闇の底
ガァンと力一杯に頭を殴り付けられた様な恐慌の大波がゆっくりと退いて行くと、後には激しい後悔と極度の興奮から来る盲滅法の焦燥感と、そして折れ倒れた馬鹿でかい氷柱の様にズウンと腹の底で冷え固まった恐怖の塊が残った。その間の時間がどれ程経過したのかは判らない。慌てふためいてほんの短い間だがうっかり意味も無く手足をばたつかせてしまった為、私の周囲をすっぽりと包み込んでいた力関係の均衡が破れて、上下左右の感覚が一時的に麻痺してしまい、最初の壮絶な空白状態を脱した後も暫く混乱が続いたのだ。ゴボゴボと耳と云わず顔と云わず手と云わずあちこちで喧しく騒ぎ立てる気泡と、恐らく何千年、或いは何百万年も乱されたことの無かったであろうこの青黯い沈黙の破れが、辛うじて私がまだ知覚可能な世界に存在していることを教えてくれてはいたが、目の前に両手を持って来ても微かな陰翳さえ見分けることが出来ない完全な暗闇と云うものがこれ程までに強烈な絶対的の力を持っていようとは、この時まで恐らく私は想像だにしたことが無かった。パニックの頂点が過ぎ去っても方向感覚は狂った儘だった為、自分の頭が今重力と自らの生理に逆らっているのかそうでないのか、自分が今先刻潜り抜けて来たばかりの外世界への開口部の方を向いているのか、それとも、恐らく人類が曾て誰一人として踏み込んだことの無い、未知の暗黒の深淵の方を向いているのか、知ろうと焦って神経を研ぎ澄ます程に、却って迷いの種が増えて行く様だった。そうなってみると、支えてくれるものも依って立つべきものもしがみつけるものも何も無い、唯自身の肉体が周囲の水に対して持っている浮力によってこの暗黒世界の中に唯一人、フウワリと頼り無く漂っているばかりの自身の身の上が、急に心細いものに感じられて来た。否、心細いなどと云う表現では生温い、自分の手足や胴体が、針金一本にまで縮み切ってしまって今にも消滅の時を迎えんとしているかの様な、息をすることさえ許されぬ絶対の孤絶感が、私がそれまで一人の人間として生きて来たことの証の一切合財を、徹底的に叩き潰しに掛かって来た。惑い乱れる頭に訳が分からなくなりそうになり乍らも、私は全身の神経を覚醒させ、何とか適度な緊張と冷静さを回復しようと試みてはみたのだが、その度に、目に見える実体を持った圧倒的が黯黒が、まるでそれ自身の手触りと、人智には窺い知ることの出来ぬ意志とを持っているかの様に私を押し包んで来て、狂うのはおかしなことじゃあないよ、こんな状況なら仕方が無いさ、こんな環境下で平然と正気を保てる人間なんて誰一人居やしないさ、君は赦された、君の恐怖は赦された………と、妖しく囁き掛けて来るのだった。皮膚の上を這い摺り回る泡や水流は、私と私でないものとの境目を祭りの喧噪の様に騒がしく慌ただしくどろりとした闇の中に溶かし込み、私は、世界の中に居ることさえ出来なくなって行く様に思われた。
人間社会のあらゆるものから自分が隔絶してしまったと云う認識が訪れたのは恐慌が鎮まり掛けて暫く経ってからのことだったのではないかと思うが、いざ他の人間からの救助の手が全く当てに出来ないものだと悟ると、まだ意識の底流で蜷局を巻いていた恐怖が物理的な質量と冷気とを獲得でもしたかの様に、冷え切った戦慄が私の四肢を凍らせに掛かって来た。実際のところ、今日私がここに来ていると云うことは誰にも知らせていなかったし、そもそもこの水中洞窟を発見したこと自体、誰にも打ち明けてはいなかった。自身の軽卒さを激しく呪う気持ちと、自分自身に対してのものなのかこの如何ともし難い状況に対してのものなのか判然としない怒りが、暫し私の脳髄をギリギリと荒縄の様に締め付け、チクチクといたぶった。実際、何故私はたった一人で誰にも内緒で人跡未踏の地下世界を探検してみようなどと云う気になったのだろうか? そんな疑問が一瞬浮かんだが、その時は直ぐに消えた。そして、せめて予備のリールだけでも用意していればと云う後悔が襲って来たが、そんなことを今更言ってみたところでどうにもならないことは判り切っていた。万が一にも洞窟を傷付けてはいけないと思い、また命綱を引っ張ったり手繰ったりして泳いでいたのでは手間が掛かるだろうとも思い、些か注意が疎かになってしまっていたのだが、明らかに用心が足りなかった。洞窟の内部は私が思っていたよりも構造が複雑で暗く、深かった。それにまさか持って来た強力な探照灯が、予備のものも含めて一時に三つとも駄目になってしまおうなぞ、私は全く予想しておらず、当然そうした事態に対する準備もしていなかった。愚かとしか言い様が無い。と同時に、おかしな話だが、今この孤独で絶望的な状況こそ、私が本来望んでいたものではなかったかと云うやけに急迫した直観が、何処からともなく現れて私の心を騒がし、また同時に魅了もした。私は何故誰にも告げずに一人でここへ来たのだろうか? 頼める相手がまるで見付かりそうになかった訳ではないし、時間や法的な条件に縛られて止む無くそうした訳でもない。私は発見の栄誉を独り占めしたいと云う功名心から、他の人間に付け込まれることの無いよう、自分ですっかり調査し終えるまでは公表すまいと思ってここへ潜りに来た筈だった。だが、本当に功名心だけが動機の根本に有ったのだとしたら、私は別に、公表してから公開調査を行うことにしたとしても、諸般の状況を考えれば別段それ程困らなかったのではないだろうか? 今となってはそれよりも寧ろ、自分が最初からこれが他の人の目に触れることを許したくはなかったのではないか、一生自分だけの秘密としてこっそり胸の内に仕舞い込んで、その美と神秘とを独り占めする積もりだったのではないかと云う推測が、的を得たものの様に思えて来るから不思議だった。私にとってこの地上からの見掛けに比して非常に大きい底知れぬ青黯い深淵は、丁度子供の頃の秘密の場所や、或いは様々の秘密の宝物の様なもので、これを外界に曝さず誰にも知られない儘に、自分ひとりだけが時々こっそりと楽しむ積もりだったのではないか………私の小さな掌に余る程の、艶やかで大きなピンク色をした巻貝(その頃は、生きている状態であれば奇々怪々な中身がその中に詰まっているものだなどとは考えてみもしなかった)………マッチ箱に納めたのを時々こっそりと眺めた、キラキラと光る金粉(後になって黄鉄鉱だと知った)………一見只の石ころの様だが、よく見ると表面に微かにそれらしき縞々模様の付いている、三葉虫の化石(半身だけだったが)………普段袋の中に入れていて、特別に天気の良い日だけ外に出してその幻妖な影に魅入られた、色々な色をした、中に鏡の様なギラリとした模様が埋め込まれた一握りのビー玉(どんな宝石よりも美しかった!)………幼い頃の懐かしい思い出達が、幻燈が映し出す影達の様に素早く閃いては消えて行った。そうこうしている内にも、そう、私は、初めて買って貰った雪の結晶の写真集を、夜中ベッドの上で毛布を被って懐中電灯の光でドキドキし乍ら開いた時の様に、この洞窟を誰にも見せること無く、たった一人の自分だけの秘密にしておいて愉悦に浸る気だったのではないだろうか………そして本当はその秘密の場所に隠れて、その美を地球上で自分だけが知っていると云う悦楽に酔うことを、心の奥底では望んでいたのではないだろうか………と云った妄想が、ゴボゴボと泡の犇めき合う音に紛れて、私の頭を掻き乱して通り過ぎて行くのだった。
落ち着こうとしてからここまでほんの数秒か、或いは数瞬のことだったのではないかと思うのだが、正確にそれを知る術は無い。私は尚も混乱の残る頭を何とか立て直そうと、先ずは冷たくなった蠟の様に固く張り詰めた全身の筋肉をリラックスさせ、深呼吸して心拍数を落とそうと試みた。この時、思わず地上で深呼吸する時の様に鼻から思い切り息を吸い込もうとしていることに気付いて慌てて口呼吸に切り換えたが、その弾みで咽せてしまいそうになった。普段咽せる時に、あ、これは咽せるなと予感がするのは珍しいことではないが、この時はそのタイミングが少し早かった様にも思う。そのお陰で実際に咽せ始める前にグッと堪えることが出来たのだが、若しパニックを脱したばかりのあの状態で咽せ始めてしまっていたらどうなったことか、余り想像したくはない。腹が膨らんで私の胴体の中に空気が送り込まれて、また出て行くのが分かると、自分の体の感覚が戻って来る様に気がしたので、私は更に両手を腹と胸の中間部位の所に当て、ゆっくりと膨らんで萎む潜水服の感触を凝っと味わうことにした。何度か深呼吸を繰り返すと大分緊張も解れ、肩の辺りの固さはまだ抜けずに残ってはいたが、自分の体を自分の意志によってコントロール出来ると云う自信が、いや或いは、コントロールしようとする意志を持てると云う自信が、再び徐々に蘇って来た。胸の下――横隔膜の辺りにまだ強張りが残っているのに気付いた私は、それから更に数度、今度は少し浅く短い呼吸を落ち着いて繰り返し、その固さを沈下させ解放してやった。膨張と収縮を繰り返す、喉から口に掛けての空洞が暫し私の実体の中心であった。
方向感覚を失った以外は、体の各部分が何の支障も無く正常に機能していて、恐らく頭も上の方を向いているであろうことを確認した私は、次に現在の自分が置かれている状況を客体化し、ともすればパニックに滑り込んで行きそうになる心により広い視座を提供し、より冷静で適切な判断をしようと試みたが、それには当然乍ら些かの努力を要した。古くなったエンジンを吹かす時の様に、何度か断片的で不完全な像を閃かせた後に私がイメージしたのは、球形に近い広い石の部屋に潜水具を着けた私が浮かんでいる場面だった。その部屋は最大直径十六、七フィート程の開口部によって隣の部屋、詰まり私がその前に通って来た房と繋がっていて、それはまた別の開口部でその前の部屋と繋がっていた。この洞窟は丁度葡萄の房の柱が互いにくっつき合った様な、疎らな肺胞の様な構造になっていて、それぞれの部屋は最大直径が大体八、九フィート程度から六、七十フィートと、大きさはまちまちで、少し狭くなって他の部屋と繋がっている部分、詰まり開口部の開いている部分の位置も角度もバラバラだったが、次第により深い所へと続いているのは確かな様だった。最初に、暗い水面を湛えた入口となる、天井まで二十フィートは有ろうかと云う、伽藍の様な大きな空洞が有って、その水に沈んだ底の一番深い所に近い所から長さ約八フィートの部屋、と云うよりは通路に繋がっていて、三番目が、全体を見渡すことさえ容易ではない、上の方が狭くなった一番大きな空洞になっていて、四番目が、最大幅が約十六、七フィート、長さが約三十フィート近くの通路、そして今居る場所が五番目の部屋で、これは全体像を掴む前に照明を失ってしまったので詳しいことは判らないのだが、それでも三番目のものに匹敵する、或いはそれ以上の大きさを持っているのであろうと察せられた。私は記憶の中にまだ残っている、自分が辿って来た道順を可能な限り思い出し、それらの位置関係を調整し、成可く正確な距離と方角とを把握し直そうと試みたが、その際やはり気になったのは、その立体図の中に在って自分の影をどう位置付けるか、と云うことだった。何しろ探照灯が壊れたのは周囲をぐるりと見渡している最中で、壊れてしまってからは直ぐに頭の中が真っ白になってしまったので、最後にどの方向を向いていたのか良くは覚えてはいないし、しかもその後恐慌に陥ってから、体を捻るかどうかしたかも知れないのだ。自分が潜り抜けて来た開口部が現在の体の向きに対してどちらの方向に在るのかも判らない。それに、今までは確かに一本道ではあったが、三番目の部屋には、自分が通れそうもない小さな亀裂が入っていて、その先がどうなっているのか判らない所が三つ程有ったのだ。この部屋にもそうした別の開口部が開いていないと云う保証は無いのだから、手探りで開口部の位置を探って行ったとしても、誤って違う穴を探り当ててしまうことだって有り得る。その先が地上へと続いていれば幸運だが、しかし逆に更なる深奥へと続いていたらどうするのだ? 私は紛れも無く人界から隔絶した未知の、人体が活動するには明らかに適さない環境下で、光学情報と云う最大の情報獲得手段である視覚を奪われ、頼りなくユラユラと漂った状態で、暗黒の深淵を覗く縁から身を乗り出しているところかも知れなかったのだ………。
そうした悲観的な可能性が思考に付け入る隙を与えてしまったのがいけなかったのだろう、頭の中で地図を作製する為に必要な様々の映像や数字やシミュレーション・モデルに混じって、幾つもの恐ろしいものどもの空想が、信じられない程の現実感を伴って目の前を過って行った。それらは主に極く原始的な子供っぽいもので、身体の自由の利かない水中、しかも暗闇の中で若し出会ったら恐ろしそうなもの、例えば昔映画で見た巨大な鮫の口とか、水を吸って海藻の様にブヨブヨに膨れ上がった髪の毛をゆらめかせた、半ば腐って崩れ掛けた顔を持つ人間の生首、複数の実在する生物の混成による、水棲の甲殻類だか昆虫だか判らない、奇怪な硬い外骨格を持った怪物等だったが、そうでないものも若干混じっていた。それらのひとつひとつを同定し具体的にどんなものだったかを思い返すのは、今となっては不可能に近いが、切れぎれにだが鮮明に憶えているものがふたつだけ有って、そのひとつは、頭上からではなく深淵の奥から発せられて来る、非地上的な恐怖を湛えた、形も大きさも距離もはっきりしない不可思議な燐光で、そこには、今にもその光の中から何かが飛び出して来そうな、いや寧ろその光そのものがこちらへ触手を伸ばして来そうな、或いは私の方がそちらへ引き摺り込まれて行きそうな、目に見えぬ引力の様な関係性が有った。その光が正確にどの様な色をしていたのかもまた、思い出せない。透明度の高い水の壁を通してはっきりと見えていた筈なのだが、妙に捉え所が無く、印象自体は強烈なのだが、その具体的な源泉が何かとなると、まるで漠然としているのだった。水中から見上げた時の地上の光や、探照灯が照らし出す岩肌の印象が基になっているのかとも思ったが、どうもそう云ったものとは違う感じがした。もうひとつのイメージは何を表しているのかはっきり特定出来るのだが、それは冬の北の星空だった。星座の形までくっきりと鮮やかに浮かび上がっていたので間違いは無い、それはその洞窟の在る南半球のものではなく北半球のものだったが、私がよく見知っているものとは微妙に違っていて、私が余り見たことの無い星座も混じっている様だったが、違和感の原因は恐らく経度ではなく寧ろ緯度の違いではないだろうかと推測された。地球の公転に因るずれも計算に入れたとしても有り得ない程に星空全体が下方へずれ込んでいて、詰まり、私が住み慣れた地域よりも北の方の光景であることを、その事実は示唆していた。これらのイメージがどうして他の、その時点で私が置かれていた状況との結び付きがより密接なイメージ達の中に紛れ込んだのか、その原因は不明である。想像力がランダムに様々なイメージを喚起する時、全く脈絡無くその場に関係の無い像が混入するこは良く有ることで、そのこと自体は別段気にする程のことではないのかも知れないが、この時の場合はその鮮烈さが通常の空想のそれを大きく上回っていた為、どうしても特記せざるを得ないのだ。
