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蒼依サイド3

 それから数ヶ月後。夕方、蒼依がレジのシフトに入っていた時のことだった。

「いらっしゃい――」

「あおさん」

 ませ、と言い終わる前にお客様の方から名前を呼ばれた。しかもこの呼び方。

「誰かと思えば」

 顔を上げ、来店したばかりの圭吾を見上げてから蒼依は「いらっしゃいませ」と言い直した。

「久々じゃない? お店に来るの」

 レジの内側から蒼依がそう話しかけると、圭吾は「そうだね」と頷きながら近寄ってくる。仕事帰りなのか、いつぞやも見た作業服の上にジャケットを羽織った出で立ちだった。

「ホームセンターって頻繁に買い物しにくる所じゃないから」

 コンビニと違って、と返す圭吾に蒼依は「まさか」とわざとらしく声を上げる。

「コンビニって、たばこにビールとおつまみなんて中年男性の買い物してるんじゃ」

 そう冗談めかして言うと、圭吾は軽く目を瞬かせた後。

「ビールは飲むけどたばこは吸わない。おつまみは奥さんが作ってくれるから」

 若干苦笑を滲ませて返してくる。その返事に蒼依もつい調子に乗って「だからちょっとふくよかに」と続けると。

「……クレームの電話するよ、廣瀬ひろせっていう従業員に失礼なこと言われたって」

 じとりと睨まれてしまった。少々口が過ぎたと蒼依は「あ、それは勘弁」と平謝りする。

「まぁまぁ、可愛い奥さんの手料理がおいしいってことでしょ」

 気にしない、と笑って誤魔化した。その言葉に圭吾も「うん、まぁ。それは間違いないけど」と頷き返してきて、自分で話題に出したくせに、蒼依はちょっと心にダメージを受けてしまった。

「のろけは結構だってば」

 以前にもやった返しであしらう。圭吾の方も「言い出したのはそっちだけど」と同じように返してきた。のだが。

(あれ、なんか……)

 言い返してきたその声が少し覇気がないような気がする。表情も、どことなく神妙な面もちに見える。そう蒼依が思っていると。

「……あのさ、仕事って何時に終わる?」

「え、私?」

 唐突な質問に聞き返すと圭吾がこくりと頷く。蒼依は腕時計を確認した。時計の針は七時になる十分前を指している。

「あと十分であがりだけど」

 蒼依の返事を待っていた圭吾にそう答えると「本当?」と僅かに語尾が上がった。だが、それから少し間があく。何事かを考えているようだ。

 自分の終業時間なんか聞いてどうするのだろうかと、蒼依が黙って待っていると。

「ならさ、ちょっと話があるんだけど」

 良いかな、といつもの穏やかさとは打って変わって、妙に真剣な様子で聞いてきた。蒼依は首を傾げる。

 話? なんの?

「無理にとは言わないけど、ちょっと相談に乗ってもらいたいことがあって」

「相談? 私に?」

 圭吾くんが?

 本当になんの話だろうかと、まったく想像ができず、ますます首を捻った蒼依だったが。

「うーん、私で良いっていうなら、聞くけど……」

 特にこのあと予定もないし、と返せば圭吾はどこかほっとしたような表情を見せた。

「ありがとう」

 なら外で待ってるから、と買い物もせずにそのまま店を出ていく。その背中を見送り、蒼依は目を瞬かせる。

(相談だなんて、いったい何事)

 しかも自分にだなんて。

(まったく予想できない)

 圭吾が出ていったドアを見つめたまま、蒼依は疑問符を浮かべる。しかし、いくら考えても思い付かず、次のレジ担当者が交代にくると急いで着替えに向かった。

 いつもなら裏口から出るところを、今日は表の入り口から店を後にする。

(えっと、圭吾くんは)

