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蒼依サイド1

 それは、肌がじりじりと焦がされる八月の初旬のことだった。

「――あら、あなたひょっとして蒼依ちゃん?」

 商品をレジに通している最中のことだった。

 対応していたお客様からそう言われ、蒼依あおいはレジの画面から顔を上げた。

 目の前にいるのは穏和そうな顔立ちの女性だった。歳は五十代から六十代といったところか。

 どこかで見たことあるような、ないような。

 女性の顔を見ながら、そう蒼依が記憶の糸を辿っていると「あ、いきなりごめんなさい」と女性は軽く頭を下げた。

芳沢よしざわって言ってわかるかしら?」

「よしざわ…………あ、もしかして圭吾けいごくんの」

 女性が名乗った名字に聞き覚えがあり、蒼依がある人物の名前を言うと女性は「そう、母です」と表情を綻ばせる。蒼依も「お久し振りです」と挨拶を返す。なんてことはない。同級生の母親だった。

「まぁ、すっかり見違えちゃって。名前見ないと蒼依ちゃんだって分からなかったわ」

 胸元の名札を見ながら同級生の母親が懐かしそうに話しかけてくる。

 それもそうだろう。なにせ小学校の同級生の母親なのだから。

 蒼依は今三十五歳だ。二十年以上も経てば当時の面影すら残っているのかも怪しい。内心良く覚えていたな、と思いながらも蒼依は「そうですか?」と返す。

「自分じゃあんまり変わったとは思わないんですけど」

「全然。ほっそりして、きれいなお嬢さんになってるわよ」

「あ、ありがとうございます」

 良く聞く社交辞令のような言葉に蒼依も愛想笑いを返す。それから二言三言、何気ない会話を交わした後、蒼依はふとあることを思い出した。

「そういえば……結婚したそうですね、圭吾くん。うちの母から聞きました」

 おめでとうございます、と祝いの言葉を述べると同級生の母親は「そうなの」と頷いた。

「ようやく身を固めてくれたわ。内心、このまま独り身だったらどうしようかと思ってたところだったの」

 やれやれといった風な雰囲気で言うが、その表情は嬉しそうだ。

「圭吾くん、一人っ子でしたっけ」

「だから尚更ね。家を継いでもらわないとだし、お見合いでもさせようかとうちの人と話してたらいきなり連れてきて」

「もしかして、授かり婚ですか?」

「そうじゃないわ。私達が、相手がいるなんてまったく知らなかったの。なんでも、お友達からの紹介で知り合ったとかで、初めから結婚を前提として付き合い始めたんですって」

「そうだったんですね。でも、それくらい、お互い初対面で相性が良かったんでしょうね」

「なのかしらね。年下の子だけど、案外しっかりしてて良い子なの。愛嬌もあって」

「それは良かったですね」

「ええ。だから今は、一日でも早く孫の顔が見れることを願ってるわ」

 まだその気配はないみたいだから、と会計を済ませて同級生の母親は帰って行く。その背中にマニュアル通りの挨拶をし、蒼依は次の作業へと意識を向けた。

 そんな出来事があってから数日後――。

「いらっしゃいませ」

「――え? 本当にあおさん?」

 またもや蒼依がレジに入っていた時だった。

 顔を上げると目の前に立つ男性のお客様が蒼依を見下ろしてそう言った。

 つい数日前にも似たような体験をしたことを思い出し、蒼依は男性の顔を見る。

 歳は自分と変わらないくらいだろうか。胸元に社名入りの作業服を来た、穏やかそうな雰囲気の好青年だ。

 うーん、これもどこかで見たことがあるような顔、なんだけど……。

(しかも『あおさん』って小学生の時の呼ばれ方)

