開港記念公園で
次の休日、チェルシーは開港記念公園に出かけた。
開港記念公園は王都の西端にある。港からは少し距離があるけれど、丘になっているため埠頭が一望できた。五十年ほど前に現在の埠頭が完成したばかりのころは毎日市民で賑わったらしい。昔の資料を展示している記念館もある。
チェルシーが公園のロータリーで子爵家の馬車から降りると、気づいたミックが駆け寄ってきた。
「こんにちは。来てくださってありがとうございます。晴れてよかったっすねー」
相変わらず彼はにこにこと笑っている。
「ええ。こちらこそお誘いありがとう」
約束の魔術陣の用意ができたから連絡したところ、公園に出かけようと誘われたのだ。チェルシーはまたピーコック飯店で会うことになると思っていたから、予想外の外出に戸惑ったりわくわくしたり、心が忙しかった。
「付け焼き刃ですけど、エイプリル主任に習ったんすよ」
ミックはそう言って腕を差し出す。チェルシーは彼のエスコートに手を預けて歩き出した。
パラップの魔道具屋まで歩いたときよりも近い。あのとき二人の後ろにいたリズは今日はいない。チェルシーとミック、二人だけだ。
「パーティーのドレスも似合ってましたけど、今日もかわいいっすね」
今日のチェルシーは歩きやすいシンプルなスカートとジャケットだ。
「え、かっ、かわっ?」
狼狽えて隣を見ると満面の笑み。
顔が熱い。真っ赤になっているのではないだろうか。
悔しくなって、チェルシーは、
「あなたもっ! お似合いですわ! そのローブ」
「ありがとうございます! へへっ。チェルシーさんに褒められるとうれしいっすね」
ミックからまた笑顔を返されて、チェルシーは敵わない。
王立魔術院のローブは本当に彼に似合っていた。落ち着いた紺色。銀糸で裾に幾何学模様が刺繍されている。ローブ留めは魔術院の紋章をかたどった真鍮のブローチで、まだ新しく輝いている。こんな公園で彼の立派なローブは目立っていた。
公園は入り口から奥に向かって緩い上り坂だ。歩きやすいブーツで間違いなかった。
芝生にぽつぽつと大きな木が点在する丘を、つづら折りの遊歩道に沿って登る。敷地が広いせいかもしれないが、あまり人がおらず閑散としていた。
「芝生突っ切って登れば早いんすけどね」
そんなことを言うから、遊歩道の半ばでミックが芝生に入ったとき、チェルシーは「ここを登るの?」と聞いてしまった。
「上までは大変なんで、あの木の下に座りましょう」
ミックは少し先にある木を指差してから、チェルシーの手を握った。温かな大きな手に驚いて、チェルシーは「あっ」と声を上げる。
「すんません。つい」
「あ……」
手を放されると惜しむようなため息がこぼれてしまって恥ずかしい。顔が上げられないチェルシーの手をミックはもう一度握った。少し強引に引っ張られて、歩き出す。
「チェルシーさんは魔力の相性ってわかります?」
「え? いいえ」
「俺とチェルシーさんは魔力の相性がいいみたいです」
大きな木の下に着くと、ミックは持っていた荷物からブランケットを出して敷いた。
さらに弁当も出してくるからチェルシーは目を瞬かせる。
「朝から実家で作ってきたんすよ」
「えっ、あなたが作ったの?」
「料理は子どものころからやらされてるんで。あーでも、今日は時間なかったんで父が作ったものも混ざってます」
丘の下を見下ろす向きで、バスケットを挟んで並んで座る。眼下には街並みと埠頭が広がり、景色がいい。港を横から臨む位置のため、海は丘を囲む木々の奥にわずかに見えた。
豪快にどうぞと言われて、白いふかふかのパンのような生地に柔らかく煮た豚肉が挟まった東方風のサンドイッチにかぶりつく。
「おいしい……!」
「それは、よかったです!」
ミックはうれしそうに笑った。
彼がそれ以上に笑顔になったのは、チェルシーがイブニング子爵家の魔術陣を描いたメモを渡したときだ。基礎的な魔術ばかりだから、小ぶりの手帳にまとまってしまった。
「うおぉ! ありがとうございます!」
「図書館にも収蔵されている本だから、もしかしたらもう知っているものもあるかもしれないけれど」
「いや、全然! 知ってても関係ないっす。おー、すげぇ。これが宮廷魔術師のころの!」
ミックはパラパラと手帳をめくり、ローブから携帯用の石板を取り出した。
「今、魔術を使うの?」
「教えてもらったら使いたくなるのは当然っすよ。速攻試そうと思って、あんまり人のいなそうな広い公園を選んだんすから」
たしかに王都の中心地の公園では無理だろう。
チェルシーが呆れて見ていると、ミックは何を思ったのか、水ペンをチェルシーに差し出した。
