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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

SF分類

NTR差別

作者: 平之和移


「ねぇあなた。まだ寝盗られてないの?」


「前から言っているじゃないか。そんな性癖はないって」


「でも、世間の目もあるし」


私は日常の一部となったこの会話に嫌気が差している。妻は愛している。他の女性と寝ようなんて考えたくもない。それに私は、自慢になるがかなりいい会社に勤めている。給料もいい。不満のない待遇だ。なのになぜNTRという冒険をしないといけない。


妻が作ってくれたホットサンドを食べ終え、出勤の支度をする。妻は自立心こそないが、だからこそよく家事をしてくれる。私も手伝おうとしたのだが、いつも断られる。せめてトイレ掃除ぐらいはやりたいのだが。彼女は家事を好んでやりたがる。


素晴らしい人だが、最近の風潮のせいで他の女と寝ろとせがんでくる。いくら最愛の人でもそんな願いは叶えられない。


恥ずかしながら、行ってきますのキスをして家を出た。賃貸の一軒家。郊外にある。駅まで歩き、電車へ。広告に、「媚薬で人妻を墜としましょう」やら「あの人の夫は私のモノ!」「催眠万歳!」だの猥褻な文字が並ぶ。とんでもないことに、痴漢の推奨さえある。それで心を墜としましょうとのこと。


電車から降りる。オフィスビルの郡立する都市部。駅前には、「私の夫、五千円」というプラカードを掲げた団体がいる。寝取って欲しい様子。全く理解できない。


会社へ。ハラスメントもなく、配慮の行き届いたホワイトな職場。このご時世恵まれている。己の幸運を喜びつつ席に座り、仕事の準備をする。仲間と挨拶を交わし、今日も労働日和だ。


昼。大変なのに作ってくれた愛妻弁当を食べていると、上司が話しかけてきた。


「君、その後、奥さんからはどうなんだい。まだ急かされているのかい」


NTRのことだろう。上司はこれで酷く悩んでいる。私は彼を気遣い答えた。


「いつもいつもですねぇ」


「そうか」愚痴のスイッチが押された。小声でこぼす。「いつもなくならないんだよ、寝取り希望が。何でも、上司に寝盗られるのは王道って言うけどねぇ。私には妻子がいるし、子供にこんなことが知られたら、あの子に深い傷を与えてしまう。ここ最近の風潮は、子供のことを考えていないよ」


「そうですねぇ……」


彼の苦悩は最もだ。しかし、マイナー性癖、マイノリティたるNTR好きに配慮しなければ、今時差別主義者だ。そんなことで社会的立場を失いたくない。だから上司も小声だ。


元々、NTRは道徳に反すると差別されていた。NTR好きは、己の性癖を普通として受け入れろと世間に抗議した。理解を示す人はとても少なかった。けれども彼らの平和的デモには賞賛が送られていた。暴動に繋がることは一度たりともない。


だが、事態は思わぬ方向に進む。抗議者さえ不満を持つほど弱気な政府は、NTRを受け入れるどころか強く推奨。マスメディアもこれに乗り、NTR好きに非ずは人に非ず、という空気ができてきた。当のマイノリティ達からも疑問提起がなされたが、思想に乗っかりたいだけのミーハーは、NTRへの差別から反NTRへの差別に切り替え、彼らを非人間と扱った。以降、誰も現状に文句を言えなくなったのだ。


私の仕事は終わり、定時で退勤する。行きつけのバーに行くため、妻に連絡した。彼女から、浮気は歓迎と返される。本当は私を愛していないのではないか、と考えてしまう。


「いらっしゃいませ」


バーに入る。顔なじみのマスターから、何も言われずに酒を出された。一口。甘く、アルコールを感じない。彼は私の好みをよく知っている。


「マスター、私の妻は私を愛していると思うかい?」


決まり文句に、彼も乗る。


「私にも同じ悩みがありますよ。客とふしだらな関係になれとね」


周囲を憚りつつ、私は不満をもらした。


「私は妻しか愛することができないのだけどね。もしかして、マイノリティなのかな」


「NTR好き以外にもマイノリティが? いたとして彼らには及ばないでしょう」


隣の客も一緒に笑う。私の左にいる温厚そうな青年と、右にいる仕事帰りの女性の二人だ。会話に混じってくれる。


「ボクも悩んでいるんですよ」青年が哀愁を込める。「何を隠そう、ボクはNTRが好きでした。ゲームや漫画を見て、楽しんでいましたよ。だから前まではこの風潮を歓迎していました」


カルトにハマっていた、と類似する告白。その後のことは解りきっているが、予定調和とは安心するものだ。誰もが耳を貸した。


「ボクはその頃付き合っていた彼女に寝盗られてくれと頼みました。カメラも渡して、ビデオ撮影もお願いして。それから、動画を送ってもらって、見たんですが……。その日からボクはEDになりました。やっぱ、自分に起こると耐えられないですね。中には喜ぶ人もいましたが。ボクはもう、色恋はゴメンです。特にこの時期には」