 思いながら蒼依が小首を傾げていると。

「その様子だと、やっぱり分からないよね」

 商品の入ったかごをレジ台に置きながら青年が苦笑を浮かべる。

「うちの母親は俺のこと覚えてるって言ってたんだけど」

「お客様の、ですか?」

 蒼依はますます首を捻る。

 本当に誰だろうと、小学生の時の記憶を引っ張り出そうとして、ふと、青年が今しがた言った台詞にはっと思い出す。

 最近会った、小学生時代の知り合いの母親と言えば。

「ひょっとして、圭吾、くん?」

 蒼依がとある名前を呼べば「ようやく思い出した?」と青年が表情を和らげた。

 この間の女性と良く似た穏やかな笑み。それと重なるように、幼い男の子の笑った顔が脳裏に蘇り、蒼依は慌てて「ごめん」と謝った。

「ほ、本当に分からなかった」

 久し振り過ぎて、と蒼依が言うと青年は「だと思ってた」と気を悪くした様子もなく、笑みを浮かべたままだ。その笑みが遠い記憶の中の男の子と完全に一致する。間違いない。同級生だ。

「いや、見たことある顔だなとは思ってたんだけど」

「良いよ、気にしなくて。俺も母親から聞いてなかったらあおさんだって気付かなかっただろうし」

 言って同級生の青年は、蒼依を頭の先から見下ろし、ひとりで「うん」と納得したかと思えば。

「いやー、すごい様変わりしてたって聞いてたけど、名札見ないとまったく分かんないや」

 本当に間違いなくあおさん本人? とさえ尋ねてくる始末。その言葉に蒼依は思わず接客中だということも忘れ「し、失礼な」と言ってしまった。

「ウン十年振りに会ったと思ったら、言うことがそれですか」

 どこを見て様変わりしていると言っているのか想像はつく。蒼依は学生時代、今よりもはるかにぽっちゃりしていたのだ。

 暗に痩せたと体格のことを揶揄され、自分も気付かなかったことは棚に上げ、むっと眉を吊り上げてしまった。

 すると同級生は「ごめんごめん」と穏やかな笑みを崩さぬまま軽い調子で謝った。

「それじゃあ、仕事頑張って」

 会計を済ませ、青年はそのままお店を出ていく。蒼依はその背中に「ありがとうございました」と定例の挨拶を返して見送った。その直後。

(……はぁぁぁ!?)

 入り口のドアから姿が見えなくなるや否や、蒼依は我慢できずにへなへなとその場に座り込んだ。幸いなことに次のお客様は並んでいなかった。

(う、うそでしょ、マジでぇぇ!? 今までまっったく会うこともなかったのにぃ)

 まさか母親だけじゃなくて、よりにもよって本人にも再会するなんて。

 座り込んだまま、蒼依はかたかたと震える手で胸元をぎゅっと握り締める。

 まるで全身が心臓にでもなってしまったのかと思うくらい、どくどくと脈打っている。その上、身体全体が熱い。特に首から上が異常なくらい火照っている。手足なんて、生まれたての子鹿かというくらいに震えていた。

(や、やばい動悸がすごい)

 ばくばくと鼓膜まで震えるほどに振動している心臓を押さえたまま、蒼依はしばらく立ち上がることができなかった。


 たった今し方去っていった男性の名前は芳沢よしざわ圭吾けいごといい、先日話しかけてきた女性の息子、つまり蒼依の同級生だ。

 そして、芳沢圭吾は蒼依の初恋の人だった。しかも三十五歳になった今でも、ずっと忘れられずにいる人だった――。

 圭吾と初めて会ったのは小学生の時だ。

 蒼依の地元は地方だ。地方の学校といえば、同級生はほとんど保育園から一緒で、小学校から会う人は数えるほどしかいなかった。

 だからだろうか。ほぼ一目惚れのようなものだったと思う。

 気付けば圭吾のことを目で追うようになり、一緒にいると胸が苦しいくらいドキドキして、それが恥ずかしいと思う反面、でも嬉しくもあった。

 この感情が恋というものなんだと、その時に初めて理解した。紛れもなく、初めての恋だった。

 そしてその初恋は中学に上がっても変わらず、高校生、大学生、社会人、そして今に至るまで、変わることはなかった。自分でもなぜだか分からないが、圭吾のことが片時も忘れられなかった。

 ――そんな初恋の相手がついさっきまで目の前にいて、会話もした。

(あー、まだ信じらんない)

