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蒼依サイド8

(だめだ、全然手が進まない)

 担当コーナーの商品棚のレイアウトを変更していた時のことだ。

 入荷したばかりの新商品が入った段ボール箱を目の前にし、蒼依はどう並べようかとかれこれ三十分近く頭を悩ませていた。

 ここのところ、まったく仕事に身が入らない。

 クレームになるような失敗などはないが、普段ならしないようなミスをちょこちょこ繰り返しては他の従業員達に「何かあった?」と声をかけられていた。

 蒼依が集中できない原因。それは言わずもがな、長年胸に抱え込んでいる厄介な恋心だ。最近、それが更に厄介さを増している。

(……こんなことなら、やっぱり離婚したって聞いた時に伝えておけば良かったかな)

 まだ気になる人がいない間に。せっかくのチャンスだったのに。

 そう考えて、しかし次の瞬間には「でもなぁ」と溜め息が零れる。

(私なんてただのいち同級生だろうし、振られたら顔も合わせ辛くなっちゃうしなぁ)

 だけど、好きなんだよねぇ。

(本当、厄介この上ない恋心だ) 

 そんなことをひたすらぐるぐると考えてしまい、腹の中がすごくもやもやしていた。

 おまけに気になっている人がいると知り、今度こそ自分も気持ちを新たにしないと、と日に日に焦燥感だけが澱のように身体の奥底に沈殿していき、このままではどうにかなってしまいそうだと心が悲鳴を上げていた。

 そんなすっきりとしない日々を蒼依が送っていたある日――。

「すみません」

「はい、なんでしょう――って、やっぱり圭吾くんか」

 もう何度目ともなる掛け合いに、蒼依は振り返らずとも声の主が誰かが分かった。

 内心来たかと思いつつ、不調の原因である想い人へと向き直り、蒼依が「どうしたの?」と尋ねようとした時だ。

「……なんか、機嫌悪い?」

 ふと後ろに立っていた圭吾の表情を見て首を傾げた。すると圭吾は一瞬驚いたような顔をしたかと思えば、再び眉根を寄せ。

「分かるの?」

「だって、いつもは穏やかな顔してるのに、今日はむすっとしてるというか、怒ってるような気が」

 するかな、と言うと圭吾はややあってから「……ちょっとね」とこれまた珍しく無愛想に答えた。

(なんだろ、仕事でなんかあったのかな)

 普段圭吾が怒っているところを見たことがない蒼依は、自分の中のもやもやは一旦心の隅に置いて、正面から圭吾に向き合った。

「私で良いなら話聞くけど?」

 蒼依がそう切り出すと、圭吾は「じゃあ言うけど」と口を開く。

「なんで出かけて以降、一回も連絡くれないの? 俺の番号、消してないよね? というか、登録すらしてないとか言わないでよ?」

「……へ?」

 予想だにしていなかった言葉に蒼依は間の抜けた声を出してしまった。

 あれ? まさかの私に怒ってる? なんで?

(しかも怒ってる原因って)

 私が連絡しないからってどういうこと?

「番号はちゃんと登録してるよ」

 怒られている理由の意図が汲めず、とりあえず蒼依は言われたことに返答する。すると圭吾は「じゃあなんで?」と矢継ぎ早に同じ問いを投げかけてくる。その勢いに若干気圧されながら、蒼依は「いや」と答えに窮した。

「連絡もなにも、特に用はないし……」

「用がなくても、世間話でも愚痴でも、なんでもいいのに」

 そんなことを言われましても。

「いや、愚痴なんかで君の時間を使うのは」

 申し訳ない、と蒼依が頬を掻くと。

「俺には遠慮なんてしなくて良い、って言ったよね?」

 珍しく強い口調で返してきた。その様子に蒼依は更に戸惑う。

(何でこんなに怒ってるの)

 たかが自分が連絡しなかったくらいで。

 出かけたのだってまだ半月前のこと。今まで一ヶ月以上顔を見ていない時もあったのに、どういう心境の変化なのだろうか。

 それに、圭吾には既に気になる相手がいるのに。

(そうだよ。私なんかにかまわないで、その人と連絡取り合ったらいいのに)

