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圭吾サイド2

(あおさんってあんな感じだったっけ?)

 先程まで話していた蒼依の様子を思い返し、圭吾は再び昔の記憶を辿る。

 もともと真面目な性格ではあった。そこは変わっていない。が、口調や反応がだいぶ軽くなったように思う。

(昔はもっと内気で控えめだった気がするんだけど)

 いつも自信なさげに相手の表情や行動を窺っている風だった。あんなにくだけた感じじゃなく、ましてや軽口なんて叩いていた記憶もない。

 しかし今日目にした蒼依はそんな様子を微塵も感じさせなかった。

 客に対してはもちろん、他の従業員との様子を見ていても和やかに接していて、穏やかそうな雰囲気に包まれていた。

 そんな蒼依を見て、圭吾は一人推測する。

(まぁ、二十年も経てばどこかしら変わって当然か)

 それなりの社会経験は積んできているだろうし、今は人と接する仕事にも就いてる。むしろ変化がない方が珍しい。

 そんなことを考えながら、圭吾はふと思う。

(昔からあんな風だったら、もっと話せてたかもな)

 そうしたら、自分の中に抱いていた感情がもっと早い段階で明確になっていたかもしれない。その結果、もしかしたら関係性が違う形へと進展していたかも――。

(って、今更そんなこと考えても意味ないか)

 今となってはもう終わったこと。

 自分は既に別の女性と結婚しているし、懐かしさ以外の感情も特に沸いてこない。普通にいち友人として話せるだけで十分だ。

 そんなことをぼんやりと思いながら、圭吾は車のエンジンをかけた。


 ――それから一ヶ月程が経った頃だろうか。

「圭吾」

 週末の束の間の休みをテレビを観ながらのんびりと過ごしていた時だった。ふと背後から名前を呼ばれ、圭吾は画面から視線を外して声のした方へと顔を向ける。

「何?」

 振り返ったそこには母がいたのだが、その顔を見て圭吾は眉を潜める。

 母の表情がどこか暗い。神妙な面持ちで眉根を寄せ、明らかに普段の様子とは違うと分かった。

「どうかしたの?」

 どこか思い詰めているようにさえ見える母を訝しんで圭吾が尋ねる。すると母は、なぜか辺りを気にしたように見回し、ゆっくりと近くに寄ってくるではないか。その行動に圭吾は更に疑念を覚えた。

 今この家には自分と母しかいない。

 父は朝から趣味の釣りに出かけていて、妻の真梛も外出している。実家の手伝いだ。

 真梛の実家は飲食店で、急に欠員が出てどうしても人手が足りない時など、手伝いに行っていた。

 そんな状況だというのに、母は不審な素振りを見せる。その行動を怪訝に思いながら、圭吾は母が口を開くのを待っていた。その時だ。

「ちょっと、真梛ちゃんのことで話があるんだけど……」

「真梛のこと?」

 母の口から出た名前に圭吾の片眉が無意識に跳ねる。

 予想していなかった名前を出されたことと、陰鬱な母の表情に驚きよりも訝りの感情が上回った。

「真梛がどうかしたの?」

 妙な胸騒ぎを覚えながら圭吾が聞き返す。が、どうしたことか、母はなかなか先を言わない。固く口を閉ざし、物言いたげな眼差しで見てくるだけ。

 本当に何があったというのだ。

 気にかかる表情と歯切れの悪さに、珍しく苛立ちが募り始めていたまさにその直後のこと。

「――真梛ちゃん、浮気なんてしてないわよね?」

「…………は?」

 これまた衝撃的な言葉が飛び出てきた。

 一瞬何を言われたのか分からなかった圭吾は、数拍おいてから素っ頓狂な声を上げてしまった。

「浮気って」

 一体何を言っているんだ。

 何をいきなりそんな突拍子もないことを言い出すのか。

「当然なに? 真梛となんかあったの?」

 思わず圭吾の口調が険しくなる。しかしそれも致し方ない。浮気だなどと言われれば険悪にもなる。

 もしや喧嘩でもしたのだろうか。

 そう思い聞いてみたのだが、母は「別に何もないわよ」と即座に否定した。

「じゃあどうしてそんなこと言い出すのさ」

 圭吾が問いただす。

 何か原因がなければ、そんな不穏なことなど口にしないはずだ。

(真梛のことは気に入ってるみたいだし)