実際私は、それらのあらぬ空想の余りの生々しく、手を伸ばせば触れられそうな過剰なまでの現実性、実体感に溢れていることに圧倒され、喉の奥が再びキュッと締め付けられるのを感じて、危うくまたパニックを起こすところだった。暗闇によって単に周囲の様子についての情報を奪われただけではない、自分の身体すら見えない完全な闇に閉じ込められることによって、丁度耳を塞いだ儘声発する時の様に、身体を動かしてみても別の感覚からのフィードバックが与えられない為に、一切の非現実感が強められていたし、手足に纏わり付いて来る重い水の毛布によって思う様に動けないこともまた、悪夢の様な感触を生み出していた。そんなずっしりとした稠密な闇の中、私の頭の中に浮かんで来る映像は目から入って来る現実の外界の情報と区別が出来ず、幼い日の恐怖の体験の様に強烈な実在感を持って迫って来て、私に有無を言わせなくした。数瞬意味の無い動作をして踠いた後、私は神経を張り詰めさせ、自分が最初から盲目で何も見えず、明暗の感覚すら持ち合わせていない、完全な暗闇の住人であったかの様に振る舞えと自分自身を説得し激励し、必死でこの環境に自分を適応させようとした。それからまた、自分は幸運だ、若しこれが宇宙空間でのことであったならば、自分はそれこそ上下左右の別すらも判らず、決して人の手の届くことの無い、気の遠くなる様な虚無の中へと放り出されていたのかも知れないのであって、それと比べて自分はまだ地球の重力圏の直中に居て、命綱こそ無いものの、手で触れられる実体が、それを辿って行けば何処かで必ず地上世界へと続いている筈の洞窟の壁が近くに在るのだから、そう悲観するばかりの状況でもないと云うことを繰り返し自分に言い聞かせ、それでもやはり救助の手から遠く離れて迷ってしまっていることには変わりが無いのだし、宇宙空間だろうと地下の水中世界だろうと、等しく死は訪れるものだと云う声を懸命に封じ込めつつ、何とか自分を落ち着かせ、希望を持たせようとした。
不図気が付くと、視界の端に何か棒の様なものが見えた。一瞬また空想の魔物ではないかと思っていると、急にそれは膨れ上がって楕円形に変わった。それで少しばかりギョッとしていると、直ぐにそれはまた元の棒に戻り、先刻よりも細くなった。私のあらぬ妄想とはどうやら感じが違う様だと数瞬疑念の時間が流れたが、その謎の形が淡い緑色をしていることに気付いてハッとした私は、或ることに思い至って腕を動してみた。すると、それにつれてその形も、太くなって円形になったり、細くなって消えてしまったりした。それは私の腕時計の文字盤の光だったのだ。ボタンの形状から、ひとりでに光が点いたり、ものの弾みで何かにぶつかってボタンが押されたと云うことは考え難いので、恐らく私自身が無意識的にボタンを押してしまったのだろう。光は一定時間だけ灯る仕組みなので直ぐにまた真の闇が戻って来たのだが、私はこれに多少なりとも勇気付けられ、再びボタンを押した。明るさはようやっと文字盤のみを照らす程度で、表面に指を翳せば辛うじてその微かにその一部の凹凸が判る位だったので、探照灯の代用品としては全く当てに出来ず、正直なところ私は予想していた通りになってしまってガッカリしたものの、現在の時刻は知ることが出来た。それに拠ると、私が水の中に潜り始めてから約三十分が経過していた。これを長いと見るか短いと見るかは考えものだった。行きは周囲の様子を確かめ乍らゆっくりと進んで来たので、それ程長い距離を来たとは言えないだろうが、暗闇の中手探りでそこを戻らなければならないとしたら、その何倍もの時間を要するであろうことは容易に想像が付いた。幸い、タンクはたっぷり詰めたばかりのものを持って来ていたので、酸素の残量はそれ程心配する必要は無いだろうが、それも若し迷ってしまったら保証の限りではなかった。それに水温の問題も有った。水に入る前に測った時には水温計は摂氏十四度を指していて、それから後進むにつれて水温が上下したと云う実感は無いので、それと大差無い温度だと仮定して構わないだろうが、凍える様な温度ではないにしても、やはり長時間浸かっていれば着実に体力が奪われることになるであろう温度であった。死の危険は切迫していこそいなかったが、確かに私の進む道の向こうで私のことを待ち構えていて、若し時間切れになるかさもなくば何等かのアクシデントが起ころうものなら、直ぐ様私を獲えようとその細長く力強い腕を伸ばして来るのに違い無かった。
落ち着いて、理性的に、しかも出来るだけ効率的に行動しなければならない時だった。再度頭の中の地図をなぞって可能な限りそのそれぞれの部分の位置をしっかり心の目に焼き付け、一通りの外的要因の現状把握を終えると、私は、動かした自分のものである筈の手足が全く見えないことを成可く気にしないよう努め乍ら、慎重に筋肉を解して行った。微かな痺れの様な緊張が幾度となく全身を這い巡り、自分の躯が電荷を帯びた無数の小さな粒子と成って、皮膚の触れた部分から確かな質量を持った周囲の水の中へと流れ出し、炭酸ガスの様にパチパチと弾けて溶けて行く様な感覚が有った。最前から私の中に居座り続けている恐怖が、意識の注意が別の方へ向いてしまっていた為に、監視の目の届かない暗い隅の領域へと追い遣られ、そこで奇怪な発酵を遂げて受肉し、私の身体へと滲み出してそこを乗っ取ってしまったかの様だった。この様な時に、私は私であって私でないものではないのだと頭の中で幾ら唱えてみたところで大して効果は上がらないことは予想が付いたので、私は只凝っと黙ってその溶解感覚に身を浸し、その悍ましくも心騒がされる時間が私の身体の中を通り過ぎて行くのを、力を抜いて暫く待つことにした。
頃合いを見計らって、私は動き出した。ゆっくりと慎重に、先程私が潜り抜けて来た開口部が存在している筈だと、自信は無い乍らも当たりを付けた方向へ、恐怖と疲労から自分の身体を守るべく深く静かに呼吸を繰り返し乍ら、足を蹴った。重い水の流れが勢いと方向性を持ってぴったりと私の全身を包み込み、後ろに回り込んでこの孤独な宙ぶらりんの閉じられた暗黒の世界に、唯一手応えの有る知覚的実体を作り出した。手や足で水を押し退ける度に、ゴボゴボと云う呼吸音に混ざって、動かした部位から頭全体にまでサアッと駆け上がって来る様な、音とも圧迫感ともつかない奇妙に曖昧だ鮮やかな感触が、闇そのものの発する呼吸音の様に、世界のリズムを脈打たせた。
動き出すのと略時を同じくして、私の頭の中では様々な音楽が流れ始めた。普段から気を鎮める為に音楽をイメージすることはよく有るのだが、この時のそれは半ば無意識的なもので、いちいち意識にまで上らない様々の所作の底流に根付いている謂わば生命のリズムが、日常的に聴き慣れた形を採って現れたとも言えるものだった。バッハ、ポール・モーリア、幾つかの古い童謡やシャンソン、ワグナー、ラヴェル、プーランク……等々の断片が、目紛しく閃いては消え、変容し、残響を残して、慌ただしく私の意識を満たして行った。だがやがてそれも次第に落ち着いて行き、私の手が硬い岩盤に触れた時には、何時の間にかブルックナーの交響曲になっていた。四番だったか七番だったかは何故か思い出せない。但その穏やかな美しさに満ちた調べは非常に安定していて、通常音楽を想起する際のあの伸びたり縮んだり繰り返したり省略したり誇張したりと云った落ち着かない諸々の運動が、驚く程少なかったと云う印象だけははっきりと脳裏に焼き付いている。そしてそれに続く以下の一連の動きの最中でも、この滑らかな音の流れは途切れることが無かった様に思う。
ゴツゴツしてひんやりした洞窟の内壁を成す岩肌を、私は急な動きで何処かをつぶけたり擦ったりしないよう用心し乍ら、じっくりと慎重に、手探りで探って行った。元々凹凸が激しいので全体像を掴むのには骨が折れたが、少しずつ体の位置を変え、識別し易い出っ張りや凹みの場所を確認し、適宜頭の中の立体図に修正を加えつつ、先程潜り抜けて来た筈の開口部を求めて行く作業を、私は自分で覚悟しておいたよりも幾分冷静に進めて行くことが出来た。穴は第四の部屋の底と第五の部屋の上の辺りを繋いでいた筈なので、私は天井部に向けて急勾配になっている所を目安として、上下十フィートの幅を持たせて、探索の手をじりじりと左側へ、左側へと伸ばして行った。ゆっくりとではあるが、浮いたり沈んだりを繰り返している内に、時折、他の所よりも深い凹みにふっと手や膝を吸い込まれてしまうこともあって、そんな時、胸の中が巨大な気泡にでもなったかの様な、身の毛もよだつ浮遊感がフッと浮かび上がって来ることが有ったが、音楽のお陰で、然程気にせずに作業を続けて行くことが出来た。その絶望的なまでに何も見えない綾目分かたぬ漆黒の暗闇の中でも、私のよく知っている時間が流れてくれたのは、正に音楽のお陰に他ならなかった。音楽は時間の芸術だと言うが、想像することすら不可能な果てしも無い無限へと野方図に溢れ出して行く世界を堰止め、辛うじて人間に理解可能な秩序の内に留めていたのは、私の頭の中で泰然と流れていた音楽であって、形どころか方向すら存在しないこの無の広がりの中に在って、その恐怖に対抗し得る力を作り上げていたのが、和声と云う重層構造を伴って流れ去って行く旋律とリズムの緩やかなうねりだった。手足をいっぱいに使って目の前の岩の感触を確かめている間中、私はうっかりドライスーツや足ヒレを傷付けてしまったりしないよう、絶えず神経を酷使していた筈なのだが、その辺りの印象は何故か奇妙にも曖昧で、ぼんやりしている。まるで見たと云うことだけは覚えてはいるが、その内容についてはまるで思い出せない夢の中の出来事の様に、そのもどかしい探索行の時間は幻めいて過ぎて行った。
第二楽章が終わりに差し掛かる頃、先刻にも確認した様な凹凸に手が触った様な気がした。私は幾つかの符牒を手掛かりに残しておいた記憶を総動員して、その周囲が記憶の中の地図と合っているかどうか照合作業を始めたが、結果はやはり嫌な予想通り、自分がこの部屋を一周して元の場所に戻って来てしまったと云うものだった。この部屋の形状は、岩の凹凸が激しくて確とは判り難ねたが、特に目立って急角度になっていたり平らになっていたりした所は無かったので、少なくとも横の形は、恐らくは大雑把に言って円か台形に近いもので、最大直径が二十五から三十フィート程度ではないかと私は推測した。戻って来た時には、出発点よりも五フィート程下方にずれていたので、私は自分の水平感覚が当てにならないのではないかと云う危惧を抱き掛けたが、直ぐに、こうした不規則な地形では多少の見込み外れが出て来ることは仕方が無いのだと自分に言い聞かせた。この己の判断力以外に頼れるものが無い状況下でその判断力自体に疑義を差し挟むことは、その判断力を批判することによって適切な修正を加えることが出来るかも知れないと云う事実に比べた場合、危険であると考えた為だ。実際のところ、パニックの波は一旦は退潮してはいたものの、完全に消滅してくれた訳ではなく、今は穏やかな相貌を見せてはいるが、何時機会を捕えてまた表層にまで浮上して来るか分かったものではないのだ、と云う警告の声が、意識の片隅にこびり付いて離れてくれはしなかったのだ。それは杞憂かも知れなかったが、不安はその火種が実体の無いものであっても勝手に発火して自己増殖を始めたがるものだと云うことを思い返してみれば、そのことを今の時点でどうこう言うことは得策ではない様に思えたのも、また無理の無いことであった。
私は暫く凝っと動かずにいて静かに呼吸だけを繰り返し気持ちを落ち着けると、焦るな、焦る必要は無いのだと自分に言い聞かせて、二周目を始めることにした。周囲よりも五フィートばかり下がった所に目安を付けて、私は再び、探り探り動き始めた。この部屋が全体的に下へ向かって広がっている筈なので、二周目は一周目よりも少しだけ長くなるだろうと思われたが、その分或る程度要領を得て作業の効率が上がっているだろうから、それ程考慮すべき手間にはならないだろうと予想した。事実二周目は、二度程尖った大きな岩に行き当たってペースが落ちたものの、一周目よりもずっと順調に進んで行くことが出来た。だが結果は同じで、結局出口を見付けることは出来なかった。
三周目は二周目とは逆に、一周目よりも上の部分を探索することにした。これはひとつには、通路の入口がそれ程下方に開いているとは考えられなかったと云う立派に合理的な理由が有るのだが、実のところ私がそうしたのは、二周目を終えた時に、何か巨大な闇が私の下にぱっくりと口を開けて私を呑み込もうとしているかの様な、まるで絞首台で首に縄を掛けられた人間の足元の板が外された時の様な、吸い込まれる感覚とも墜落する感覚とも付かない、腹の底がぽっかりと空いた空洞にでもなった様な奇妙な空虚感が私を襲って来たからに他ならない。未知の深淵へ向かおうとしているのが潜水服に包まれたこの私の身体なのか、それともこの闇に閉ざされ、闇に満たされた周囲の空間そのものなのか、数瞬、私には判断が付かなかった。そのことを自覚した時、私はゾクリと激しい寒気を覚えて気が遠くなりかけた。私の境界が、闇に浸蝕されようとしている! 恐慌と云うよりは氷の様な戦慄に全身を――或いは全世界を貫かれて、私は忽ち竦み上がった。全てのものが秩序付けられ、あらゆるものが明確な輪郭を有している昼の世界では他愛の無い錯覚として片付けられる様なことが、ここでは深刻な脅威として私の全存在を崖ッ縁にまで追い詰めたのだ。半ば無意識の内に、軽い痙攣でも起こした様に、私の手足が暫く無意味な動作をした。それは体を動かしてみることによって、私の体が然るべき在り方をしていて、そして私に帰属していると云うことを確認する為の、反射的と言っても良い行動だったのだろうが、神経の再調整はそれだけでは不充分だった様で、皮膚の表面から、或いはそれよりももっと内側の方から、私の躯が電流や細い水の流れと成って、体表を覆っている潜水服を浸透して来て、周囲の闇の中へと流れ出し、溶け込んで行く感覚を押し止めることは出来なかった。無数の小さな虫に集られた時の様な悍ましさが、私を震撼させた。
