圭吾サイド3
(やっぱり気にし過ぎだよな)
自宅へと帰る道すがら、蒼依から受けたアドバイスを思い返す。
圭吾の不安をよそに、蒼依は親身になって話を聞いてくれた。そしてやはり、蒼依も気のせいだと断言してくれた。その上。
『真面目で優しい人だったし、圭吾くんほど良い人はそうそういないって』
(俺のこと、そんな風に思ってくれてたのか)
蒼依に言われた言葉を頭の中で反復する。素直に嬉しかった。
真面目で実直な性格の蒼依から言われたからこそだろう。それが嘘偽りない本心だと信じられる。
(本当に、また会えて良かったな)
思いがけず再会した日を振り返り、圭吾は心の底から感謝する。
もしあの時声をかけていなければ、この悩みを相談できる相手はいなかっただろう。
自分に対して真面目で優しいと言ってくれたが、蒼依にこそその言葉をそっくりそのまま返してやりたい。
(今度お礼しないとな)
何がいいだろうか。
蒼依が喜びそうな物をあれこれ想像しながら、すっかりわだかまりが無くなった圭吾は、自分の口角が上がっていることに気付いていなかった。
それから日が経ち、暑さが際立っていた季節はとうに過ぎ去り、後一ヶ月弱で年末を迎える十一月の中旬。
「ただいま」
仕事から帰宅した圭吾は冷えた指先をすり合わせながらリビングへと顔を出す。すると。
「おかえりー」
エプロン姿でキッチンの前に立っていた真梛が振り返りながら圭吾を出迎えた。
「今日も寒かったねー。ご飯できるまでもう少しかかるから、先にお風呂入ってきたら?」
温まってきたらいいよ、と勧めてくる真梛の言葉に圭吾は「そうするよ」と頷き、寝室へと荷物を片付けに向かった。
蒼依に相談してから半月程が経った。
蒼依からの後押しもあり、妻への疑惑も晴れた圭吾はそれまで通りの仲睦まじい夫婦生活を送っていた。
疑念を抱いていた母も、あれ以降特に何も言うことはなく真梛と接していて、浮気の話が浮上したことが嘘だったかのような穏やかな日常を過ごしている。
これもひとえに蒼依のおかげだ。
改めて、相談相手に蒼依を選んで正解だったと、圭吾は感謝の念しか浮かばない。
(そう言えば……お礼、何にしようかな)
ゆっくりと湯船につかりながら圭吾は思案する。
礼をしたいとは考えていたのだが、未だに何が良いのか思いついていなかったのだ。
できれば喜んでもらえるものにしたい。それだけのことをしてもらったと思っているから。
(かといって、好きなものとか分かんないしなぁ)
どうしようかといろいろと悩んでいると、思いの外時間が経ってしまっていたようで十分過ぎる程身体が温まっていた。
のぼせる一歩手前で湯船から上がった圭吾は、その後もぼんやりと考えながら風呂場をあとにする。
そのままリビングへと向かい、不意に足を止めた。そこに妻の姿が見あたらなかったのだ。代わりに、先に帰宅していた父がソファで寛いでいて、ダイニングテーブルの上には個別に盛られたおかずだけが人数分用意されているだけ。
(まだ途中みたいだけど)
一体どこへ行ったのだろうか。
そう疑問に思いはしたのだが、さほど深くは気にせず圭吾はスマホを取りに寝室へと行った。
帰宅してから置いただけにしていた荷物の中からスマホを手に取る。そこであることに気付いた。
(あれ、上着)
朝晩の冷え込みが強くなってきた今日この頃。仕事に行く時に上着を着ていくようになったのだが、どうやらそれを車の中に置き忘れてきたらしい。
風呂上がりに外に出るのは湯冷めしてしまうが仕方がない。圭吾は渋々取りに向かった。
(さむっ)
思った通り、湯上がりには冷たい風が吹きすさんでいて、せっかく温まった身体から熱が逃げていく。
そんな中、足早に車までたどり着いた圭吾は車内に脱ぎっぱなしになっていた上着を手に取り、急いで戻ろうと踵を返した。その時だった。
――。
――――。
(なんだ? 話し声?)
寒風に乗って、ふとどこからか話し声らしきものが耳に入ってきた。その音はごく近くからしているように感じた。しかし周りを見ても人影はない。近所の家ともだいぶ距離があり、仮にその声だったとしてもここまで大きくは聞こえない。
(ということは、うちの敷地内?)
そう思い、圭吾は耳を澄ませた。すると女の声だと分かった。母の声ではない気がする。となると、あとこの家で女性は一人しかいない。先程キッチンから姿を消していた妻だ。
でもなぜ外に?
