基本
まだ三十分しか経っていないというのに、シズクとララはもう肩で息をしていた。ヴァイオレットの言葉通り、その日の訓練はこれまで以上に苛烈なものとなったのだ。
課題は「動きながら魔法を発動すること」。一見単純だが、実際にやってみると予想以上に難しい。
戦場で立ち止まったまま魔法を放つ機会などほとんどない。日常生活ならばそれでも十分かもしれない。だが軍人を志すなら、移動しながら魔法を撃てるのは当然の前提だ。
とはいえ、その難易度は想像を絶する。
魔法発動には足元に魔法陣が必要だが、移動すれば置き去りになる。つまり、足元の魔素を精密に制御し、自分の位置に合わせて魔法陣を滑らせるように動かさねばならない。
いかに魔法陣の生成に慣れていようとも、その複雑な図形を移動させるのは至難の業だ。
激しい運動に耐える肉体と、同時にそれを制御する高い集中力。まさに「原点にして頂点」と呼ぶべき、魔法使いに必須の技術であった。
――頭ではわかってる。魔素の流れを座標に固定して、身体の動きに合わせて逐次補正すればいい。だけど…。
理屈は完璧に理解している。だが、理解できても身体がついてこない。激しく走りながら、同時に精密な作業をこなす。その難しさにシズクは歯噛みした。
一方で、隣を走るララは、感覚的に魔法陣をついてこさせること自体はできていた。だが、わずかな軌道の乱れで魔素の流れが崩れ、陣は儚く弾けて消える。
――まただ…。
悔しさに胸を締めつけられながらも、ララは足を止めなかった。自分の中に掴んでいる感覚は確かに正しい。あとは、その小さなズレをどう修正するかを見つけるだけだと理解していたから。
訓練場の端で見守るヴァイオレットは、二人を優しげに見守っていた。
「理屈では理解できているのに体がついてこないシズク君。逆に、感覚で掴んでいるのに安定させられないララちゃん。…予想通り、どちらも壁にぶつかっているわね。さて、その壁をどう乗り越えるのかしら。」
ヴァイオレットは目を細め、あえて口を挟まずに見守る。二人なら必ず、この程度は越えてくれると信じているから。
「ララ。」
先に声をかけたのはシズクだった。お互いの欠点を正確に捉えた結果、情報を共有することこそが解決の近道だと悟ったからだ。
「ララができることを僕はできていない。逆に、僕ができることをララはできていない。だから、お互いに補おう。まずララには何が見えているんだ?この訓練で気づいたことを、全部教えてくれ。」
「うん。わかった。」
そうして二人は十分ほど言葉を交わした。一方は理論に基づいた気づきを。一方は感覚に基づいた手応えを。
そうして話し合いの末に、二人はそれぞれ、まったく別の結論へと至った。
最初に動いたのはシズクだった。
「できるかもしれない。」
シズクは小さく呟くと、走りながら魔素の流れを組み替えた。従来のように座標へ固定するのではなく、自分の体そのものを基準に置く。あくまで陣は外に存在するものだが、その座標系を自分に結びつけることで、動きに合わせて滑らかに追従していった。
その瞬間、シズクは小さく息を呑んだ。
「よし...!」
その一言には、喜びと安堵が込められていた。
一方でララは、別の方法を選んでいた。彼女は魔法陣を“道具”ではなく“自分の一部”として扱う。まるで腕や足の延長のように、自然に陣を纏わせる。走るたびに陣は揺れるが、彼女自身の感覚に同調して離れない。理屈などいらない。ただ、在るべき場所に在る。それだけで成立していた。
ララの陣もまた、消えなかった。
「…なるほどね」
互いに喜び合う二人を見つながら、ヴァイオレットは柔らかく微笑んだ。
「シズク君は理論で陣を追従させ、ララちゃんは感覚で陣を身体に馴染ませた。やり方は違うけれど、どちらも正解よ。」
ヴァイオレットは一歩近づき、真剣な声色で告げる。
「魔法に唯一の正解なんてない。魔法使いの数だけ正解があるのよ。あなたたちはそれを、自分で証明してみせた。」
シズクは息を切らせながらも、自分の理論が通じたことに胸を張った。ララは汗に濡れた頬を拭い、シズクに笑いかける。二人は互いの違いを抱えたまま、同じゴールへと辿り着いていた。
「あら、もうこんな時間。」
気づけば時計の針は十八時を指している。
「今日はここまでにしましょう。」
興奮の余韻を抱えたまま、二人はヴァイオレットに連れられ帰路についた。成功の感覚はまだ体に残っていて、すぐにでも練習を重ねたい衝動が胸を焦がす。
だが、ヴァイオレットが毎日のように言う言葉が、それを押しとどめた。
「休息中にもできることはある。習ったことを頭の中で反芻し、反省点を次に繋げる。体を動かすだけが成長じゃない。」
歩きながらも二人の頭には訓練の内容が巡っていた。
ヴァイオレットはそんな二人の横顔を横目に、思わず微笑んだ。口には出さないが、その胸の内には確かな誇らしさが宿っていた。
――ここまで自分で考え、学んだことを糧にできる子たちを、私はまだ見たことがない。
一人前と呼ばれる魔法使いの中でも、こんな簡単な基礎を本当に理解している者は少ない。
それをまだ十歳の子供達が自然と体現している。その事実に、ヴァイオレットは改めて「弟子」という存在の重みを感じていた。
「…いい弟子を持ったわね、私も。」
小さく漏れた言葉は夜風にさらわれ、二人には届かない。けれど、ヴァイオレットはそれで十分だった。初めての弟子を持つ誇らしさが、静かに胸の奥に広がっていくのを確かに感じていたから。
満足げに頷くヴァイオレットだったが、その脳裏には明日入学試験を控える三年上の子供たちのこともよぎっていた。きっと彼らも今ごろ、不安や期待に胸を揺らしながら最後の夜を過ごしているだろう。
シズクとララにはまだ先のこと、だが、やがて必ず同じ日が訪れる。
――そして、三年の月日が流れた。
十歳だった二人は十三歳へと成長し、今度は自分たちが入学試験を受ける番を迎えていた。
今回で幼少期編を終了とし、次回から魔法学校編をお送りさせていただきます。
次回は9/27(土)に投稿いたします。




