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蒼依サイド4

 それから更に一ヶ月ほどが経った頃だろうか。暦は十一月。蒼依の勤めているホームセンターでは年末に向け、掃除用品や生活消耗品の売り込みが激しくなっていく繁忙期。

 日々の業務に追われながらも、もう少しでその日の終業時間を迎えようとしていた時だった。

「あおさん」

 不意に背後から声をかけられ、作業の手を取め蒼依が振り向くと。

「圭吾くん」

 やっぱり思った通りの人物が立っていた。今日はいつもの作業服姿ではなく、ダウンジャケットにニットのインナー、そしてジーンズといった私服だった。

「いらっしゃいませ」

 身体ごと圭吾の方へと向き直り、きっちり斜め四十五度のお辞儀で迎える。すると圭吾は「しっかり仕事モードだね」と、もはや呆れたように苦い笑みを浮かべて言った。

「そりゃあね。いつどこから、お客様からの厳しい目が向けられてるかも分からないし。それで、何かご用でしょうか?」

 お客様、とおどけたように言うと、しかし圭吾はふと真面目な顔になり。

「もうすぐ仕事終わる時間だよね、確か」

 ちらりとスマホで時間を確認した。つられて蒼依も自身の腕時計を見る。

「え? ああ、うん。そうだけど」

 よく覚えていたな、と思っていると。

「また相談したいことがあって。良いかな?」

 真面目な表情のまま、蒼依に聞いてくる。蒼依は目を瞬かせた。

「良い、けど……」

 何かあったのだろうか?

(なんか、いつもと雰囲気が違うような)

 常に穏やかな空気を纏っているのに、今日の圭吾はどこか緊張しているというか、気を張りつめているというか。この間見た、思い詰めたような表情とも違う。

(こんな顔、初めて見たかも)

 本人には悟られないよう、蒼依は心中で首を傾げる。

「じゃあ、車で待ってる。お店の前に停めてるから」

 そう言って圭吾はそのまま店を出ていった。買い物のついでに来たのではなく、相談のためだけに来たようだ。蒼依はますます首を捻る。

(どうしたんだろう)

 どこか気概のようなものさえ感じた。その事が気になり、仕事が終わると同時に蒼依は急いで着替えて圭吾のところへ向かう。すると。

「今日、これからなんか予定ある?」

 蒼依が来るや、圭吾がそう尋ねてきた。蒼依は「いや、特には」と首を横に振る。

「なら、ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだけど」

「付き合ってもらいたいところ?」

 相談ではなく?

 そう視線だけで問うと、理解したらしい圭吾が小さく頷き、

「そこで話すから。悪いけど、何も聞かずに付き合って」

 決意の籠った眼差しで言われてしまった。蒼依には頷く以外に選択肢がなかった。

 そうして圭吾に連れられていったのは一軒の食事処だった。途中なぜか最寄りのコインパーキングに寄って、蒼依の車に相乗りして来ていた。

「なんで車置いてきたの? それにサングラスと帽子にマスクって」

 そんな変装グッズの神器まで用意して。

 蒼依が尋ねたのだが、圭吾は「……ちょっとね」とあくまで何も話さない。その態度を不思議に思いながらも店の暖簾をくぐる。すると元気の良い挨拶で迎えられた。

「二名様ですか? こちらへどうぞ」

 二人を出迎えたのは笑顔がまぶしい女性店員だった。

 はつらつとした声で蒼依達を角の席へと案内する。その後をついて行きながら、可愛い店員さんだなぁ、と蒼依が心の中で思っていると。

「――あれ、奥さん」

「……へ?」

 席に着き、女性店員が離れていったタイミングで圭吾がぼそりと教えてきた。唐突な告白に蒼依は間の抜けた声を出してしまった。

「ここ、奥さんの実家なんだ」

「そうなの?」

 他の席へと呼ばれた女性店員を蒼依はまじまじと見てしまう。

 相手は常連のお客なのか、くだけた調子で会話をしている。笑い声まで明るくてすごく愛嬌がある。まさに『可愛い女の子』だ。

 あれが圭吾くんの奥さん。

(確かにあれは心配になるくらいの可愛さだ)

