圭吾サイド5
「ただいま」
昼休憩が終わる時間を見計らって圭吾は自宅の玄関を開けた。
あらたか頭の痛みは治まったのだが、気分の悪さというかもやもやとした感覚はまだ残っている。そんなわけで、若干覇気のない声で帰宅を告げると、奥から一つの足音が近付いてきた。
上がり框に腰掛け、靴を脱いでいた圭吾の背後で止まった足音の主は一つ息を吐いてから声をかけてくる。
「やっと帰ってきたわね」
それだけ言った後にもう一度嘆息したのはもちろん母だ。その表情がどんなものか容易に想像できる圭吾は苦笑を浮かべながら振り返る。
「はは、飲み過ぎて寝込んでた」
「いつまで待っても帰ってこないし、電話しても出ないし」
まったく、と口調こそは呆れたような言い方だが、内心では心配してくれているのは十分分かっている。だから圭吾は大人しくその耳に痛い小言を受け止めたのだった。
「……それで、どうだったの?」
玄関から移動し、リビングのソファに腰を落ち着けると早速母が問いかけてくる。
なんのことを聞いているのかは明白だ。だから圭吾も正直に答える。
「――予想通りだったよ。相手も見た」
端的にそれだけしか言わなかったが、母も追求してくることはなく「そう」と頷いただけだった。しばらく沈黙が流れる。先に口を開いたのは母の方だった。
「どうするの?」
問いただすの、とは言わず、ただそれだけ尋ねてくる。圭吾は逡巡した末。
「……もうちょっと様子見てみる」
「見過ごすってこと?」
「今後の状況次第、かな」
さすがに自分と結婚する前から関係があったとは思えない。でなければ友人も紹介なんてしないだろう。
いつからなのか。どれくらいの親密度なのか。これからも関係を続けていくのか。もし縁が切れるようであれば、今この間だけ自分が目を瞑れば話は済む。
そう答えると、当然母は眉を潜めた。
「それであんたは平気なの?」
妻の裏切りを許せるのかと言外に聞いてくる。圭吾は口を噤む。
その意見は尤もだ。
普通なら怒るところだし、実際昨夜は自棄を起こした。だが、不思議と今はさほど怒りを感じていない。
浮気されるということは、自分にも至らない部分があったということなのだろうから。
だから一概に真梛だけを責めることはできない。それが様子を見るという結論に行き着いた理由だ。
(まぁ、だいぶしんどいけど)
敢えて見て見ぬ振りをするのだ。考えただけで胃がきりきりと痛んでしょうがない。
(やっぱり焦り過ぎたかな)
ちゃんと時間をかけてお互いの仲を深めていればこんなことにはならなかったかもしれない。
そんなことを呆然と考えていると「やっぱりお見合い相手を探しておくんだったわ」との母のぼやきが耳に入った。
その言葉に圭吾はふと、いつぞやの蒼依との会話を思い出す。蒼依も婚活するかどうかで迷っていると言っていた。
(それからどうなったんだろう。誰か良い人見つかったのかな)
なぜか唐突に気になった。それと同時に、先程まで蒼依と過ごしていた時間が頭の中に呼び起こされる。
妙に居心地が良かった。自分でも不思議なくらい、心が安らいでいた。
これまでの結婚生活も穏やかなものではあったが、それとはまた違う安堵感と楽しさ。普段ならしないような子供じみた言動も、どうしてだか蒼依に対しては自然としてしまっていた。
まるで子供時代に戻ったかのようだった。今となっては断片的にしか思い出せないが、楽しかった気持ちだけは不思議なことに色褪せることなく残っている。その時の感覚が鮮明に呼び起こされ、ひどく心地良かった。
(加えて面倒見も良かったし、家庭的な一面もあって、あれは良い奥さんになるだろうな)
少し遠慮しがちなところはあるけれど、蒼依なら、相手を慮って穏やかで円満な家庭を築くだろう。
注がれた愛情を同じだけ返して、仲睦まじく幸せな人生を歩んでいく姿が容易に想像できる。
(……その相手に選ばれる人が羨ましいな)
ふと、本当に何気なくそんなことを思い、次の瞬間圭吾ははたと我に返る。
(って、何でそんなこと)
羨ましいだなんて。
蒼依は同級生であり、いち友人だ。
確かに昔は淡い恋心を抱いていたかもしれないが、今はその想いもきれいさっぱりない。
(――はず)
と、自分に言い聞かせようとして、不意に胸がざわめいた。そして、唐突に朝方の記憶がフラッシュバックする。
無意識のうちに触れていた蒼依の髪。その時に沸き上がったじんわりと心を満たした温かさ。それから沈んでいた気持ちがふっと軽くなる感覚。それらが一斉に圭吾へと何かを訴えかけてくる。
(なんだ?)
