授業
「――であるから、この値は負の数の――」
淡々とした声が教室に響く。
だがシズクもララも、耳には入ってこなかった。つい先ほど体験したあの感覚が、まだ心を支配していたからだ。
一般魔法を攻撃魔法のように放ったときの衝撃。指先に残る余韻が、どうしても頭を離れなかった。
「おい! そこの二人!」
鋭い声に現実へ引き戻される。数学教師が、眼鏡の奥から睨みつけていた。
「話を聞いているのか?主席、次席だからといって気を抜いていいと思っているのか!」
「いえ…!」
反射的にララが姿勢を正す。
教師は口元を歪めて黒板を叩いた。
「ならば、この問題に答えてみろ!」
――ふん、入学試験には一般科目がないからな。魔法だけが取り柄、教養のない子どもだということを思い知らせてやる。
この学校の特待クラスは、例年こうして一般科目の教員に目の敵にされる。
魔法が使えるだけで特別扱いされている。そう思い込んでいるからだ。しかし。
「八です」
シズクは問題を一瞥しただけで即答した。
「…正解だ。ではこっちはどうだ!」
「十四です。」
今度はララが間髪入れずに答える。考える素振りさえない。
「……正解だ。」
教師は不服そうに吐き捨てるように言葉を返した。
無理もない。シズクもララも、幼い頃から自発的に学び続けてきた。魔法だけでなく、知識も技術も磨いてきた。この程度の計算問題で躓くはずがなかった。
二人はちらりと視線を交わし、何事もなかったかのように前を向いた。
だが胸の奥底では、依然として先ほどの魔法の余韻が燻っている。
そうして午前の授業が終了し、昼食を挟んで午後の授業が始まった。午後の授業は必ず魔法の実技と決まっていて、今日は早速、攻撃魔法の授業である。
「それじゃあお待ちかね!みんな大好き、トリスちゃんの授業だよ☆」
ひときわ元気な声と共に、トリスは自画自賛するように両手でパチパチと拍手した。
生徒たちは呆れたような笑みを浮かべつつも、どこか期待に目を輝かせている。
「一部の子は部屋の先輩から攻撃魔法について教えてもらったかな?」
トリスは教室をぐるりと見渡すように視線を巡らせる。数人が小さく頷いたのを確認すると、彼女は「うんうん」と満足げに頷き返した。
「生徒同士で教え合うのは良いことだよ~。でも、それはそれとしてね?知らない子もいるだろうから、基礎からバッチリ教えてあげる♪」
その軽い調子に、生徒たちは「また冗談交じりだ」と気を抜いた。だが次の瞬間――
トリスはすっと掌を前に構えた。そして何の前触れもなく、火の矢が放たれる。
魔法陣を展開する気配もなければ、矢を象る工程すら見えない。ただ気付いた時には、火の矢が空気を裂いて的に突き刺さっていた。轟音と共に的は粉々に砕け散り、周囲の地面までも大きく抉れて煙が立ち上る。
「…!」
生徒たちは一瞬、息を飲むのも忘れた。ただ目の前の光景を呆然と見つめるしかない。
「はい、これが攻撃魔法の基本~。って言っても、いきなり真似できるもんじゃないけどね☆」
にこやかに手を振るトリスの姿は、ついさっきの凄絶な破壊をもたらした本人とは思えないほど軽い。
その様子を見たシズクとララの脳裏に、ある光景がよみがえる。ヴァイオレットが前に一度だけ見せてくれた、美しい一撃が。
まるで別人のはずなのに、同じ凄みをそこに見た気がして、二人は無意識に背筋を正した。
「はいっ!じゃあ今度はみんなの番!さぁやってみて~。」
満面の笑みで手を叩くトリスに、生徒たちは顔を見合わせた。次の瞬間、誰かが堪らず声を上げる。
「それじゃあ何もわからないですって!」
その一言に周囲からも「そうだそうだ」と小さな同調の声が漏れる。
いきなり凄まじい魔法を見せつけられても、何をどうすればいいのか理解できるはずがない。
「あっ、そうだったそうだった!」
トリスは額をぽんと叩き、まるで今気付いたように笑った。
「ごめんごめん!トリスちゃん、ついつい自分のカッコいいとこ見せたくなっちゃって~。えへへ♪」
生徒たちは呆れ半分、安堵半分の表情を浮かべる。
「じゃあ改めてね。攻撃魔法には手順があるんだ。魔法陣を描いて、魔法を生み出して、形を象って...はい、こう!」
トリスは今度こそ、ゆっくりとした動作で魔法を展開してみせた。
先ほどの爆発的な速さとはまるで違い、一つひとつの工程がよく見える。魔法陣が展開され、火が生み出され、矢の形を象り、そして放たれた火の矢が的を正確に射抜いた。
「ね、これなら見えたでしょ?」
にっこり笑うトリスに、生徒たちは揃って頷く。
ようやく「自分たちもやれるかもしれない」という実感が湧き始めていた。とはいえ、一目で魔法陣を覚えられるはずがない。それを分かっていたトリスは、全員に魔法陣を描いた紙を配っていった。
