝く壁に、磨き上げられた床。奥には大人が三人は入れそうな大きな湯船が湯気を立てていた。
「こ、こんなに大きなお風呂見たことない…。」
ローゼは目を丸くする。
「ふふ。ゆっくり慣れていけばいいよ。まずは髪を洗おうか。」
スイは棚から瓶を手に取った。透明な液体が揺れるガラス瓶を見て、ローゼは首を傾げる。
「そ、それは…何ですか?」
「これはシャンプー。髪を洗うためのものだよ。」
ローゼはぽかんとした顔で瓶を見つめ、恐る恐る尋ねた。
「そんなものがあるんですか?」
「あるんだよ。ほら、座って。」
スイに促され、ローゼは小さな椅子に腰を下ろす。スイは彼女の髪を濡らすと、シャンプーを掌に取り、優しく泡立てていく。
ふわふわの泡がローゼの赤髪に広がり、スイの指先が頭皮を丁寧に撫でる。
「…っ!」
ローゼは思わず目を閉じた。今まで髪を乱暴に引っ張られることはあっても、こんなに優しく扱われたことは一度もない。その初めての感覚に驚いてしまったのだ。
「どう?痛くない?」
「い、いえ…むしろ、気持ちいいです。」
ローゼの言葉にスイは少し微笑み、泡をお湯で流していく。さらさらとした髪が肩に落ち、ローゼは自分の髪が軽くなったように感じた。
「今度はコンディショナー。髪を柔らかくして、守ってくれるんだよ。」
「こ、こんなに…色んなものが。」
戸惑う彼女の声に、スイは「これからは普通のことになるよ。」と笑って答える。
髪が終わると、次は体だ。石鹸を泡立て、スイが背中を優しく撫でる。ローゼも自分の腕や足を恐る恐る擦る。けれど、すぐに手が止まってしまう。
「どうしたの?」
「わ、私...お湯をこんなに使っていいのかなって。今までは、水で…冷たい水で洗うのが当たり前だったので。」
震える声に、スイは手を止めてそっと彼女の肩を抱いた。
「大丈夫。ここは君の家なんだから。好きなだけお湯を使っていいんだよ。」
その言葉にローゼは小さく頷き、再び石鹸を泡立てる。全身を洗い流したあと、スイが微笑んだ。
「よし、綺麗になったね。それじゃあ、湯船に入ってごらん。」
ローゼは湯船の縁に手をかける。だが、足がすくむ。
――湯船に入るなんて許されない。汚い子供は桶の水で十分だ。
路地裏で浴びせられた怒声が耳に蘇る。
「私なんかが、入っていいんですか?」
その問いに、スイは柔らかい微笑んで答えた。
「もちろん。だって君はもう、私の家族だから。」
ローゼはその言葉に背を押され、恐る恐る足を湯に浸す。じんわりとした温もりが足先から体へと広がり、思わず声が漏れた。
「...あったかい。」
肩まで沈むと、まるで抱きしめられているように体も心もほどけていく。路地裏で凍り付いた心が、今ようやく解き放たれたようだった。
「こんなに、あったかいんだ…!」
涙が頬をつたう。けれど、それは悲しみではなく、初めて味わう温もりに心がほどけた証だった。
ローゼはそれから、気のすむまで湯船に浸かった。肩までお湯に沈み、目を閉じ、ただ「あたたかい」という感覚に身を委ねる。その様子を、スイは穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。
やがてお風呂を上がると、ローゼはふわりとしたタオルに驚きながらも、ぎこちなく体を拭きはじめる。
だが次の瞬間――
「な、なんですか!?この服…!」
脱衣所にいつの間にか用意されていた服を見て、ローゼは目を丸くした。
「私が昔着ていた服だよ。捨てるのは惜しくて取っておいたんだ。まさか役に立つとは思わなかったけどね。」
「で、でも…私なんかが、こんな綺麗な服を着ていいんですか?」
「もちろん。もう誰も着る人のいない服なんだ。君が着てくれたら、私も、その服も嬉しいよ。」
その言葉にローゼは小さく頷き、恐る恐る袖を通した。姿鏡に映った自分を見て、思わず息を呑む。そこにいたのは、路地裏の薄汚れた子供ではなく、まるでどこかの国のお姫様のようだった。
「これが…私?」
「そう。これが本来の君だよ。これからは、それが普通になるんだ。」
スイの優しい言葉に、ローゼの瞳からまた涙がこぼれた。
――数分後。ようやく落ち着いたローゼを連れて、スイはある場所へ向かった。行き先はランダ最大の病院、ダスター総合病院のVIPルームだ。
「モニカ…!」
そこには、既に運び込まれた妹の姿があった。ローゼが駆け寄ると、かすかに瞼が動く。
「…お姉ちゃん?」
「っ…! モニカ、意識が...。」
ローゼの知る限り、今のモニカはこれまでで一番落ち着いて見えた。だが、それも当然のことだった。
「スイさん、少しよろしいですか。」
医師に呼び出され、スイは部屋の外に出る。
「モニカさんの状態ですが、劣悪な環境に置かれていた影響で心身の損耗が激しいようです。今は気持ちを落ち着かせる魔法を施していますが、完璧に会話ができるようになるまでには相当な時間が必要でしょう。」
「完治は可能ですか?」
「はい。適切な治療を続ければ、十分に回復します。」
モニカが抱えているのは特別な難病ではない。必要なのは、十分な治療と時間だけ。決して「余命半年」などというものではない。彼女がこれまで入院していた病院は、完全なる闇医者だった。
弱い立場の患者から治療費を巻き上げるだけでろくに治療をせず、限界が来た頃には「余命いくばくもない」と告げて患者の臓器を売りさばく、そんな非合法な組織だったのだ。
つまり、ローゼはずっと騙され続けてきたのだ。だが、それを彼女に知らせる必要はない。いや、知らせてはならない。
信じていた医者が、最初から最後まで自分と妹を騙して搾取していたなんて、そんな残酷な真実、純粋なあの子が耐えられるはずがない。
「ローゼには、このことは内密にお願いします。」
「…わかっています。」
医師は固く頷きながらも、カルテを握る手に力を込めた。白い紙が皺だらけに歪む。彼自身、目の前の少女が受けてきた仕打ちに憤りを覚えているのだろう。
「まさか…こんな非道な真似をする人間がいるなんて、信じられません。」
スイは言葉を返さなかった。ただ小さく目を伏せる。視線の先、カルテに書かれた数値や所見が、無言の証拠となっていた。
モニカの身長は、同年代の子供より明らかに低い。体重も恐ろしいほどに軽く、骨ばった四肢は一目で栄養不足を示していた。頬はこけ、胸の上下も弱々しい。長年まともな食事を与えられてこなかったのは明白だった。
そして、それはローゼも同じだ。
一緒に風呂に入った際に見えた痩せ細った背中。服で隠されていた体は、幼さに似合わぬほど痛々しかった。
「本当に、よく生きていてくれた。」
誰にともなくつぶやいたスイの声には、怒りと安堵、そして哀しみが入り混じっていた。
この姉妹は、生き延びること自体が奇跡だったのだ。だからこそ、これから先は必ず守り抜かなければならない。
そう、スイは強く心に誓った。