この感情は。
胸の奥底にくすぶっている不可思議な違和感は。それが圭吾の胸中をざわざわと波立たせる。
自分の中に沸いてきた得体の知れない感情に圭吾が戸惑っていると、一言も喋らなくなったことに不信感を抱いた母が「圭吾?」と顔を覗き込んでくる。
「どうかしたの?」
心配げに様子を窺ってくる母に「何でもない」と返し、圭吾は現実に舞い戻ってくる。
(そうだ。今は余計なことを考えてる場合じゃない)
自分には目を向けなければならないことがある。今後の人生を左右する大事だ。他のことに気を取られている暇なんてない。
そう自分自身に言い聞かせ、どこか後ろ髪を引かれる思いを感じつつも、圭吾は思考を切り替えたのだった。
それからしばらく。圭吾は真梛の行動を密かに観察していた。
自分が浮気のことを感づいているとは知らない真梛は普通通りに振る舞っている。
(ここで俺が浮気のことを問いつめたらどういう反応をするんだろう)
いつもと変わらない態度で接しながら圭吾はふとそう思ってしまう。
(あれから手伝いには行ってないし、特に気になるような行動も見てない)
あの夜の出来事が本当だったのかと思ってしまうくらい、何も動きがない。
もしや別れたのだろうか?
(それなら問題は解決なんだけど……)
内心落ち着かないまま平穏に二週間ほど過ぎ、今年もあと一ヶ月で終わりを迎えようかとしていた時だった。唐突に事態は動いた――。
それは夕食を終え、就寝までの時間をやり過ごしていた最中のこと。
すでに両親は寝室へと向かい、圭吾も休もうかと考えていた時だ。
キッチンで水まわりの片付けをしていた真梛が、リビングを去ろうとしていた圭吾を呼び止めた。
どうしたのかと思い話しを聞いてみると、予想だにしていなかった言葉が真梛の口から飛び出してきた。
「え? 毎週末?」
「うん。ほら、もう年末が近いでしょ? この時期の飲食店は忙しいから。だから、週末だけでも手伝いに行きたいなって」
真梛からの申し出は実家の手伝いに行きたいとのことだった。しかもこれからの週末全て。
確かに年の瀬の飲み会やら忘年会やら、飲食店にとってはまさに一年の内で一番の稼ぎ時だ。それは理解できる。のだが。
「でも、去年は行かなかったよね?」
「それは、結婚したばっかりだったからこっちの生活を優先した方が良いだろうと思って。でも、もうだいぶ落ち着いたし」
良いかな、と何でもないことのように言いながら、真梛は笑顔で圭吾の返答を待つ。
その様子を目の当たりにし、圭吾はついに胸に押しとどめていたことを問いただす時が来たことを悟る。
「――真梛」
一拍おいて圭吾が静かに妻の名前を呼ぶ。「なぁに?」と応えた真梛の顔からふと笑みが消えた。そして、少しだけ首を傾げながら。
「どうしたの? なんだか怖い顔」
圭吾の顔を覗き込んで不思議そうにそう言った。圭吾は「そう?」と至って普段と変わらない態度で返したつもりだった。が、その時の自分の口から発せられた声は自身でも驚く程冷静なものだった。
「まぁ、ちょっと真面目な話をするから」
「真面目な話?」
圭吾の言葉を繰り返す真梛の表情は純粋に疑問符が浮かんでいる。
これから自分が何を言うとしているのか本当に見当も付いていないようだ。それが逆に自分の思考を一段と落ち着かせていくのを圭吾は自覚した。
一旦言葉を切り、深く息を吸った後、真っ直ぐに真梛を見る。そうしてこの数ヶ月妻へ抱いていた疑惑を口にする。
「――浮気、してるよね」
さほど大きな声を出したつもりはなかった。だが、自分と妻以外いない空間には驚く程響き渡った。
圭吾は真正面から妻の目を見据え、逸らさずに返答を待つ。すると。
「なに言ってるの。そんなことしてないよ」
圭吾の言葉に一瞬目を見開いたかと思うと、しかし真梛はすぐさまいつもの可愛らしい笑みを浮かべて否定する。そして「ショックだなぁ」と若干頬を膨らませ。
「そんなこと言われるなんて思ってもみなかった」
真面目な話って言うから真剣に聞いてたのに、と機嫌を損ねたように背を向け作業の続きを始める。その背中に、圭吾の中に猜疑心が芽生える。言う程、真梛から強い怒りを感じ取れないのだ。
普通なら自分の不貞を疑われたら激怒するはずだ。なのに目の前の妻の口調は少し腹を立てているくらいの程度にしか感じられない。その様子に圭吾はもしやと気付く。
もしかして、自分が浮気のことに気付いていたと分かっていたのだろうか?