 良く話すようになったと言っていたし、連絡先くらい交換しているだろう。そう思い、蒼依が口を開こうとした時だった。

「というわけで、仕事終わったらご飯行こう」

 まるで決定事項かのように圭吾が断言した。なにが「というわけで」なのだ。

「だから、なんで私と。圭吾くん、もう次の人見つけてるんでしょ?」

 だったらその人を誘えばいいのに、と蒼依が言うと。

「それについての相談」

 聞いてくれるって言ったよね、とご機嫌斜めだった顔が一変、きれいなくらいにっこりと微笑まれた。蒼依は「うぐっ」と声を詰まらせる。

「……頷かなきゃ良かった」

 隠しもせず深々と嘆息する蒼依に対し、圭吾は「どこにしようか」と笑みを崩さない。おまけに今日は飲みたいからと、タクシーでここまできたそうだ。計画的である。断ったらどうするつもりだったのだろうか。

 そうして蒼依の返事も聞かず、仕事が終わると圭吾の案内でとある居酒屋へとやってきた。なんでも圭吾のおすすめの店だそうだ。

 未だに怒られていた理由に納得がいっていない蒼依は、もういいやと諦めの境地で圭吾の後に続く。

「今更だけど、圭吾くんってのんべぇなの?」

 店の引き戸に手をかける圭吾を見やり、以前の飲みっぷりを思い出した蒼依がなんとはなしに聞いてみる。すると圭吾は「別にそういうわけでもないけど」と返してきた。

「のんべぇっていうか、付き合いで連れて行かれるのが居酒屋ばっかりなんだよ。だから、普通のご飯屋さんよりは、こっち系の方が美味しいお店を知ってるってだけ」

「あー、なるほど」

 男の人は大変だ、と蒼依は苦笑いを浮かべる。

「おかげであんまり酔わない飲み方も分かったから、そこそこ飲めるよ」

「そこそこ、ねぇ」

 あの量をそこそこと言うのかと、蒼依はもはや感嘆した。そんな話をしながら店へと足を踏み入れる。

 いらっしゃい、と迎えてくれた大将らしき人に頭を下げながら、二人で店内を見回す。

 こじんまりとした佇まいのそこは基本的にカウンター席の造りで、席数は二十にも満たない。既に数名の客が所々埋めており、端の方が空いていたので蒼依が一番端に座り、圭吾がその横に着く。

 適当に飲み物と料理を注文し、早速蒼依は用件を聞く。

「それで、相談内容はなんでしょうか? というか、気になってる人ってどんな人なの?」

 本音を言えばあまり聞きたくはないが、相談を盾に取られては聞かないわけにはいかない。どうせ自分の気持ちはもう、伝える余地もないのだから。

 問いかけに「うーんと」と考え込んでいる圭吾を横目に、蒼依はそう割り切った。そんな蒼依の心境など知る由もない圭吾は何食わぬ顔で口を開く。

「一言で言うと真面目の化身みたいな人かな」

「なにそれ」

 何とも珍妙な事を言う圭吾に蒼依はすぐさま首を捻る。どういう意味だろうかと問いただしてみると。

「とにかく基本は真面目一徹。もう感心するくらい生真面目。なんだけど、話してみると案外気さくな一面もある人なんだ」

「なるほど。他には?」

「すごく優しい。思いやりもあって周りに気配りもできるし、それをひけらかさない控えめな人。むしろいろいろ気にし過ぎて謙虚かな。そこがちょっともったいないって思う」

 俺としては、と付け加え、気になっているという人物の人となりを教えてくれた。

「誰かから紹介されたの?」

 運ばれてきた料理を受け取りつつ、更に話を聞く。

「いや、たまたま出会った人」

「どこで? 仕事関係?」

「……それは内緒」

「なんでよ」

 蒼依が首を傾げると「なんででも」と圭吾は口を閉ざした。それを不思議に思いながらも、蒼依は今し方聞いた内容を頭の中で整理する。

 真面目で優しくて思いやりがある控えめな謙虚な人。

(まるで圭吾くんみたいな人だな)

