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圭吾サイド4

(ん……)

 不意に意識が浮上した。

 ぼんやりとした視界を鮮明にしようと、無意識に数回瞬きを繰り返し、しかし圭吾はふと違和感を覚える。

(ここ、どこ)

 橙の暖色光の中に浮かび上がっている天井には見覚えがなかった。

 首を巡らせても見知らぬ家具が並び、極めつけは寝ている場所だ。

(布団?)

 自分は普段ベッドで寝ている。

 マットレスとは若干違う、包まれるような感覚に普段は感じることのない心地よさを覚えつつ、圭吾は身体を起こした。途端、激しい痛みが頭を襲った。ずきずきと痛むこめかみを押さえながら、薄暗い部屋の中を見回していると徐々に記憶が蘇ってくる。

(そうだ、あおさんの家だ)

 妻の浮気の真相を確認するために蒼依を連れだって妻の実家に乗り込み、そこで決定的な事実を目の当たりにした。そのせいで自暴自棄になり、飲み過ぎた挙げ句、蒼依の家に転がり込ませてもらったのだった。

(でも、なんで俺、あおさんのとこが良いなんて言ったんだろ)

 朧気に残っている記憶を辿りながら、圭吾は自身に問いかける。だが正直自分でも分からない。気が付けば勝手に口から出ていた。

(てか、あおさんはどこで寝てる?)

 恐らくここは蒼依の部屋だろう。

 いくら顔見知りとはいえ、さすがに男を、それも既婚者を堂々と客間に寝かせるとは思えない。当然家族から経緯を問われるだろうし、そうなると蒼依が説明せざるを得なくなるが、理由が理由だ。蒼依の性格なら正直には話さないだろう。

 圭吾はもう一度見回してみる。しかしどこにも姿がない。

 もしや自分を気遣って蒼依の方が別の部屋で寝ているのだろうか。

 そう考えていた時だった。微かな呼吸音が圭吾の耳に届いた。

 割れんばかりの痛みに襲われる頭を叱咤して圭吾は布団から出てみる。そうして部屋の中央に鎮座しているこたつの向こう側に、まるで猫のように身体を丸めて毛布にくるまっている蒼依の姿を発見した。しかも敷き布団代わりにしている物が座椅子ときた。それを見て圭吾はひどくいたたまれない気持ちになる。

 もちろん自分に布団を譲ってくれたことに対してもだが、それよりも何よりも、自分では正体がばれる可能性があるかもしれないからと、自らが率先して動いてくれたことに対してだ。

 ドアの前でただただ呆然と立ち尽くしていた蒼依の後ろ姿。そして、背後にいた自分を見つけた時の驚きと悲壮感がない交ぜになった顔。それが目に焼き付いて忘れられない。

 まるで蒼依自身が裏切られたかのように悲しそうな目をしていた。

 なのに、その後は自分を気遣って明るく振る舞ってくれたり、こんな突拍子もないわがままにも応えてくれたり。申し訳ない気持ちを覚えるのと同時に、その優しさに圭吾は深く感謝する。

「……ありがとう」

 本当に。

 心の底から感謝の言葉が溢れる。

 こんなに優しい人だったんだと、改めて蒼依の誠実な人柄に触れ、じんわりとした温かさが圭吾の胸を満たしていく。それがはっきりと分かり、沈んでいた気持ちがふっと軽くなり――無意識のうちに身体が動いていた。

「ん……」

「っ!」

 微かに眉間に皺を寄せた蒼依の口から小さく声が漏れる。それが耳に届き、圭吾ははっと我に返った。

 いつの間にか蒼依の隣に腰を下ろし、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと頭に手を伸ばしていた。

 指通りの良い髪がはらはらと滑り落ちていく様を目にして、蒼依の頭に触れているのが自分の手だとその時に気付く。認識するや否や、圭吾は慌てて手を引き立ち上がった。

(俺、何して……)

 指先に残っている感触をまざまざと思い出し、圭吾は無意識に一歩後ずさる。

 声を漏らしはしたが、幸い蒼依は起きてはいないようだ。

 その事にほっと胸を撫で下ろしたものの、無防備に寝ている相手に一体自分は何をしているのだ。

(もし、あおさんが声を上げなかったら……)

 ――果たしてそのまま何をしでかしていただろうか?

「っ」

 不意にそんな言葉が脳裏を過ぎり、圭吾は慌てて頭を振って思考をかき消す。

 何を考えているんだ。

(そんな、不誠実な真似)

 自分がとっていたであろう行動を想像し、圭吾は一瞬でも邪な考えを浮かべてしまったことを激しく戒める。そうして無理矢理意識を現実へと切り替えると、ふと先程まで自分が寝ていた布団の枕元に置かれていたスマホに目が止まった。

 薄暗い室内に不釣り合いな明かりが点滅している。何かの通知がきていることを知らせるランプだ。

 確認すると母親からの着信が数件入っていた。時間は深夜の十二時を回ってから数分おき。まさに酔い潰れて寝込んでいた時だ。

 その通知を見つめたまま、圭吾はしばし逡巡する。

 実は今夜は友達と飲みに行くと嘘をついて出てきたのだ。だが、それは簡単に見抜かれているだろう。

 理由は単純明快。真梛が実家の手伝いに行っているから。

 それで圭吾の本来の目的を察したのだろう。だからわざわざ連絡なんてしてきている。

(うーん、どうするかな)