相手の出方を窺っていたのは圭吾だけではなく、真梛の方もだったのかもしれない。
その確信を得るために圭吾は自分が目にしたものを話した。
「隠さなくても全部知ってる。実家の手伝いに行ってる時に会ってるでしょ。実際この目で相手も見たし」
「……」
そう言うとさすがに真梛は口を噤んだ。同時にその場の空気に妙な緊張感が漂い始める。
カチャカチャと陶器製の食器が立てる音だけが響き渡る中、先に口火を切ったのはまさかの真梛の方だった。
「――いつ気付いたの?」
背中を向けたまま真梛が問う。圭吾もそのまま答える。
「疑い始めたのは一か月と少し前くらい。でも、その時は何かの間違いだろうと思ってそのまま流した」
「なら確信したのは?」
「この間、週末に手伝いに行った時。……その二日くらい前に電話してるのを聞いた」
「で、直接確かめに来たってことね」
そこまで聞いて真梛は再び口を閉ざした。相変わらず圭吾には背を向けたままだ。その背中を圭吾を注視する。
果たしてどうでるだろうか。
いつ気付いたと聞いてきた時点で浮気は確定だ。あとはその理由。
今度は圭吾の方が問いかける。
「俺に悪いところがあったなら遠慮なく言って。それとも、生活に何か不満があった? 本当は両親との同居が嫌だったとか、実家の仕事を手伝い続けたかったとか」
何か臨んでいたことがあったのかと返答を待っていると、真梛の動きが止まった。そしてゆっくりと振り返り、圭吾をひたと見据える。その表情に圭吾は息を飲んだ。
真顔。
普段の可愛らしさも、疑われていたことに対する怒りも何も読みとれない無の表情。そんな顔で真梛は圭吾を見ている。
初めて見る表情に圭吾は一瞬怯む。その隙をついて真梛が口を開く。
真梛から返ってきたのは思いもよらない一言だった。
「『悪いところがあったなら』? 本気でそんなこと言ってるの?」
先程までの無表情から一変、心底訝しむような視線と口調。その眼差しと言葉に圭吾はなぜかどきりとした。
どこかで見覚えがある双眸。いつだったか聞いた覚えのある台詞。
圭吾がそれを思い出すよりも先に真梛が話を続ける。
「なら言わせてもらうけど、圭吾さんってあたしのことどう思ってる?」
「……どうって」
どういう意味だろうかと、真梛の問いかけを圭吾は初め理解できなかった。しかしそのまま続けられた真梛の言葉に自身の心臓が嫌な音を立て始める。
「あたしのこと好きなの? ちゃんと愛してる?」
「なにをそんな」
当たり前のことを。
「当然でしょ。家庭のこともしっかりやってくれて、良い奥さんだと思ってるよ」
「良い奥さんだと思ってるだけで、妻としては、女としては見てないでしょ」
「!」
普段の可愛らしい口調とは打って変わり、冷ややかなそれで言われ、その声音にもだが、なによりも告げられた言葉に胸がざわめく。
「そんなこと」
ない、と反論しようとして、どうしてかそこから言葉が出てこない。
それを肯定と受け取ったようで真梛は「ほらね」と呆れたように肩を竦めた。
「確かに圭吾さんは優しくて良い人だよ。あたしのこと大切にしてくれてるし、気遣ってくれてるのは十分分かってる。真面目で家庭的で、典型的な理想の旦那さん」
でも、とそこで一旦言葉を切り、次いで冷めた口調で言った。
「あたしのこと、妻じゃなくて兄妹みたいに思ってるでしょ。仲の良い家族としか見てない」
「っ」
「確かにそれも大事だと思うけど、そうじゃないんだよ? 夫婦なんだから。ちゃんと異性として見てほしいし接してほしい。愛してほしい。じゃないと寂しいしつまんない」
だから他の人のところにいったの、と素っ気なく放たれた妻の本心に、圭吾は完全に言葉を失った。それと同時にある記憶が蘇る。