 圭吾が控えめで謙虚かと言われれば言葉に詰まるが、真面目で優しくて思慮深いところは似ている。

 そう思い、蒼依は「でも、良さそうな人だね」と正直に言った。

 真面目で優しいなら、お互いを尊重しあいそうだ。

 思ったままのことを伝えると、一瞬圭吾は驚いたような顔をした。かと思えば、少し俯きがちに顔を伏せ、気恥ずかしそうに「うん」と頷く。

「だから、今度は自分から気持ちを伝えようと思ってる」

「今度はって、今まではみんな相手の方からだったの?」

「大体は。あとは紹介されてだったり」

「……一体君は今まで何人の女性を泣かせてきたのでしょうか?」

「泣かせてはいないよ。いつも俺の方が別れようって言われてきたから」

「え、そうなの?」

「なんでかな、続かないんだ」

 先程の照れたような顔が途端に物憂げな表情に変わる。声にも覇気がない。

(……奥さんのことを思い出してるのかな)

 自嘲気味にさえ映る横顔に、蒼依はふとそう思ってしまった。だからその時、自分の口から出た言葉に気が付かなかった。

「私は君みたいな人が理想なんだけどなぁ」

 囁き声ほどの大きさで呟かれた言葉に圭吾が「え?」と声を漏らす。

「――本当に?」

 一層驚いた顔で見返され、蒼依ははっ、と自分の発言に気付く。慌てて「やっぱり真面目な人が良いじゃない」と言い繕った。

(あ、危ない)

 つい口が滑ってしまった。うっかりにも程がある。

 そう蒼依が自分の失態に狼狽えていると。

「それでも、あおさんに言われると嬉しい」

 言いながらおもむろに圭吾が肩に寄りかかってくるではないか。そこで蒼依の思考はしばらく停止する。

 …………ちょっと何をしているんだい。

「ま、まだそれくらいじゃ酔わないでしょっ」

 ようやくのことで正気に戻った蒼依は慌てて圭吾の身体を起こす。

 圭吾の前に置かれているジョッキには、まだ半分も中身が残っている。自分で「そこそこ飲める」と豪語したのんべぇがこれしきで酔うものか。

(てか、他のお客さんにちらちら見られてるんですけどっ)

 この状況はさすがに恥ずかし過ぎる。

 顔を赤くして、あわあわとテンパりながら蒼依が「離れなさい」と言う。が、しかし。

「そんなことないよ、あおさんが二人に見えるもん」

 などと信憑性のかけらもない事を言いながら、圭吾が再び寄りかかろうとしてくる。蒼依は寸でのところで手を突きだして阻んだ。

「なにその可愛い言い方。さてはそうやって甘えながら女の子達を落としてきたのね」

 この確信犯め、と軽く軽蔑の目を向けると、圭吾は「どうかな」と肯定とも否定ともとれない返事をしただけだった。

「もう、こういうことは気になってる人だけにしなさい。じゃないと、軽薄な人だと思われちゃうよ」

 蒼依が説教めいた口調で忠告すれば、ややあってから圭吾は「はーい」と返事をしてきちんと座り直した。なんとも子供みたいな返事の仕方だ。その態度に蒼依は心中で溜め息を吐く。

 本当に人の気持ちも知らないで。

(こんなことされたら、忘れられないじゃない)

 こっちは気持ちを切り替えようと必死になっているのに。

 なんて、本人に言えるはずもなく、蒼依は再度はぁ、と深く息を吐いたのだった。

 そんなこんなで、ふと時計を見ればいつの間にか二時間近く経っていた。もう九時が近い。

「そろそろお開きにしようか」

 明日も仕事でしょ、と蒼依が席を立とうとすると、圭吾は「えー、もう?」と不満そうに声を上げた。

「まだ飲みたい」

 言って、まるで駄々をこねる子供のようにコップを離さない。因みに今は焼酎のお湯割りを飲んでいる。

「もう十分でしょ。飲み過ぎたら、前みたいに翌日に響くよ」

「これくらいならまだ大丈夫」

 へーきへーき、と手を振る圭吾の顔はだいぶ赤くなっているが。

「なら、帰ってから家で飲んで」

 呆れながら蒼依がそう言ってやれば、しかし圭吾は「それはいや」と首を振った。次いでにこにこと満面の笑みを蒼依に向け。

「あおさんと飲みたいの」

 まるで純真無垢な子供のように直球で言ってのけた。

 ……だから何を言っているんだ。

(圭吾くんってお酒入ると甘えるタイプというか子供っぽくなるな)