千々に乱れて散らばろうとする意識を必死で掻き集め、絞り上げて締め上げて三周目を始めようとした時、私は、頭の中で鳴り響いている曲が何時の間にかブルックナーの交響曲からシャブリエの狂詩曲に交替していることに気が付いた。恐らくは二周目を終えた時、第二楽章か第三楽章の途中で入れ替わってしまったのではないかと思われたが、早くこの絶望的な牢獄から脱しなければと焦った心が、斯くも賑々しい派手やかな曲に縋り付くとは、考えてみれば可笑しな話だった。華麗なオーケストレーションで紡がれるその曲が元々陽気で明朗活発な曲であったことは言うまでもないが、その時響いていたその曲は余りにも明る過ぎた。その底流に流れているものが、人生の黄金時代を謳歌しようなどと云う喜びに満ちた心ではなく、寧ろ最悪のベルリオーズ的な狂躁であることを見逃さない程度には、私はまだ分析能力を失ってはいなかった。
この儘では鎮静効果を期待出来るどころか逆効果であることは分かり切っていたので、私は、手や足でそれまでにも増して大胆に前方の闇を探り乍ら、何とかこの馬鹿馬鹿しいまでに脳天気な曲を頭から振り払おうと試みた。最初の内はこれはどうにも厄介で、他の曲に切り替わったと思うと途端に蠅取り紙の様にまたペタペタと引っ付いて来て、鬱陶しいことこの上無かったが、それでも何度か繰り返している内に、どうやら交替には成功した様だった。ところがその次の曲と云うのが、賑やかさ加減では負けず劣らずの『トゥーランガリラ交響曲』だった為、私は思わず憮然としてしまった。何度か逡巡した後、幾度かエンジンを掛けてみようとして失敗し、結局私は面倒になって、前のよりは増しだと云う理屈を付けて、その儘にしておくことにした。余裕が無くなって来ていたのだ。
『トゥーランガリラ交響曲』は、忌々しい位滑らかに、戦き震える私の時間の上を流れて行った。さして記憶力が優れている訳でもないこの私があの複雑で長大な曲の全てを正確に憶えていたとは思えないのだが、頭の中で淀み無く流れて行くその曲の演奏は、余りにも完璧だった。それは何処かで聴いたことの有る様な演奏であり乍ら、それでいて何処でも聴いたことの無い、その時その場だけの、私だけが耳にすることの出来る演奏の様でもあった。その音楽と一体化した様な私が居て、その不釣り合いを訝しがる私が居て、それは私の意識下に録音されていた、以前に聴いたことの有る演奏の模像が流れているのだと分析する私が居て、いやそれは恐らくその曲に私なりの改変が加えられていて、欠落部分は任意に補完されているのだろうと異を唱える私が居た。そこで唐突に、ずっと前に新聞だか音楽雑誌だかで読んだ、或る古楽演奏家の、大体次の様な内容のインタビュー記事が、ざわめく記憶の波間からぼうっと浮かび上がって来た。「近代ヨーロッパで生まれた楽譜至上主義は、普遍性を獲得すると云うその一点に於ては、少なくとも社会力学上自らの欲望を満足させることに成功しましたが、その一方でそれは、人類が何千年も掛けて育み続けて来た音楽の内的な生命の炎を損なってしまう危険性を孕んでいます。音楽と云うものは、プラトンのイデアの様に先ず唯一絶対の在るべき姿と言うべき完全な理想形が在って、そこからのお零れで個々の具体的な演奏が存在する、と云うものではありません。寧ろ個々の演奏と云う体験が先ず在るのであって、理想形とは、その無数の具体的な体験の中から、その都度その彼方に垣間見られるものに他なりません。少なくとも民族音楽の領域に於ては、曲そのものが楽譜と云う外在化され固定された対象として、個々の演奏を縛り続けると云う事態は異常なことです。実は現在の演奏家達も、実際の演奏に於ては多かれ少なかれ例外無く、そうしたいことを暗に理解してはいるのですが、それを認めたがらない人も多いと云うことではないかと思います。トスカニーニだって、完全に『楽譜通りに』振っていた訳ではないではありませんか。当たり前のことですが、楽譜はそれだけでは『音楽』と呼ぶに値しません。演奏者がそこから読み取ったことの中に自らを投げ入れ、それを一度自分のものとして音と云う形で新たに表現し直す―――謂わば人の心を通してやることによって、音符は初めて音楽たり得るのです。音楽を演奏したり聴いたりすると云うことは、単に何処そこの筋肉を動かしたり、知覚としての聴覚を働かせたりすることに留まるものではありません。音楽とは時間的な芸術です。それは詰まり、先取された未来と、振り返られた過去との間で、ひとつの時間、ひとつのリズムに全存在を以て参入することを意味します。それは生きられる時間なのですから、と云うよりも、生きることが即ち時間と云うカテゴリーを生み出す訳なのですから、当然それは伸びたり縮んだり、省略されたり誇張されたり、引っ繰り返ったり行ったり来たり脱線したり、或いは書き換えられたりと、様々な仕方で改変されます。音楽とは、その時々の人々の生そのものなのです。ですから、演奏する主体――これは必ずしも『個人』と云う単位であるとは限りませんが――が異なる毎に、演奏もまた異なります。民族音楽の場合は、そうして何度も何度も違う人々によって繰り返し演奏されたものが、次第に淘汰されて、どんどん変容して行くと云う過程を取ります。一種の進化ですね。模伝子の進化と言っても良いでしょう。楽譜とは先人の遺した指標、ひとつの道標の様なものです。それを残した人は天才だったかも知れませんが、しかし無から何かを創造した訳ではありません。彼もまた脈々と連なる生の営みの連鎖の、そのひとつの鎖に過ぎないのです。行く道があまりにも複雑だったり遠かったりする場合、初心者にとって道標は必須かも知れませんが、旅慣れた者にとっては、自分で自分に合った新たな道を開拓してやっても何等差し支えありません。最初に全ての道が在るのではありません。何度も何度も人が通って踏み固められた所が次第に道と成って、そこを大勢の人が歩く様になって行くのです。道の歩き方もまた予めこれこれと決まっている訳ではありません。先人の知恵が教えてくれる楽な歩き方や無理の無い歩き方、見映えのする歩き方と云うものは有るかも知れませんが、ひとつとして全く同じ歩き方と云うものは存在しないのです。音楽とは――音楽の演奏とは、楽譜の『具現』に収束するものではありません。それは長い長い意識的乃至無意識的な過程の、ひとつの証明であり、鎖を次に繋げて行く実践的行為なのです」
三周目のコースでは上の方の内側へ向かう勾配が若干急になっていたので、天井部分が近いのだろうと推測された。距離はその分短くなっている筈だが、己が肉体が溶解しようとしていると云う悍ましい感覚に捕われ掛けていた私にとっては、寧ろ長く感じられた。抑えようとしても湧き上がって来る性急さが探り方を雑にし、慎重さが次第に欠けて来ていることを自覚して来てはいたのだが、一秒でも早くこの盲人行を終わらせたいと云う焦りが賢しらな分別を上回り、私はすっかり気も漫ろになって先を急いだ。
不図、抵抗が消えた。岩の壁の感触が全く無くなったのだ。また凹みかと思って腕を伸ばしてみると、肩から先をすっかり入れてしまってもまだ凹みの底には届かなかった。試みに探ってみると、右や下の方には確かに岩の感触が有るのだが、左や上の方では何にも行き当たらなかった。私は撥ね上がる心臓を鎮める為に、無理にでも呼吸を落ち着かせようと努めたが、どうも上手くは行かなかった。逸る気持ちの儘、そこから思い切って身を乗り出してみたが、やはり壁は無く、それと同時に、私の吐く空気がゴボゴボと浮上して行く音が変化したのが、何処か遠くのことの様に感ぜられた。その音の変化が具体的にどう云った条件の変化に因るものか、その時点では断言出来よう筈は無かったのだが、私の脳裏には、約三十度の傾斜で上へ向かう通路の天井を、沢山の泡がぶつかり合い乍ら転げ上がって行く光景が浮かび上がって来て、私はその空想が事実と合致しているものだと考える誘惑に抗うことが出来なかった。
私はそれが他の部屋へと繋がっている通路の開口部であると、とにかく後先考えずに仮定することにして、周辺の様子を探ってみることにした。開口部の縁に当たる部分に両手を掛け、そろそろと――少なくとも、自分では最大限その積もりで――上へ、反時計回りで移動してみた。ところが一フィート半も浮かばない内に突然、頭が岩にぶつかってしまった。一瞬で全身の血の気が退いた。明らかに用心が足りなかったのだ。きちんと手で進行方向を確認していたらこんなことは起こらなかった筈なのだ。急いで全身の様子をチェックすると、幸いなことに特に異状は無いことが判った。今回は少し痛い思いをするだけで済んだが、若しこんな暗闇の中で運悪くゴーグルか何かにぶつけて壊しでもしてしまったらと考えると、生きた心地がしなかった。
そんな調子だったので、穴の外縁部を一周りし終えた頃には、私の判断力の沈着さは著しく損なわれていた。それでも何とかバラバラになろうとする思考を束ね上げてみたところに拠ると、穴の直径は最大の所で約七フィート、凹凸もそれ程激しくはなく、人一人なら楽に潜れる大きさで、上半分は勾配が急になっていて、先刻頭をぶつけたのもその所為だった。
さて取り敢えずそこまで整理が付いて、次は実際にこの「穴」を潜るかどうかが問題となる段だったが、ことここに至って、最前から何度か頭の中に閃いては、その度に意識の底に押し込めてしまっていた重大な疑問が、発言権を求めて再び姿を現して来た。曰く、この「穴」は果たして私がこの部屋に来る時に通った穴と同じものなのであろうか?………この疑問は実に然るべきものだった。ずっと頭の中の立体地図に盛んに問い合わせてみてはいるのだが、少なくとも三周目に関しては、距離感覚と方向感覚が大分信頼出来ないものになって来ていたことを無視する訳には行かなかったし、またそもそも探索を開始した時点に於て想定されていた自分の位置と方角とが正しいという保証も無いのだった。今や上下感覚についてさえ怪しんでみなければならないと云うのに、最初にパニックを起こした時に無駄に体の位置を変えてしまったかも知れないのだし、ほんの少しの向きの違いが、とんでもない勘違いへと続いていると云うことも、十分有り得ることなのだった。この部屋に入る時に目に焼き付けておいた開口部の様子の像は今でもそれ程ブレてはおらず、たった今探ってみた周囲の様子と比べてみると、確かに同じ場所の様な気がしないでもないが、確信が持てる程ではないし、第一目で見た感じと手で触ってみた感じとが食い違いうなぞ、良く有ることではないだろうか? 慎重を期すならば、ここは一旦この場所の位置と配置とを憶えておいて、他にも似た様な穴が有りはしないかどうか、確かめに行ってみるべきだったのだろう。だが暫しの逡巡の後、結局私はそうしなかった。その時の私に合理的な忠告を自分自身に言い聞かせるだけの余裕が全く無かった訳ではない。その忠告を受け入れ、それに従って行動するだけの余裕が最早失われていたのだ。再び腕時計のライトを点け、思ったよりも今までの作業に時間を食われてしまっていたことが判明したのもまた後押しとなった。最初にこの部屋に入って周囲に電灯の光を巡らせた時、自分が通って来たもの以外の穴は|見なかった様な気がした《、、、、、、、、、、、》し、手で触った感触は、私の記憶の中の入口の様子と|良く似ている様な気もして《、、、、、、、、、、、、》、仮令他に穴が有ったとしても同じ様な穴と云うのはそうそう有るものではないのではないかとの推測も浮かんだ。ここで慎重になり過ぎて結局余計な時間を取られるのは愚かしいことの様にも思えたし、余り長く掛かり過ぎると水温や疲労から体力が低下したり、それに空気も減って来たりもするのだから、省ける所は省いてしまっても良いのではないかとの思いが、私を急き立てた。その時の私は、違っていたら違っていたで構わないではないか、その穴が別の出口に繋がっていて、そちらから地上に出られないこともないのではないかと云う馬鹿気た妄想さえ、現実的な可能性のひとつであろうと思い込もうとしていたのだ! この時の私の愚かしさ加減を思い出すと身も世も無く何処かへ消えてしまいたくなる。日中の地上世界に於ても馬鹿気たことをやらかしてしまうことは屢々有るが、この時の私は、この閉鎖的な絶対の闇がどれだけ自分の精神を浸蝕してしまっているのか、これっぽっちも自覚出来ずにいたのではないかと思う。改めて緩やかな深呼吸もしてみたし、音楽も相変わらず、私の迷いなど何処吹く風と云った超然とした感じで鳴り響いてはいた。が、それらも遂には私の性急な愚かしさを止める防波堤とはなり得なかったのだ。いや、或いはそこに、その更なる闇の中へ飽く迄前進して行こうとする私の抑え難い衝動の奥底に、脱出とは真逆のことを望む心が秘かに潜んでいなかったとは、どうして断言出来よう。私はひょっとしたら、私を長時間に亘って閉じ込める無重力状態の様な極めて頼り無い状況と組み合わさった、或いは生涯で最初のことかも知れない、完全な闇の、あらゆるものを貫き通し浸透して来るかの様な不気味な存在感に魅せられていたのかも知れない………。
私はその穴の縁の左手を突き、右手を前に突き出しつつグッと身を乗り出して、少しばかり勢いを付けてその闇の奥へと呑み込まれて行った。私の予想通り……いや、或いは願望通りに、前方を遮るものは何も無く、穴は更に細長い通路と成って何処か別の空間へと通じている様に思われた。自分が進み続けられることに興奮して、これは若しかしたら本当に正しい帰り道を引き当てたのではないかと云う期待さえウキウキと湧き上がって来た。頭の中で陶然と喜びの歌が奏でられていることを、実に似つかわしいことではないかと思ったりもした。途中で気が急いて距離や角度を確認しておくのを忘れていたことに気が付いたが、私はそれまで進んだのが十から十五フィート、前方は僅かに上を向いて、少なくとも下に向かってではなく伸びていると凡その見当を付けた。それは実に脳天気なまでに楽天的な観測だったが、そことを頭の片隅で理解してはい乍らも、私はわざと気にしないようにして先へ先へと進んで行った。それについての自覚が有っただけ私はまだ正気で、分別が残ってはいたと言えるだろうが、只それだけの話で、それが限界でもあった。寧ろあの時完全に狂乱状態に落ち込んでいなかっただけ、まだしも僥倖と言うべきなのかも知れないが。