「チェルシーさん。これ。この魔術陣を描いてください」
「私が?」
「はい。チェルシーさんが」
「でも私は」
「魔術陣は描けるんでしょう?」
水ペンを手に持たされて、そう言われると、チェルシーは思わず「もちろん描けるわよ」と答えてしまう。
蓋を閉じたバスケットを机代わりに石板に向かう。
石板に描くのは何年ぶりだろう。
緊張で震えそうになった手を握られ、
「手伝いいります?」
「いいえ。結構よ」
「ですよね」
温かい手が離れると、チェルシーの緊張は解けていた。
迷いのない線が正確に魔術陣を描く。
身を起こすと無意識に止めていた息を吐いた。
「描けたわ」
ミックは一度うなずいてから、姿勢を正した。
「線に捧ぐは言。魔に通じるは術。ここに星を宿らせるは我」
重々しい呪文が彼の口から紡ぎ出されると、魔術陣が光る。ほわりと線が膨張するような柔らかな光り方だ。
「魔術がっ!」
チェルシーが描いた魔術陣が起動している。
「私の……。本当に?」
「ホントです」
「光っているわ!」
「光源の魔術。星灯り版です」
「あぁ……」
自分の描いた魔術陣が起動したのを見たのは初めてだった。
「私の魔術陣は間違っていなかったのね……」
今まで誰もやってくれなかった。自分では起動できなかったから、陣が正確に描けているかなんて確かめようがなかった。
「魔力の相性がいいと共同作業しやすいんすよ」
笑ってそう言っていたミックも、チェルシーが涙をこぼすのを見て慌てた。
「え、どうしたんすか。大丈夫ですか? どこか痛い? まさか弁当が?」
「違う、の。大丈夫。あの、魔術陣が……私が描いたの……初めて起動したから、だから……っく」
「そうなんすね」
チェルシーが「魔術陣が……」と繰り返すと、ミックは納得したようだ。穏やかな目で笑い、バスケットをどかすとチェルシーを抱き寄せた。
「きゃ……な、なぜ……」
「チェルシーさんが泣いてるからですよ」
後頭部を撫でられると一度引っ込んだ涙が復活する。
「チェルシーさんの魔術陣はきっちりしてて綺麗です。魔術文字も、成り立ちを理解してるとしてないとじゃ変わるんです。ただ形をなぞってもダメなんすよ。さっきの魔術が起動したのはチェルシーさんの知識の賜物です」
耳元でそう言われるともう涙が止まらなかった。
気がつくとチェルシーはミックの足の間に座り、彼にもたれかかっていた。
チェルシーの涙が落ち着くころには魔術陣の光は消えていた。
泣き疲れたチェルシーはミックに寄りかかったまま、ぼんやりとする。
ときどき海風が渡り、上空で鳶が鳴く。木漏れ日がブランケットの上を踊っている。
ミックの指がチェルシーの髪をすく。くすぐったくて気持ちがいい。
身じろぎするとぎゅっと抱きしめられた。
「チェルシーさん」
呼ばれてチェルシーは顔を上げた。
ミックはにっこりと笑っている。
「好きです。俺と結婚してください」
:::::
「えっ? い、今なんて?」
「結婚してください」
慌てて離れようとするチェルシーを、ミックはまた腕の中に引き寄せる。
「チェルシーさんはかわいいですねー」
ぽかんと見上げている顔が真っ赤になる。
自分のせいで彼女が心を乱していると思うと、ミックはうれしくて仕方ない。
ヘンリーの婚約披露会で、魔術花火の光が降る中、遠くにいたチェルシーと目が合った。ミックはそれだけでうれしくなった。チェルシーも同じように笑顔を返してくれた。
そのときに思ったのだ。
もっと彼女に近づきたい。隣に立ちたい。そして、触れたい。
今日は覚悟を決めてやってきた。
「俺はチェルシーさんが好きで、ずっと一緒にいたいって思ってるんですけど、チェルシーさんはどうっすか?」
「どうって……」
「俺のこと好き?」
「ええと……」
黙って見つめると彼女はそっとうなずいた。
「……はい」
「よかった」
ミックはほっとして大きく息を吐く。嫌われているとは思わなかったけれど、きちんと認めてもらえるまでは気が気ではなかった。
「そしたら、改めて、俺と結婚してください」
「でも、私」
「身分とか余計なことは一旦置いておいて、結婚したいかどうかだけ教えてください。結婚してくれますか?」
「はい。……私もあなたとずっと一緒にいたい……結婚したいわ」
「ありがとうございます!」
ぎゅっと抱き寄せると、チェルシーは小さな悲鳴をあげた。
腕の中の身体は柔らかく、いい匂いがする。思わず首筋に顔を擦り寄せると、チェルシーがびくりと震えたから、ミックは慌てて身体を離した。
口付けは許されるだろうか。まだ早い?