 蒼依はレジ台に両手を突き、かろうじて立ち上がる。

 未だに膝の震えは収まってはいないが、座りっぱなしでは何事かと不審に思われてしまう。

(夢、じゃないよね。現実だよね)

 あまりにも突然の出来事に、蒼依は自問自答する。

 再会したことも奇跡に近い。なのに、それよりも驚いたのが自分のことを覚えていてくれたこと。

(いつ振りだっけ)

 圭吾に会ったのは。

(高校は違ったし、その後は県外に出ちゃってたからな)

 蒼依は高校卒業後、県外へと進学、就職をした。地元に戻ってきたのはおよそ七年ほど前のことだ。

 働き始めて数年が経った頃、ひょんなことから体調を崩し、一時期は普通の生活を送るのも辛い状況にまで陥っていた。体型が変わったのもそれが一因と言え、そんなこともあり、それを期に退職し地元に戻ってきたのだ。

 しばらくは養生に専念し、だいぶ体調が回復したところで今勤めている地元のホームセンターでパートタイマーとして働き始めた。それが今から五年くらい前の話で、その時から転職せずにいるが、今まで顔を合わせることなど一度もなかった。

(成人式の時は運悪く風邪引いて参加できなかったし、同窓会もタイミングが合わなかったし)

 ということは、中学卒業以来ということになる。およそ二十年間、会っていない。――いないのに。

(……それなのに、まだ好きなんだ。圭吾くんのこと)

 その証拠に鼓動が収まらない。

 今となっては好きになった理由すら曖昧になってきているというのに、それでもはっきりとそう言える。……言えるのだが。

(なのにずっと伝えられなかったって、ほんと、だめだな私)

 蒼依は深々と息を吐く。

 蒼依は昔から感情を表に出すのが苦手だった。おまけに極度の人見知りで引っ込み思案。人と話すのが苦手で、早い話がコミュ障だ。

 今でこそ、接客業に就いているから昔よりはましになったとは思うが、腹を割って話せる人と言えば家族か本当に気の合う友達だけ。

 そんなんで恋愛なんてできるはずもなく、初恋の相手に気持ちを伝えることどころか、未だに誰とも付き合ったことがなかった。

(てか、小学校からの初恋を未だに引きずってるとか、相当イタい、よね)

 しかも結婚したと聞いたのにまだ好きだなんて。

(執念深いというか、未練がましいというか)

 結婚したと聞いた時、ショックを受けたのは今でも鮮明に覚えている。ショックを受け過ぎて、更に体重が数キロ落ちたほどだ。

 これではだめだと、必死に忘れようとしていた。のだが、その矢先に唐突に再会してしまった。そうして改めて自覚してしまった。

 本当にまだ好きなのだと――。

(あーもう、やだぁぁ)

 心中でそう叫びながら蒼依はひとり項垂れる。

 なんでこんなに好きなんだろう。他にもたくさん素敵な男性はいるのに。

(私、こんなに思い込みが激しかったの?)

 自分のことなのにまったく理解できない。

(でも、さすがにそろそろ真面目に切り替えなきゃ)

 いつまでもうだうだと初恋を引きずり続けてはいけない。というかもう、相手は結婚したのだ。引きずる方がどうかしている。と、そこまで考えて「でも」と反語が浮かび上がってくる。

(覚えててくれたのは純粋に嬉しい)

 絶対もう名前すら忘れられていると思っていたから。だからすごく嬉しい。嬉しいのだけれど。

(でも、結婚、しちゃったし……)

 思い出して再び気分が沈む。

 初恋は実らないと聞いたことがあるが、本当にそうなんだなと実感した。

 まぁ、自分の場合は確実に性格のせいなのだが。

(あー、ほんと、なんで今更再会するかなぁ)

 よりによってこのタイミングで。

「……はぁぁぁ」

 嬉しいやら切ないやら、とにかく非常に複雑な気分だ。その浮き沈みを繰り返しながら、蒼依はしばらく重い溜め息を零し続けたのだった。

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