音から何かの情報を得られないものかと耳を澄ましてもみたが、谺が入り乱れているのか、混濁した水音がガポガポと空間内をのたうつばかりで、何等有意味な指示を与えてくれるものではなかった。前方の岩壁に伸ばした手がぶつかった時や、それでなくともこちらから時々周囲に手や足を伸ばして、通路の大きさや進行方向を確認してみた時などは、私がこの状況下で唯一確かに感知出来る外界の実在性が私を励ましてくれもしたのだが、それは只そこに在ると云うばかりで、私の行動の意図と目的からすれば、こちらから働き掛けて推測を逞しくしてやらねばならぬのが何とも苛立たしかった。世界は文字通り、不可視の、未知の領域で、方向性も前後性も系列性も持たず、輪郭も境界も無い、色彩を欠いた厖漠とした広がりで、私が自らの身体を使ってひとつひとつ開拓して行くことによって初めて、その荒々しくも残酷な表現を私の認識に届けに来るのだった。目はもうすっかり闇に馴染んではいたが、だからと云って何かが判別出来る様になった訳ではなく、私の頭の片隅では、自分が盲いているのかそれとも闇を知覚しているのかも判断が出来ないことから来る忌々しい混乱が、耳許で囁く様に響いて来る水泡の動く音とごっちゃになって、怯えた様に縮こまっていた。鬱蒼とした闇のカーテンを掻き分けても掻き分けても、その先はまた闇、時折手に感じられる堅固な岩の感触とて、実は闇そのものが実体化して造り上げた巨大な幻影なのかも知れず、私が今ここでこうして存在していてその閉ざされた無明の時空間の中を出口へ向かってたった一人で泳いでいると云う事実さえ、夢に夢見られた明け方の一瞬に訪れる、やがて直ぐに忘却されてその存在自体が無かったことにされてしまう、あやふやで危うい微睡みの幻想の様なものなのかも知れなかった。水圧で鼓膜が破れてしまっって三半規管が狂い、上へ上へと浮上している積もりが実は下へ下へと潜っていたダイバー達の話が、ちらりと鉋の切り屑の様なくるりと巻き上がった恐怖の切片を翻らせて脳裏を過って行くことも有ったが、そうした具体的な危険の可能性などは、あらゆるものが混沌の坩堝へと落ち込んで二度と這い上がっては来られないのではないかと思わせるこの筆舌に尽くし難い状況を前にしては、全く気に留める価値の無い、迷夢の残滓に等しかった。包括的な恐怖が私を浸蝕し、そして完全なる闇が恐怖そのものを浸蝕して行った。この頼り無い冥界巡りの途上で、「世界」と呼ぶに値するもの全てが背景に後退して霞んで行き、代わりに今まで想像すら出来なかった原初にして最後の秘密が、私と一体化しようと待ち受けている様に思えた。
幸いにも通路は大きく歪んだり曲がったりすることも無く、比較的真っ直ぐに前方へ伸びていたので、突然角になっている突起に頭をぶつけたりすることは無かったのだが、先へ進むにつれて次第に幅が広がり、やがて手を伸ばした位では確認出来ない程の大きさにまで拡大して行ってしまった為、私は、またしても心細さが調子付いて行くのを引き留めておくのに多大な注意を払わねばならなくなって行った。私は通路の全体を確認し乍ら進むことは諦め、取り敢えず何処かひとつのルートに絞って岩壁を伝って行くことにした。私は飽く迄水の上に出たかったので、非常にやり難かったにも関わらず、下の方ではなく、天井に手を触れ乍ら進むことにした。………尤も、その時の自分の上下感覚が正常なものだったかについては自信が無く、疾うの昔に闇の中で重力の恩寵を見失ってしまっていたのかも知れないのだが、天井には私の背丈よりもずっと大きな岩の塊が突き出していたりして、真っ直ぐ進むと云う訳にも行かず、自分が確かに前へ向かって進んでいるのだと云う確信すら、次第にぐらつき始め、二、三度止まって神経を集中し、何とか水流か反響から全体の構造が把握出来ないものかと努力もしてみたのだが、全くの徒労に終わった。この頃には私の中には既に、自分が今現在通っている道は、私が最初に来た道とは違っているのではないかと云う疑念が現実的なものとして芽生えて来ていた。いや、単に芽生えていただけではなく、それは何千もの警告の声と成って、その仮定から導き出される、考えるだに恐ろしい結論の可能性について示唆を与えようとしていたのだが、それを私は、まるでテレビの画面の向こう側で起きているドラマか何かでもあるかの様に、生々しい実感を全く欠落させた儘で聞いていた。いや、ひょっとしたら或いは遂に、私が真闇の水中洞窟の中、たった独りで明かりも無く地図も持たない儘に無謀極まり無いことに出口を求めて泳ぎ進んでいると云う事実の方が、非現実のドラマだったのかも知れない。私の意識の辺縁で空しく声を張り上げていた理性の声は、私の肉体には遂には届かず、結局のところ、考えることと行動することを一続きに連結させることが出来ない儘、私は、取り憑かれてしまった様に更なる闇の深部へ向けて突き進んで行った。そこに若干の自滅願望が無かったと言えば嘘に成るし、その期に及んでも尚、私は事態を甘く見て、その深刻さを理解してはいなかったと云う指摘もまた完全に的を外している訳ではない。が、それらの愚かしい複合体としての私と云う行為者を考えてみたとしても、そこには何か未だ語られざる未知の要素が、天地を欠いた光も形も無い時空間の想像も付かない様な彼方の深淵からひたひたと押し寄せて来て私を差し招く不可解な要因が、私の自覚をするりと擦り抜けて作用していなかったと断言することは出来ない。その時私の恐怖感が本来在るべき姿を見失って強力な無言の推進力と化し、果てしの無い宇宙の最深部への旅に私を引き摺り込もうとしていたのではないと、どうして知ることが出来るだろうか。
通路は更に広く大きくなって行く様だった。……と云っても、次第に拡散して行く聞き取り辛い反響音や、腹の辺りからグッと圧されて来る様な水圧の微妙な感触から、朧気にそうではないかと推測しただけのことではあるが。自分が真直ぐ進んでいるのかどうかと云うことはもうすっかり判らず、頭の中であれだけ入念に組み立てておいた立体地図についても、私はどの方向にどれだけこの通路を書き加えれば良いのか全く混乱してしまって、まともに更新することなど出来る状態ではなかったのだが、勾配は先刻よりも緩やかになったものの、どうやら依然として上へ上へと続いているらしいと云う感触が、それらについての懸念を軽視させ、秘かな狂喜で以て私を前方へと駆り立てて行った。事実心無しか、水圧は徐々に軽くなり、未だ見ぬ水面へと私を誘っている様な気さえしたのだ。私は尚も頭の中で響く壮大な愛の歌を聞き乍ら、夢中になって水を蹴り、天井の太古の岩々に手を掛けて行った。
深い青緑色に染まる地平線が何時の間にか浄化された亡霊の顔の様な夜明け前の顔を見せ始める時の様に、余りに微かで弱々しい為にともすると見逃してしまいそうになるのだが、その実何よりも力強い意味を孕んでいる蜃気楼めいた変化に私が気付いたのは、もう第六楽章も終わりに差し掛かり、来るべき跳躍に備えて長く細い溜息を吐き終わろうとする頃だった。それまで強靭な夢幻の広がりは余りにも固く私の周りを押し固めていたので、恰も若くて性急な漁師が急ぐ余りに破れてしまうのもお構い無しに地引き網を手繰り寄せる様に、時々意識がフッと浮上する瞬間を焦点として、私の時間は、酷く不規則で無秩序な足跡の残し方をして来ていて、唯一音楽だけが辛うじて、自分がまだ前から後ろへと過ぎ去って行く時間の中を泳いでいるのだと云うことを教えてくれていたのだったが、その時を境に、世界は再び生者の目と耳を取り戻し始めた。
そして変化を告げ知らせる彼方よりのファンファーレは、音と云う形を取って私の前に姿を現した。いや、音と云う表現は正確ではないかも知れない、私は鼓膜ではなく全身でその音の揺れを感じ取ったのだから。何十トンもの水に全身を包み込まれていてそんな馬鹿なことがと思えるかもしれないし、全身で感じたと云うのも、耳から入った情報に全身が反応して総毛立ったのを、全身で知覚したのだと錯覚しただけなのかも知れないが、少なくともその時の私には、その音が原因で発生した動きが、或いはその音の原因となった動きが、白昼の日輪花の様に明瞭に感知せられた様に感ぜられたのだ。或いは私の感覚は既に、五感へと分化する以前の状態へと還元し、原初的な在り方で世界の声に対して開かれていたのかも知れない………。
それはさざ波の音だった。水面上で、揺れ動く無数の小さな水の壁達が、捩れて殺到してぶつかり合う、地上世界では耳慣れた、極く有り触れた水の形から起こる音だった。それは詰まり水面が、即ち、環境が人間に対して今程敵対的ではない、人類が何百万年も掛けて適応して来た世界への出口が、何処か近くに、私の手の届く所に在るのだと云うことを意味していた。その時私の中で沸騰した様々の想念を書き記すことは、私の頬を撫でて私の知らない天上世界へと浮かび上がって行く泡をひとつひとつ数え上げて行くのと同様に不可能だ。境界の存在の暗示は私を動揺させ、狂喜させ、焦燥させ、賦活した。空間は再び上下と云う区別が意味の有るものなのだと大声で主張し始め、頭の中で急膨張した水が無くて空気の有る空間は、もうボロボロになっていた立体地図の全面的な書き換えを要求し出した。それまで忘れ去られたと思われていた寒さや重さ、疲労や窮屈さと云った様々の感覚が盛大に芽吹きの春を迎え、その急激な生長振りに、それまで完全に自動的な脚力を誇っていた交響曲すらもが喉を詰まらせてよろめき、遂には停止した。今や私の行為も、地位も、この圧倒的な黯黒の威力も、何もかも全てが、意味を変え形を変え大きさを変え、新世界の出現を触れて回った。
はっきりとその存在に気付いた時点で私は、周囲の騒々しい沈黙に猛烈な腹立たしさを覚え、全身の動きを止めた。それこそ呼吸や瞬きすら。だが暫くその儘で待ち構えてみたものの、一向に何の気配もしないので、私は向きになって逆に猛然とじたばたと手足を動かし、それからまた止めた。泡が鎮まって行く音に続いて、微かにではあるが、今度ははっきりと、波の音が前方から聞こえて来た。明暗の程度すら嗅ぎ取ることの出来ない、完全な盲人のそれの様に役に経たない為にその存在すら閑却されてしまっていた私の両目が大きく見開かれ、その闇の分厚い緞帳越しに曙光の恩寵を感じ取ろうとでも言わんばかりに、必死になって猛然と稼働し始めた。
息を整えることも前方や上方を手で確認する時の慎重さも忘れ、分別などかなぐり捨てて遮二無二私は闇の中へ突っ込んで行った。すっかりふやけて麻痺し始めていた手の平で、私は地上世界への切符を掴み取ろうと焦り、踠いた。硬い岩盤に叩き付ける様にして洞窟の天井に触れる私の手は興奮の裡に次第に熱を帯び、丁度高熱で魘されている時の様に、びっくりする位大きく肥大化して膨れ上がり、この地獄行きの悪夢めいた彩りを、一層際立たせた。火照った肌を一瞬だけ掴まえた後、後方の顧みられない虚空へと吸い込まれて行く水の流れは、その儘前方で私を待ち受けている筈の光明の増大を意味しているかの様に感じられもしたが、にも関わらず、次々と開かれて行く闇の腸の中に未だ一片の希望さえ見えて来ぬと云う厳然たる事実が、この夢中遊行を、滑稽且つグロテスクなものに仕立て上げていた。私の願望は一時の空しい幻を見せてはくれなかったのだ。
無限とも思えた時間は、指先がこれまでとは違う感触に戦慄いた瞬間、刹那へと収縮した。水中に浸かっている時とは明らかに異なる、濡れた岩肌の感触が有った。それは進むにつれて「湿った」と云う程度にまで乾いて行き、同時に大きくなって行く空っぽの空間が、半ばかじかんだ手に、そこに空気が存在していることを伝えて来た。だが、それが精々腕一本伸ばせる程の幅しか無く、それ以降はさして広くなることが無いことが判ると、最初の興奮は急速に冷めて行った。その辺りの天井はもう大分凹凸が少なくなって来ていて、最も凹んだ部分を探してみても、私が身体を入れられそうな大きさのものは少なかった。
だが紛れも無くそれは或る意味で曙光だった。それは深海に眠り続ける巨大な混沌が一時ぼんやりと夢見、そしてまた続けられる永い眠りの中で、名も無き人々の生が歴史にその顔を刻むことが無い様に、声を持たぬ儘に遠い忘却の渦の底に沈んで行ってしまう様な、偽りの星明かりなどではなく、永く暗い夜がやがては終わりを告げ、新しく区切られ、生まれ変わった一日の誕生を招来する筈の豁然たる兆しだった。私は茫漠とした不定形の闇の中から一筋の希望を手繰り出し、何れ来るべき、完全に未知の壮麗な新世界を己が目と耳で紡ぎ上げるべく、行動することを躊躇おうとはしなかった。
