蒼依サイド6
それから二ヶ月ほど経った頃だろうか。
「久し振り」
担当エリアの商品を補充していると後ろから声をかけられた。振り返れば、相変わらずの穏やかな笑みを浮かべた圭吾が立っていた。
「いらっしゃいませ」
言いながら蒼依はこれまた丁寧なお辞儀を披露する。それを目の当たりにした圭吾は「本当に真面目な店員さんだなー」と笑い返してくる。
「そんな気を遣って疲れない?」
「仕事中だもの。でも、ほんと久し振り。元気にしてた? ニュースは聞かなかったから捕まってはいないとは分かってたけど」
何のニュースかは言わなくても分かるだろう。案の定圭吾も「まだ言う?」と呆れたように見返してくる。
「無事に家に着いたよ」
「それは良かった」
例の一件以来、圭吾はお店に来ていなかった。その間に世間は西暦を一つ跨ぎ、今は新しい年を迎えて半月ほど経つ。
どうしているのか気にはなっていたが、お互い連絡先も知らない。実家なら分かるのだが、わざわざかけるのも気が引けて、そのままになっていた。
(でも、思ってたよりずっと元気そう)
普段通りの穏和な面もちでいる圭吾を見やり、蒼依は心中でほっと息を吐く。
もしかしたら良い方向へと解決したのだろうか。
そう勝手に解釈し、蒼依はひとまず胸を撫で下ろし「それで、今日はどうしたの?」と尋ねる。すると圭吾は、それまでの笑みを急に引っ込めてしまった。反対に「いや」と気まずそうに頭を掻きながら。
「泊めてもらったのにお礼がまだだったなって思って。良かったらこの後ご飯でもどうかな?」
そう提案してきた。蒼依は軽く驚いてから、次いで首を振る。
「別に気にしなくて良いよ。私が放っておけないと思ったんだし」
「でも、泊めてもらったのは俺のわがままだし、それにその時のご飯代とか奢ってもらったじゃん」
「だから良いってば。慰み代だと思って」
「慰み代って……。でも、それじゃあ俺の気がすまないんだよ」
本当に迷惑かけたのに、と圭吾は尚も続ける。しかし蒼依も「気持ちだけで十分だから」と再度断った。すると。
「……いや絶対連れてく。そこまで断られると逆に無理矢理にでも付き合わせる」
何故か圭吾はむっとした表情を浮かべた。その上無理矢理にでも連れて行くなどと言い出す。蒼依はほとほと呆れたように笑みを浮かべる。
「それもう、お礼じゃないじゃない」
「だってあおさんが頑なに拒むから」
そうでもしないとお礼できない、と先程とは打って変わって、圭吾は眉を下げた。どうやら世話になったことを相当気にしていたようだ。
そこまで言われては、断るのは圭吾の誠意を無碍にしてしまうことになる。蒼依は降参しましたとばかりに手を上げた。
「分かった、分かりました。ごちそうになります」
これでよろしいでしょうか、と返してやれば、圭吾は「最初からそう言ってくれればいいんだよ」と納得した。
「こんな強引な人だったっけ?」
苦笑混じりに蒼依が言うと、圭吾はばつの悪そうな顔で俯き「今回はどうしても」と呟く。
「本当にあおさんには感謝してるんだ」
相談にも乗ってくれたし、と言った後「それに」と続ける。
「いろいろ話したいこともある」
「話したいこと?」
なに、と蒼依は首を傾げる。だが、それについては圭吾は答えなかった。
(まぁ、なんとなく察しはつくけどね)
恐らく奥さんのことだろう。むしろそれ以外に思いつかない。だから蒼依もそれ以上は追求しなかった。
そうして蒼依の仕事が終わると、各々の車で近場の飲食店へと向かった。
家族連れや友達同士で賑わう店内の一角に腰を落ち着けた蒼依達は、席に着くや早速料理を注文する。
最近はタブレット端末がどこも主流になってきている。店員を介さずにオーダーできるようになり、料理を運んできてもらう以外、店員を気にすることなく話に集中できる。しばらくしてから圭吾も「話したいこと」の口火を切った。
「何となく内容の予想はついてると思うけど、あれから奥さんときちんと話をしたんだ」
「うん」
「それで、別れることにした。というか、もう離婚届も出した」
「え? うそ、本当に? 私はてっきり不問にしたのかと……」
だって落ち込んでなさそうだったし、とは寸でのところで飲み込み、蒼依は驚きに目を見張る。その言葉を聞いた圭吾も「最初は俺もそうしようかと思ってたんだけど」と言った後。
「お互い話し合った結果がね……」
離婚ということに落ち着いた。
そう静かに答えた。
「でも、圭吾くん、奥さんのこと……」
大切に思ってたんじゃ、と言いかけて、しかし蒼依は最後までは言えなかった。
真面目な圭吾のことだ。散々悩んだ末に出した答えなのだろう。わざわざ蒸し返して思い出させるのも傷を抉るだけだ。
(そうかぁ、別れたのか)
予想外の結末に蒼依はしばらく放心する。
まさか離婚を選択するだなんて。
(奥さんの方は、まぁ、相手がいるからそれほど気にはしないかもしれないけど……)
圭吾の方は大丈夫なのだろうか。
(家のこともあるだろうし、これからまた新しい人を探すとなると仕事とかで忙しいだろうし)
気持ち的にも、結婚に対して後ろ向きになっているかもしれない。
そこまで考えてふと、蒼依はある天啓を得る。
これは自分にとって好機なんじゃないか――と。
長年胸の内に秘めていた気持ちを伝えるまたとない機会だ。
(昔よりは話せるようになったし)
それに今を逃すと、もしかしたら親御さんにお見合いでも組まされるかもしれない。
(圭吾くんのお母さんも、お見合いさせないととか言ってたし)
そうなるとまたうじうじと言い出せなくなる。――とは思ったものの。
(でも、今はなぁ……)
別れた直後。そんなタイミングで伝えるのは、別れるのを待っていたようでなんだか気が咎めるというか、なんというか。非常に言い出しづらい状況だ。それに、圭吾にとっては蒼依は単なる同級生かもしれない。
気持ちを伝えて、受け入れてもらえなかった時のことを考えるとどうしても後一歩を後込みしてしまう。
(今後、どんな顔して会えばいいのか分からなくなる)
そう蒼依がうんうんとひとり考え込んでいると、注文した料理が運ばれてきた。二人分揃ってからお互い箸をのばす。その時だった。
「というわけで、誰かいない?」
食べながら圭吾がとんでもないことを聞いてくるではないか。その言葉に、思わず蒼依は口に入れたご飯を吹き出しそうになった。
つい今し方考えていたことを、その本人がもう話題にするのか。
(ネガティブになってなかったのは良いけど……)
気持ちの切り替え早くない?