――それは圭吾が大学生の頃のこと。
当時付き合っていた相手にも、似たようなことを言われて別れを切り出されたことがある。
相手の方から告白され付き合い始め、最初は順調に関係は進んでいた。交際期間も数年続き、このままの流れでいけば結婚も視野に入ってくるだろうかと思えるくらいうまくいっていた。が、ある日唐突に「別れよう」と言われた。その理由が『本気で愛してくれてないから』だった。
優しくて大事にはしてくれてる。だけど愛情が感じられない。友達の延長線のようにしか見てくれていない。そんなことを言われた。
その理由を聞いた瞬間、圭吾は内心どきりとした。少なからず心当たりがあったからだ。
確かに相手のことは大事にしていた。好意も持っていた。しかしその好意は相手の言う通り、恋愛感情の『好き』ではなく、友愛や親愛といった博愛から生まれた『好き』だった。
どうしてだか自分でも分からないが、それ以上の深い気持ちが芽生えなかったのだ。しかもそれは今回に限ったことではない。
それまでも人並みに恋愛はしてきた。だがそのいずれも『友達以上恋人未満』な状態で終わっていた。
別に人と深く関わるのが苦手というわけではないのに、こと恋愛ごとに関してだけは友人止まりしてしまう。誰に対しても情愛の『好き』が沸いてこなかったのだ。ただの一人も。
そしてそれは、今目の前にいる妻に対しても――。
――何か言わなければ。
沈黙が続く中、圭吾は必死に脳を動かす。
そんなことはない。愛していると。
根底ではそう思っていなくとも、なんでも良いから取り繕わなければ。でなければ昔の二の舞、いやそれよりも悪い事態を招くことになる。
今までのように簡単に別れるという選択はできない。なぜなら結婚したのだから。しかも自分の方からそう提案して。
夫婦の誓いをたてたからにはきちんと責任を持たなければならない。そう思い思考を巡らせるが、いくら考えどもそれが言葉になることはなかった。代わりに自分の口から零れ落ちたのはただ一言。
「――ごめん」
力のない謝罪だった。
その返答が分かっていたのか、真梛は何も言わない。ただじっと圭吾を見据えている。その眼差しに耐えられずに、今度は圭吾の方が視線を逸らした。
一層凍てついた空気がその場を支配し、静寂が訪れる。お互い無言の状態が続き、沈黙が耳に痛い。
その永遠にも感じられる静けさを破ったのは真梛の方。
「――ねぇ」
無音だった空間にぽつりと真梛の声が響く。若い女性の可愛らしい声なのに、圭吾の肩は異常な程震える。
逸らしていた視線を気力だけでなんとか合わせると、かち合った双眸に圭吾の心臓がどきりと跳ねた。
「なんであたしと結婚したの?」
何の抑揚もなく、真梛がただそれだけ聞いてくる。当然の質問だ。圭吾は「それは……」と口を開きかける。が。
――年齢的に。
――たまたま良いタイミングで紹介されたから。
――これまでのように、仮に恋愛感情は芽生えなかったとしても、相応に年を重ねて柔軟な対応ができるようになった今ならうまくやっていけるだろうと思ったから。
浮かんだ理由を改めて認識し、その理由がどれも身勝手なものだと痛感した圭吾はぐっと言葉を飲み込んだ。
純粋に愛されたいと願う相手の気持ちを蔑ろにした薄情なもの。最低だと心底思う。
そんなことを正直に答えられるわけもなく、ただただ申し訳なさに苛まれた圭吾がようやくのことで告げられたのは「……本当にごめん」の一言だけだった。
結婚を前提でと申し出たのは自分の方なのに。なのにその相手の心をくまず、結果的に最悪の事態を招いてしまった。
(……俺が気持ちを入れ替えるって言ったら)
まだやりなおせるだろうか?