 むしろ、姑間の関係は問題なく見える。それなのに。

「それは……」

 圭吾の問いかけに母はまたもや言い淀む。

 口を開きかけては閉じるを繰り返し、非常にもどかしい。そんな母を圭吾は根気強く待った。すると、やっとのことで重い口から声が漏れた。

 圭吾の様子を窺いながら、母がおずおずと話し出す。

「……一昨日、妙な会話を聞いちゃって」

「妙な会話?」

 それはちょうど自分が風呂に入っていた時のことだったそうだ。

 キッチンで夕飯の支度をしていたはずの真梛の姿が見あたらず、何かあったのかと探していた時に、ふとどこからか話し声が聞こえてきたのだそうだ。

 声のする方へと足を進めると、居間の方で真梛が電話をしていたらしいのだが。

「相手は誰かは分からないけど、でも、今日会うみたいなことを話してたのよ」

「今日? なら実家の誰かからの電話じゃないの?」

「でも、話し方がなんだか気になって」

「話し方?」

「妙にヒソヒソと喋ってたの。それが、気付かれてないとかどうとか聞こえた気がして」

「気付かれてない……」

 それは確かに気にかかる言葉だ。が。

「でも、それだけで浮気を疑うのはどうかと思うけど」

 結婚してまだ一年も経っていないのに。

 夫婦仲も、冗談混じりの言い合いをするくらいで、まったくといっていいほど問題はない。そのやりとりは母も常日頃目にしている。

 圭吾が言うと「それは分かってるけど……」と頷きはした。だが、その顔は尚も不安そうなまま。おまけに「でも、なんだか気になるのよ」と渋面を浮かべる。そこまで言われると圭吾にも迷いが生まれる。

 普段の真梛の行動を思い返す。

 両親との関係は良好だし、不平不満なども一切口にしない。むしろ気兼ねなく生活しているように感じる。母が言うような怪しい素振りも見たことがない。

「……」

 やはり母の気のせいではないだろうか。

 未だに暗い表情の母に「とにかく、真梛の前でその話はしないでね」とやんわりと釘をさしてその話しは一旦終わりにした。

 ――それから数時間後。

「ただいまー」

 がらりとガラス戸が開く音に重なって明るい声がリビングへと届く。時刻は夕方の六時をまわった頃。昼間の母の言葉を頭の片隅に残しながらも、圭吾は帰宅した妻を労う為に玄関へと向かった。

「おかえり」

 お疲れ様、と迎えると、靴を脱いでいた真梛が圭吾を見上げ、もう一度「ただいま」と笑みを浮かべる。

「忙しかったでしょ」

「日曜日だからねー。あ、これ今日の晩ご飯」

 向こうで作ってきた、と一つのビニール袋を掲げる。食欲をそそる揚げ物のいい匂いが鼻に届く。それを受け取りつつ。

「なら、先にお風呂入る?」

 盛り付けるくらいなら自分や母がやればいい。そう提案したが、真梛は「あとでいい」と首を振った。

 それから両親も揃っていつも通りの和やかな夕飯を済ませると、時刻はあっという間に九時を回った。

 先程まで賑わっていたリビングには今、圭吾一人しかいない。

 父は既に寝室で休んでいて、母は居間で趣味の読書に耽っている。真梛は後回しにしていた風呂に入っていた。

 寝るにはまだ少しだけ早いと思い、適当に点けたバラエティ番組を聞き流しながらスマホを手に時間をやり過ごす。と、その時だった。不意に背後から電子音が聞こえた。

 振り返った先は無人のダイニングキッチン。そのテーブルの上には一台のスマホがぽつんと取り残されていた。真梛のだ。

(珍しいな)

