圭吾サイド8
玄関が閉まる音が聞こえたかと思えば、しばらくしてから車のエンジン音が耳に届く。それをぼんやりと聞きながら、圭吾はごろりと寝返りを打った。
(帰っちゃったか)
遠ざかっていったのはもちろん蒼依の車だ。
蒼依ならば酔いの回った自分を放っておかないだろうと思ったが、思惑通り家まで送ってくれた。
本音を言えばもう少しだけ一緒にいたかった。側にいてほしかった。その気持ちが先行して、飲み過ぎて具合が悪くなったように見せかけて甘えてみたり。
まさかそのままの体勢で背中をさすってくれるとは思わなかったから、蒼依に抱き抱えられるという、思わぬ幸運に恵まれた。
ただただ幸せで満たされた。ほろ酔いの気持ちの良い気分が相まってその幸福感はひとしおだった。
その至福の余韻に浸りつつ、圭吾は改めて自分の中に芽生えている感情に感慨深くなる。
心の底からこみ上げてくる愛おしさ。この熱く焦がれる感覚と、それとは真逆の安堵感。それら全ての感覚を思い出すだけで胸がいっぱいになり、気を抜くと想いが溢れ出そうになる。
(好きだと思うだけで泣きそうになるって)
どれだけ蒼依のことを好きなのだ。
その事に二十年以上も気付けていなかったというのに。
(この歳になって子供みたいに純粋な恋心を抱いた上に、その相手は初恋の子って)
一途にも程があるだろうと、最早笑ってしまいたくなる。しかしその一方で。
(それにしても、あれだけ言われたのに気付かないってどういうこと?)
つい数時間前のことを思い出し、圭吾は盛大に首を傾げる。
気になる人の人となりを事細かに話したのだが、当の本人は至極真面目に聞いているだけ。挙げ句誰かから紹介されたのかとさえのたまう始末。そのあまりの鈍さに圭吾は開いた口が塞がらなかった。
(いくらなんでも鈍すぎない?)
いや鈍感なことに関しては自分も大概だと思うが、蒼依は更にその上をいっている。
蒼依の良いところは以前デートした際にも言ったことがある。それをそっくりそのまま伝えたのに、なぜその事に気付かないのか。
(しかも自分で良さそうな人とか言ってたし)
その相手が自分だと分かった時、どんな反応を見せるのだろうか。
それはそれで非常に気になったが、こちらとしては好意に気付いてほしかった。
控えめな性格故に自己肯定感が低すぎるところが難点な蒼依に、圭吾が残念な気持ちを覚えていたその時だった。数回のノック音と共に「入るわよ」と母の声が聞こえた。
時計を見れば十一時前。こんな時間にどうしたのかと、まだ酔いが醒めきっていない圭吾はベッドに横になったまま「良いよ」と答える。
すると間もなくして現れたのは、ありありと呆れの感情を露わにした母だった。その表情で母が何の用件で来たのか察しがついた。
(さすがに目に余ったかな)
恐らく自分の不甲斐ない様を咎めにきたのだろう。
送り届けてもらっただけならいざ知らず、介抱してもらう姿を目の当たりにしたのだから、我が子ながらに情けないと思っているに違いない。
(ていうか、よくよく考えればかなり恥ずかしいことしてたかも)
その時は幸せのあまり気にもならなかったが、時間が経ち若干落ち着いた今、はたとその結論に至る。
だらしなく女性の腕の中に身を委ねている息子の姿など、それを眼前で見せられた親の心境とはいかなるものか。
この後母の口から飛び出てくるであろう小言をいかんともし難い心持ちで圭吾が待っていると、しかし母から発せられた言葉は予想していたものではなかった。
「ねぇ圭吾。さっき、蒼依ちゃんから気になる話を聞いたんだけど」
「気になる話?」
てっきりお咎めがあると思っていた圭吾は身体を起こして聞き返す。
気になる話とは何だろう。
(いや待てよ。何となく予想はつく、かも)
わざわざ自分の所にまで確認に来たのだ。説教ではないのなら、思い浮かぶ話題は一つ。その思い当たる話題と言えば。
「――あんたが良い人を見つけてるって蒼依ちゃんが言ってたけど」
本当なの、と母が圭吾に真相を尋ねる。圭吾は「やっぱりか」とひとり納得する。納得して、思わず笑ってしまった。