そう尋ねてみたかったが、最早口にはできるはずもなく。
それを聞いてみたところでどんな答えが返ってくるのか。目の前の妻の目を見ればもう分かり切っている。
返答は『否』。それを裏付けるかの如く、顔を伏せたままの圭吾を見据えた真梛が一つ息を吐く。そうして一言。
「謝っても今更遅いよ」
何の激情も見せず、ただそれだけ言った真梛は途中だった片付けをそのまま放り出し、静かに圭吾の脇を通り過ぎ、リビングを出て行く。
当然圭吾はその背中を引き留めることができなかった。名前を呼ぶことすらもできず、圭吾だけがその場に取り残される。
「――――はぁ」
再び静寂が戻った空間。そこに零れたのは圭吾の重苦しい溜め息だった。
真梛の態度に対してではない。自嘲のそれだ。
(なにが『悪いところがあったなら』だ)
今回の件は完全に自分の自業自得だ。寧ろ真梛には何の落ち度もない。
(なんで、なのかな)
本気で誰かを好きになれないのは。愛が芽生えないのは。
なぜなのか自分でも本当に分からない。分からなくて虚しささえ感じる。自分はこれから先も、誰も愛することができない薄情な人間のままなのかと。
そこまで考えて圭吾は更に自己嫌悪に陥る。だが不意に。
――真面目で優しい人だったし、圭吾くんほど良い人はそうそういないって。
そんな言葉が耳の奥に蘇り、項垂れていた圭吾はふと顔を上げる。
(誰だっけ……)
そんな嬉しい言葉をかけてくれたのは。
(最近言われた気がする)
気落ちした頭でぼんやりと思い返していると、しばらくしてからそうだと思い出す。
(あおさんだ)
いつだったか蒼依に言われた言葉だ。
(確か、相談に乗ってもらった時)
再会してからそう間もない頃、急な相談にも関わらず親身になって話を聞いてくれた時にかけられた言葉。なぜかそれが急に思い出され、圭吾は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。が、それも長くは続かず。今度は別の理由で圭吾の頭が深く傾ぐ。
(そうだ。あおさんにもなんて言おう)
妻の心変わりの原因が自分だなんて、非常に言いにくい。おまけにだ。
(ていうか、お礼すらまだしてなかった)
相談に乗ってくれたこと。その上浮気現場にも付き合ってもらって、あまつさえ家にまで泊まらせてもらったのに、自分のことに手一杯でその礼をすっかり失念していた。
(あれから随分時間が経ったし、その間一度も会ってない)
帰る間際まで自分のことを気にかけてくれていたのに、その後一切の状況を説明してもいない。
――もし別れたと言ったら。理由が自分の不誠実だと知ったら蒼依はどう思うだろうか?
自分が上辺だけの優しさしか持ち合わせていない薄情な人間なのだと知ったら、きっと蒼依の中の自分の見方が変わるだろう。
(幻滅されるかも)
いや幻滅されるだけならまだましだ。最悪の場合、信頼を失い、折角また繋がった友人の関係すら絶たれるかもしれない。
(それは嫌だ)
想像して、圭吾は心の底からそう思う。
蒼依にだけは知られたくない。薄情な奴だと思われたくない。自分のことを優しい良い奴だと思ってくれているからこそ余計に。
(――あおさん)
無意識に心の中で蒼依の名前を呼ぶ。と同時に、ここ数ヶ月の蒼依とのやりとりが脳裏に蘇る。
相談に乗ってくれた時のこと。自分のことのように悲しんでくれたこと。傷心している自分を気遣って明るく接してくれたこと。
それらをまざまざと思い出し、圭吾の胸にある衝動が沸く。
(……話がしたいな)
他の誰でもなく蒼依と。
――蒼依に会いたい。
ふと胸中に浮かんだ感情に、圭吾ははたと我に返る。
(なんで、そんなこと)
会いたいだなんて。
恩返しをしたいからではなく、ただ純粋に会いたいという気持ちだけが強く沸き上がってきて、圭吾は自分自身に戸惑う。その時だった。
手に持っていたスマホから突然着信音が鳴り響いた。内省していた圭吾の肩がびくりと震える。反射的に画面を見れば、とある友人の名前が表示されていた。その名前を見て圭吾は少し躊躇した。
――なぜこのタイミングで。
手の中で鳴り続けるスマホをしばし見つめたまま、しかし諦めたように圭吾はゆっくりと応答ボタンをスライドさせる。
「もしもし」
『よう、久し振り』
耳に闊達な男の声が滑り込んでくる。
「久し振り。どうしたの?」
言葉通り、本当に久方振りに話す相手だ。そしてこの声の主こそが自分に真梛を紹介してくれた友人だった。
『いや、もうすぐ結婚して一年経つだろ? どんな様子なのかと思ってな』