 どこに行ったのかと辺りを見回していると、店の外に設置されている自販機の側に立っているのを見つけた。蒼依は足早に駆け寄る。

「ごめん、待たせたね」

「いや、無理言ったのはこっちの方だし」

「それで、話って?」

 早速蒼依が用件を聞く。が、圭吾は少し辺りを気にするように見回し。

「えっと、ここじゃなんだし、車まで来てもらっても良い?」

 そう請われ、蒼依は「わ、分かった」と駐車場へと向かう圭吾の後に続いた。

 建物から少し離れた場所に停めてあった一台の車の横にくると、圭吾は鍵を開ける。蒼依はその助手席側へとまわり、おじゃまします、と震える手でドアを開けた。

(き、緊張するんですけどっ)

 狭い車内に二人きりとか。未だに圭吾への恋心が忘れられていない蒼依は一人挙動不審になる。

「そ、それで、相談って?」

 声が上擦っていないかと心配しながらも、努めていつもの調子で尋ねてみる。だが、圭吾はしばらく言い淀んでいた。表情も硬いままだ。

(そんなに思い悩むようなことを相談されるの?)

 果たして本当に自分で良いのだろうかと不安になりつつも、蒼依は圭吾が言い出すのをじっと待った。すると、ようやく圭吾の重い口が開く。

「実はさ」

 静かな車内に一層潜められた圭吾の声が零れる。その声のただならぬ様子に、蒼依は固唾を飲んで続きを待った。が。

真梛まなにさ――あ、奥さんなんだけど……」

「うん」

 ……え? 奥さんの話? まさか結婚生活の相談?

 唐突に飛び出てきた『奥さん』という単語に蒼依はどきりとする。

 それはちょっと、いや結構辛いのだが。

(でも、聞くって言っちゃったし)

 今更拒むこともできない。なによりも圭吾の暗い表情の理由が気になる。

 本当に何を聞かせる気なのかと内心どきどきしながら構えていると、次の瞬間圭吾の口から飛び出してきた相談内容に蒼依の目は点になった。

「もしかしたら、浮気されてるかも」

「…………へ?」

 え? は? う、浮気?

「浮気って、いやいや、本当に?」

 圭吾くんの気のせいじゃないの、と蒼依は聞き返す。

 想像していたような結婚生活の相談ではなかったことに安堵はしたものの、これまたまったく想定外の単語なのだが。

「だって、まだ結婚してそんなに経ってない、よね?」

 蒼依が圭吾の結婚話を聞いたのは今年の三月頃だった。実際の時期は知らない。恐らく、それよりも前ではないかとは思う。

 今は十月の下旬だ。仮に三月だったとしても、まだ半年ほどしか経っていない。

「うん、再来月でちょうど一年になる」

 再来月ということは十二月か。

「って、一年ならまだまだ新婚っていっても良いじゃない。それなのに浮気? ないない、絶対気のせいだって。だって、良い子なんでしょ? 圭吾くんのお母さんも気に入ってる風な口振りだったし」

 そう言ってやるが、しかし圭吾の表情は曇ったままだ。その横顔に、否定はしたものの、蒼依も気になって尋ねてみた。

「……それとも、何か疑わしいものでも見たとか?」

 例えば不審な着信履歴とか、と聞いてみれば、圭吾はそれには首を横に振った。

「じゃあ、態度が冷めてるとか?」

「いいや」

「なら、曖昧な理由で出かけたりするとか、一人になりたがるとか、あとはスマホを触ってる時に近付くと挙動がおかしくなる、とか」

 蒼依は思いつく行動をいくつか挙げてみる。だがそれにも圭吾は「そういうところもないんだけどさ……」と答えた。

「ないの?」

「寧ろ、家事とか両親との付き合いとか、全部きちんとやってる」

「なのに浮気してるって?」

 どうしてそう思うのだろうか。

 蒼依の疑問は圭吾にも伝わったようで。

「……でもなんか、気になるんだ」

 暗い表情のまま、圭吾はぽつりと漏らす。蒼依は「そうなんだ」と返すしかない。

 疑わしいところがないのに浮気されてると思うなんて。

(何か証拠があって言ってるなら納得のしようもあるけど)