 ふふふ、と上機嫌な笑顔を浮かべている圭吾を見やり、蒼依はそんなことを考える。

「というか、あおさんは飲まないの? それとも飲めない?」

「飲まない。だってお酒とかビールって苦くておいしくないんだもん」

「子供みたい」

「悪かったわね。果実系の酎ハイくらいしか飲めないの」

 自分が子供みたいなこと言ってるくせに、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込んでから蒼依は嘆息する。

「ほら、分かったら帰るよ。酔っぱらいさん」

 尚もいやいやと抵抗する圭吾の腕を引き、お店を後にする。

「しょうがないから家まで送ってってあげる」

 こんなほろ酔い状態で頭の周りにお花が飛んでいる客を乗せる羽目になるタクシーの運転手さんを気の毒に思い、蒼依は圭吾を車に乗せる。すると、何故か圭吾はぱっと目を輝かせ。

「泊めてって言ったら、また泊めてくれる?」

 などと突拍子もないことを言い出した。当然蒼依はぴしゃりと断った。

「何言ってるの。だめに決まってるでしょ」

「えー、なんで?」

 この間は泊めてくれたじゃん、と圭吾が不服そうに頬を膨らませる。あの時は緊急事態だったからと蒼依が答えると。

「……きもちわるい、はきそう、かんびょうして」

「見え透いた嘘はやめなさい」

「ちぇ」

「舌打ちしない。観念して住所を教える」

 ほら早く、と蒼依が急かせば、圭吾は渋々自宅の住所をナビに打ち込んだ。

 蒼依が車を走らせているその間にも、車内では「泊めて」「だめ」の応酬が繰り広げられる。そして奇妙な押し問答を繰り返したりしながら走ること四十分ほど。ナビの案内通りに無事に圭吾の家に着いた。

 移動の揺れで酔いが回ったのか、圭吾は途中から静かになり、今は寝息を立てている。それを起こしてから家のチャイムを押すと、寝間着姿の圭吾の母親が出迎えてくれた。

 泥酔している息子と、それを支える蒼依を見て一瞬驚いたような顔をしたが、すぐさま柔和な笑みを浮かべ。

「一緒にご飯を食べていた相手って蒼依ちゃんだったのね」

 こんばんは、と挨拶をする。それに蒼依も「こんばんは」と返し、隣の圭吾を玄関へと押し込んだ。その足取りは千鳥足もいいところだ。

「お店を出た時はまだ意識ははっきりしてたんですけど」

 帰ってくる間にお酒が回ったみたいで、と上がりかまちに圭吾を座らせながら蒼依は苦い笑みを浮かべる。ふらふらと船を漕いでいる我が子を見やり、圭吾の母親も呆れたように息を吐いた。