こっちは離婚した直後だからと言い淀んでいるのに、本人がまったく気にしていない様子なのはどこか納得できない。
とりあえず蒼依は、喉元までせり上がっていた自分の気持ちをぐっと抑えてから顔をしかめてみせた。
「私に聞く? 絶賛募集中の私に? というか、紹介してくれるって言うから実は密かに待ってたのに。結局そのお話はどうなったんでしょうか?」
自分の本心はひた隠しにしたまま、恨みがまし気に見返してやれば圭吾は「あー」と苦い顔をしてから。
「その話なんだけど、やっぱりなしで」
お相手が見つかったって、と平謝りする。
「期待させておいてひどい」
「ごめん。そのお詫びも兼ねて、好きなだけ頼んで良いから」
言って圭吾はタブレットを蒼依に差し出してくる。おかげで紹介云々の話からお礼へと流れが変わったことに安堵はしたのだが。
「といっても、そんなに食べられない」
これだけで既におなかいっぱい、と目の前にある生姜焼き定食を示して蒼依は言う。すると圭吾は「えぇ?」と声を上げた。
「まだ全然だよ? 俺が奢ってもらった分の方がはるかに高い」
「そんなこと言われても」
無理なものは無理だと蒼依が首を振れば、圭吾は「うーん」と悩んだ末。
「じゃあご飯以外で何かない? 欲しいものとか」
「欲しいもの? 欲しいものねぇ」
聞かれ蒼依はしばらく考えてみるが。
「別にないなぁ」
これといって思いつくものがなくて正直に「ない」と答える。すると圭吾は妙に真剣な眼差しで見返してきた。
「遠慮してない? 迷惑じゃないかとか考えてる?」
「そんなことないって。本当に今は欲しいものが特にないだけ」
決して気を遣っているわけではないと強調すると、圭吾はまたもや考え込んだ。それからふと口を噤んでいたかと思うと、意を決したように顔を上げ。
「じゃあ、こうなったらどこか遊びに行こう。行ってみたい場所はない? 観たい映画とかは?」
少しだけ身を乗り出して提案してくる。その言葉に蒼依は軽く驚いた。
「いや、遊びに行こうって」
何をそんなに意固地になっているのか。
「そこまで気を遣わなくて良いってば」
これで十分だよ、と蒼依が返すが。
「いや、絶対何か恩返しする。あおさんには世話になりっぱなしなんだから。相談に乗ってもらって、面倒事にも付き合ってもらったんだし」
圭吾は納得せず、蒼依は呆気にとられる。
「別にそこまでのことは」
していないのではと思うのだが。
そう言うと、何故か圭吾はむっと口元を曲げ。
「あおさんが決めないなら、俺が勝手に決めるから」
「えぇ?」
それはもう本末転倒ではないだろうか。一瞬蒼依はそう言い返したくなったが。
「うーん、じゃあ、ガーデンショップに行きたい、かな」
逡巡した末、そう提案してみた。
蒼依の趣味は土いじりだ。
今務めているホームセンターでも、花の苗や草木、土や肥料などの園芸コーナーを担当している。そのおかげで目覚めたと言ってもいい。
だから季節の変わり目の休日などは、いろんな園芸店やガーデンショップに足を運んでいた。
「いつが良い?」
すかさず圭吾が予定を立てようとする。その勢いに蒼依はますますたじろぐ。
(なんか、本当に今日は強引だな)
心中でそう思いながらも「今月はもうシフトできちゃってるから、来月になるかな」と答えると、圭吾は一枚の紙切れを蒼依に差し出してきた。直接手に渡された紙を見れば、十一桁の数字が書かれていた。
……これってひょっとして。
「なら、休みが決まったら教えてね、絶対だから。これ、俺の番号」
あ、やっぱり。
(初めから準備してたみたいだったな)
押しつけるように置かれたその手にも、妙に力が籠もっているように感じるのは気のせいだろうか。
その後、食事を終え店を出る。お互いの車に乗り込む間際にも「絶対連絡してね」と念押ししてくる圭吾を見送り、蒼依はただただ呆然となる。
えっと、これってつまり。
(人生初デート?)