 普段真梛はスマホで音楽を聴きながら、或いは動画を観ながら風呂に入る。それが今日は置いてきぼりだ。

「……」

 持ち主が不在のスマホはしばらく鳴り続けた。

 テレビから流れる明るい声と無機質な電子音が数秒間混じり合い、その音がやけに圭吾の意識を引きつける。その瞬間。

 ――真梛ちゃん、浮気なんてしてないわよね?

 そんな悪魔のごとき囁きが耳の奥に木霊した。

 気付けば圭吾は腰を上げていた。そして、目に見えない何かに引き寄せられるように足がダイニングへと向かい、鳴り続けているスマホの前でぴたりと止まる。だが、圭吾が到着すると同時にスマホの方が静かになり、待ち受け画面に戻ってしまった。そしてそのまま真っ暗になる。

 ブラックアウトしたそれを前に圭吾はただ立ち尽くす。見下す先から目が逸らせない。

 ――電話の相手ははたして?

「っ」

 脳内に浮かんだ言葉で圭吾ははっと我に返った。見れば自分の指先が真梛のスマホに触れる寸前だった。圭吾は咄嗟に手を引く。

(いや、さすがに見るのは)

 いくら夫婦でも駄目だろう、と自分を叱責する。

 浮気だなんて、そんな。

(考え過ぎだ)

 きっと母の思い過ごしだ。勘違いだ。

 そう言い聞かせ、うんともすんともいわなくなったスマホから無理矢理目を反らし、圭吾は背を向ける。そのままリビングを後にし、微かなわだかまりを胸中に抱えたまま眠りについたのだった。


 電話をかけてきた相手は一体誰だったのか。

 そのことが頭の片隅から離れず、圭吾はすっきりとしない日々を過ごしていた。だが、当の真梛の方には特に気になる行動は見られず。

 やはり思い過ごしだったのだろうと、日が経つにつれ徐々に母親の懸念を忘れかけていたある日のこと。

「え? 泊まりで?」

 夕食後。食卓を片付けていた最中のことだった。

 妻が洗い終わった食器を食器棚に片付けていた圭吾は、その申し出に思わず手を止めて聞き返してしまった。

「うん。お母さんが風邪引いちゃって、それで、お父さんひとりだと大変だから手伝いに行きたいんだけど」

「何日くらい?」

「とりあえず二日間だけ。週末だからお客さんも多いし、もし良ければなんだけど……」

 どうかな、と窺うように真梛が返答を待つ。いつもならすぐに頷いていたところだが、その時ばかりは圭吾は内心答えに戸惑った。

(泊まりか)

 初めての申し出だ。今までは込み合う数時間、長くてもその日一日だけ手伝いにいくことはあったが。

(でもまぁ、その気持ちは分からなくもないけど)