(なんだろう)
圭吾は妙な胸騒ぎを覚える。気付けば声が聞こえてくる方向を探っていた。そうして行き着いたのは、家の横手にある、物干し台がある庭だった。
もう日暮れ時だ。こんな時間に、それも夕飯の支度の途中に、こんな場所で何をしているのだろうか。
不思議に思いつつ圭吾は足を進め、近付くにつれ段々と話し声がはっきりしてくる。と、耳に届いた会話に圭吾はぴたりと立ち止まった。
「うん、大丈夫。金曜だから、逆に人手が多い方がお店的には助かるって言われるし」
間違いない。真梛の声だ。それもひどく嬉しそうな。
それを聞き止めた瞬間、圭吾の心臓がどくりと嫌な音を立てる。すっかり記憶の彼方へといっていた言葉が唐突に脳裏に蘇った。
――もしかしてだけど、手伝いを口実にして会っているんじゃ。
(まさか)
知らず圭吾は息を飲む。
会話の内容からして、実家からの電話かと思われたが、口調と言い回しから違うと断定できる。
(『助かるって言われる』なんて言わない)
となると、考えられる相手は――。
「……」
電話の相手を想像し、圭吾はその場から動けなくなる。
聞かれていることなど知らない真梛は相変わらず楽しげに電話を続けている。その姿から目が逸らせない。
気のせいだと安心した矢先のまさかの事態。しかし気のせいではなかった。
母の思い過ごしでも、自分の気にし過ぎでもない。妻は自分以外の誰かと密な関係を築いている。それを平然とした顔の下に隠し、いつもと変わらない様子で過ごしている。
そう考えた瞬間、自分の頭の中がさっと冷えていくのを感じた。
いつの間にか日も落ち、一層肌寒さが強くなる。しかし圭吾はその場から動くことができない。まるで足が地面に縫いつけられてしまったかのように立ち尽くし、手に持っていた上着を無意識に強く握り締めていた。
すると、真梛の方に動きがあった。
「じゃあ、金曜日の八時ね」
分かった、と頷いて、真梛が電話を終えたのだ。我に返った圭吾は慌てて物陰に身を隠した。
圭吾の存在に気付いてもいない真梛は何食わぬ顔で玄関の方へと歩いていく。その背中を目で追う圭吾の胸中は様々な感情が渦巻いたまま。
なぜ? どうして? 何がいけなかった? 原因は何だ?
そんな疑問がぐるぐると堂々巡りし、憤りや怒り、悲しみが際限なく沸いてくる。
気付けばすっかり身体は冷めてしまっていて、指先は熱を奪われ白くなりかけていた。
さすがにこのままでは風邪を引いてしまう。戻らないと。
(それに、家の中にいないと外に出ていたことに気付かれる)
寒さで鈍くなった足を何とか動かし、圭吾は裏口へとまわった。
なるべく音をたてないよう細心の注意を払い家の中へと入る。途中で風呂場へと寄り、冷えた髪を隠すためにタオルを頭にかぶる。そうしてたった今風呂から上がったばかりかのように振る舞いながらリビングへと向かった。
そこには何事もなかったかのように夕飯を作っている真梛の姿があった。それをみとめ、一瞬圭吾の胸に負の感情が沸いたが、それを押し殺して真梛の方へと歩み寄っていく。
すると、圭吾に気付いた真梛が振り返り、そして「あ、圭吾さん」と屈託のない笑顔で名前を呼んだ。
「あのね、さっき実家の方から連絡があって、今週の金曜と土曜、手伝ってほしいってお願いされたの。特に土曜日が昼間に団体客の予約があるらしくて準備が大変みたいなんだ。だから金曜日はそのまま泊まろうかと思うんだけど」
大丈夫かな、と首を傾げながら圭吾に返事を求めてきた。その普段と何ら変わらない表情に、圭吾の胸中に言葉が浮かぶ。
――本当に実家からだったの? 何か俺に隠してることない?
「――」
すぐ喉元まで出掛かっていた言葉を圭吾はぐっと堪え。
「……うん、こっちは問題ないから」
良いよ、と頷く。すると真梛は「ありがとう」と笑みを浮かべ、夕飯の準備を続けた。その背中を見つめ、圭吾はぐっと拳を握りしめる。
――今週の金曜日。
(二日後か……)
母と自分の予想が当たっているなら、そこで全てがはっきりする。それを自分の目で確認する。
そう心に決め、あっという間に当日――。
「それじゃあ、行ってきます」
朝の出勤時間。仕事へと向かうため、圭吾は荷物を手に玄関を開けた。その背中を真梛が「いってらっしゃい」と笑顔で見送る。
「あ、あたしは明日の夕方には帰ってくるから」
「分かった。あんまり無理はしないようにね」
「うん。圭吾さんも、私がいないからってひとりで飲み過ぎないでね」
「俺ってそんなに飲んだくれのイメージなの?」
ひどいな、と冗談混じりに言葉を交わし、圭吾は家を出る。真梛は昼から実家へ向かうそうだ。
(八時って言ってたな。なら一度帰ってきてから、もろもろ準備してから行くか)
車に乗り込みながら圭吾は今日の計画を練る。
しかし、自分一人だけだと変装したとしても気付かれる可能性がある。
(カモフラージュに誰かに付き合ってもらわないと)
そう考え、頭に浮かんだのは一人だけだった。それはこの件を相談した人物。蒼依しかいない。
男女の組み合わせならば、まず自分だとは思わないだろう。
(こんなことに巻き込むのは申し訳ないと思うけど……)
しかしはっきりさせておきたい。これから先のことを考えると。
「ふー」
一昨日の夕方目の当たりにした光景を思い出し、圭吾の気分がずんと沈む。そしてそれと同時に罪悪感もこみ上げてくる。その罪悪感はもちろん、一方的に巻き込むことになる蒼依に対してだ。
(信じてくれてたのにな)
妻のことも、自分のことも。
相談に乗ってくれた時の蒼依の様子がまざまざと思い出され、圭吾の口からは知らず溜め息が零れる。
――果たして付き合ってくれるだろうか。
(……理由は言わない方がいいか)
でなければ、恐らく協力することに躊躇するだろう。
当の自分ですら、本当なら目を背けたいのに。
「――ふぅ」
もう一度深く呼吸をし、圭吾は車のエンジンをかける。
これから数時間後に向き合わなければならない事態に備えて、改めて気合いを入れ直したのだった。




