理解
ハッキリ言えば、現状のシズクの魔法陣は洗練とは程遠かった。
もちろん、同年代の子供たちと比べれば異次元の領域に到達しているのは間違いない。だが、成熟した魔法使いと並べてみれば、粗雑さが目立つ。
それでもヴァイオレットや傍らで見守っていたアリアの目に映ったのは、その未熟さではなく、十歳という年齢でその領域に到達してしまった稀有な才能だった。
「どうやってそこまで...。アリアさんが教えたんですか?」
ヴァイオレットが思わず問いかける。だが、アリアは静かに首を振った。
「いや。私は何もしていない。彼自身が試行錯誤し、ここまで辿り着いたんだ。」
「…そう、ですか。」
ヴァイオレットは少し思案すると、シズクに向き直り、ゆっくりと口を開いた。
「なら、今教えられることを教えましょう。君なら、この短時間で理解できるはず」
ヴァイオレットが指導したのは魔法陣の描き方そのものだった。
「先ほど君は、魔法陣を外側から描いていたわね。でも、それでは効率が悪いの。」
魔法陣を描く工程はこうだ。空気中に漂う魔素を体内に取り込み、それを再び体外へと放出し、軌跡として紡ぎながら陣を形成する。
多くの魔法使いは図形を描くのと同じ感覚で、輪郭つまり外側から描く。確かにそれが最も分かりやすい方法だ。
「でも、戦場で求められるのは分かりやすさではなく速さよ。」
ヴァイオレットの声に熱がこもる。
「外側から描く場合、魔素を外周まで運ぶ余計な時間が生じる。でも内側から描けば、その時間を削れる。僅かな差に見えるかもしれないけれど、その一瞬が生死を分けるの。」
ただし難度は跳ね上がる。外側から描くのに比べれば、およそ二倍。実際に完璧に使いこなせる魔法使いはほんの一握りだ。
早速試みたシズクの魔法陣は当然ながらぐちゃぐちゃ。到底使い物にならないものだった。
「ふふ。いきなり成功できるものじゃないわ。私だって物になるまで一か月はかかったのよ。」
それはヴァイオレットが十二歳の頃の話。今、十歳のシズクがその技術を教わっている。どれだけ時間がかかるかはわからない。だが一つだけ確かに言えるのは、魔法の才そのものは、シズクが自分を上回っているということ。
「君なら、私よりも速く会得できると思う。楽しみにしているよ、シズクくん。」
ヴァイオレットの言葉に、シズクは胸を高鳴らせながら、繰り返し練習に没頭した。
この日のうちに完成度が劇的に向上することはなかった。だが確かに彼は、魔法使いとして新たな領域へと足を踏み入れていた。
翌日。アリアは魔法協会の本部から呼び出しを受け、帝都に残ることとなった。こうしてシズクは、ヴァイオレットと二人でストックを目指すことになる。
道中、互いに身の上話を交わすうちに、シズクは意外な事実を知った。
「えっ...アミルカ将軍が、孤児院の院長!?」
「ええ。ラベガに孤児院を持っているの。実は私も、そこで育った孤児の一人なのよ。」
ヴァイオレットが穏やかに答える。
ラベガ。それは帝都から見てランダの反対側に位置する領地。無数の川と湖を抱えるランダが“水に生きる地”と呼ばれるのに対し、ラベガは深い森と一つの巨大な山によって構成され、“神秘の眠る地”と称されている。
そんな地にアミルカ将軍は孤児院を建て、数多くの子供たちを保護してきた。ヴァイオレットもその中の一人で、アミルカをお母さんと呼んで慕っている。
「...でも、将軍ですよ?僕の印象だと、腹の内を絶対に見せない、蛇みたいな人で…」
シズクの正直な感想に、ヴァイオレットは楽しそうに笑った。
「あはは。そう思うのも無理ないね。仕事中の彼女は、確かに冷酷に見えるから。」
笑いながらも、その声はどこか誇らしげだった。
「でも本来の彼女は、驚くほど子供に甘い人なの。もし軍務じゃなければ、きっと君にも別の顔を見せてくれただろうね。」
「...信じられない」
シズクは訝しげな表情を崩さない。けれどヴァイオレットは気にした様子もなく、微笑みを浮かべたままだ。恐らく彼女は、同じような疑念を何度も向けられてきたのだろう。
「まあ、アミルカ将軍の話はこれくらいにして。シズクくん。次は君の番ね。ララちゃんについて、少し教えてもらえる?」
「……わかりました」
シズクは考えながら、自分の知る範囲でララについて語った。得意とする魔法、苦手とする分野。今の魔法のレベル。さらには魔法とは関係ない小さな趣味や好みまで。ただしプライバシーに踏み込みすぎない程度に。
「――後は、本人に聞いてください。僕の口からはこれ以上は言えません」
「うん、大丈夫。ありがとう。だいたいララちゃんがどういう子かわかったよ。」
ヴァイオレットは柔らかく微笑み、シズクの誠実さを讃えるように頷いた。それで会話はいったん途切れ、馬車の中に小さな静寂が訪れる。
馬車の車輪が砂利道を刻む音が、それが規則正しい音から不規則な音に変わる。ストックが近づいている証拠である。シズクの胸は妙に高鳴っていた。
一方でヴァイオレットは揺れるたびに乱れる髪を片手で抑えながら、窓の外を静かに眺めている。緊張するシズクとは対照的に落ち着いている様子だ。
「…なんだか落ち着かない顔をしてるわね、シズクくん。」
視線を移さずに、ヴァイオレットがふっと微笑む声を出した。
「えっ、そ、そんなことないですよ。」
慌てて姿勢を正すが、図星を突かれて顔が熱くなる。ヴァイオレットは小さく笑って、今度は真正面から彼を見る。
「ララちゃんのことを考えていたのでしょう? さっきも、たくさん彼女の話をしてくれたし。」
シズクは口を開きかけ、少しだけ考えてから頷いた。
「…はい。僕はヴァイオレットさんにララを見てほしいんです。僕だけじゃなく、ララもすごいって知ってほしいんです。」
馬車の窓から、広がる田園風景に光が差し込む。ヴァイオレットはしばらくその景色を眺め、柔らかな声で言葉を紡いだ。
「そうね。シズクくんがここまで誇らしげに語る子だもの。きっと特別な子に違いないわ。」
「はい!」
シズクの声がひときわ大きく響いた。
馬車は小川を渡る橋を越え、丘を登る。遠くに木造の家々が集まった街並みが見え始めた。
「…見えてきました。あれが、僕たちの街です。」
シズクの声に、ヴァイオレットは身を乗り出して窓の外を眺めた。そこに広がるのは、素朴ながら活気に満ちた風景だった。
「いい町ね。」
ヴァイオレットの言葉に、シズクは胸を張った。
「はい。僕たちの誇りです。」
馬車はゆっくりと速度を落とし、街の入り口に差しかかる。この先にララがいる。シズクの心は、期待と少しの不安で大きく揺れていた。




