ピーコック飯店で
魔術院の休日。
前もって実家から呼び出されていたミックはピーコック飯店にいた。
お礼をしたいとリズが実家に連絡してきたそうだ。
「あんた何したの?」
寮の共同の通信魔道具で母親に怒鳴られて、ミックは耳を押さえた。リズはイブニング子爵家やチェルシーの名前は出していないようなので、ミックも気を使う。
「何もしてないって。ちょっとひったくりに遭った人を助けただけだって」
「とにかく、指定の時間に必ず帰ってきなさいね!」
何度も念を押されて、ミックは実家に帰ってきた。
今、目の前にはなぜかリズではなく、チェルシーがいた。
昼のピークが過ぎた時間。他に客はいない。
端の席に向かい合って座ると、母が水の入ったグラスを並べた。
身分の高い令嬢が来たことに母も気づいているが、うろたえたりしないのはさすがだ。東方料理の専門店は王都でも珍しく、お忍びで貴族が訪れることもあるから慣れているのかもしれない。
「何か食べます? 俺は昼飯まだなんで」
「ええ、わたく、私もまだなの」
前回会ったとき、警備団の事情聴取で口調がいかにもご令嬢だと指摘したからか、チェルシーは言い直した。
「ご希望はありますか? どれも東方の国の料理なんすけど」
「いいえ、食べたことがないからお任せするわ」
お任せと言われて内心ほっとする。昼のメニューは日替わり定食一択なのだ。
「じゃあ、定食二つで」
「はいよー」
余計なことは聞かず、母はいつも通りに注文を取って行った。
「ええっと、今日はリズさんは?」
「リズは急に実家に用事ができて、あとで待ち合わせているの」
「貴族令嬢って侍女や護衛をいつも引き連れてるのかと思ってたんすけど」
「高位貴族はそうでしょうけれど、私は一人で外出することだってあるわ。それに今日は外を歩くわけではないし」
「そうなんすねー」
チェルシーが言い訳のように言うのがほほえましくて、ミックは笑顔を浮かべて同意する。
かわいらしい人だな、という発見に心が浮き立つ。
「お礼を言いたいのはリズじゃなくて私の方だもの」
チェルシーは改まって頭を下げた。
「ありがとうございます」
ミックは慌てる。
「いや、もうお礼は何度も聞いたじゃないすか。全然大丈夫です。もう十分なんで」
「先日のことだけじゃないわ。エイプリル伯爵からの断り状に私が魔術師じゃないことは理由じゃないって書いてあって、兄にも直接伝えてくださったの。伯爵からは私宛てに謝罪の手紙をいただいたのだけど、あなたが心配してくれていたって」
ブラッドはミックが伝えたことを配慮してくれたようだ。
「そりゃあ心配しますよ」
「だから、ありがとう」
「それなら、遠慮なく。どういたしまして」
ミックはにっかりと笑った。
「いえ……」
俯いたチェルシーの頬が赤い。
見つめていると、チェルシーは勢いよく顔を上げた。
「お礼の品を用意しようと思ったんだけれど、何がいいかわからなくて。リズはあなたに直接聞けばいいと言うし……」
「言葉だけで十分っすよ! 本当に」
ミックは顔の前で両手を振って断ったけれど、チェルシーは納得いかなそうだった。
「じゃあ考えときます、ってことで」
そうこうしているうちに、母が料理を運んできてこの話は打ち切りになった。
チェルシーに言った通り、ミックは彼女の言葉だけで十分だった。そもそも二度と会うことはないと思っていたのだから、直接礼を言われただけでも報われている。礼品の件はこのままなかったことにしようとミックは決めた。
初めて食べるチェルシーのために東方料理の説明をしながらだからか、食事は緊張せずに進んだ。点心やチャーハンは彼女の口に合ったようで良かった。