 何もないのに疑うなど、逆に奥さんに失礼な気がする。

(でも、確証もなく言うような人じゃないしなぁ)

 黙り込んでいる圭吾の横顔をちらりと見やり、蒼依はしばらく考える。その後。

「特に怪しいところがないなら、圭吾くんの考え過ぎだと思うけどなぁ」

 私は、と後付けて言ってみた。しかし圭吾は「そうかな?」と尚も疑心暗鬼な顔をしている。だから蒼依は正直に自分の考えを伝えた。

「そうだよ。だって君、大切にしてそうだもん。昔から真面目で優しい人だったし、奥さんのことを蔑ろにしてるなら考えられなくもないだろうけど」

 そんなことはないでしょ、と聞いてみる。すると、その言葉には圭吾も頷きはした。が。

「でも、それは俺だけがそう思ってるだけじゃないかなって」

「だから浮気されてるんじゃないかって思ってるの?」

 そう尋ねると、圭吾は小さく頷いた。蒼依は内心呆気にとられる。

 おぉ、これは相当精神的にキてるな。

 何故そこまでの強い疑惑を抱いているのかが正直蒼依には分からない。が、蒼依は「うーん」と唸り声を上げた後。

「そう言われると何とも言えないけど……でも、私は気のせいだと思う」

 そうきっぱりと言い切った。

「圭吾くんほど良い人はそうそういないって。自信もって良いよ」

「そう、かな」

「うん。私が言うのもなんだけど、保証する。年下の奥さんが可愛過ぎてちょっと神経質になってるんじゃないのー?」

 場の雰囲気を変えようと、からかい気味に言ってやれば「そんなことはないと思うけど」と少し照れたように圭吾は返してきた。その表情が若干綻んだことに、蒼依は「のろけはお腹いっぱいだってば」と冷やかすように笑い返す。

 そもそも、なぜ私にそんな相談をしてきたのか。

(知らない人じゃないけど、ここ何十年も会ってなかったのに)