 私なんか足元にも及ばない、と蒼依は勝手に一人で比べて勝手に卑屈になる。

 そんなことなど露ほどにも知らない圭吾は「人手が足りない時に手伝いに来ててさ」と説明を続ける。

「本当に良い奥さんだね。普段は家のこともして、実家の手伝いまでやってるなんて」

 まさに奥さんの鑑みたいな子だ。沈んだ自分の気持ちはさておき、素直に蒼依がそう感心していると。

「……そうやって、浮気相手と会ってるみたいなんだ」

「……え?」

 圭吾の言葉にどくりと心臓が跳ねた。

 思ってもみなかった発言だ。蒼依は声を潜めて「ほ、本当に?」と確認する。

「勘違いじゃないの?」

「いや、勘違いなんかじゃない。二日前に電話してるのを聞いたんだ」

「うそ……」

 それが真実ならなんてところに連れてきたんだ。

「もしかして、ここに来たのって浮気が本当か確認するため?」

「……うん」

 蒼依の問いかけに圭吾がひどく申し訳なさそうに頷く。

 だからいつもと様子が違ったのか。ここに来る前に見た表情に、蒼依は圭吾が覚悟を決めて来たのだと悟る。それならば蒼依も生半可な気持ちでいるわけにはいかない。

「目星とか、ついてるの?」

「時間も聞こえたから、多分この中にいる誰か」

 言って二人で店内をぐるりと見回す。

 時刻は八時過ぎ。仕事終わりに飲み来ている客が大勢いる。女性や年齢的になさそうな客は除外しても、対象となりそうなのは十名以上。その中の誰かが圭吾の妻の浮気相手かもしれない人物。

(マジかぁ。信じられないんだけど)

 口には出さずに蒼依は戸惑う。

 まさか本当に浮気だなんて。

(こんな良い人、そうそういないのに)

 真面目で優しくて、穏やかな誠実な人。

 半分は自分の欲目もあるのかもしれないが、蒼依にとっては理想の人柄だ。

 そんなことを考えていた時だった。ふと一人の男性客が席を立った。歳は自分達と変わらないくらいか、或いは年下。二十代から三十代前半の、少しやんちゃそうな外見の青年だ。

 その青年がトイレの方へと向かった後、しばらくしてから圭吾の妻も同じ方向へと行くではないか。

 もしやあれが――。

 そう蒼依が直感するのと同時に、無言で圭吾が席を立った。蒼依は反射的にその腕を引き止める。驚いて振り返る圭吾をそのまま座らせると、代わりにすっと立ち上がった。

「――私が行ってくるから」

 自分でも何故そんなことを言い出したのかは分からない。が、ただ圭吾には行かせられないと思った。当然圭吾も「いやでも」と戸惑う。蒼依はそれに首を振り。

「君はもしかしたら気付かれちゃうかも。その点私ならまったく顔知られてないし」

 万が一、鉢合わせしてしまっては変装がバレるかもしれない。咄嗟に口から出た言葉だったが、それで圭吾は納得したようだ。小さく「……ごめん」と謝って蒼依の言葉に従った。蒼依は笑って圭吾の肩を叩く。

「大丈夫。きっと偶然だって」

 浮気も何かの間違いだ。そう言って、二人が消えていった方へと向かう。しかし、その足は言葉とは裏腹に緊張で強ばっていた。

 どうか気のせいであってほしい。

(じゃないと、圭吾くんが気の毒)

 浮気を相談された時に見た沈んだ顔が脳裏に蘇り、胸が苦しくなる。

 本当に良い人だから。

 自分の理想の人で、ずっとずっと忘れられなかった大切な人だから。

(辛い思いはしてほしくないし、させないでほしい)

 それが単なる自分の我が儘だとは分かっている。自分の気持ちも伝えられないような、どうしようもないやつが口を挟む権利などないのも理解している。でも、どうしても願ってしまう。

 ただの『同級生』でしかない自分にはできないことだから。

 そう願いを込めて足を進めていき、ついにお手洗いと書かれたパーティションの前へと辿り着いた蒼依は、一旦立ち止まって深呼吸をした。そして心の準備をした後、ゆっくりと一歩踏み出した。しかし。