自業自得と言えばそうなのだろうが、それで責めるほど私達は子供ではない。マスターに目配せ。彼は視線を受け、カクテルを作る。うなだれる青年に一杯提供。優しく、甘い、炭酸のものを。


青年は驚きつつも受け取った。一口。苦笑がうっすら浮かんだ。マスターを見る彼の目は、気のおける兄弟と共にいるようだ。


「今は大丈夫なんですか」私は心配を抑えきれず質問する。「戦ってますよ」と青年。トラウマはそうそう消えることはないだろう。


「あまり傷を抉りたくないのですが……」


女性がおずおずと話す。青年も姿勢で会話を促す。


「それって、寝盗られじゃなくて寝盗らせですよね」


青年が喉で笑う。「その通りです。でも、ほとんどNTRとして扱われていますね」


「変な感じですね。スコッチとバーボンを同じにするみたい」女性は首を傾げている。続けた。「私、彼氏から他の男と寝るようお願いされているんです」


同士の思わぬ発言。私は同好を求めた。「それはまた随分と」


「彼は、私のことを本当は好きじゃないかと考えると……他の女性と寝ているんじゃないかと思うと、イライラしちゃって。だって、今は不倫も浮気もNTRだからっね許されちゃうんでしょう。しかも、その大体に愛とかないですし。寝て、快楽に負けて、サヨナラって。私そこまで頭ユルユルじゃないですよ」


だんだんと過激になっていく彼女の言葉に、私達は戦々恐々。他の客に聞かれないか、耳をそば立ててしまう。マスターと青年が身構えている。


「そもそも、人の夜の事情にまで突っ込んでくるなんてデリカシーがないですよ。プライバシーの侵害です。こんな風潮おかしいし、NTRなんて……」


「まぁまぁ」マスターが耐えきれず酒を注ぐ。「お酒でも飲んでください。これは奢りです」


女性は食い下がろうとした。援護のため、私が小声で援護する。


「気をつけてください。今、NTRを批判したら差別主義者になります。ここは酒の席ということで誤魔化しが効きますが、それ以外だと大変なことになります」


「でも……」彼女はしかめた顔で意志を絞り出そうとした。青年も私を助けた。


「貴女の言っていることは正しい……というか、ある種の、正当な意見だと思います。けど、言っちゃダメなんですよ」


納得はせずとも、女性は話をやめた。こんなことを話していたと周囲にバレたら、もしかしたら辞職に追い込まれるかもしれない。いつも冗談として口にしているから、生き延びられてきたが。


つくづく暮らしにくい世の中になったものである。差別とは前提として否定すべきものだ。けれども何がNTR差別になるか判らない以上、迂闊なことは言えない。「ねっとりしているものが嫌い」と言うだけで、差別かもしれないのだ。


なら、関わらないのが懸命ではないか。そうしたいが、薄弱な意志の持ち主は、万人が共通の思想にならねば不安になるのだろう。NTR好きでもないのに、NTR嫌いを攻撃する。私は人の性癖に口出しするつもりはないのに、なぜ押し付けるのか。無意識にため息が落ちた。


誰かが入店する。塩気のある空気から逃れるべく扉を見る。若い、金髪の男がいた。大学生だろうか。社会人にはなっていないようだ。


彼は丁寧に声をかけてから、我々の隣に座った。マスターの知っている人らしく、いつもの、で通じた。


彼は一口飲んだだけで涙目になり、打ち明け話を始める。


「マスター、妹が寝盗られた」


私は酒を吹き出さないよう必死になった。女性は口をだらんと開けて思考停止。青年なんてグラスを傾けたまま固まっている。


マスターも、何度も目を開けて閉じた。皆が疑問に思うことを、直球でぶつけてみる。


「妹さんが、ですか。あの、それはつまり、近親……をしていたと?」


「え? いやいや。そんなことしてないよ。あいつに彼氏ができて、楽しそうなんだ。俺とは何年もいたのに」


「そりゃあ、家族ですから。屋根の下には一緒にいるでしょう」マスターも目を泳がせる。


「まだあるんだ。俺が好きな子も他の男に寝盗られたんだ」


安堵の息を吐く。理解できる話だ。だが青年の問いで困惑の牢獄に閉じ込められる。


「それって、付き合っていたんですか?」


「いや、片思いだけど」


「片思いなのに寝盗られなんですか?」


「そうなんだよ。まだ告白してなかったのに」


自然、女性と目が合う。お互い理解が及ばず、肩を竦めた。私は混乱を沈めるべく金髪の若者に聞く。


「二人で寝ていなかったら、寝盗られではないのではないですか。というか、それはただの失恋では?」


「酷いなぁ。今、失恋でもNTRだよ。BSSとかもあるらしいが、これはNTRだ」


「じゃあ、妹さんはどうなんです。何もしていないなら、むしろ祝福すべきというか」


「でも、仲良かったんだ」


仲が良い人が別の人といたら、まさかそれもNTRなのか。じゃあ、マスターが私以外の客と話していたならそれもNTRなのか。


少し身震いがした。独占欲が強すぎる。私の妻が他の男と話していたからって、嫉妬なんてしない。友人が他の人と仲良くなっていても、その人と話すだけだ。自分にだけ見てほしいというのは、それは違うのではないか。