「まずは、その紙を見てやってみな~。魔法陣を覚えてる子は、なしでも大丈夫だよ~。」
生徒たちは紙を覗き込み、緊張した面持ちで挑みはじめた。
魔素を体内に取り込み、次に足へと集中させ、地面に放出し、形を描く。
その一連の流れは、頭で理解していている。しかし、新しい魔法を初めて使うときは往々にして上手く行かないものだ。展開された魔法陣は歪んで途切れ、線が揺れて崩れ、火を操る魔法の形には到底至らなかった。
生徒達は悔しそうにする。
「心配しないで!最初からできる子なんていないんだよ。魔法陣を描くのが一番むずかしいんだからね~。」
トリスが軽く笑って声をかけ、生徒たちを安心させる。
だがその横で、シズクとララは静かに目を閉じ、深く呼吸を整えていた。
体内に巡る魔素を感じ取り、それを足へと集める。次の瞬間、二人の足元に鮮やかな光が走り、見事な魔法陣が描き出された。線は乱れず、紙に描かれていた通り、精密に地面へと刻まれていく。
「…っ!」
思わず周囲の生徒が息を呑む。
二人はさらに魔素を注ぎ込み、同時に掌を突き出した。
形こそ拙いが、確かに完成された火の矢が飛び出し、的に突き刺さる。小さな火花が散り、煙が上がった。
「おお~!やるじゃん二人とも!初めてでここまで形になるなんて、めったにないよ~!」
トリスが両手を叩き、嬉しそうに褒めちぎる。
注目を浴びて戸惑う二人だったが、シズクが少し照れたように口を開いた。
「実は初めてじゃないんです。今朝、先輩に教えてもらって練習したんです。」
「同じく。私も一緒に練習しました。」
その一言に、張りつめていた空気がふっと緩む。周囲の生徒たちは顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。
「な、なるほど…。そりゃ、いきなりじゃないよな。」
「でも練習してても、あそこまで形になるのはすごいよな…。」
二人への羨望は消えずとも、劣等感は和らぎ、代わりに「自分たちもやればできる」という空気が生まれつつあった。だが彼らは知らない。シズクもララも、実のところ練習の時から一度で成功していたという事実を。
もちろん二人がそれを口にするつもりはなかった。そんなことを言えば、周囲に軋轢を生むのは目に見えているからだ。
しかし、そんな二人の配慮とは裏腹にどうしても劣等感を拭えない少年が一人いた。
「ありがとうございます。」
少年は、トリスから小さな魔道具を手渡されていた。
「うん。頑張って修練に励むと良いさ。シード君。」
「はい!」
彼の名前はシード。この学校で史上初めての魔道具使いである。
魔素を取り込むことができない体質、魔素欠乏を抱える彼にとって、魔道具は唯一の武器だった。だがその実力は紛れもなく本物で、筆記試験ではシズク、ララに次ぐ三位、総合でも特待クラスに入るに足る成績を残している。
今、彼が手にしたのは火を操る魔法の魔法陣を刻んだ特製の魔道具。魔素吸収装置を内蔵しており、周囲の魔素を取り込み、それを正しく操作することで初めて魔法が放てる仕組みである。
ただし、それは一般的な魔道具よりもはるかに繊細で扱いが難しい。正しく操るには高度な集中力と知識が求められ、習得には普通の魔法と同様に一か月の時間がかかる。
シードは深呼吸をして、魔道具をぎゅっと握りしめた。彼の胸中にあったのは期待ではなく、「自分はここにいていいのだろうか」という静かな問いだった。
シードは深く息を吸い込み、魔道具を構えた。
「…やれる。僕だって。」
手にした魔道具の核がわずかに赤く灯る。だがそれは不安定に揺れ、すぐに光を失ってしまった。再び試す。今度は火花が散ったが、矢の形にはならず、かろうじて煙が立ち上るだけで終わった。
シードは唇を噛みしめた。
――やっぱり僕には無理なんだ。シズク君やララさんみたいに、一度で魔法陣を展開して、きれいに魔法を放つなんて…。
魔道具を握る指先に、じんと痛みが走る。周囲の誰も声をかけてはこなかったし、誰も彼を見ていない。ただ、彼自身の心だけが冷たい声を響かせる。
――特待クラスなんて、本当は僕にふさわしくない。ここに立っていること自体、間違いなんだ…。
彼の視線は自然と、魔法陣を鮮やかに描き、火を操る魔法を放ったシズクとララに向いてしまう。その輝きはまぶしすぎて、思わず目を逸らした。
――あの二人は、僕とは違う。最初から選ばれた人間なんだ。
握りしめた魔道具がかすかに震える。シードの胸には、誰にも聞かれない静かな劣等感だけが募っていった。