(誰もいない)

 入ったそこには誰の姿もなかった。男性用と女性用に別れた個室のドアがあるだけで、人影はなかった。

(どっちかに入ってるのかな)

 そう思い、ひとまず女性用のドアに近付いていく。と、途中で、トイレとは別にもう一つドアがあるのに気付いた。

 トイレより少し奥まった場所に設置されていたドアには「従業員以外立ち入り禁止」と張り紙がされており、どうやら従業員専用の個室のようだ。

 蒼依は何かに導かれるように女性用のドアの前からそちらへと足を向けた。すると。

「今日もこっちに泊まれるんだよな?」

「うん、明日も朝から手伝いしなきゃいけないって言ってきたから」

「疑われてないの?」

「特には」

 などとくぐもった話し声が聞こえてきた。それが耳に届いた瞬間、蒼依はどうしようもなく泣きたくなった。

(なんで……)

 圭吾も良い子だと言っていたのに。圭吾の母親も気に入ってそうだったのに。

(もう、なんでなの)

 個室の前で立ち尽くし、蒼依はきゅっと唇を引き結ぶ。

 嘘であってほしかった。これを知った時の圭吾のことを考えると、やるせなさに胸が押し潰されそうだ。

(なんて伝えればいいんだろう)

 どう言えば少しでも辛さは和らぐだろうか。

 今ここで「何もなかった」と嘘をつくのだけはだめだということは分かる。そんなことをすれば後々もっと苦しい思いをすることになるのは明白だから。

 どうしよう。

 複雑な心境で個室の前に立ち続ける蒼依だったが、ふと背後に気配を感じて振り返った。そして、そこにいた人物の顔を見て盛大に肩を震わせた。

「け、圭吾くん……なんで」

 蒼依の数歩後ろ。待っていろと引き止めたはずの圭吾がただ静かに立ってこちらを見ていた。それを見やり、蒼依は心臓が冷えていくのを感じた。

 怒りも憤りも読みとれない表情。しかし、握り絞められた拳の白さに、圭吾の胸中を知ることができた。

 もしかしなくとも聞こえていたのだ。蒼依が目を背けたいと思った先の会話が。

「大丈夫、もうほとんど分かってたことだし」

 力なく言う姿に蒼依は何も言えなかった。

「出てくる前に戻ろう」

 驚くほど落ち着いた声で言われ、蒼依は「……うん」と頷くことしかできなかった。

 そうやって席に着くや、トイレの方から圭吾の妻が戻ってきた。それからまもなくして男性客も席に戻る。あと少し留まっていたら鉢合わせていたかもしれない。間一髪だった。ではあるのだが。

「……」

「……」

 何とも言えない、非常に重苦しい空気が蒼依達を包み込む。

(ど、どう励ませばいいんだろ)

 さすがにこんな展開、経験がない。

(ありきたりな言葉をかけてもあんまり意味はないだろうし、かといって奥さんのことを悪く言うのも逆にだめな気がするし)

 確かに『なんで』と思いはしたが、人の想いを否定することはできない。自分だって圭吾を好きなままなのだし。

 あーでもないこーでもないと蒼依がひとり悩んでいると。

「……ごめん、飲んで良い?」

 深く項垂れたままで圭吾がぼそりと言う。蒼依は「そりゃあもちろん」と渡りに船とばかりに即座に頷いた。

「お好きなだけどうぞ」

 言いながら恭しくメニューを差し出す。

 あ、もしやこれを見越して車を置いてきたのか。

「さぁさぁ、遠慮なく頼んじゃって。今日は私が奢ってあげるから」

「いや、でも……」

 こんなことにまで付き合ってもらったのに、と遠慮する圭吾の肩を叩き。

「気にしなくていいから。ね?」

 労るように笑顔で返した。

 圭吾はしばらく口を噤んでいたが、やがて「……本当にありがとう」とメニューを受け取ったのだった。

 ――それから約一時間ほど。

「とは言ったものの、ちょーっと飲み過ぎたんじゃない? 大丈夫?」

「……だいじょうぶじゃない、きもちわるい」

「でしょうね」

 腕で目元を覆い、圭吾は助手席でぐったりしていた。

(そりゃあれだけハイペースで飲んでたらこうなるよね)