私の手は水の無い空間を捉えていた。ならば、今度はそれを決して手放したりはすまいと、私の手はより大きな空間を求めて忙しなく動いた。チャプチャプと水の跳ねる音が、今度は間違い様も無く、私の耳にしっかりと届いた。そこのこの上も無く妙なる調べは、私に、輝かしいい天の国への扉が今正に開かれようとしているのだと云う驚異と戦慄に満ちた法悦を告げ知らせているかの様だった。方角などは既に有って無いも同然の無意味な概念ではあったが、私は更に前へ前へと、私が、約束の宇宙が待っていると感じられる方向へと、無我夢中で天井を辿って行き、途中何度か空気の乾いた感触が途切れてしまった時には深甚なる失墜感を味わいもしたものの、直ぐにまた目当ての感触を探し当てると、そんな中断は最早何の脅威にもならず、曾て真性の脅威であったことさえも無いことにされて行ってしまった。私は然乍ら断崖を転げ落ちる岩だった。どんな障害に見舞われようと、偶然の出会いが如何なる影を落とそうと、結局は必然に導かれる儘に、遮二無二目指すべき所へと向かって行くのだ。手に怪我をしたり、器具が破損してしまったりと云う心配はすっかり何処かへ姿を隠し、その儘出て来ることは無かった。そんなことは今や岩の表面に傷が付いたりひびが入って割れたりするのではないかと云う心配と同じことで、事象の表層に付着する、些細な差異に過ぎなかったのだ。事実、私のこの粗悪な探査は、その性急な無計画性にも関わらず、間も無く成果を挙げることになった。大きな出っ張りに暫く進路を塞がれた後、私は、到頭前方へ大きく上昇して行く空気の充満した空間へと頭を出したのだ。期待が報われるという希望が具体的な実体性を帯びた確かな手応えの有る可能性として私の前に姿を現した。思い切って両手をうんと伸ばしてみると、高くなって行く天井はまだ先へ続いているらしく、先へ進むにつれて全く触ることさえ出来なくなって行った。すると、両腕からポタポタと滴り落ち、水面で跳ねる水の雫が、柔らかな鐘の音の様な響きを辺りに充満させた。後頭部にゾワッと震え立つ様な感じを覚えた私は、その儘パシャパシャと水面を叩き、全身全霊を傾けて耳を澄ませた。永劫を閲してその瞬間を待ち焦がれていたかの様な億の鐘の音が、ここぞとばかりに短い残響を伴った谺と化して、奈落の異界へと私を誘い込もうとしている様な、目眩めく角度と奥行きとを暗示した。だからこそ、汗をかき長時間水の中に浸かっていた全身が今や凍え掛けており、底知れぬ静寂を底に秘めてざわめく水面のさざ波も、ゴーグルを叩く水飛沫も、依然として闇の中に閉じ込められ、唯音と感触のみによってその動きを察知出来るだけだったにも関わらず、私は絶望はしなかった。私は大胆にも水面から頭を出し、水を優しく手で撫でてみる様にゆっくりと大きな動きで悠然と泳ぎを再開し、船乗りが大海の果てで海水が全て流れ落ちる滝のカーテンに遭遇し、天を馳せる者がその等級に応じて世界を覆い包み込む天蓋の何れかに行く手を阻まれる様に、この先何等かの新たなる境界に行き当たるまで、この魔界行を止めはすまいと云う固い決意を持った者の如く、未知と恐怖との彼方に横たわる沈黙の夢幻境へと、臆すること無く歩みを進めて行った。実体を持っているかの様な絶対の闇と重く身体に纏わり付いて来る囲繞する水の質量とは、今やすっかり馴染んだ衣服や髪の毛の様に私の身体と連続した私の一部と成り、私の一挙手一投足に応じて妖しく華麗な舞いを披露する、変幻自在の多様なメロディーも同然だった。水と空気と云うふたつの領域に身を置いてい乍ら、私は以前よりも世界とひとつに成り、その絶対的に不足している情報量と、全く保証の無い数多の不確実性にも関わらず、この堅牢な大地に閉じ込められた何もかもが初めての筈のこの無明の夢魔の王国を、まるで何十年も前から親しく付き合っていた友人の家の様に感じていた。完全な静寂に満たされた空間に、自分の運動によって頼り無気な水音が四方へ反響して行く様は、如何にも不安を煽る様な類いのものであったが、私にはそれすらも、前人未到の処女地を自らの足で踏み荒らしているのだと云う刺激的な事実を思い起こさせるスパイスでしかなかった。愈々広くなって行く空間が行く手に待ち構えているのがはっきりと確信出来た。私は、余人から隔絶した他に殆ど類を見ないこの異常な状況が次に何を為すべきかを指し示す儘、疲労も、懸念も、時間の観念すらも忘れ去って、この不思議な航海を続けて行った。
やがて、少し狭いトンネル状になった所に出たが、これは下の方ではなく上へ向かっているらしく、空気はその儘続いていた。これは後になって判ったことなのだが、その付近には同じ様にトンネル状になった空間が幾つか――少なくとも、私がその時確認した限りでは三つ――存在し、私はその内二つの穴へ入ってその先が何処へも行き着かない行き止まりになっていることを確認した後、三つ目の穴が、今までよりも更に広い空間へ繋がっていることを発見した。無論のこと何ひとつ見えはしなかったので、主として音の反響から漠然と推測を巡らせただけなのだが、それでも、残響がずっと長くなり、無限とも思える細かな大気の振動と成って闇の奥へ奥へと吸い込まれて行く様は、白昼の下で起こっていることの様に明瞭に把握出来た。後ろに置き去りにして来た諸可能性共を今や顧みることも無く、私は微塵の躊躇いも持たずにその次なる大洋を泳ぎ渡って行った。
素晴らしいことが起こった。前方が次第に浅瀬になり、その先で到頭湖底を成している岩面が水面から露出していたのだ。周囲をざっと手探りしてみると、それは少なくとも人一人が身を横たえる位の大きさは充分有りそうだった。私は、休息場所を手に入れたのだ。岩肌は玄武岩の様に硬くザラザラしていたが、同時に、鍾乳石の様に奇妙にぬめぬめしていた。表面には凹凸も少なかったので、私は、手掛かりになりそうな部分を何とか探し当ててしっかりと両手で掴んでいることを確認してから、呼吸を整えて一気に岸の上へ身体を引き上げようと試みた。が、おかしなことに、実際にその瞬間になってみるまで私はその可能性を考えてみもしなかったのだが、長時間の潜水と水泳で、すっかり活力を搾り取られていた肉体は完全に消耗してしまっていたらしく、力を込め、踏ん張って自分自身を持ち上げようとしても、思う様に力が入らなかった。何度か不様な失敗をして、水の中に滑り落ちてから、はたと気が付いてもう少し緩やかな浅瀬になっている箇所を探し出し、何とか岩に足を掛けて身体全体を引き摺り上げることにした。足ヒレを着けた儘の足は久し振りに固い地面を踏んだことですっかり痺れてしまい、その瞬間まで全く意識には昇って来なかった水銀の様な疲労が、びっしょりと濡れた毛皮のコートをいきなり頭から投げ被せられた様に、急に私の知覚と意力の出口を詰まらせてしまった。岩を踏み台にすると云うよりは寧ろ岩にぴったりとへばり付く様な恰好で、私は、あっと云う間に固まってしまった肉体を辛うじてにじり上がらせ、人気の無い岩場の海岸に無残に打ち上げられた深海魚の屍体然乍ら、ぬらめいた岩の上にぐったりと倒れ込んだ。それが引き金になったのか、私の躯は死後硬直でも始めたかの様にどんどん固くなり、熟し切った柘榴が遂には自重を支えることが出来ずにぼとりと落下し、柔かく冷たい泥の中へズブズブと緩慢に沈み込んで行く様に、急速に意識の目の届かぬ暗い領域の底へと落ち込んで行き、やがて何もかもが分からなくなってしまった。そう云えば、私は先刻からずっと腕時計に注意を払って来なかったのだが、一体私は何十分位、或いは何時間位水の中を泳いでいたのだろうか、どの方角へどれだけの距離を移動したのだろうか、ひょっとしたら私が戻るべき地上世界から一層離れた所に来てしまったかも知れないのだが、私は今一体どんな深淵の口の中へ飛び込んでしまったのだろうか、どんな驚異の、或いは恐怖の、さもなくば失望の扉を開いてしまったのだろうか、私は、私は一体………と云った疑問が頭の中で微かに閃いたが、それも刹那のことで、私の意識は、突然に自己主張を始めた肉体の要求に、手も無く屈服させられ、全世界は暗転した。
次に、冷たさと、堅さと、湿り気と、それに何かが重く凝固した様な感じと鈍く痺れる様な感じがあちこちに有った。その場所に間隔や印象はまちまちで捉え所が無く、何だろうと思って同定しようとすると直ぐに消失するか変質するかしてしまい、はっきりと何であるか知ることは出来なかった。そうした状況が一瞬か何時間の間か続き、バラバラだった知覚が次第次第に纏まりを見せ、一連なりの体験としての体裁を整え始めると、私は、なけなしの意志の力を振り絞って目覚めの世界を望み、微睡みと覚醒との二者択一の選択肢の針を無理矢理に回して、私が知っていた筈のひとつの世界、私がこれから知り得るであろう、全一なる宇宙の姿を知ろうと、錆び付いた様に固く閉じられていた心の中の目を見開いた。私は眠っていたのだ、と私は自分に言い聞かせた。私は今までぐっすりと眠っていたのだが、やがて来るべき時間切れが起こって今は半覚醒の状態であり、その内に停止していた世界が活動を再開し、私の本質を成している私の知覚と記憶の全体が、再び流れる時間の中へと復活して来るであろうと、何度も何度も執拗に自分自身に対して、恰も父親が言うことを聞かぬ幼い我が子にものの道理を噛んで含める様にじっくりと何度も何度も説いて聞かせる様に、同じことを繰り返し言い聞かせた。世界には区切りが有り、境界が有り、不分明の混沌はやがて光と闇に、己と己でないものとに分かたれ、前後の別が、内と外の別が、上下の別が、自ずと生まれて来る、いやそうでなくてはならないのだと、私は自分に納得させようと、いや、信じさせ、そのことを当たり前のことに思う様に仕向けようとした。そう、確かにそれは意志の力に由る働きだったが、而してその動因は充分に自覚的ではなく、存在の深淵から時折私を覗き込み、そして一度見たら永久に剝がれることの無いその強烈な眼差しで以て我々を支配し続けることになる、あの盲目的な衝動がその見えざる手を闇の中からぐいと伸ばして来て、黄昏の領域の端の辺りでうろうろしている私を捕え、その不可解さには目を瞑らせるか口を塞ぐかした儘で、やがて来るべきものども、何れ起こるべきことどもを告知して廻っていたのだった。私は覚醒時であれば更なる疑念を惹き起こして当然であろう事態にぼんやりと狼狽えた儘、今は先ず全てが繋がった世界を手に入れることにのみ集中した。やがては新たなる欺瞞や戦慄が私を襲って来ることになるだろうが、そんな諸可能性のことは真剣に考えてみようとはしなかった。
長くて短い困難な格闘の後、私は到頭肉体の目を開き、そこで開かれたのが完全なる真の闇であることに困惑し混乱し暫く動揺した後、それが今自分の肉体が直面している有りの儘の現実、それが今私の置かれている実際の状況なのだと自分に言い聞かせた。その時の己の行動が何に準拠していたものかは定かではない。何かその瞬間に僅かな異和感が、何かが変身し、或いは失われ、或いは潜み隠れてしまった様な、どうにも形容し難い感触が、不図脳裏を過った。或いはそれは只の気の所為と云う奴かも知れなかったし、或いは私の意識状態が切り換わった隙に、暗黒の夜の色をしたインクの雫が凝り固まって出来上がった球体が転がった軌跡とも言うべき、何か非常に密度の高い、稠密な、悍ましいまでに見られることを拒む悪夢の一片が、その沈黙の内側に耳を聾せんばかりの怒号を孕みつつも、常態の意識には思い出すどころかその存在の片鱗に気付くことさえ許さない、忘却に見せ掛けた峻厳たる城壁の向こうに立て籠ってしまったのかも知れなかった。どの道私はその異和感をそれ異常追及するだけの好奇心を持つだけの余裕は無く、真の闇に閉ざされた光無き茫漠たる広がりを前にして、唯自分の正気を保つことのみに全神経を集中させた。
頭の中身が見えない鎖か何かで水中に繋ぎ停められた儘であるかの様に、頭の奥で、何処かが地の底へと引き摺り込まれて行く様な微かな鈍い痛みが走った様に思ったが、それはやがて私の意識のぐるりをすっぽり取り囲み、快いとは言えない信号を発し続けている私の肉体の存在へと私の注意が広がって行くことで、優先的な懸案事項ではなくなってしまった。後処理もしない儘放置されていた粘土細工の様に、私の全身がすっかり冷えて固くなっているのが判った。それでもどうにかして以前の様な身体を取り戻そうと踠いたのだが、最初の内は指一本動かすことさえ儘ならず、私の身体は、恐らく水の上に出た岩の上と思われる硬い感触にぴったりと貼り付いて離れなかったので、今この孤絶した冷気を感じているのが私の肉体なのかそれとも岩の方なのか区別が付かなかった。そして気が付くと、その混乱を何処か他人事の様に、超然とした視点で眺めているもう一人の私が居た。それは、一方の私が卵の殻を破ろうとしている雛の様に懸命にたどたどしい仕種で世界を手に入れようとしているのに、もう一方の私は奇妙な程に冷淡で、無関心で、今観察している対象が結果的にどうなろうが気にしていない、少なくとも気にしていることが有るとすれば、それは観察されている方の私には思いも寄らない、何か遙かに遠大な風景についてではないかと思わせるところが有った。観察されている方の私はその事実を知ったところで何を感じるでもなく、ひたすら目の前の課題に取り組もうとしていた。観察される私と観察する私とは、お互いにその存在には気が付いてい乍ら、全く交渉を持とうとせず、そうした何とも孤独な意識の広がりがふたつ、何処までも擦れ違った儘、この黯々とした時空間の中で黙々と蠢いていた。
凍り付いた神経の連なりをひとつひとつ、チグハグな順番で、それでもどうにか解きほぐし、私の躯と思しきものを全く区別の付かない暗黒の延べ広がりの中から慎重に引き剝がして、ゆっくりと、普段の私だったら本当にびっくりする位ゆっくりと焦らずに、私の意識と私の模糊とした延べ広がりが連続していることを確認し、その境界を、反応を、それによって返って来る感触を、私のものであると同定し、地球創世の昔から海底の更に下の稠密な岩盤の中に昏々と眠り続けていた盲目の巨人が幾星霜か振りに物憂気にその魁偉な頭を擡げる時の様に、私が、やっとのことでその身を岩の上に起こすまでには、優に星々が何度か生まれそれぞれの仕方で滅び去るだけの時間が通り過ぎて行った様に思われた。果ての全く見えないその永劫の中で私は依然として二人だったが、肺腑に酸素を循環させ、大きく溜息を吐くことが出来る様になるまでには、その二重意識の不可解さの感じは薄れ、まるでそれが当たり前であるかの様に、さして気にはならなくなっていた。いや寧ろ、正常な意識の在り方とは本来こうしたものではないのかと云う発想が数瞬閃いたが、疲労が余りにも激しかった所為だろうが、その考えがそれ以上建設的に発展することは無かった。
朝靄が、次第に高くなって行く冬の陽の光に照らされて、寒さにも関わらず僅かずつ解けて行く様に、私の身体の中で、少しずつ血流が暖かさを回復して行くのか、朧気に感じられた。その儘の常態で更に長い時間が流れたが、それは徐々に、私にも理解出来る、手に取って感じ取ることの出来る時間の流れへと変化して行っている様だった。雪の上を滑る橇がその後に蹴散らされた雪飛沫の跡を置き去りにして行く様に、頭がはっきりして行く過程で、実に多くの細々とした懸念や感覚や知覚や思考が取り零されて、退潮の様に退き始めた永劫の奥底へと消え去って行った様だったが、私はそうした見捨てられたものどもをさして気に留めることも無く、忍びやかな春の訪れと共に雪解け水がやがて清冽な滔々たる流れと成って山を下って行く様に、私の固く石化した芯がじわじわと解けて行くのを、凝っとし乍ら待ち望んだ。