まさに自分の事なのに、とつっこみたくてしょうがない。
いきなり笑い出した圭吾に当然母は「なに笑ってるの」と怪訝そうに眉を潜める。圭吾はこっちの話、と適当に返してから正直に言った。
「いるけど、それがどうしたの?」
遅かれ早かれ話すことになるのだし、隠す必要もない。それに恐らくだが。
「優しくて思いやりのある、控えめな人って蒼依ちゃんが言ってたけど」
「……うん」
「――それって、蒼依ちゃんのことでしょ」
「……」
きっぱりと母が言い切る。圭吾はやはりかと内心得心した。
(やっぱり分かったのか)
だから確認にきたのだろう。自分の考えが当たっているのか問いただすために。
見事言い当てた母に圭吾は無言で返事をした。その通りだと。母にもそれが伝わったようで「やっぱりそうなのね」と小さく呟く。
「意外だった?」
お互い答えが一致している事は前提の上で圭吾が聞き返せば、母はしばし考え込んだ後。
「……半々ね」
納得しているようでそうでもない風な言い方をした。その微妙な言い回しに圭吾は首を傾げる。
「半々?」
どういう意味かと視線だけで問うと。
「だって、全くそんな風な態度見せてなかったじゃない。子供の頃は仲が良さそうだったけど、その後は蒼依ちゃんの名前すら口にしてなかったし。でも最近は一緒に出かけたり、さっきだってべたべた甘えてたし」
だからそうじゃないかと思って、とごくごく普通に自分の考えを述べた。その後半の一言に、圭吾は心の中では顔を覆いながらも笑ってごまかす。母もそれ以上は特に言及しなかった。代わりに。
「で、どうなの? もう気持ちは伝えたの?」
一緒に食事してきたんでしょ、と今日の成果を聞いてくる。圭吾も、とりあえず一旦頭を切り替えて問いかけに答えた。
「いや、まだ」
「よね。さっき話しててそうじゃないかと思ったわ。蒼依ちゃん、自分のことだって気付いてなさそうだったもの」
私がお礼言っても不思議そうな顔しかしてなかったから、と母が複雑そうに言う。その意見には圭吾も激しく頷く。
「……俺もそこが困ってるんだよね」
本当、なんで気付かないのかな。本人以外ですら分かったというのに。
「気持ちが決まってるんだったらはっきり言ったらいいじゃない。うだうだしてる間に蒼依ちゃんに良い人が見つかったらどうするの?」
「……それはそうなんだけどさ」
どう伝えればいいのか。
あれだけ言っても伝わっていないということは、自分のことなど眼中にないのかもしれない。そう思うとどうしても躊躇してしまう。がしかし。
(でも、望みもあるのは確かなんだよなぁ)
自分みたいな人が理想だと言っていた。だから希望はあるのだ。あるのだけれど。
(うーん、なんでなのかなぁ)
なぜ自分のことだと気付いてくれないのか。まったくもって蒼依の思考回路が理解できない。
気付いてくれたら一番手っ取り早かったのに、と自分の鈍さを棚に上げ、圭吾は蒼依の生真面目さを恨む。
……さてどうしたものか。
思わぬ難敵に頭を悩ませながら圭吾は今後のアプローチ方法を画策するのだった。
気になる人のことを相談してから早一週間。その当人からは特に連絡もなく。
本当に自分のことだと気付いていないのだと、呆れを通り越しもはや称賛の念さえ浮かんでくる。そして、その境地に至ってようやく圭吾は覚悟を決めた。
――気持ちを伝える。
好きだと。ずっと好きだったのだと、嘘偽りのない己の正直な想いを告げる。
もう蒼依に期待するのは無理だ。絶対真っ向からはっきりと、名指しで伝えないと好意に気付かない。この一週間でその答えに辿り着いた圭吾は早速スマホを手に取る。アドレス帳から蒼依の番号を呼び出し、ボタンを押す。数回のコール音のあと「もしもし」と応答があった。
「あ、あおさん? 俺、圭吾だけど」
久し振りに聞いた蒼依の声に、この一週間の鬱々としていた気分がおもしろいくらいに晴れる。そんな自分に少しおかしさを覚えながらも圭吾が名乗ると、蒼依からは「どうしたの?」と素っ気ない言葉が返ってくる。その声音に自分との温度差を痛感しつつ、圭吾は用件を伝えた。