 飲んで良いかと聞いてきた圭吾は、驚く速度で次々と杯を空けた。それこそ会話もせず、ただひたすら浴びるように飲んでいた。

 さすがにもう止めた方が良いかと思い、メニューを奪い取り切り上げてきたのがつい数分前。歩くのも覚束ないほどで、車に乗るやこの状態である。

「家まで送るよ。住所は?」

 ナビに入れるから、と蒼依が画面を操作していると、その手を止められた。

「……今日はちょっと」

 顔を覆ったままで圭吾がぼそりと言う。

 あー、気持ちの整理がついてないのか。

 それが分からなくもない蒼依がじゃあどうしようか、と考えていると。

 ――ぽす。

 不意に左肩に重みを感じた。なに、と蒼依が顔を向けると、圭吾の頭が蒼依の左肩に乗っかっているではないか。

(……なぁ!?)

 瞬時に蒼依の心臓が飛び跳ねる。声にならない悲鳴が喉の奥で上がる。

(ち、近い近い近いぃ!)

 何してんのこの人、と盛大に狼狽えていると、その次に圭吾の口から出た言葉に更に度肝を抜かれた。

「悪いけど、泊めてくれない?」

「…………え!? う、うちに!!?」

 聞き返す蒼依に圭吾はこくりと首を縦に振る。

 今の状況にも動揺しているのに、更に頭がパニックになる。

「いやいや、私実家暮らしなんですけど。親とか弟もいるし」

 というか、男の人を家に泊めるなんて。

 青くなったり赤くなったりしながらわたわたと理由を並べてから「他に泊めてくれそうなとこない?」と聞いてみるが。

「あおさんのとこがいい」

 言って圭吾は寄りかかる肩に更に体重をかけてくる。

 ときめきを通り越し、蒼依はもう開いた口が塞がらなかった。

 …………えー。なに言ってんのこの酔っぱらいさん。

(なにこの人、酔うと甘えるタイプなの?)

 そうやって奥さんや他の女性の母性につけ込んできたのだろうかと、若干信用を失いそうになったが、傷心しているのも事実。こんな状態で一人にして大丈夫だろうかとも思ってしまう。

 蒼依は散々考えた末。

「……分かった。ならこのままうちに帰るよ?」

「うん」

 小さく「ありがと」と返し、圭吾が頭をすり寄せてくる。当然蒼依の頭はショートした。瞬く間に全身がかっと熱くなり、もはや心臓は限界寸前だった。

 運転するからと、盛大に震える手で圭吾の身体を起こしシートベルトをはめる。その手でハンドルを握ると、ことさら慎重に走った。

 そうして三十分ほどかけて自宅に着くと。

「ちょ、ちょっと待ってて」

 圭吾を車に残し、何食わぬ顔で家族に帰宅を告げ部屋に入る。自室の部屋の窓の鍵を開け、再び外へと出た。もちろん忍び足で。

 蒼依の実家は平屋造りのため、外からそのまま屋内に入れるのだ。

「歩ける?」

 車に戻り圭吾の様子を窺う。

 未だにグロッキー状態だが、とりあえずは大丈夫だと頷いた圭吾に肩を貸して、何とか自室の方へと向かった。窓の前へとた辿り着き、気付かれないようにそっと開けると中へと入る。靴を拾い上げ、圭吾のだけ部屋の隅に隠すと、自分の靴は玄関へと持って行った。途中、弟に遭遇し「なんで靴なんて持ってんの?」と怪訝な顔をされたが、靴ひもを換えていたと誤魔化し事なきを得た。

 そうして足早に部屋へと戻り、蒼依は固くドアを閉ざす。

(な、なんとか部屋までは連れてこれたけど……)

 ここからどうすればいい。

(心配ではあるけど、やっぱり泊めるのはまずくない?)