 自分だって同じような状況なら顔を見に行くし、病状によっては何らかの手助けはすると思う。

 特に真梛は一人娘で末っ子だ。他に兄が二人いるが、その兄妹三人の中でも親と一番仲が良い。だから尚更心配なのだろう。

 そう思い圭吾が了承の意を伝えるために口を開こうとしていた時だった。

「――良いんじゃない?」

「お義母さん」

 自分達の会話を聞いていたのか、どこからともなく母が割って入ってきた。

「うちのことは私がするから。真梛ちゃんはいつも一生懸命やってくれてるし、たまには実家でのんびり……はできないかもしれないけど、こっちのことは気にしないで」

「本当に良いんですか?」

「ええ」

 大丈夫よ、と母がにこやかに言うと、真梛は「ありがとうございます」と笑顔で頭を下げた。その後、許しがでたことを連絡するために一旦その場を離れる。

 真梛の姿が視界からなくなった後で。

「圭吾」

 先程までの和やかな表情を一変させ、母親が険しい顔で圭吾を見てきた。いつかも見たことのある渋面。その表情に忘れかけていた記憶が嫌でも蘇った。

「やっぱりちょっと気になるわ」

「浮気してるんじゃないかって?」

 またその話かと、僅かばかり嫌気を覚えながらも母の話に耳を傾ける。対する母は「だって」と不安そうに顔を曇らせる。

「私だって疑いたくはないわよ。真梛ちゃん、良い子だもの。でも、最近手伝いに行く回数が増えてない? 以前は月に一回あるかないかだったのに、最近は二、三回。しかも週末が多いじゃない」

「……」

 声を潜めて言う母の言葉に圭吾も押し黙る。

 確かに近頃、手伝いに行く頻度が増えている気はする。それは圭吾自身も薄々思っていた。

「けどそれは、それだけお店が忙しいってことでしょ」

 飲食店としては喜ばしいことではないか。

 だから別に疑うことはないだろう、と圭吾が言いかけたところで、先に口を開いた母が不安を煽る一言を放つ。

「もしかしてだけど、手伝いを口実にして、お店で浮気相手に会ってるんじゃ」

「まさか……」

 とは言いつつも、実は同じ考えが圭吾の頭にも一瞬過ぎっていた。

 ――可能性は大いにある。

 傍目には友好的な店員として映るだけだろうし、実際真梛は店の看板娘でもあった。昔ながらの常連客とは友人のように接している。だから浮気相手と会っていたとしても、そういう関係だとは気付かれにくい。

「……」

「ねぇ、一度、真梛ちゃんのスマホを確認してみたら?」

 考え込んでいることを察したらしい母が助言してくる。圭吾はふと顔を上げ。

「着信履歴とかSNSとか?」

 若干素っ気ない物言いで返してしまった。

 母も悪気や悪意があって言っていることではないのは分かっている。が、しかしだ。

(もし勘違いで問いつめて、違ったら?)

 実際はやってもいない不義を疑われた妻がどう思うか。

(それこそ、本当に心変わりされかねない)

 折角うまくいっている夫婦生活に溝ができてしまう。

 圭吾は逡巡する。

(浮気……か)

 これまで蔑ろにしてきたつもりはない。

 確かに、最初から結婚を前提でと申し出たのは自分でも性急だったとは思わなくもない。しかも相手はまだ二十代。もしかしたら結婚なんてまだ考えていなかったかもしれない。

 しかし、特に反対はしなかった。寧ろ、第一印象が良かったようで「こちらこそ、よろしくお願いします」と親御さんからも言われた程だ。

 圭吾の方も第一印象は悪くなかった。明るくて人懐っこそうな笑顔が可愛らしい子だと思った。

 実際一緒に暮らし始めて、年齢のわりにしっかりしているし、夫婦仲はもちろん、両親との関係も良好だ。全てが円満にやれている。……けれど。

(俺だけがそう思ってるだけ、なのかな)

 本音の部分では何か不満があるのだろうか?

 ふと悩む。ひとたびそう考えてしまえば、思考は悪い方へとしか進まなくなる。

(……誰かに相談してみようか)

 だが誰に?

(滅多な人には言えないしな)

 もし相談したことが真梛の耳に入りでもしたら、それこそ取り返しがつかない事態になる。

 そこまで考え、誰が適任だろうかと友人や知人を思い浮かべていると、ふと、ある人物の顔が脳裏を過ぎった。

(――あの人なら、ちゃんと聞いてくれるかな)

 そう思い、本当に相談しても良いものかと悩みながらも翌日その人物のところへ赴いた。

 探し人は自動ドアが開くと同時に見つかった。

「いらっしゃい――」

「あおさん」

 ませ、と来店客を迎える挨拶を述べていた蒼依の声を遮りその名前を呼んだ。

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