「こないだの、劇場の照明魔道具、仕組みわかりました?」
程よいところで、ミックは魔道具の話を持ち出した。十日市ではこの話をする暇がなかったのだ。
そういえば劇場では気まずいまま別れたのだった。再会したときはひったくりや串焼き肉のどさくさで、前の気まずさを思い出すこともなかった。劇場の話題はよくなかったかとミックは少し心配になる。
しかし、チェルシーは気にしなかったようで、普通の反応だ。
「いいえ。でも、セリフじゃなさそうね」
「セリフじゃないって、なんでわかったんすか?」
「同じセリフが何度も出てきたじゃない。でも、照明は違ったわ」
「同じセリフ……?」
「劇は見ていたのよね? ストーリーは覚えているの?」
「あー、えっと。恋愛ものだったのはなんとなく。男のほうが主人公でしたっけ? あの騎士の」
「騎士なんて、後半だけ出てくる当て馬じゃない。本当に見ていたの?」
「いや、見てましたって。決闘シーンで照明が良い仕事してましたよね。あと、風の魔道具も」
ミックが手振りをつけて説明すると、チェルシーは呆れた顔をした。
これは初めて見る表情だ、とミックは目を細める。
目が合ったから笑顔を返すと、チェルシーは目を逸らしてしまった。
彼女は小さな器に入った杏仁豆腐をスプーンで崩しながら、
「魔道具が好きなの?」
「そうなんすよ。魔術師になったら魔道具を作りたかったんすけど、俺、立体が苦手で」
「立体?」
チェルシーがこちらを見たのがうれしくて、ミックは食べ終わった自分の食器を避けると、水に指を浸してから小さな魔術陣を描いた。
「こんなふうに、陣は正確に描けるんすよ。絵もまあまあです」
ただ、とミックは空いた皿の一つを指差して、
「ここにあった小籠包みたいなのは、全然綺麗に作れなくて……。粘土細工も、木工細工も無理でした」
「まあ」
「なんで、今は、魔道具に仕込む陣を考案するのが目標ですかね」
チェルシーの視線が魔術陣に向いた。その瞳に純粋な興味があるのを認めて、ミックは呪文を唱えた。
「新たな朝の、雨の足跡。軌跡を輝石に、築きあげよ」
拍子に乗せて歌うように響かせると、魔術陣は青白く輝いた。光はミックの顔の前辺りまで上がってフッと消える。そしで空中に光の粒が五つ残った。
「わ……!」
チェルシーが歓声を上げる。魔術師じゃないことを気にしている彼女の前で、必要もない魔術を使うのは賭けだったけれど、不快に思われなかったことにほっとした。
浮かんでいた光は、すうーっと落下してテーブルに当たって消えた。規模の小さい魔術だから一瞬だ。
一連の流れをチェルシーは顔を輝かせて見つめていた。
「魔術が好きなんすね」
思わずミックはそう言ってしまい、一瞬で後悔した。
チェルシーの顔から笑顔が消えたからだ。
それでも、ミックは繰り返した。
「好きなんでしょ?」
ミックがにっこりと笑うと、チェルシーはため息をつく。
「そうね。嫌いじゃないわ。……うらやましい。私にも使えたらいいのに」
彼女は光の粒が消えた机を撫でる。整った指先が魔術陣の基礎の四角形を正確に描いた。
「私が魔術を使えたら……」
小声でつぶやく彼女にことさら明るく尋ねる。
「どんな魔術を使いたい?」
「キラキラした魔術は特に好きだわ」
ミックはもう一度水を使って陣を描く。チェルシーが引いた四角形をなぞった。
今度は少しだけ長持ちする呪文に変える。すると、光の粒は落ちる前に、空中でくるくる回った。
「綺麗……」
一度認めて楽になったのか、光を見つめるチェルシーは微笑んでいる。劇場で見た令嬢らしい上品な笑顔とは違う。
ミックは邪魔しないように、ひっそりとそれを見つめた。