チェルシーの顔を伺うと、彼女の潤んだ鳶色の瞳にぶつかる。吸い込まれるようにミックは顔を近づける。目を閉じて待っているチェルシーのかわいさを堪能してから、ミックは彼女の額に唇を落とした。
「あ……」
「こっちは止まらなくなると困るんで、次に取っておきましょうね」
軽くチェルシーの唇を指でなぞって、ミックは笑った。額を押さえていたチェルシーは今度は唇を押さえ「次っ!?」と慌てている。
ミックはチェルシーの両手を取った。
魔力の相性がいいから、触れたところから癒される。魔術師なら一番に魔力の相性を確かめるべきだったかもしれないけれど、そんなこと関係なくミックはチェルシーを好きになっていた。今日触れて魔力の相性が悪かったとしても求婚しただろう。魔術師じゃないチェルシーは相性がわからないのだから、ミックが言わなければいいだけだ。
ミックはチェルシーの綺麗な指を確かめるようになぞってから、ぎゅっと握った。
「エイプリル主任が魔術師の養子を欲しがってる分家を紹介してくれるそうです。なので、チェルシーさんが貴族をやめる心配はありません。王立魔術院は給料もいいし、特別手当も出るし、俺はこれからも特許を取れるような魔術を開発するつもりなんで、イブニング子爵家よりは劣ると思いますけど、十分暮らしていけるだけの金は稼げるはずです。チェルシーさんが見ていてくれるだけで俺はがんばれるんで、安心してください」
「ありがとう。でも魔術師貴族はもううんざりなの。私、ただのミック・サンドコリスに嫁ぎたいわ」
「いいんすか? 社交とか」
「夜会なんて仕方なく参加していただけよ。マリエッタは変わらず仲良くしてくれるだろうし、他の友人は離れていくならそれまでの関係だったのよ。ドレスも宝石もいらないわ。あなたのそばには魔術があるもの。子爵家とは違って私が触れる魔術が」
チェルシーが手に力を込めた。
人の描いた魔術陣を起動させるのは珍しいことではない。魔術の指導では定番だし、仲間内の遊びでもよくやった。だから、チェルシーが初めてだと泣いて、ミックは少なからず驚いた。魔術師貴族の家で素質がないのがどういうことか、ミックには到底わからないかもしれない。
彼女が魔術師貴族が嫌だと言うならミックはそれを叶えるまでだ。
「じゃあ、養子の話はやめましょう。ピーコック飯店の次男で、王立魔術院の新人魔術師、ただのミック・サンドコリスと結婚してください」
「ええ、もちろん!」
それから二人は、チェルシーが教えてくれた魔術陣を片っ端から試して遊んだ。
単一効果の基礎魔術ばかりだから、イブニング子爵家の流派に初めて触れるミックでも簡単に扱えた。
小さなつむじ風や炎、水が勢いよく飛び出したり――。その度に二人で笑った。
チェルシーが気に入った光の魔術は何度も繰り返した。キラキラと光が舞い散り、ミックは眩しさに目を細める。
彼女の笑顔を守るために、やるべきことがたくさんあった。




