一章(7)
久しぶりの室内は、思った以上に快適だった。
最初に部屋へと案内された時、リュトはあまりの狭さに罪人の檻ようだと思ったのだが。
さて一晩明けてみれば、体の調子はすこぶるよくなっていた。
小さくて寝心地がが悪そうな寝台の上で、気づけば朝日が差し込むまで眠り込んでしまったのだ。
こんなにたっぷりと睡眠をとったのは、いつぶりだろうか。
城ではいつも皆が寝静まったころに眠り、誰よりも早く起床していた。
旅に出てからも見張りをしながらでは、しっかり休むことはできなかった。
今のように朝日を浴びながら横になるなんてことは、本当にしばらくぶりで……。
リュトはふと、自分の現在の状況に違和感を感じた。
朝日なんて、この世界にあっただろうか?
いや、そんなものはもう存在しないはずだ。
リュトは窓辺に立ち、窓を開けた。
見上げても赤黒い雲が支配する空からは、一切の光も降り注いでいない。
この光はやはり太陽ではなかった。
明るい窓の向こう側、太陽の代わりにリュトが見つけたのは、空よりもずっと下で光る球体だった。
まるで太陽を模したかのようなそれは、何知らぬ顔で燦燦と村へと光を注いでいる。
あれほどの光を、昨日は何故気づかなかったのか。
リュトは部屋に入る光を眺めながら、この村へ来てからのことを思い返す。
昨日この部屋に案内された時、部屋にはすでにランプの明かりがつけられていた。
おそらくその時は外が暗かったのだろう。
明かりを消せば部屋も暗くなった。
だが今はどうだ。
ランプの明かりが無くとも、部屋は明るいままだ。
昨日はあの光る球体は存在していなかったのか。
あるいは、存在していたが光を放っていなかったのか。
訝し気に外の光を見つめるリュトの後ろで、戸を叩く音がした。
「もう起きてる?」
扉の向こうで女性の声がする。
リュトは返事をせずに、警戒しながら扉を開けた。
「あ、起きてたのね。返事くらいしてくれてもいいんじゃないの?」
扉の向こうに立っていたのは、村に来て最初に声をかけてきたスファラだった。
急に開いたドアにただ驚いているだけのように見えるが、果たしてそれだけなのか。
「何の用だ」
「朝だから起こしに来たのよ。エルちゃんはもう皆と朝食を食べているわ」
たいした用でなければ突き返そうと考えていたリュトだが、エルと聞いてすぐさま食いついた。
昨夜はエルと別々の部屋をあてがわれ、理由を聞けば男女で部屋の位置を分けていると言われ従うしかなかった。
二人が離れ離れになってから結構時な間が経っている。
エルはどうしているだろうか。
村人たちがエルに向ける視線に敵意は感じなかったが、リュトは昨日会ったばかりの人間を簡単に信用できる性格ではなかった。
念のためリュトはエルに保護の魔法を掛けておいたのだが、自分の目で無事を確認しなければ安心でない。
そうと思い至れば、こんなところで油を売っている時間はない。
「さっさと案内しろ」
焦りからリュトの口調が強めになる。
その様子に、スファラは眉を怒らせリュトを睨んだ。
「その口の悪さ、どうにかならないの?エルちゃんが真似したら困るわよ」
リュトは顔を反らし無言のままスファラを押しのけ部屋を出る。
「ちょっと、どこ行くのよ」
後を追って歩くスファラが、リュトを追い抜き前に立つ。
「ちゃんと案内してあげるから。付いて来て」
廊下を歩くリュトの足音はあまりに静かだった。
皇族であったリュトは、細かい所作までも洗練されている。
中でもウォーキングは、皇族しいては貴族にとって基本的な教養だった。
しかし、リュトの場合は皇族から元皇族になった影響が大きいだろう。
リュトが元皇族として求められていたものは、美しい姿ではなく、実質的な強さだったからだ。
スファラは静かすぎる後ろを時々振り返り、リュトがついてきていることを確認する。
リュトはその行為を煩わしく思いながらも、その後ろを黙って歩いた。
香ばしいパンの香りがする。
リュトは与えられた席に着き、テーブルを眺めた。
これに温かいスープがあればと昔に戻り、今となっては贅沢なことを考えていれば、本当にスープが出され驚いた。
城では食事を採るのは一日一回、夜だけだった。
朝と昼は、大量生産が可能で日持ちのする固く焼いたパンを千切って食べ空腹をしのいでいた。
この村は割と豊かな所のだろうか。
リュトは目の前に出されたパンとスープをじっと見つめる。
柔らかそうなパンは焼きたてのいい香りがした。
薄い黄金色のスープも具は少ないものの、口に含めば丹精込めて作られたであろう深みのある味わいがした。
「どう?アジトの料理の味は」
「まあまあだ」
「素直に美味しいって言いなさいよ」
リュトは食事をとりながら辺りを見回す。
しかし食堂にエルの姿は無い。
「エルは何処にいる」
「エルちゃんはもう食事が終わったみたいね。広場にでも行ったのかしら」
素早く食事を終えたリュトは、席を立ち足早に食堂を後にする。