その内にもうすっかり目が覚め、活動と思考の励起への準備が整うと、私はさも悠然と目をしばたかせたり、上体を前後に揺らしたり、痺れた所を静かに、慎重に、だが熱烈に確かめる様に撫でさすったりし始めた。やがて疲労が疲労として私に伸し掛かって来て、胴体の真ん中にぽっかりと空洞が出来てしまった様な空腹感と思しき苦痛が私を内部から食い荒らそうとしていることも判って来たが、食欲は全く湧いて来なかった。私は暫く惨めで空虚なその状態を愉しんでいたが、やがて、どうせ何かを食べる気になったとしても、今は何も口にするものを持ち合わせてはいないのだから、これは寧ろ幸運と考えるべきだと自分に言ってみる程度には、実際的な判断力が回復して来た。体を締め付ける些か水を吸ったらしいスーツはギシギシを軋みを上げている様で、背中に装着した儘の酸素タンクはまるで石の塊だった。私はそれらを脱ぎ捨てるべきかどうか迷ったが、それさえも億劫だと云う理由と、そしてこの先がどうなっているのかまるで判らない以上、下手に動いたりすると却って危険ではないだろうかと云う判断から、まだもう暫くそうしていた。私は何度か膝を叩いて耳を澄まし、反響を確かめてみたが、確かなことは判らなかった。この先どうしようかとぼんやりと考えていると、水の中を引き返すと云う考えが浮かんで来たが、とてもそんなことをする気にはなれなかった。酸素の残りが後どの位有るのか判らないのだし、第一今まで来た行程をもう一度、しかも勝手の分からない逆の方向へ泳いで行くことは、無謀以外の何ものでも無い様に思われた。では何故そもそもこんな深部へとわざわざ首を突っ込んでしまったのかと云う抗議の声が上がったが、私は努めてそのことを最早考えないようにした。空洞はまだこの先も続いているらしいのだが、どの程度までなのか、この先に出口が有るのかは無論判らなかった。最悪の場合、あっさり行き止まりになってしまっている可能性だって有るのだ。私は石か何かを投げて音で確かめようと思い、自分の周りの地面を手探りしてみたが、何処もぬめぬめした岩ばかりで、それらしきものは無く、何時の間にか口から外れていたマウスピースが転がっているだけだった。せめて汗で濡れたスーツの内側を少し干してみようかと思いジッパーを上半身だけ下ろしてみたが、これは間も無く止めてしまった。体が冷えているのに気が付かなかったのだが、周囲の気温もどうやら外気と比べると低いらしいことが判って来たからだ。これでは体を乾かす前に凍えてしまうだろうと思い、私はまた喉元までぴっちりとスーツを着込むことにした。タンクの位置が少しずれたが、酷く痛んだ。
不図思い立って、腕時計の方へ目を遣った。勿論何も見えなかったが、手探りで確かめてみるとそれはまだ特に破損することも無くちゃんとそこに在った。ボタンを押して文字盤の明かりを点けてみようとすると、何も起きなかった。焦りもせずにぼうっとしてその儘私が待っていると、真闇の中にぽっかりと円い光の裂け目が口を開いていて、それが文字盤なのだと判ったが、それは到底現実の光景である様には見えなかった。どうやら余りにも異質な存在の突然の出現に、私の神経がそれを陽光の下でと同じ様に見ることを拒否していたのだと判ったのは、それから更に数十秒が経過してからだった。薄い緑色に浮かび上がるその円盤は何か異国の言葉で書かれた禍々しい災厄を告げ知らせる触れ書きの様にも見えたが、空転しようとする目を何とか一箇所に据えて読み取ったところでは、現在は十時十分を少し回ったところらしかった。その時計は元々日付や曜日表示の無い古いタイプのものなので、何日のと云うことまでは判らなくとも、せめて午前か午後か位は少し目を凝らしてみれば読み取れたかも知れないのだが、何故かその時の私はそうしなかった。この黯黒界の隧道へ入り込んでから一体何時間が経過したものなのか、私は積極的に知ろうとはしなかったのだ。この極めて不合理な行動はこの時点では不可解とは感じられず、私は唯呆けた様に、秒針が永劫の向こうへ空しく時を刻んで行く様を、何かを凝っと考え込む様に、しかしその実は全く何も考えられずに、眺めていた。
それから更に暫くぼんやりとウダウダ試行錯誤を繰り返した後、結局私は、この岩盤の上を、更なる深部に向かって歩いて行くことに決めた。この時の私の精神状態がどう云ったものだったのかを正確に言葉にすることは難しい。自暴自棄になっていたと云うのも少し違う気がするし、自虐、乃至自罰的な衝動に突き動かされていたと云うのも、真実の反面に過ぎない様に思う。それは言うなれば、愚行によって苦境に陥ってしまった者が、一見無謀な方策にも一縷の望みを託して縋り付く、愚者の希望の様な側面も有るには有った。だが私は、自分が苦境に陥るかも知れないと云うことを自覚してあの乱暴な選択をしたのだろうか、それとも、必ず苦境に陥ると踏んでいたからこそこうして来たのではないか、或いは、何か私の理性には想像の及ばない様な予感が、何か有ったのではないだろうか………? 何れにせよ、私の心にはその表面を一通り撫でてみただけでは測れない、不可解な作用が働いていたことだけは確かな様に思える。私は混乱し、自分の心が私に何をさせようとしているのか知らない儘、次なる行動に移ろうとしていた。スーツは着た儘、タンクも、この先また水に潜らねばならぬことが無いとは限らないので、重いけれども背負って行くことにして、足ヒレは着けた儘だと歩き難い上に滑ってしまいそうなので、脱いで腰にぶら提げた。両手を突いて立ち上がると、腰や背中や腕や脚や、体中の至る所の筋肉が悲鳴を上げた。私はこれから天を支え立とうとするアトラス然乍ら、渾身の力を込めて二本の脚で立ち上がろうとした。
この時はまだ潜水病に罹っていた訳ではなかっただろうが、直立してバランスを取るのが酷く難しく、暫くフラフラになって立ち尽くした。そこから裸の足で一歩、二歩と、まるでたった今この世に産み落とされた人造人間の如き不格好さで、たどたどしく私は歩を進めた。地面には凹凸が少なかったが妙にぬらぬらしていて摩擦が少なく、足を滑らせないよう注意していなければならなかった。若し足を滑らせたとしても、周囲に掴まえられるものや支えに出来るものが全く無かったので、可成りびくびくし乍ら進んでいたのではないかと思うのだが、この辺は判然としていない。若しかしたらこの時には疲労と恐怖とが警戒心と云うカップの中でごちゃ混ぜになって、今更分離の仕様が無い程に混淆してしまっていたのかも知れない。私は照明が落とされ観客も居なくなった人形劇の人形の様に、何か得体の知れない、少なくともその時の私には全く理解の及ばない諸力によって動かされ、闇の中を前進して行った。どう行くべきか私に分かろう筈も無いので進行方向は特に定めなかったが、時々掌で腿を叩いたり両手を打ち鳴らしたりして周囲の音の広がりを確かめた。時間が経つにつれ次第に耳も慣れて行ったが、どの方角から音が返って来るのかは、一向に明らかにならなかった。波の音は全く聞こえず、私が歩いた位では私に感知可能な波は起こりそうにはなかったが、足が水に触れた時にはそれを避け、成可く岸から離れた所を歩く様に心懸けた。ともすれば方向を見失う危険が有るので、普段の私であれば決して選ばない様な歩き方ではあったが、その時の私はそもそも方角どころか「方向」なるものを最初から持ち合わせてはいなかったのだ。無知と不感症が私を大胆にしていた。調子が出て来ると、私は更に堂々と根拠の無い確信を持って足を進めて行った。全力で疾走する夢遊病者にでもなった様な気分だった。
やがて、どちらへ歩いて行っても全く水に突き当たらなくなってから暫くして、天井が低くなっている所に行き着いた。反響の変化から事前に何か有るのを察知して前方へ両手を突き出していたので事無きを得たが、前方の天井が急に低く迫り出していて、その儘真直ぐ進んでいたら頭をぶつけてしまうところだった。天井が高くなっていそうな所を探して、私はその出っ張りと続いている壁に沿って左へと進んで行ったが、そちらは数百フィートは有る緩い内向きの弧を描いていて、それにつれて壁の方へ盛り上がっている地面の傾斜が大きくなって行った為、何度か転びそうになり、一度は本当に転んで右の肘を強かに壁にぶつけてしまった。壁はその先で急角度で右に曲がっていたが、そこから急に天井が高くなっているらしいことが聞き取れた。私はその先へ進むことを躊躇いはしなかったが、傾斜の角度が危険を感じさせた。近くに手頃な石ひとつ転がっていなかったので、止む無く私は自分の足でそろりそろりと地面の様子を探り乍ら、思い切って壁から手を放して進むことにした。右下の方が若干傾斜が緩そうだったので、数十フィート下に下って行くと、や有るがて起伏の少ない比較的平坦な所を探り当てることが出来た。その部分を真直ぐに進んでみると、反響の仕方から、どうやらそこが大体等しい距離に有る両壁に挟まれた、隧道状の穴の底の部分であることが朧気に推察せられて来た。その道は不規則に上下左右に折れ曲がり乍らも、不思議なことに基本的な形状には全く変化が無いらしかった。幾つかの分岐路は未確認乍ら有った様な気もしたが、私はひたすら今自分が歩いている道を脇目も振らずに歩いて行った。この時にはその事実をさして気にも留めず、単に何も考えずとも行く先が決まっていてくれることを幸運と思ったものだったが、その奇妙な地形が含意し得ることを後になってから思い返す時、私は頭から冷水を浴びせ掛けられる様な戦慄を禁じ得ないのだ。
私は前進することにだけ意識を集中し、何故前進するのか、自分が今何処を目指しているのか、何処を目指していたのかについては一顧だにしなかった。強いて考えない様にしていてかも知れなかったが、この夢中行に道理を切り込ませようとすること自体が愚かな誤りだったかも知れない。私は自分の行動の理由も目的も知らなかったが、疲労で殆どの感覚の失われた脚を引き摺って数マイルか数十マイルの行程を続け、希望も絶望も擦り切ってもう見えなくなってしまった心の儘、何千フィートかの長い真直ぐな下り道を降りて行った。そしてそこを降り切った後にその回答を仄めかすものが出し抜けに私の前に現れた時、全ての事情は一変した。そこに至るまでの経験によって築き上げられ、既知のことどもに分類され、曾て未知であったところのことどもを駆逐した世界の像が、再びその根拠から破壊され、傲岸不遜にも再構築を要求されたのだ。
それは階段だった。最初は只の気紛れな岩の起伏と思い、急な段差に躓かないよう、足元に注意して進んで行ったのだが、同じ様な形状が規則的に真直ぐ続いていることが判って来ると、奇異の念は途端に驚愕に変じて行き、やがて言い知れぬ戦慄が一歩踏み出す毎に身ぬちを駆け抜けて行く様になった。一段の高さは約半フィート、縦幅も略それと同じ位で、二、三度端に行き当たって確かめた際に確信したところでは、横幅は約三フィート強と、大きさは大体一定していて、表面はごつごつしていて磨かれたものではない様だったが明らかに上の面が水平になるように岩を穿って造られたもので、誰かが、何者かがここを通路として利用する為にこの地中深くの硬い岩盤に鑿を当てたのだ。階段が始まった所から傾斜がやや急角度になっていたので、そこから唐突に階段が始まっていた理由はそれだろうとは思われたが、どうやら長い年月を掛けて磨り減ったものらしい、中央部が凹んだこの人二人が並んで通れるだけの階段が、一体何の目的で造られたものかについては皆目見当が付かなかった。この様な日も射さぬどころか厚い岩盤と何千トンもの大量の水によって外界から隔てられた暗黒の密室の中へ、誰が好きこのんで入りたがるものだろうか? ここは地形が大きく歪んでしまう前の太古に造られた遺跡の名残で、元は地上か、或いはもっと地上に近い所に在ったのだろうか? それともこれは何かの結社か共同体等が厳重に秘め隠さねばならぬ秘密をあらゆる地上の耳目から隠匿する為に、元々在った自然の洞窟か何かを利用して造り上げた隠し倉庫か集会所か何かなのだろうか? それともそれは私の知っている様な類いの記録には載っていない、何かの廃坑跡なのだろうか? それとも実は私の感覚が狂ってしまっていて、ここはもう地上の直ぐ近くで、私がチェックしていなかった何かの地下施設の中に入り込んでしまったのだろうか? 私の背後には、私が暗闇の中で通り過ぎてしまった何か意味の有るものが存在していたのだろうか? ひょっとしてそれは外界への通路ではないのか? それとも、私が最初に入った入口が………? あらぬ空想が勢い付いて暴走し始め、私は文字通り眩暈に暫くふらつくことになった。
私は一度立ち止まって全身にグッと力を入れ、大風に揺れる老木の様によろめきそうになる躯を支え切ろうと踏ん張った。熱を出した時の様に、躯の重心が何処に行ってしまったのか判らなくなり、躯の各部分の輪郭と境界線、大きさと重さとがバラバラになり、万華鏡のレンズの向こうに広がる曼荼羅模様の様に、一寸したバランスの乱れで大きく乱れ、変化し、何処にも落ち着こうとはしなかった。掻き混ぜたコップの中の水が次第に静かになる様をイメージし乍ら、非常にゆっくりと深呼吸を繰り返し、何とか安定を取り戻した私は、一旦慎重に階段を引き返し、最初の段で「聖なる哉、真なる哉」と心の中で呟いてから、時計の灯りを点けてみた。三時三十分を回っていた。それから私は段の数を数えつつ再び地下深くへと下って行った。運動パターンが安定し、呼吸が規則的になると、何故かその音が妙に響いて聞こえて来る様になった。私は再び音楽を呼び醒ますのを試みようとしたが、どうにも自然には何の曲も出て来てはくれず、集中力が乱されてしまいそうだったので、段の計数を忘れてしまう前に諦めることにした。階段は略直線状に続いていて、百八十段を数えた頃に急なカーヴを描いて左に三十度程曲がり、更に六十段行った所で右に三十度曲がり、その約百三十五段先で九十度近く左に曲がり、その二百十段先で更に左に九十度曲がった。そしてそのざっと九十段先で百二十度かそれ以上右に曲がり、その先はずっと直線で五百段ばかり続いた。疲労の極みに私の身体は有った筈だが、その反動か頭は不可思議な位に冴え渡っており、そこに数を数えると云う単調な行為が、繰り返される呪文めいた効果を加えていた。私が最早苦痛を訴えていて良い筈の肉体をひたすら酷使し、この地獄下りを続けていた間の時間は酷く短く感じたが、まるで時間も空間も、より広く高い次元から眺めている者の様な超然とした視点から、私は、この階段を造った者が誰であれ、可成り頑健な者であった筈だと心の中で推測を巡らせた。踏み石の中央部がボロボロに傷付いた私の裸の足など下手をするとすっぽりと包み込んでしまう位に落ち窪んでいるのは、ここを通っていた者達が重かった所為なのだろうか、それとも数え切れぬ程昇降を繰り返した所為だろうか? 先程から谺の音が同じ様に聞こえるのは、これはやはり人工的に刳り貫かれた通路で、幅や高さが一定のものだからなのだろうか?