なんか気になって電話してみた、とあっけらかんと電話の向こうの友人が言う。今の自分との感情の落差に圭吾は思わず無言になる。当然相手からは「何黙ってんだよ?」と怪訝そうな問いかけが返ってきた。
どう説明するか。
(黙ってても結局はバレるだろうしなぁ)
友人は妻の実家の店に昔から行き着けている。その縁もあって妻とも仲が良く、結婚のことで悩んでいた自分を引き合わせてくれたのだが。
いつまで経っても無言を貫く圭吾を訝しみ、そして何かに気付いたように友人が「まさか」と恐る恐る聞いてくる。
『別れた、とか言わないよな?』
……なんで分かるかな。
厳密にはまだだが、もう修復は難しいだろう。
見事に的中させた友人に、圭吾は隠さずに答える。
「……まだだけど、たぶん最終的にはそうなると思う」
『げ、マジかよ。あ、もしかして今が修羅場中だったりする? 不味い時に電話しちまったか?』
「そんな状況ならまず電話になんて出ないから。ついさっき話しが済んだとこ」
今は自分しかいないと説明すると、電話の向こうの友人は「あぶねー」と心底ほっとしたように息を吐いた。
その様子が少しばかり神経を逆撫でたが、原因が原因なだけに何も言い返せない。寧ろ謝らなければならない立場だ。そう反省し、圭吾が口を開きかけたところで。
『ま、どうせお前の方が見切りをつけられたんだろ』
いつもみたいに、と呆れたように言われ、謝罪の言葉が喉の奥に引っ込んだ。
電話の相手である友人は高校時代からの付き合いで、大学も一緒だった。社会人になってからもこうやってたまに連絡を取り合い関係は続いている。だから圭吾の恋愛事情は大体知っている。……理由も含めて。
『今回もいつもと一緒か? 好きになれなかったからか?』
「……」
理由すら熟知されているのが少しだけ自分を情けなく思うが、当たっているからどうしようもない。友人も、何も言い返さない圭吾に肯定と受け取ったようだ。
『本当、つくづく不思議というか、もう可哀想な奴だな』
誰も愛せないなんて、とストレートに言われ、先程まで頭を占めていた思考が再び浮上する。
「直球で言わないで。さすがに今回はヘコんでるんだから」
『だってよ、誰にも愛情が芽生えないとか、ただただ寂しい奴としか思えねぇもん。なんでなんだよ?』
「……俺だって分かんないよ」
本当に。
友人としては好きになれるのに、どうしてもそこからもう一段階、先に進むことができない。
思い出して圭吾は深く息を吐く。それが耳に届いたのか、友人もそれ以上は何も聞いてこなかった。
少しだけ無言の時間が続く。その沈黙を破ったのは、友人の「なぁ」という遠慮がちな声だった。
『この際聞くけどよ。お前、今まで自分から誰かを好きになったことってあるのか?』
若干聞きにくそうな声音で尋ねてくる。その問いかけに、圭吾はこれまで自分が経験した恋愛を振り返る。
現在から二十代、そして学生へと、新しい記憶から徐々に遡っていく。そうして思い出したことは、どれもが自分主体ではなかったということ。
思い返せば、いつも受け身できていた。自分から誰かに告白するということが一度もなかった。つまり。
(俺、今まで一人も自分から好きになった人がいない)
聞かれて初めてその事実に気付く。
これでは友人の言う通り、どうしようもなく寂しい人間ではないか。
そのことを自身でも理解し、圭吾が更に失意の底に落ちようかというところでふと、脳裏にある人の顔が浮かび上がった。
その人物は電話がかかってくる直前まで思い出していた人。蒼依だ。
(……そうだ、あおさん)
蒼依のことは気になっていた。自分でもそうと気付かないくらい、かなり淡い想いではあったが、確かに好きだった。
それを思い出し、少しだけ救われたような気持ちになりながら圭吾は友人に答える。
「一人だけならいる。けど、好きって言うか、気になるなぁっていうくらいの感じだったんだけど……」
ようやくのことで口を開いた圭吾に、友人も「そうか」と安堵したように息を吐く。
『それなら、まぁ安心だわ。気になってたなら、少なからず好きだったんだろ』
いつ、と聞かれ、圭吾が「小学生の頃」と返すと「なるほどな」と友人は頷いた。
『初恋ってやつか。で、その子とはどうだったんだ? 好きって伝えたのか? 付き合ったりとかは?』
「いや、その時はただ気になるなぁって思う程度だったから、好きだとかどうとかは……。それに、その子内向的な性格で、中学にあがってクラスが別々になった途端しゃべる機会が減って、高校も違ったからそれきり」
『それきりって、一度も会ってないのか? 中学卒業してからずっと? 同窓会とかでも?』
「同窓会は風邪引いて参加できなかったって言ってかな、確か」