 同級生とはいえ異性。しかも既婚者。いくら奥さんが浮気してると知っても、事実上は夫婦だ。こちらの状況も浮気と取られかねない。

(というか、私が困るんですけどっ)

 何故よりにもよって意中の相手を自分の部屋に泊めなければならないのだ。

(圭吾くんも圭吾くんだよ。なんで私のとこなの)

 何を考えているのかさっぱり分からない。

(でも、今更だめって追い出すのも薄情過ぎる気がするし……。というか、起きてるのも辛そうだな)

 圭吾はよほど気分が良くないようで、こたつの上にぐったりと顔を伏せている。

(とりあえず、一旦横にさせた方がいい、よね)

 そう思い、迷いながらも蒼依は布団を引っ張り出した。敷き終わった後、しばらく逡巡した末に意を決して圭吾の肩を揺する。

「お、おーい、圭吾くん。大丈夫?」

 起きてる? と声をかけると、圭吾はしばらくしてからうっそりと顔を上げた。その眉間には深い皺が刻まれている。

 あ、こりゃ大丈夫じゃないな。

「布団敷いたから。ほら、こっち。横になって」

 動くのも億劫そうにしている圭吾の腕をとり、移動させる。布団の上まで連れてくると、圭吾はそのままうつ伏せに倒れ込んだ。

「……ありがとう」

 顔だけ蒼依の方へと向け律儀に礼を言う。その背中に毛布を掛けながら、蒼依は「いえいえ、どういたしまして」と苦笑を浮かべた。

「気分が良くないのは一目瞭然だけど、水とかいる?」

「……いい」

「なら、私お風呂入ってくるけど、その間ひとりで大丈夫?」

「うん……」

 まるで子供のように頷く姿に、知らず知らずのうちに蒼依は圭吾の頭に手を乗せた。

「なるべく早く戻ってくるから」

 言って、頭まで毛布を引き上げる。誰も入っては来ないとは思うが、念のためだ。その後で蒼依は着替えを手に風呂場へと向かった。

 手早くシャワーで済ませ、急いで部屋へと戻る。自室のドアを開けると、こんもりと膨らんだ布団が出迎えた。蒼依が風呂場へと行く前と変化は見られない。誰にも見つかってはいないようだ。

 ほっと安堵しつつ、息苦しいだろうと思い毛布をめくってみると。

「寝てる」

 圭吾は寝息をたてていた。先程まで落ち込んでいたとは思えないくらい、穏やかな寝顔だ。その表情に不意に蒼依の胸に好奇心が沸き上がった。

(ね、寝顔……)

 初めて見た。

(って、何まじまじと見てんの私っ)

 思わず側に腰を下ろし、その寝顔を眺めていたことにはっと我に返る。無意識な自分の行動にどぎまぎしながら目を反らしたその時だ。

「――」

「っ」

 かろうじて聞き取れるくらいの声で圭吾が何事かを呟いた。蒼依はその言葉に動きを止め、再び圭吾へと目を向ける。

(今、まな、て言ったよね)

 真梛。奥さんの名前。

(寝言でも呼ぶくらい、本当に大切に思っていたんだろうな)

 それなのにこんな結果だなんて。

(大丈夫、かな)

 穏やかな顔で眠っている圭吾を見下ろし、蒼依はふと心配になる。気付けば勝手に手が圭吾の頭に伸びていて、労るようにそっと撫でていた。蒼依は慌てて自分の腕を引く。

(な、なにやっちゃってんの私)

 自分の行動に驚きながら、今度こそ蒼依は立ち上がった。

 時間は十一時前。家族は既に各の部屋で休んでいる。蒼依も髪を乾かし、歯を磨いてから寝る支度をする。が。

(布団、どうしようかな)

 生憎と布団は一つしかない。それは圭吾に貸してしまったから、仕方なく座椅子を代わりにして眠りにつこうとした。のだが。

(ね、眠れない)

 眠れるわけがない。

 部屋の中央にはこたつがあり姿は見えないが、自分ではない誰かの寝息は聞こえる。それが圭吾のものだと思うと、これでもかというほど意識してしまって眠気なんてどこかへと吹っ飛んでいってしまう。

(無心になれ無心になれ、私!)

 そう念仏のように唱えながら毛布を頭まで被る。そして邪念を振り払うように必死に羊を数え続けたのだった。

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