一章(4)
あと少しで目的地に辿り着く。
複数ある生命の反応のうち、一つがリュトに向かって急接近を始めたのは、まさにそんな時だった。
可愛い妹の人助けをしたいという気持ちを尊重し、わざわざ危険を承知で様子を見に来たというのに。
まさか保護対象に襲われることなるとは、誰が思うだろうか。
応戦しようにも、エルの手を引いている上に、完全に出遅れた状況だ。
エルの身の安全を考えれば、今更避けることは不可能だった。
咄嗟に保護の魔法を掛けたが、急ごしらえの魔法の為、強度はそれほど期待できない。
もし相手が手練れであれば、ただでは済まないだろう。
だが、リュトも簡単に死んでやるつもりはなかった。
自分が死んでも、エルだけは守らなければならない。
命をかければ、ここ一帯を吹き飛ばすぐらい、リュトにとっては容易いことだ。
そんな覚悟とは裏腹に、リュトの体に伝わって来た衝撃は、軽く胸を押されたような呆気ないものだった。
足元で砂が鳴る。
リュトは警戒しつつ、そちらへと視線を向けた。
視線の先では、オレンジがかった茶色の髪が弱々しく震えている。
見たところ若い男のようだ。
尻餅をついた体制のまま、男はゆっくりと顔を上げた。
「赤い……髪……」
男はそう言うと同時に、震える手で腰に刺してあった短剣を引き抜き、リュトにその刃を向けた。
「あ、悪魔めっ!来るな!これ以上近づくな!!」
顔を蒼白にし叫ぶ男。
リュトは構えよう掛けていた手を剣の柄から離し、静かに男を見下ろした。
まだ若いせいか、戦闘経験は少ないようだった。
この様な足手纏いを連れ歩くとは、彼らはよっぽどの人手不足なのか。
リュトは魔法で他の生命反応の動きを確認するが、それらがリュトの方にくる気配はなかった。
仲間から離れ一人で走って来たことを考えれば、この男は仲間を見捨てて自分だけ逃げて来たのだろうか。
それとも若い男に同情した仲間が逃したのか。
結果、出だしでリュトと衝突し足止めをくらっているようでは、この先この男が生き残れる確率は限りなく低いだろう。
「立ち去れ!化け物!」
震えながら叫ぶばかりで襲って来ようとしない男に、リュトは冷ややかな視線を向けた。
「化け物か」
リュトは、ポツリ独り言のように呟き、それから数日前のことを思い返す。
故郷の者を皆殺しにした自分は、確かに化け物なのかも知れない。
たった妹一人を守るために、数十もの人間を殺した。
最初は悲鳴や血に恐怖を感じたが、死体の数が十を越えた頃には、何も感じなくなっていた。
もし自分が化け物でないと言うのなら、いったい化け物とはどんなものなのだろうか。
リュトはゆっくりと男に近づいて行く。
「ひっ!」
男はまだ尻を付いた体制のままで、それでも必死に目の前の脅威から逃れようとするが、男の手足は砂を掻くばかりであまり進んではいなかった。
弱いくせに生に縋る者の死に際とは、なんと無様な物なのだろうか。
リュトは最後まで誇り高く死んでいった仲間と比べ、恥さらしな男の価値を見出せずにいた。
もしもエルが、こちらに向かおうなどと言わなければ、出会わなかったであろう人間だ。
仮に出会ったとしても、この荒野の中、リュトならば顔も見ず斬り殺していたに違いない。
その程度の人間を助ける意味などあるのだろうか。
気づけばリュトは、先ほど放した剣の柄に再び手をかけていた。
目障りな虫を払うだけだと、特別構える様子もなく剣を引くリュトの腕を、突然、エルが後ろから掴んだ。
「あの人が助けてって叫んでた人かな?」
「どうだろう?聞いてみようか」
エルは腕を掴んだまま、背の高い兄を見上げる。
リュトは視線をエルに移し、優しい声で答えた。
「うん。ねえ、お兄さん。お兄さんが、助けてって叫んでた人なのかな?」
リュトの背から、ひょっこりと顔を出すエル。
それを見た男が、大きく目を見開いた。
「神子様……?」
「神子様?」
エルが男の言葉を繰り返し、首を傾げてリュトを見る。
分からないと、リュトは首を振った。
「神子とは何だ」
男に尋ねるが、男はエルとリュトを交互に見るばかりで、質問に答えようとはしない。
始めにエルがした質問にさえ答えられていない男を相手にしても、無駄に時間を消費するだけだと思い至ったリュトは、男を相手にするのを止めた。
「……どこに行くんだ?」
男の問いを無視し、リュトはここより先にいる者たちの方へと向かう。
リュトが横を通っても、男は何もせず見ているだけだった。
すれ違いざまにエルが男に「助けに行くんだよ」と伝えると、男は声も無く啜り泣いた。