『……言ってたかな、ってまるで本人から聞いたみたい口振りだな』
中学以降会ってないんだろ、と問われ、圭吾はここ数ヶ月の出来事を話す。
「最近、というか三、四ヶ月くらい前かな。たまたま仕事で買い出しに出た先がその子の職場でさ、偶然会ったんだ」
『マジ? すげー奇跡的じゃん』
「だよね、俺も最初驚いたもん。驚き過ぎて思わず声かけちゃってさ」
『中学以来っつったら二十年振りくらいだろ? ちゃんと覚えててくれたのか?』
「最初は気付かれなかったけどね。向こうもあんまり面影無かったから俺も気付かなかったし。でも、性格もだいぶ変わって気さくな感じになっててさ、この間なんて家に泊めてもらった」
『は? 家に泊めてもらったって何してんだよ? まさか今回はお前の方がやらかしたってのか?』
「そんなことする訳ないでしょ。……ちょっと、いろいろあってさ」
浮気をされているかもしれないと相談したこと、その決定的な現場にも付き合ってもらったこと。その後で一晩世話になったことを話す。すると予想通り、盛大な溜め息が返ってきた。
『お前、なんてことに巻き込んでんだよ』
バカか、とあからさまに呆れられる。圭吾は「仕方ないじゃん」とぶっきらぼうに吐き捨てた。
「……他に付き合ってもらう人が思い浮かばなかったんだから。誠二じゃバレる」
何しろ紹介した本人だ。
「それに、泊めてもらったけど何もやましい事なんてしてないし」
本当にただ泊めてもらっただけ、と一瞬危うい場面もあったが、それは隠して自分の身の潔白を主張する。がしかし、なぜかそこで友人がぴたりと静かになった。
「どうしたの?」
不審に思って圭吾が尋ねる。が、反応がない。
「ねぇ、誠二ってば。おーい」
聞こえてる、と何度も呼びかけてみるが返事がない。
本当にどうしたのだろうかと圭吾が再度口を開きかけたところで、不意に「なぁ、圭吾」と逆に名前を呼ばれた。その声音が先程までと打って変わり真剣身を帯びていて、圭吾は反射的に「何?」と返す。
すると友人の口から発せられたのは予想だにしない言葉だった。
『お前が誰とも長続きしなかった理由ってそれなんじゃねぇか?』
「? それって?」
『お前、まだその子のことが好きなんだろ』
「――え?」
友人からの思いもよらない一言に今度は圭吾の思考が止まる。しかしそんな圭吾にはお構いなしに、友人は独り言のように「そうだよ」とまくし立てる。
『自分では気になってたと思う程度だったかもしれないけどよ、実はマジでベタ惚れだったんじゃねぇのか? だから今まで付き合ってきた相手に本気にならなかったんだろ。その子のことが忘れられてなかったから。そうだよ、絶対そうだよ』
最早そうとした考えられねぇ、と友人は一人で言って一人で勝手に納得している。その勢いに圧倒され、圭吾は口を挟む隙がない。
『ちなみに聞くが、その子結婚してたりする? 家に泊めてくれたってことはまだ相手がいないってことだよな?』
「う、うん、まだ独身。良い人募集中だって言ってた」
けど、と聞かれるがままに話すと、友人は「なら」と更に思いもよらぬ一言を言い放った。
『チャンスじゃねーか。フリーならまさに絶好の機会だろ』
「機会って……」
なんの、と言い掛けて、圭吾は友人の言わんとしていることを瞬時に察した。その直後、思った通りの答えが友人の口から放たれる。
『告白に決まってるだろ。今度こそ、ちゃんとお前の気持ちを伝えるんだよ』
――やっぱり。
圭吾は「い、いやいや」と一旦待ったをかける。
「ちょっと落ち着いてよ。まだ好きって、小学生の時からってこと? それはいくら何でも突飛すぎない? 誰も好きになれないからって、そんな子供の頃の初恋の相手を想い続けてるとか。好きかどうかも当時の自分では曖昧だったんだよ? それに、再会した時もただ懐かしいとしか思わなかったし、今も普通に友達として接してるし……」
さすがにそれなはないんじゃ、と当人である圭吾が冷静に判断するのに対して、どうしてか友人が「いいや」ときっぱり否定する。
『絶対まだ好きだね。というか、ずっとその子一筋なんだよ』
それなら過去の恋愛を引きずってないのも頷ける、と断言され、圭吾は呆気にとられる。
なぜそこまで言い切れるのだ。
(自分がそう思うならまだしも)
圭吾が何も言えないでいると。
『仮に違うって言うんだったら、他にどう説明すんだよ? 誰にも本気になれなかったんだろ? それはつまり、その時には既に好きな子がいたってことだろ』
「それは……」
そう考えられないこともないとは思うのだが。だが、しかしだ。
だからって、ずっと好きだった? 蒼依のことを?