最後の直線コースの終わり頃から、谺の音が変化して来た。どうやらまた、もっと広い空間に出る様だった。手を鳴らしてみようと思ったが腕が持ち上がらず、代わりに舌を鳴らしてみようと思ったが、口の中がカラカラに渇いていて舌が縺れて動かず、仕方が無いので私は大きく鼻での呼吸を繰り返してみた。一瞬、自分が巨大な化物の腹の中に居る様な錯覚に教われた。私の吐く息が空間全体に広がって行き、吸う音が空間全体から戻って来、まるで私とこの空間全体とが、一続きの同じ生命活動を共有しているかの様だった。私は少なからず動揺しつつもそこで立ち止まり、潮の満ち干きを聞き取る積もりで、微かな残響にも必死になって耳を澄ませ、その具体的な形状までは判らないまでも、その深さと広がりを感じ取ろうと努力した。息を殺した様に秘めやかに撥ね返る谺の波は、蛇の大群が地の表を一斉に這って行く様を思わせ、素早く前方の空間へと広がって行った。私は、横幅は有りそうだが、高さはそれ程でもないのではないかと推測したが、変化した音響の背後には何かもっと別の要因が隠れている様な気もした。
正体の掴めないその異和感は、速度を落として再び歩き始めてから幾らもしない内にその説明を見出すことになった。忘れよう筈も無い、直線コースを入ってから五百十一段目、私の足は突然、冷たい水の中へ突っ込んだのだ。トポンと云う水音が私の意識を乱暴に揺り起こし、思わずその儘繰り出された二歩目が、今度は少し高い音を立てて続いた。暫くの間その音と、踝の下の辺りにまで昇って来るじんわりと冷たい感触とが私の意識を支配し、自分が再び水中に没している所に行き当たったのかも知れないと云う可能性を思い付くのに、恐らく数十秒から数分を要した。音に深みが有った所為か、それが単なる水溜まりであると云う可能性は全く考えなかった。後から思えば、それまでずっと湿り気は有るが纏まった量の水が無い所を歩いて来たのだから、そんな奥の部分に水溜まりが有ると考えることの方が不自然なのだが、その時はまるで何かに導かれる様に、私の思考は没論理的な夢幻的性格を露にしていた。事実両足を水でバシャバシャと蹴ってみると、音は更に大きな水の広がりが前方に広がっていることを告げていた。
私はそれからまた暫く思考を停止して呆けた儘立ち竦んだ。そうしている内に、最初は冷たいと感じられた水が、温水とまでは行かなくとも、実は可成り温かなものであることが判って来た。そして疲労でパンパンに膨れ上がり、裸足で岩の上を歩く内に自分でも気付かない儘無数の細かい傷を負っていたらしい両足の痺れる様な感覚が、その刺激を受けることによってこの時初めて、徐々にはっきりとした鈍痛として意識せられて来た。全身が、体の何処だか判らないが或る一点に向かって収縮し、同時に無数の胞子と成って闇の中へ拡散して行く様な、奇妙な感覚が有って、私は戸惑いを覚えつつも、その二重感覚の中で自らの位置を定め、碇を下ろしておこうと、凝っと心を澄ませた。そうした中で、私の心臓の拍動が足の血管を通じてまるで大太鼓の様に静止した水面を叩き、波紋を広げて行くのがはっきりを感じられた。闇は私と共に脈打っていたが、私は、自分の肉体が静止した状態でこれ程までに動いていることに、少なからず驚きを禁じ得なかった。
温かな水の感触が私の体内の様々な流れを包み込んでくれている様な感じがしたからか、二重感覚の異常さは、私の神経が回復しつつあることを告げている様に思えた。数分が経過した後、私は―――この頃にはもう自分が目を閉じているのか開いているのかすっかり判らなくなってしまっていたが―――前方の闇を断固とした態度で凝視し、呼吸を整えると、水の中へと更に続いているらしい階段をゆっくりと進んでみた。私が身体を動かす度に周りの水が押し退けられ、上昇型の音を立て乍ら取り囲む静止した水の中へと溶け込んで行くのが分かったが、自分の足や体に通常の感覚が無く、自分のものと云う気が全くしないと云うことが明白になっていた為、私は良く悪夢の中で感じる様な、何もかもがフワフワと宙に漂い、確かな重力の手応えが感じられないあの夢幻遊行の不気味さを味わわなければならなかった。
水面はやがて膝まで達し、そして腰、胸、肩にまで届いた。水圧が再び私を取り囲み、押し包んで行った。だが階段は一向に終わらず、途切れることも何処かに行き当たることも無かった。この階段が造られた後、何等かの理由によって浸水が起こり、そこから先が水没してしまったのだろうか? 懐中電灯を失くしてしまっている以上、その先がどうなっているのかを確かめることは不可能だった。水の中に身体を沈めたことで、背中の空気タンクの重さも多少軽減されたものの、今の自分の体力が再びの長時間の潜水に耐えられるものとは流石に私も考えてはいなかった。それ以上の前進は危険だと判断した私は、別の道か、さもなくばその手掛かりなりとも探してみようと、横方向を調べることにした。私は先ず段の両端へ行き、その幅がこれまでとは変わらず、その両側の岩壁がぐっと盛り上がっていることを確かめると、どちらでも良かったのだが右側へ寄り、蠅取り紙から逃れようとする蠅の様な苦労をして水の中から身体を持ち上げ、右岸を辿ってみることにした。
長時間に亘る暗闇での活動と、それに階段と云う人工的な環境に慣れて気が大きくなっていたこともあって、私の行動は可成り大胆で無謀になっていたが、再び何の確たる足掛かりも無い地面の上に踏み出したことと、それに緩やかに迫り上がっていた岩壁が、恐らく水面と接する辺り、大空間が本格的に広がっている辺りから、突然急角度になっていて頭をぶつけそうになったことで、私の心に再び緊張と警戒心と、そして恐怖が戻って来た。私はそれらの主旋律を決して軽視しないよう用心し乍ら、岸と壁との間を何度か往復して、その幅がぐんと広くなって行っていることを突き止めた。その幅が十五フィートかその位に達した時、私はもうそれ以上正しい角度を保持出来る自信がなくなってしまい、壁際を歩いたら、例えば急に突き出した岩や折れ曲がった壁面に行き当たって不意を突かれ兼ねないと云う懸念も有り、取り敢えず水辺に沿って歩いて行くことにした。足や手で何度か確かめてみたところに拠ると、始めは緩やかな斜面に水が溜まっている風だったのが次第に壁面の角度が鋭く垂直に、同時に水から上に出ている部分が平らになって行っていることが判った。詰まりこれは見方に依っては人工的な港か溜め池の様な構造になって行ったと云うことだった。無論これは単なる大地の変動に因って出来た巨大な窪みに水が溜まっただけのものかも知れないのだったが、そこに明らかに人工物と思しき階段が続いていると云う事実は、私にそれが単なる偶然の産物であると考えることを許さなかった。左側の岸も同じ様になっているのだろうかと云う想像は、自然とここが巨大な溜め池か、或いはその底に更に何かが続いている、未知への開口部であると云うことを連想させた。そうなると岸は何処かで左岸と繋がっている可能性が高く、実際には暗闇の中でも判る程の角度の変化は感じ取れず、私は只真直ぐに進んで行っただけなのだが、そう考えてみると左側へ向かって大きく弧を描いている様にも思えて来るのだった。
体が重く、中身が皆下の方に沈殿した様な状態で、一足踏み出す毎にその儘ズブズブと地面へ沈み込んで行きそうな感じがした癖に、私の歩行には奇妙に熱に浮かされた様な浮遊感が有った。私はこの非現実的な盲目行を、頭の中で繰り広げられる有られも無い譫妄状態に酔い痴れ乍ら続けて行ったが、驚いたことにそう経たない内に、私のその白昼夢染みた推測がどうやら正しかったことが明らかになって行った。足の下の地面が急に失くなり、探り探り慎重に歩いていたから良かった様なものの、不意にバランスを崩した私は、その場で二三歩たたらを踏んで、縁に沿って右側へ少し行ったが、間も無くその縁の向こう側に階段が右上がりに続いているのに行き当たり、その角度と向きと形状から、恐らくは私が歩いて来たものと同一ではないかと推測したが、それが全く別の箇所に在る全く別の階段ではないかと云う可能性は、この時私の頭には全く浮かんで来なかった。若し私の想像通りこれが元の階段で、右岸から左岸へぐるりと一周して来たのだとすると、途中急に折れ曲がる様な箇所は無かったので、その形は略円形をしているものと思われた。一応霞掛かった頭でも自分の歩数を数えていたので凡その計算は出来たのだが、それに拠ると、この池の直径は大体六十フィートから八十フィート程度であると云う結論が出た。
勝手な推測が正しかったと思うことで私は一気に、この状況には不釣合いなまでの、そして危険でもある安堵を覚えたが、それと同時にまた、だからと云ってこれからの行き先が定まった訳ではなく、相変わらず水の中へ潜る以外の選択肢が存在していないと云う事実が、空しい歓喜に酔う私を無言で打ちのめし、混乱を呼んだ。恐らくそれが限界だったのだろう、私はその場で頼り無くよろめき、その儘水の中に落ちてしまうのではないかと云う危惧に一瞬心底ヒヤッとしたものの、何とか水辺とは反対側の壁側に向かって後退る程度の分別はまだ残っていたらしかった。私は緩やかに斜面を成している背後の壁面に両手を突き、その儘ずるずるとへたり込んだ。酸素タンクが岩に当たる硬い音が私にもう少しばかりの分別を取り戻させ、もう肩に食い込んでいることすら定かには判らないその重い荷物を漸く降ろさせた。肩が、腕が、まるで子供が作った下手なブリキ細工の様に軋み、私のものではないかの様に、有り得ない方向に曲がった様にも思われたが、そこからもう殆ど取り落とす様にタンクを地面に置き、それでも重荷を降ろしたと云う実感が持てない儘、余り凹凸の無い方角を選んで体を傾け、しっとりと濡れた、ひんやりとしてはいるがその実何かの生物の内臓の様な生温かさをその底に秘めた硬い岩盤の上に身を横たえると、急速に眠気が襲って来た。何時眠り込んだのかも判らない儘、私はこの地下の暗黒世界を彷徨い出してから二度目の眠りに落ち込んで行ったが、私が最後に覚えているのは、耳の下の地面から聞こえて来る、鼓動や呼吸の様な私の生理活動に由来するものなのか、それともこの大地の人知れぬ鳴動なのか判らない、何かが震動する様な鈍く低い音だった。
永劫が過ぎ去った。幾つもの異なる宇宙が死滅してはまた誕生し、また死滅した。異なる形、異なる時間、異なる広がり、異なる性質、異なる生命………果てしの無い闘争が繰り広げられ、やがて終熄し、また新たな闘いが始まった。目の前を通り過ぎて行くそれら諸々のものどもの彼方に、私は目を細めて遙かなる地平の境界を遠く望んだ。事象の最果て、ヘラクレスの柱の向こうに、あらゆる移ろい行くものどもが収斂し、咆哮を上げ、消滅して変化を迎えた。永遠に続く白い夜、恐らく数学かそれに類した手段に拠ってしか捉えることの出来ない、あらゆる感覚を超えた光景、広大無辺の慈愛に満ちた恐怖の連なり、目紛しいノイズの束、約束と発見、そして予言………。
私は真っ白な混沌の中に居た。暫く待っていると、未だ世界を知らない胎児の時間が、たどたどしく歩みを始めた。その内に夜が生まれ、昼と夜とが忙しなく入れ替わったが規則性は無く、どちらが優勢と云うことも無かった。やがて闇が訪れた。何ひとつ明らかにならない真の暗闇だ。これが現実なのだと誰かが何処かで囁く声がしたが、私はそれに充分耳を傾けることもせず、不活性の儘静かに横たわっていた。一切の色の欠如した何やら不活発な動きが何処からか遣って来たが、それは世界の表を滑り撫でて行くだけで、余りにも一切のことに無関心な為に質量や大きさすら持たない様に見えた。完全な闇か、完全な光輝の中で、所在のはっきりしない、物理的な実態を伴わない明滅が繰り返された。目には見えない地平線の彼方で、小さな恐怖がポツンと生まれ、育って行った。
世界が内側から膨らむ様な感覚に圧されて自然と神経が鋭敏になって行くと、知覚が覚醒して行くのが感じられた。それは非常にゆっくりした過程だったかも知れないし、或いは一瞬のことだったかも知れないが、とにかく私は、今起こっている揺らぎが音であって、大気の蠢く気配であり、そしてそれが水中から発していることに気が付いた。茫漠と浸透し合い広がっていた世界が急速に形を成して固くなり、チリチリと何かが焦げる様な緊張感と共に、境界と質量とを取り戻した。水の動きは何よりも先ず音として表れたが、長い時間暗闇に慣れ光学的情報の全く得られない世界で活動を続けていた私にとっては、音は音以上のものであって、確たる手触りを持った、味や匂いの様に、対象に依ってその性質を全く異にするものであった。水中で何かが絶対の沈黙を掻き乱し、水面に浮上して来るのが、私には白昼に目で見る様に明瞭に分かった。私は息を殺して凝っとその動きを追って行ったが、筋肉を張り詰めさせた為に体がグッと浮き上がる様な感覚とともに、下の岩盤に当たって撥ね返って来る自分の全身の脈動の音が、まるで激しい運動をした後の様に、余りにも生々しく感じ取れた。私は頼むから止まってくれと空しい祈りを捧げつつ唾を呑み込んだが、無論自分の意志でその不随意運動がどうこう出来るものでもない、その喧しい大砲の連打の音に警戒心を強める中、私は更に身動きの音を立てる危険を冒して、慎重に、極くゆっくりと体の位置を変えて、水面の方へ顔を向けた。岩肌のぬらぬらした、人肌よりはずっと冷たいが只の岩にしてはほんのりと温かい感触が、或いは直に、或いはスーツ越しに私に触れ、その割に、そこから連想される様な生き物らしい臭気が微塵も感じられない、何処までも無機質的な水の匂いが鼻孔から侵入して来た。
目の前で信じられないことが起きていた。水面がほんのりと白く浮かび上がり、それが次第に強くはっきりして来ていたのだ。これが全くの幻覚や妄想でなかったかどうか私には自信が持てなかった。と云うよりも、長時間光を遮断された状態に置かれていた私の目は、自分が見た、或いは見たと思ったものよりも先ず、自分に何かものが見えると云うこと自体に驚き、困惑し、混乱してしまったのだ。だが私が頭の中を疑問符で一杯にしている間もその光は強くなり、それと共に、水中から何か強い光線を発するものが浮き上がって来ているのだと判る様になった。恐らく水の透明度が可成りのものなのか、まるでそこに存在している水全体が輝いている様にも見えたが、明らかに光源と思しき、特に光の強い箇所は移動して来ていて、しかも段々と私の居る方へと向かって来る様であった。
光源が水面に近い所まで来ると、その形状が他からはっきりと区別されて判る様になった。距離等の相対的感覚が狂ってしまっていたのでどの位の大きさかは判断し難ねたが、それは恐らくは野球のボール位から人の頭位の大きさの白い光の球で、火の様に絶えず盛んに動き、上の方へ向かってうねっていたが、火と全く同じと云う訳ではなかった。揺らめいているのは炎ではなく、もっと火花に近いが火花とはまた違ったもので、その色彩からマグネシウム灯を連想させはしたが、恐らくマグネシウム灯が普通の松明に様に燃え上がったら、少しは近いものになると言えるだろうが、とにかくそれは私が今まで見たことの無い光源で、水中で燃えていると云うのに消える様子は全く無かった。
その光源はやがて水の中から姿を現した。水から出る瞬間に屈折の具合で、若干大きさが変わった様に見えたものの、具体的な形状は変わらず、恐らくは水中でも地上でも変わらずに発火出来る様な何等かの特殊な光源なのだと思われた。この段階で私の疑惑は息が詰まる程に膨れ上がった。今私が目にしているのは、単なる自然現象とは到底思えなかったし、また、あんな風に発光する生物も聞いたことが無かった。とすれば、あの光は人工的に作られたものであって、そうなると当然それを使用する、知性を持った何かが、或いは誰かが存在し、何等かの意図を持って、私の居る世界の中に今正に侵入して来ようとしていることになる。自分でも暫く気付かない内に、巨大な氷の塊の様な戦慄が私を凍り付かせた。未知のものに対する衝動的な恐怖がその強力な腕で有無を言わせず私を抱きかかえ、私は殆ど窒息しそうになった。空想の中で予期していたものが、遙かな太古や何百年も昔のことではなく、今現在の現実として私の前に現れたと云う事実が、私をして、これは悪い夢の続きか、闇の中での妄想が昂じて生じて来た性の悪い幻覚なのだと思い込ませようとしたが、目に痛いばかりの燃え盛る光輝が、そうした否定を振り払い、見よ、見よと叫んでいた。
水中の中に在った時は判らなかったが、光の色は完全な白ではなく、微かに緑掛かっていることが判った。そしてそれが水面から持ち上がって行くにつれ、その下にそれを掴んで支えているらしい腕の様なものの形がボウッと浮き上がったことで、その火が紛れも無い松明のものであり、それを使っているのが人の形をしたものであることが明白になった。位置と角度から推察して、そのものはどうやら例の階段を水中から昇って来たらしかった。ではそれは水中を歩いて来たのだろうか? 先程明かりに照らされて見えたのは、確かに大量の水だった。だとすると、その直ぐ下に空気の充満した空洞が広がっていると云うことなのだろうか? それとも、それは空気の無い所ででも平気で活動出来るのだろうか?