それに、寝てもいないのに盗られたとは。失恋が悲しいことに変わりはないが、それで諦めがつかないのは、また別のことだろう。


金髪の若者は肩を落とし、喋る。


「おかしいと思うだろうけど、今の世の中ではこれが正しい考えだよ。自分の物と思っている物が他人に渡ったら、それはNTRなんだ」


「じゃあ」女性が追求する。「お母さんが好きなら、彼女はお父さんに寝盗られているんですか?」


「逆も然り」


私は酒由来でない頭痛に呻きながら店を出た。あの考えを理解しないと差別主義者なのだ。思想の自由なんてない。帰り際に見たネットニュースは、「防衛大臣、今だ寝盗られず」と書かれている。芸能面なぞ、NTRをされていない芸人の特集ばかりだ。


帰宅。玄関を開け、けれども出迎えはない。そんな日もあるだろうと靴を脱ぎ帰りの挨拶。返事がない。不安になり寝室へ行く。扉を開けようとして、逆に向こうから開けられた。全開ではなく、わずかに。


「あ、おかえり。バーに行ってたの?」


「思ったより話してね」


彼女は化粧をしている。友人に会っていたのか。それにしては、少し汗ばんでいる。


嫌な予感がした。透明な盆水に土が入ったよう。無理に問い詰める気はないが、けれども慎重に事を運ばないといけない。


「今日は、何を?」


「違うの。実を言うと……寝盗られた」


私の目付きで怯んだか、大慌てで扉を開ける。室内には誰もいない。ベッドが少し乱れている。クローゼットに一直線。開けるも誰もいない。


私の信頼は裏切られたのだろうか。不安から怒号へ心が形態変化していく。妻は頭を抱えて私に告げた。


「違う、違うの。ほら、ベッドを見て」


間男を逃がすための時間稼ぎかと思った。だから無視して探したが、だが何をひっくり返しても人間は見つからない。言われた通りの場所へ目をやる。乱れているが、よく見ると夜の形跡はなく、寝相の悪さだけがあった。


「昼寝していただけなのか?」


「そうじゃなくて、これ」


彼女が指差すは抱き枕。気にしていなかった。少し回すと、美男子なキャラクターのイラストが描かれていた。若々しい。


現状に対する回答を示していないために、再び妻へ懐疑をかけた。彼女はイタズラのバレた素直な子どものように頭を撫でた。


「どう? 私はその子と寝たの。その子好きだし、これで寝盗られでしょ?」


「アイドルやキャラクターに? これで不倫にはならないよ。心は盗まれているかもしれないけどね。私はそこまで不寛容じゃない」一本とられた。


「でも、これで貴方は世間体を気にしないでいい。ちゃんと寝盗られましたよって」


「これでそうなるなら、私はいつもバーに寝盗られているよ」


何が妻のツボに入ったのか、しばらく笑い続けていた。


食事の際、彼女はこんなことを言った。


「今日友達と一緒にいたことは本当なの。そこで、ちょっとNTR好きの人と会ってね。普通の人だった。むしろオドオドしていたし、危険には見えなかったな」


「そうだったのかと言いたいけど、当然だよ。その人達は好きなだけだし。それで差別なんてバカバカしい。けど、問題なのは暴れている連中さ。いつか来る反動が怖いよ」


「結局、思想も信仰も信念もブームなのかもね」


「そこまで人はバカじゃないと思いたいな」




後日、会社での昼休憩中、速報がスマホに現れた。私はこれを上司との雑談にした。


「寝盗られと寝取りは違うとして、デモが起こっているらしいな」


「そうらしいですね」と、私。「政府はまた折れるのでしょうか」


「そうだろうねぇ。しかし、寝取りも差別されているとはね。いや、人の家庭を壊すから当たり前なのかな?」


「その言葉も疑問も差別になりそうですね」


「いつか人間という言葉も差別用語になるな」


「まさか。ありえないでしょう」


仕事だけは連綿と続く。差別であろうとなかろうと。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一見現実世界のようで少し且つ重篤なズレのある世界設定がN氏とか居そうで好みです。 [一言] 能動と受動は対でも強制の対は、、なんだろ? 仕事や役割として括ると主体に関係なく同類になるのか
[良い点] 風刺コメディとでもいうのだろうか。 今回は風潮どまりですが、 独裁者によるアンチNTRへの弾圧、みたいな世界を想像してしまいました。 バーのシーンは反政権者の集まりで、憲兵の突入まで(ぉ…
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