「ごめんなさいね、迷惑かけて」

「いえ。それでは、私はこれで」

 言って蒼依が去ろうとした時だった。

「良かったらお茶でも飲んでいかない?」

 送ってくれたお礼に、と圭吾の母が笑顔で誘ってきた。蒼依はすかさず「いえ」と首を振った。

「大したことじゃないので大丈夫です」

 時間も遅いですし、と遠慮の意を示すために手を振ると、その手を握られ。

「遠慮しないで、ね?」

 思いの外強い力で引き止められてしまった。こうなると押しに弱いところがある蒼依は引くに引けなくなる。

「あの、本当に」

 大丈夫なので、と言いかけた時だ。

「――あおさん」

 不意に近くで名前を呼ばれたかと思うと、目の前に座っていた圭吾がそのまま蒼依の胸に倒れ込んでくる。

「ちょ、ちょっと圭吾くん!?」

 何してるの、と慌てふためきながら肩を叩くと。

「はきそう」

 きもちわるい、とぼそぼそと訴えてくる。蒼依はぎょっと目を剥く。

「え!? ちょ、大丈夫!?」

 さすがにこれは嘘ではなさそうだ。もしかして自分の運転が荒かったのかと心配になり、背中をさすってやる。

 その後、圭吾を部屋まで連れて行ったりし、結局そのままお邪魔する羽目になってしまった。

「重ね重ねごめんなさい」

「い、いえ」

 圭吾を寝かせた後、居間へと通された蒼依は圭吾の母と二人だけになる。因みに父親は既に就寝しているとのことだった。

 朝晩はまだまだ冷え込む時期。煎れてもらった温かいお茶を飲みながら、話題は自然とあの一件になった。

「――私が最初に聞いてしまったのよね」

「浮気相手との電話を、ですか?」

 そう蒼依が聞き返せば、圭吾の母は小さく頷く。

「そうだったんですか」

 だから相談してきた時、曖昧な感じで話していたのか。圭吾本人が知らないことだったから。

「圭吾に言っても、最初は信じてなかったわ。でも、自分でもその場面に出くわしたらしくて」

「……みたい、ですね」

 その後の衝撃的な現場に付き合わされたことと家に泊めたことは、果たして知っているのだろうか。

 ふと気になった蒼依だったが、話がややこしくなりそうなので自分の胸の中に留めておくことにした。

「それからしばらくは様子を見ていたようだったけど、一年経つかどうかの頃だったわね。ようやく本人に問いつめて、結局お互い離婚で合意したのは」

「一年……」

 では離婚届を出したのは十二月か。

 礼がしたいと食事に誘われたのは確か一月の半ば頃。その半月ほど前にはもう二人は別れていた。

「でもね、離婚届を出す時、思ったほど落ち込んではいないみたいだったの」

「そうなんですか?」

 不思議そうに話す圭吾の母に蒼依も「何故でしょう」と首を傾げる。

「ええ、私もそこが分からなくて。逆に、なんだか妙にすっきしりた様子だったわ」

「すっきり……」

 ――ひょっとして、その時にはもう気になる人と出会っていた?

 ふとそう思い至り、蒼依が黙り込んでいると。

「蒼依ちゃん?」

 どうかした、と圭吾の母が訝しむように見てくる。蒼依は「あ、いえ」と取り繕ったのも束の間。

「もしかしてなんですけど、その時には既に次の人を見つけてたからじゃないかな、と思って」

 つい考えていたことが口からが滑り落ちてきてしまった。途端、圭吾の母は「え?」と目を瞬かせた。

「そうなの? あの子、そんなこと一言も」

 言ってなかったけど、と心底驚いている。それを聞いて蒼依も「え?」と肩を揺らした。

 あ、まずい。言っちゃだめだったかな。

(で、でも、どうせいつかは分かることだし)

 思わず口走ってしまった重要機密に蒼依が焦りを隠せずにいると。

「それ、本当?」

 圭吾の母が尋ねてくる。その眼差しが真剣そのもので、蒼依もはぐらかさずに正直に答えた。

「私もさっき聞かせてもらったばかりなんですけど、すごく良さそうな感じの人でした。だから今度は大丈夫だと思います」

「どんな人なのか聞いても?」

「真面目で優しくて、思いやりのある方だそうです。圭吾くんもそうだし、お互い良い関係が築けるんじゃないかな、と私は思います」

 蒼依が言うと、圭吾の母は「真面目で優しくて思いやりのある」と繰り返した後、不意に蒼依の方を見た。

 しばらくじっと見つめられ、蒼依がどうかしたのかと尋ねると、圭吾の母はふっと口角を上げた。そして圭吾と良く似た穏やかな微笑を浮かべ。

「……ありがとう」

 言って蒼依に温かい眼差しを向けてきた。

 別に礼を言われるようなことを言った覚えはない蒼依は「い、いえ?」と首を傾げながらも頭を下げる。

 そうしてお茶を飲み終え、今度こそ圭吾の家を後にする。その帰り道。

(圭吾くんももう決心してるみたいだし、これからは気軽にご飯とか行かない方がいいよね)

 ただのいち友達として接していると考えればいいのだろうが、蒼依には到底無理だ。どうしても恋心が顔を出す。

(私も本気で前に進まないとな……)

 車を走らせながら、蒼依はふと考える。

 いつまでも想い続けても、もう叶うことはない。その道を閉ざしてしまったのは他でもない自分自身だ。

(なんでこんなに意気地なしなんだろうなぁ)

 圭吾は変わったと言ってくれたが、根本はちっとも変わっていない。

(人見知りで何も伝えられない、どうしようもなく引っ込み思案なコミュ障め)

 そう心中で吐き捨て、蒼依はアクセルを踏んだのだった。

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