 折り返すべきか。

 今の時刻は朝の五時過ぎ。この時間なら恐らく母は起き出しているだろう。が。

(今は、そういう気分じゃないんだよな)

 そういう気分とは、真相を話すこと。確かに気になるところだろう。だが、昨夜のことを思い出すだけで気持ちが重くなり、おまけに二日酔いのせいで体調も良くない。だから余計に話す気力がないのだ。

 そんなことを悩んでいる時だった。

 ぼんやりと眺めていたスマホの画面が一瞬光った。かと思えば、次の瞬間には『母』の文字と電話番号が表示された。

 幸いサイレントモードに設定していたから着信音は鳴らなかったが、いきなりのことに圭吾は反射的に電話に出てしまった。

 寝ている蒼依を起こさないよう、細心の注意を払って「もしもし?」と応答する。すると。

『やっと繋がった。どこにいるの? 何回も電話したのよ』

 開口一番。早朝にしてはやけにはっきりとした声で小言を吐かれた。圭吾は乾いた笑いを浮かべながら答える。

「あーと、友達の家に泊めてもらってる」

 ここでまがり間違っても蒼依の名前は出せない。出したら最後、あらぬ疑いをかけられた挙げ句、小言どころじゃすまされない。頭の片隅でそんなことを考えつつ、圭吾は「どうしたの?」と母に尋ねる。

 すると母からは「どうしたのじゃないでしょう」と呆れた声が返ってきた。

『こっちは心配してたってのに』

「心配って」

 何を、と敢えて本当のことを伏せたままで会話を続けようとしていると。

『……真梛ちゃんのこと確かめに行ったんでしょ』

 分かってるんだから、と冷静に言われてしまった。圭吾は押し黙る。

 やっぱりバレてたか。

(まぁ、それはそれで話す手間が省けるか)

 もはや隠す必要もなくなった圭吾は観念して頷く。

「大丈夫。何ももめ事なんて起こしてないから。ただ相手の確認をしただけ」

『本当でしょうね。実はいざこざ起こして警察に厄介になってるなんてこと』

 ないでしょうね、と未だに疑い気味に聞いてくる。圭吾は「そんなわけないでしょ」と反論した。

「俺一人だと気付かれるかもしれないと思って付き合ってもらった人がいるんだ」

 その人の所に世話になっていると話すと、ようやく母も「なら良いけど」と疑いを晴らした。次いで。

『それで、どうだったの?』

 本題に入る。しかし。

「それは、帰ってから話す」

 今はちょっと、と圭吾が濁して言うと、しばらくしてから母が嘆息したのが聞こえた。

『やけ酒して二日酔いってことね』

「……せーかい」

 笑いながら認めると、母は「良いわ」と頷き、

『なら、今日はどうするの?』

「どうするって」

 何をだろうかと思い問い返せば。

『何をって、仕事に決まってるでしょう』

 休むなら言っといてあげるから、と呆れたように言われてしまった。

 圭吾は母の気遣いに頭が上がらなくなる。

「なら、お願いする」

 その申し出をありがたく受けると、母からは「分かったわ」と再び簡潔な返答があった。圭吾もただ一言「ありがとう」とだけ返す。すると、先程の呆れた様子から一変。

『本当に大丈夫なの?』

 心配げな言葉が母からかけられる。圭吾は一瞬答えに詰まったが。

「まぁ、なんとか」

 そう苦笑気味に返答することしかできなかった。

「帰ったら諸々話すから」

『……あんまり思い詰めないようにね』

 それだけ言って、母は通話を切った。

 しばらくしてスマホの液晶が待ち受け画面に戻り、そこに自嘲気味な苦笑を浮かべた自分の顔が僅かに写り込む。その表情を見て圭吾は更に何ともいえない気持ちになる。

 蒼依に迷惑をかけただけでなく、この年になって親にも心配されるとは。

 そう思うと情けなさがこみ上げてくる。それに呼応するように、母との会話に集中していて忘れていた頭の痛みが主張を強くした。そのあまりの酷さに圭吾の口から思わず呻き声が漏れる。痛みによる不快感とだるさに、圭吾はそのまま布団に突っ伏した。

「……」

 やんわりと全身を包み込む柔らかさがひどく心地良い。沈んでいた心にはなおさら。それに完全に身を委ねると、若干頭痛が和らいだ。

 数回深呼吸を繰り返すと、仄かな優しい匂いが鼻孔をくすぐり、それが更に気分を落ち着かせてくれた。すると、自然と意識がこたつの方へと向かった。そこにはもちろん蒼依が眠っている。

(……)

 早朝間近の静まり返った空間に蒼依の寝息だけが微かに漏れ聞こえる。それを意識した瞬間、胸の奥がざわめくのをしかと感じた。そして先程自分が蒼依にしでかした行動を思い出し、瞬く間に圭吾の胸中に後ろめたさが芽生える。

 未だに指先に残っている感触。ひどく滑らかで繊細で、心地良ささえ覚える程に馴染みが良くて――。

(って、そんなこと思い出すな)

 なんてことを考えているんだと、圭吾はありったけの自制心を総動員し、こたつから、いやその先にいる蒼依から意識を反らす。

 指先に覚えている感触と、その残像をかき消すために、鳥のさえずりが聞こえ始める中、圭吾は固く目を閉じたのだった。

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