 しかも自分にとっては初恋の相手で、更に言うと未だに心残りがあったりもするのに。

 そんなことを考えていると、ふと圭吾が「ありがとう」と礼を言った。

 我に返り圭吾の方へと目を向けると、先程までの思い詰めたような表情は和らぎ、いつもの穏やか笑みに変わっていた。

「聞いてもらってちょっとすっきりした。……正直参ってたんだ。下手に周りに相談して奥さんの耳に入ると気まずくなるし」

 だからといってこのまま自分一人で考え込んでいたら悪い方にしかいかなくて、と自嘲気味に言う。

「それで私に?」

「うん、あおさんならちゃかさないで真面目に聞いてくれるだろうなって思って」

 本当にありがとう、と改まって頭を下げてくる。その表情と声がひどく穏やかで、蒼依は自身の胸が高鳴るのを感じた。思わず心臓がきゅっとなる。

 それを悟られないよう、蒼依は「いえいえ、どういたしまして」とおどけたように畏まった口調で返す。その後で「ってか」と若干意地の悪い顔をして睨んでやった。

「相手もいない私に恋愛相談とか嫌味でしかないんだけど?」

「彼氏もいないの?」

「あ」

 思わず口走ってしまった一言に、蒼依は自分で墓穴を掘ってしまったと後悔する。頬をひきつらせて固まった蒼依に、圭吾は心配げな視線を寄越す。

「大丈夫?」

「ちょっと。大丈夫って聞き方はなくない?」

 傷つくんですけど、と不機嫌も露にねめつければ、圭吾はすぐさま「ご、ごめん」と謝った。蒼依は一つ息を吐いてから口を開く。

「まぁ、事実だから言われてもしょうがないけどさ。……最近さ、ちょっと本気で婚活とか始めないとかなって悩んでるんだ」

 もう三十五だし、と小声で言えば、圭吾は「婚活かぁ」と思案顔を浮かべる。

「その気持ちは痛いほど分かる」

 俺もそうだったし、と同調した後。

「よければだけど、うちの従業員の独身の人、誰か紹介しようか?」

「それは非常にありがたい話、ではあるんだけど……」

「けど?」

 聞き返された蒼依は「うー」と唸る。そしてぽつぽつと零す。

「私さ、正直、人との付き合い方ってよく分かんないところがあって……。なんて言ったらいいのかな。心の底から自分の感情を出すのが苦手っていうか、分かんないっていうか。人の反応の方が気になって、自分の考えとかを伝えられないんだよね。早い話がコミュ障ってやつ。おまけに極度の人見知りだから、知らない人と喋るの本当に苦手だし」

 そう本音を吐露すると、圭吾は「あー」と何事かを思い出したかのように声を上げる。

「思い当たる節がある、かも」

「でしょ? 昔からそうだったでしょ? だから、正直なところ、悩んではいるんだけど中々踏み出せずにいる状態なのですよ」

 蒼依が深く肩を落としながら言うと「そうなんだ」と相槌が返ってきた。

「確かに大人しい方だったと思う。特に中学上がったくらいから、あんまり話した記憶がないかな」

「だって、中学になったらクラス別々になっちゃったし、おまけに一気に人数も増えて回りは知らない人だらけ。小学校までは保育園の頃から知ってる人ばっかりだったのに、いきなりそんなところに放り込まれたらそりゃ元来の人見知りが発動するってものよ」

 より内気になっちゃった、と蒼依が隠しもせずすっぱりと言い切ると、圭吾はふっと吹き出した。

「はっきり言ったね」

「本当のことだからね。それに、今だから言えるようになったっていうのもあるかな」

 仕事柄、人と関わるのが必然だから少しは改善できてきた。と、自分では思っている。そう話すと圭吾も「そうだね」と同意を示した。

「今のあおさんは人見知りって感じはしないな。仕事中の態度とか見ててもさ、お客さんとか他の従業員さんとかに気配りできてるし、穏やかな雰囲気で感じの良い人だなって思うよ」

「そ、そうかな?」

「うん、昔とは違うな。そうやって自分のことを言えるようにもなってるし、俺の相談にもちゃんと真面目に乗ってくれて、より良く変わったと思う」

「あ、ありがとう……」

 思わぬ圭吾の言葉に知らず蒼依の頬が熱くなる。

 まさかそんなところまで見られていたとは。

「なんだか最後は私の相談になってたね」

 照れ臭さを感じつつ、蒼依は「ごめんね」とつい謝ってしまう。が、圭吾は「良いよ」と首を振る。

「こっちが先に聞いてもらったんだし、今日は本当にありがとう」

 おかげで気持ちが楽になった、と笑みを浮かべた。蒼依も「私も」と返す。

「私で良ければいくらでも話聞くから。もちろんのろけ話以外で」

「そこは頑ななんだ」

 苦笑する圭吾に蒼依は「当たり前でしょ」と笑って返してから車から降りた。

 駐車場から出て行く圭吾の車を見送り、自分も帰るために従業員用の駐車場へと向かう。その道すがら、先程の相談内容を思い起こす。

(それにしても、浮気ねぇ。絶対されるような人じゃないと思うんだけどな)

 本人にも言ったが、本当に真面目で優しい人だった。

 小学校の頃の記憶を思い返してみても、誰かと喧嘩してるところなど一度も見たことがない。

(おまけに大人になって一層穏やかになって誠実さも備わってるし)

 だから奥さんのことも大切にしていると確信している。

 ……本当、羨ましいなぁ。

 ふと無意識のうちにそう思ってしまい、蒼依ははっとかぶりを振る。

(あーもう、また)

 相も変わらず未練たらたらな自分が心底嫌になる。

 ――この想いはもう無くしてしまわないと。

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