「あおさんって果実系のお酒なら飲めるって言ってたよね? この間良さそうなお店見つけたんだけど、今度の休みの日にでも一緒にどうかなって思って」
ひとまずご飯の誘いをしてみる。さすがに電話越しで伝えるのは風情がないと言うか本気度が伝わらないと言うか。
これからの未来、隣にいてほしい相手だからこそ直接会って、きちんと誠心誠意伝えたい。
そう心に決めて、その足がかりとして誘ったのだったが、しかし蒼依から返ってきたのは想定外の言葉だった。
『ごめん。今度の休み、予定が入ってて』
「そうなの? 夜も空いてない?」
『うん。遠出するから帰りが何時になるか分からないんだよね』
「……そう、なんだ」
『ごめんね、せっかく誘ってくれたのに』
「いや、良いよ。俺こそ急にごめん」
じゃあまた今度、と思わずそれで電話を終わらせてしまった。
圭吾は、通話が切れ、待ち受け画面に戻ったスマホをしばし見つめ。
(……断られちゃった)
しかもやけにあっさりと。
蒼依に断られるなんて微塵も念頭になかった圭吾は、その事態に軽く衝撃を受けて呆然となる。
(いやでも、別にあり得ないことでもない)
事前に蒼依の予定も確認せずに連絡したのはこちらだ。蒼依に非はない。非はないのだが。
(でも、さすがにちょっとショック、かも)
告白すると意気込んでいたから余計に心にくる。見事に出鼻をくじかれた。そうしてしばらく悶々と落ち込んでいた圭吾だったが。
(とりあえず、また今度誘ってみよう)
今回は自分の短慮と、たまたま蒼依のタイミングが合わなかっただけだ。そう反省し、次回の誘い文句をどうするか思案し始めたのだった。
そうやって時が過ぎること一ヶ月弱――。
(おかしい、明らかに変だ)
仕事の休憩中。スマホの液晶を見つめたまま圭吾は眉間に深い皺を刻んでいた。
そこには言わずもがな蒼依の携帯番号が表示されている。ただ表示しているだけで、まだかけてはいない。かろうじて。
その十一桁の番号を睨みつけるように見つめたまま、圭吾はここ一ヶ月の出来事を改めて振り返っていた。その出来事とは何かというと。
(さすがにタイミング悪すぎじゃない? 全部断られるって)
そう。これまで合計四回、蒼依を食事に誘ったのだが、それを悉く断られ続けているのだ。
一番最初は自分の確認不足が原因だったから仕方がない。だからその失敗を省みて、二回目からは誘う前に蒼依の予定をそれとなく確認するようにした。するとどうしたことか。
やれ久し振りに会う友人と出かけるだの、そのまた次は親戚の祝い事がある。そして最近では職場の人達との食事が急に決まったとのことで断られたではないか。
(友達や職場の人との予定は突発的なこともあるだろうからぎりぎり信用できるとして、だ)
だが、親戚の祝い事というのはちょっと、いや、かなり胡散臭い。
(いや、あおさんのことだから本当かもしれないけれど)
それでもしかしだ。
――明らかに避けられている。
(よね。これはどう考えても)
たぶん。恐らく。いやもうそうとしか考えられない。
これまでの事の次第を整理し、圭吾はそう結論づけた。だが、蒼依がそんな行動をとる理由にも思い当たる節がある。その原因は他の誰でもない。自分自身だ。
(……俺が気になる人がいるって言っちゃったからだろうな)
真面目で気配りのできる蒼依のことだ。自分が軽薄な人間だと思われないよう配慮しているのだろう。だから頑なに自分の誘いを断り続けている。蒼依の性格なら大いに考えられる。
(こんなことなら、ごちゃごちゃ考えずに素直に伝えれば良かった)
まさかここまで徹底して避けられるとは。まだ時期尚早だと二の足を踏んだ己を深く後悔する。
断られ続けたのが精神的に相当キていたのか、蒼依に嫌われた挙げ句、冷たくあしらわれるという夢までみてしまったこともある。
(もしこの間にあおさんに縁談の話なんかが来てたら……)
それこそ自業自得。むしろ由々しき事態だ。
ここにきてそれは非常に不味い。
これから先の人生、側にいてほしいのは蒼依以外にいないのに。そこまで思えるほど、蒼依のことが好きだ。
(誰にも渡したくない)
そう思ってしまうといてもたってもいられなかった――。