向かう先は広場だ。
エルが目に届く場所にいないことが不安でたまらなかった。
保護の魔法は問題なく機能していて、何も起こっていないと分かっている。
それでも、傍にいないことが落ち着かなかった。
広場の場所は昨日一度目にしているから分かっている。
アジトのすぐ傍だ。
迷うことなく広場へ辿り着くと、そこにエルが姿が見えた。
それだけで安堵し体が軽くなる。
声をかけようと近づいて行く途中で、リュトはピタリと足を止めた。
同年代の子供と遊ぶエルは、今まで見たことがない生き生きとした表情をしていたのだ。
それを目の当たりにした途端、自分はあの場所に行くべきではないとすぐに悟った。
今リュトがあの場に行けば、エルと共にいる村の子供たちは怯えて逃げてしまうだろう。
村人たちがリュトを忌避したように、赤い毛の悪魔が来たと泣き叫ぶかもしれない。
仕方なくリュトは、遠くからエルを見守ることにした。
目の届く場所に居れば、何かあってもすぐに助けに入ることができるし、エルの幸せを邪魔することも無い。
追いかけっこなんて、きっとエルは今日初めてしただろう。
城では走り回ることを禁じられていたし、そもそも相手もいなかった。
だからこそ、自分だけがエルの遊び相手になってあげられる、そう思っていたがのだが。
それはもう過去のことなのだ。
嬉しさと寂しさがせめぎ合うその狭間で、リュトの心は酷く凪いでいた。
これからは影となってエルを守ることが、自分の役目なのだと心に決める。
「こんなところに突っ立って、何してるの?」
リュトを追って来たのだろう、スファラが後ろから声を掛けてきた。
広場に入ろうとせず立ち止まっているリュトを、スファラは不思議そうに見つめている。
対するリュトは面倒な相手が来たと、内心で悪態をついたが口には出さなかった。
声に出せば、さらに面倒なことになるとわかっていたからだ。
「ここから様子を見ていただけだ。今から会いに行くところだった」
「あらそう。ちょうどいいタイミングだったわね。じゃあ一緒に行きましょうか」
さも当然のように同行するスファラに、リュトは半ば諦めた様子で目を閉じた。
リュトが広場に足を踏み入れれば、その場にいた村人たちが探るような視線を向けてきた。
予想通りのことで特に気にもならなかったが、エルの側まで来た時、少し後悔した。
エルと遊んでいた子供たちが、リュトを見るなりその場から離れていってしまったのだ。
それも始めから想定していたことだったが、自分のせいでエルの楽しい時間を奪ってしまったことが悲しかった。
先ほどまで賑やかだった広場は、どんよりとした静けさに包まれる。
「お兄ちゃん、おはよう!」
最初に声をかけたのはエルだった。
周りの空気などお構いなしなのか、はたまた気づいていないのか、いつもと変わらない元気な笑顔をリュトに向けている。
「おはよう、エル」
リュトもエルに応え、微笑みを返した。
「お兄ちゃん私ね、みんなと追いかけっこしてたの!凄く楽しかったよ。お兄ちゃんも皆んなと一緒に遊ぼうよ」
「エル、よかったな。お兄ちゃんはここで見ているから、エルは皆んなと遊んでおいで」
「お兄ちゃんも一緒がいいな」
エルはただ純粋に、リュトと遊びたいのだ。
いつも一緒に居てくれる、優しくて大切なお兄ちゃんと。
「お兄ちゃんは……」
エルに何とか答えようとリュトは言葉を探した。
しかし探しても探しても、その先に続く言葉を見つけることができなかった。
今までのようにエルのお願いを聞いてあげても、きっとエルの思い描いた結果にはならない。
そう分かっているからこそ、簡単に同意することができなかった。
同意できない理由を説明することは、更にためらわれる。
沈黙の中、エルはリュトの返事を今か今かと目を輝かせて待っていた。
そのことが更にリュトを底無しの闇へと追い込んでいく。
「お兄ちゃんはこれから、アジトで大事な話があるの。それを伝えに来たのよ」
エルの前にしゃがみ込んだスファラが、言い聞かせるように柔らかな声で言った。
リュトはピクリと震わせる。
途端に、迷走の果てに止まっていた時が動きだした。
「大事なお話?」
「そうよ。エルちゃん達はこの村に来たばかりで、まだ良く分からないと思うの。だからお兄ちゃんに村のことをお話しするのよ」
「エルも聞く!」
「エルちゃんは後でお兄ちゃんから、ゆっくりお話してもらいましょう。お話が終わるまで、ここで皆と仲良くできるかしら?」
「うん!お兄ちゃん、私ここでお話が終わるの待ってるね」
「ああ、怪我しないようにな」
うん、と元気に返事をして、エルは再び子供たちの方へと駆けて行った。
子供の手を握った親たちが、リュトを警戒し様子を窺っている。
リュトはすぐさま広場に背を向け、逃げるようにその場を後にした。
リュトのいなくなった広場は、賑わいを取り戻していく。
背には、子供たちの賑やかな声が響いていた。