「……うーん、でもなぁ。さすがにそれは……」
どうだろうか、と尚も圭吾が半信半疑でいると。
『だー、煮えきらねぇ奴だなっ。そうなんだよ、お前はまだその子のことが好きなのっ』
間違いねぇ、と怒鳴られ、圭吾は思わずスマホを耳から遠ざける。
「なんで誠二の方がキレてるの」
『おめーが認めねぇからだろーが!』
この女泣かせの博愛主義者が、とどさくさに紛れて罵声を浴びせられ、圭吾の心臓にぐさりと突き刺さる。が、あながち間違ってもいないから反論もできない。「いいか、良く聞け」と苛立ちも露わな友人の言葉に圭吾は大人しく耳を傾ける。
『その子だけなんだろ? お前自身が自分から好きになったのは』
「それは、確かにそうだけど……」
『ならその気持ちが本物だ。それだけがお前の唯一無二の愛情なんだよ。他の誰も好きになれなかったのは、その子のことがまだ好きだからだ』
恐ろしく一途にな、と言い切られ、圭吾にはもう返すべき言葉が思い浮かばなかった。代わりに口をついて出たのは。
「…………本当に、そうなの、かな」
自分へと投げかけた言葉がぽつりと零れる。
正直なところ、実感はない。だが確かに、そのまま聞き流すのもどうだろうかと踏みとどまってしまう。
気になってはいたから。好きだったということも認められるから。
だがしかしだ。
(本当に、ずっとあおさんのことを?)
好きだったのだろうか。
お互い別々の人生を歩み接点すらもない状態で、まったく会ってもいなかったこの二十年もの間、ただひたすらずっと蒼依のことを。
「……」
そこまで考えて、不意に胸の奥底から込み上げてくる『何か』に圭吾は気付く。その『何か』が警鐘のように何かを訴えかけてくる。
『おい、圭吾?』
無言になった圭吾に、友人がスマホ越しに怪訝そうな声音で呼びかけてくる。その声で現実に引き戻された圭吾は「なんでもない」と返し、その後少し話して通話を切った。
「――」
再び無音になった空間で圭吾は自身の内側に耳を傾ける。
集中するために目を閉じると、真っ暗な虚空の空間が意識を支配し、その暗闇の中には自然と蒼依の顔が浮かび上がった。と同時に、なぜだか分からないが胸が熱を帯びた。
身体の奥底深くからせり上がってくるその熱いものが全身に広がっていく。
(なんだろう)
この感覚。
じわじわと自身を支配していく熱に苦しさを覚えるのに、けれどもその熱が心地良くもある。
ふと気付けば目尻が濡れていて、圭吾は静かにそれを拭った。
(なんで涙なんて……)
悲しくなんてないのに。
寧ろ逆の、温かい気持ちが心を満たしているのに。
(本当になんだろう。なんでこんなに……)
胸がいっぱいになっているんだろう。
苦しいまでにこの胸を締め付ける感情は一体何なのだろうか。
今まで抱いたことがない感覚に圭吾は再び目を閉じる。先程よりも一層深く自身の内面へと意識を向け、そして問いかけた。
この感情の正体は何なのか。
自分が蒼依に抱いている気持ちは本当に情愛なのか。
余計な雑音も一切耳に届かない静寂の中、圭吾はひたすらその事に向き合う。
そうして思考と共にじんわりと胸の奥深くから沸き上がってくる温かなものを感じとったかと思えば、ふっとある言葉が頭の中に浮かび上がった。
――好き。
その言葉が自分の中におりてきた瞬間、圭吾はそっと目を開けた。
(……そうか)
これが『好き』という感情なのか。
穏やかで温かくて、途方もなく幸福に満ち足りていて安心感すら覚えるのに、でもひどく焦がれてやまない熱い想い。
(俺、好きだったんだ)
蒼依のことがずっと。
他の子とはどこか違うなと感じていたあの時からずっと。
この永い月日の間もずっと蒼依のことだけを――。