何ひとつ答えの出ない儘、それはゆっくりと階段を昇って来た。どうやら進行方向に向かって後ろの方に覆いか何かが被せてあるのか、光は専ら前方を照らし出し、後ろに居る筈の、その松明を持った何かの姿ははっきりとは見えなかったが、ちらちらと時々朧気に浮かび上がるシルエットからは、それがやはり人の様な形をしていることが見て取れ、しかしまた、頭部と思しき所にふたつ、獣のそれの様に赤く秘めやかに輝く大きな瞳は、それが普通の人間のものでないことをありありと物語っていた。瞳の形もまた人間のものではない様に見えたが、敢えて喩えるならば蛙のそれにやや似ていた。それは全く瞬きをせずに、凝然と前方の、指向性の有る、やや緑掛かった白く冷たい光に照らし出されてぼんやりと浮かび上がった岩ばかりの空間を見詰めていた。白々とちらつく無機質な岩の光景の足元に、やはり明らかに人工物と思しき階段が伸びているのが見えたが、よく見てみると、周囲の岩面もまた、まるで人の手によって刳り貫かれたかの様に、大まかにドーム状に形が整えられているのが、明かりが移動して行くにつれて明らかになって行った。
極く静かな、しかし私にしてみればハッとする程大きな水音を立てて完全に水の中から抜け出すと、それは一旦階段の脇に寄って立ち止まり、緩慢な動作で周囲をぐるりと見回した。闇の中に断片的に姿を現す半球の中で、微かに唸る様な音を立てて燃え盛る白い光球と、その下の腕の形をした影、そしてふたつの大きな赤い瞳が、その度に一揃いになって動いたが、表情の見えないその動き方には、何処か私に、獣か、さもなくば魂を得た人形を思わせるところが有った。私は逃げることも立ち向かうことも誰何することも疎か、指一本動かすことすらも出来ずに、手足も喉も目も鼻も竦み上がった儘、突然現れたこの怪異が演じる不気味な演舞から目を離すことが出来なかった。
それは手に持った松明をゆっくりと動かして、半球の中を検べている様だった。次々に浮かび上がって行く丸く刳り貫かれた壁面は、私の予想以上に高い所まで達していることが判った。私が萎縮して実物以上に大きく見てしまっていたのかも知れないが、それを差し引いても、一番高い所まで二十フィート近くは有ったのではないかと思う。球の中心部は丁度水面の中央の真上の辺りに位置していた様だったが、その頂点一帯に、他の箇所の自然に出来た岩の褶曲等とは明らかに違う、何か規則的な模様の様なものが浮き彫りで刻み付けられているのが、一瞬光の中に見えた。短い間のことだったのではっきりとは確かめ難ねたが、それは人の腕より太そうな線状の膨らみが直線を基調にして織り物の様に絡まり合ったものだった。いや或いは、幾つもの細い溝が走り回っていて、そこに挟まれた部分が浮き上がっている様に見えただけかも知れなかった。そしてその頂点から少し下がった先に、今度はそれと対照的なものが現れていた。何か巨大な獣が爪で引っ掻いた様な、見るからにゾッとする人間大も有る傷跡が、バックリと広がっていたのだ。それは岩壁が自然に剥離したものではなく、明らかに下方か斜め下方から何か非常に大きな力で抉り取られたものだった。傷口は二段構えになっていて、浅く抉られた箇所の中に、更にザックリと削られた鋭い傷口がふたつ有り、一方の端で繋がっていた。それが天蓋を照らすと同時に静かに張られた水面もまたサアッと一面光り輝き、私はそれに目を眩ませられ乍ら、自分が今目撃したものの意味を考えようとしたが、目を射る光は私の頭の芯まで貫いてしまったらしく、思考はひたすら空転して、全く具体的な体を成そうとはしなかった。
光が過ぎ去っても、私はその儘天井の模様と傷跡の有った場所から目を離せずにいたが、それもそう長い間ではなかった。光がこちらに移動して来て、私自身が眩いばかりの光に押し倒されたのだ。余りのことに私の全神経はフッと何処かへ抜け出してしまい、私は何も考えられなかった。その時の私は焦ったり恐怖に駆られたりすることさえも出来ずに、唯々意表を衝かれて、その場所に造り付けになった彫刻か何かの如くに、呆然とその光の方へ凝っと顔を向けた儘、凍り付いた様に固まってしまったのだった。光に遮られて、その光の背後に立っている筈のものの姿が全く見えなくなった。光は私の上に注がれた儘で固定され、私は息をすることすら出来ずに石の様に成って成行きを傍観した。
やがて、光が蛇の様に私の全身の上を這い回り始めた。そのものは私のことを検分しようとしているらしい、と、やっとのことでそれだけ考えることが出来た。私は驚愕の余り春先の寒い早朝に転がる屍体の様に目を見開き、口はだらしなく半ば開いて、目の前に翳そうとして反射的に持ち上げた腕を胸の下辺りでそれ以上動かせずに中途半端に止めた儘、抗う訳でも縋る訳でも逃げ出す訳でも探求する訳でもなく、無為にその光を浴び続けた。濡れた岩の上で身を起こし、たった一人この地底の暗黒世界で自らの不可解な愚かしさに駆られて取り残されてしまった哀れな狂人のことを、あの奇怪な闇の住人はどう見ていたことだろうか? 光は何度か私の身体全体を舐める様に動き回り、ひょっとしたら私の周囲の状況も併せて見ていたのかも知れないが、それから唐突に動かなくなった。そして、恐らくあの不思議な火の燃える低く唸る様な音に混じって、大きな革袋から空気が洩れる様な、微かではあるが非常に深い、振動している様にも聞こえる音が聞こえて来た。それは三秒か四秒程Bの音で続いた後、最後に少しだけ跳ね上がって終わり、後にはまた中断された沈黙が、耳には聞こえない影の影の様な谺として蘇って来た。その音がそれの呼吸音だったのか、それとも声の様なものだったかは見当が付けられない。そもそも私はそれが水の中から出て来てからと云うもの、呼吸らしき音も、声らしきものも耳にしてはいなかったのだ。それが生き物であると云うのであれば、呼吸音すら聞こえなかったと云うのは奇妙にも思えるが、それが、私の耳が余りにも怯え切ってしまっていて聞き落としてしまっていた為なのか、それとも私が火の燃える音だと思っていたあの奇妙な唸る様な音が実はそうなのか―――それにしてはその音は余りにも一様に過ぎた―――、それとも単にその呼吸音が余りにも小さくて私の耳では聞き取れなかっただけなのか、それともそれがそもそも呼吸を――少なくとも私が理解している限りでの肺呼吸を――行っていなかったのかは定かではない。とにかく世界はその光によってまた新たに何かを予期させる、速やかなる解決を要求して止まない喫緊の課題と成り、私が理解しなければならぬ意味を孕んだひとつの大きな謎と化した。私には、眩む光の壁の向こうから私のことを見詰めているあのふたつの大きな赤い瞳が、何故か直に見える様な気がした。〈恐怖〉が、闇の底から私を見詰めていた。私は魅入られた様に見詰め返し、一言も声を発することが無かった。白い闇が再び永劫をこの地底世界へと呼び込んだ。
やがて、光が退けられた。眩んだ後の目の中に、以前よりももっと平板で瀝青の様にねっとりと絡み付いて来る闇が流れ込んで来た。が、その中で聞こえて来たヒタヒタと云う濡れた足音が、私に新たな戦慄を呼び醒ました。それが私の方へ近付いて来ようとしている! 私から見て右側の空洞を照らし出す無数の光の輻を押し退けて、暗黒の塊が迫って来た。私の目が慣れたのか光線の加減に因るものなのか、その闇の中からふたつの赤い煌めきが浮かび上がって来た。そしてそれと共に、それの全身の切れぎれのシルエットが、或いはそう見えるものが、光と闇の狭間からのっそりと姿を現して来た。はっきりと見えた訳ではないし、また見えたのは飽く迄全身像ではなく移ろい行く断片が寄せ集まったものに過ぎない。私の精神状態も普通ではなかったし、全てが私の幻覚か、夢の続きだったとも取ることは出来る。だが私はあの光景を思い出したくない。単なる畸形の人間だったのかも知れない。自然は時に人間の想像も付かない悪戯をやってのけて見せるものだ。それが人に似てはいても人間と呼べる代物ではなかったとしても、それは単にそれが私の常識の許容限界を超えている様に思えるからと云うだけのことかも知れない。人類は………人類は造化の戯れの産物なのだろうか、今とは全く異なる可能性がこの世界とは別の所に用意されていて、我々の与り知らぬ所で綿々とその壮大なる歴史を紡いでいるものなのだろうか、我々の文明の目からは隠された栄光と地獄とが存在し、悠久たる時の流れの中で別の創世記の続きを書き続けているのだろうか、人類はひとつの可能性………全く未知のものが存在していたと云う事実に因って覆される我々の営々たる知識の連なり………これは私の恐怖が………
音がした。あの空気の洩れ出る様な深く静かな音だ。気が付くと、それが私の顔を、瞳の中を覗き込んでいた。凝然たる時が過ぎ、私は見通すことの出来ない深淵の深みを覗き込んだ。目を刺し貫く様な光線の中に、物理的な闇や、絶対の孤独や閉塞、空腹や疲労や寒さよりも遙かに恐ろしいものが、未知が、別の相貌を見せようとする過去と、現在と、そして全く予想の付かない未来とが、浮かび上がっていた。私は悲鳴を上げずに、唯その彼方の光景に見入っていた。
やがてそれは身を退き、元来た所から再び水の中へ没して行った。あの微かに緑掛かった白い火か火花の様なものを燃え上がらせた不思議な松明は、やはり水の中でもその光輝を減じること無く、更に深くへと続く階段の先の、水中世界の通路を照らし出して行った。私は弾かれた様にその長い目覚めた儘の眠りから目覚め、水際へ這って行った。階段を降りて行くそれの後ろ姿が見えた。闇の中の透明な水を透かして、両側の岩壁が先の方でやや低くなり乍らも、明らかに人工的に刳り貫かれたと思しき正確な円を描いて、真直ぐに更なる深部へと続いているのが見て取れた。と同時に私は、まだ残光が閃いている内にとばかり、水面より上に出ている空洞内の様子を、先程までの様子を思い出し乍ら素早く一瞥した。何とか見分けることが出来たのは、水面に近い極く低い所ばかりだったが、その何処にも、別の空洞へ通じている様な抜け穴は開いていないのが判った。或いはそれは速断に過ぎた早とちりだったかも知れない。だがその時の私は何の疑いも躊躇いも持たず、直ぐ様その立ち去ろうとしている光の後を追うべく行動を開始した。
酸素タンクは鉛の塊の様に重かったが、直ぐに見付けて、体の痛みに苦しみ乍らも何とか装着することが出来た。ところが足ヒレには問題が有った。何時の間にかぷっくりと腫れ上がった両足のサイズが足ヒレに合わず、しかも無数の擦り傷や切り傷が出来ていた為に、無理に中に入れようとすると激痛が走ったのだ。私は諦めて足ヒレを再び腰に括り付けようとしたが、手から滑り落ちて上手く行かないので、到頭地面の上へ放り出してしまった。それからゴーグルとマウスピースを戦慄き乍らも手早く装着し、水辺でふらついて水の中に倒れ込みそうになったところでハッと気を取り直して体の準備を整え、性急によろよろと階段を降り、水中へと没して行った。その時の水音の、何と騒々しく鳴り響いたことか!
恐らく醜く腫れ上がっているであろう足が、焼き鏝を押し付けられた様に痛み出した。水に沈んで行くにつれて浮力が私を持ち上げ、私はまたあの重力から解放され、同時に周囲全体から圧迫される頼り無い感覚の直中に放り込まれた。背骨から内臓、尾骶骨の辺りまでがキュッと締め付けられる様な緊張が走ったが、若し私がこの時より前に何か口にしていたら、みっともなく胃の中のものを吐いてしまっていたことだろう。だが目標が出来た時には、そうでない時に比べて人間の耐えられる限界はずっと拡大されるものである。前方の光は早くも私との距離を空けつつあった。私は充分に身体の調子を確かめてみようともしない儘、急いで体勢を入れ換えて、全力で泳いで後を追い駆けることにした。通路の広さは充分に有ったので、何処かにぶつけるのではないかと注意し乍ら行く必要は無くなったが、向こうが依然として二本の脚で階段を降りて行っているのにも関わらず、相手との距離は縮まろうとはしなかった。懸命に私は手足を動かしたが、悪夢の様な長い長い数分間が過ぎてみると、光は更に遠くなっていた。結局酸素の残量を確認出来なかったことが何度か気にはなったが、次第に胸の苦しくなる様な不安と焦りを感じ始めていた私は、更に速度を上げようと、些か無茶な、しかし恐らくは甲斐の無い努力を続行した。水中の階段を、私の様な器械的な補助も無しに平然と無言で下って行くあの人ならざる人は、私のことなど気にも留めていないのか、一度もこちらを振り返ったりすること無く、暗黒の地下世界の底の底へとするすると入り込んで行った。時折光の加減に依って、天井部分に何か幾何学的な浮浅彫りの模様の様なものが浮かび上がった様だったが、私にはそれらを見ている余裕なぞ無かった。若しきちんと見ていたらとても冷静ではいられなかったであろう、幾つもの途方も無い深秘への鍵を素通りして、私は先を急いだ。ひょっとしたらこれが何かの罠で、それは私を何処か恐ろしい秘密の場所へ誘い込もうとしているのかも知れないと云う考えも一瞬私の頭の中を過ったが、正直に言って、そんなことは私にはどうでも良かった。仮令自分が灯火に惹き寄せられる蛾だったとしても、それは私の関心の外に在った。とにかく只前進すること、ここまで来たからには更なる驚異の僅かな片鱗たりとも見逃さないことこそが、既に私の行動目的であり、存在目的であり、今ここに私が居ることの意味の全てであった。
突然、光がフッと消えてしまった様な気がして私は動揺したが、よく見ると光は岩棚か何かの陰に隠れただけで、洩れ出た光がまだその先が有ることを示していた。どうやら直線コースが終わったらしいことに気が付いた私は、気を取り直してその曲がり角まで行ってその向こうを見渡した。通路は更に大きな空間へと出たらしく、最早照り返す壁面は影も形も無かった。階段はどうやら水平の道へと繋がったらしく、先の方が明らかに石のブロックで舗装されているのが遠く見て取れた。ぼんやりとした、鋭いが何処か儚気な淡さを感じさせる光の拡散する領域は既に私から三百フィート以上離れてしまっていた。遙かなる広大な闇の孤独の中に、天の星がその儘落ちて来て鬼火に化けた様な幻想的な光輝がゆらゆらとちらついている様は、とてもこの世界のものとは思えなかったが、それは私に残された最後の道標だった。夢の続きを見続けているかの様に冷静な判断力を失い我を忘れて、私は全力を挙げてその後を追ったが、目に見える世界は刻々と私の手の届かない彼方へと遠ざかりつつあり、自分にはそれを止められないことが、私にもひしひしと解った。再び私を完全に閉じ込めよう四方八方からにじり寄って来る暗闇は、最早、私を握り潰す力さえ持った恐るべき巨大な魔の手と成って、光がその儘立ち去って行くその最後の瞬間を、虎視眈々と狙っていた。
その内、頭頂部に唐突な衝撃が起こった。恐らく気が付いていなかった岩の出っ張りか何かに頭をぶつけて、気を失ったか、気が遠くなったかしたのだろう、それが一瞬のことだったのか、それとももっと長い間のことだったのかは判らない、衝撃から立ち直って頭を小刻みに振って意識をしゃんとさせると、視界は完全な暗闇に閉ざされていた。私に外界の情報を与えてくれる最も頼もしい味方であるあの光は、もう何処にも存在してはいなかった。後には唯、何かに耐え忍ぶ様に繰り返される押し殺された私の呼吸の音と、瞑黙する様な心臓の鼓動、そして、それらによって却って際立たせられた絶対の静寂の中に何ひとつ分からずにぽつんと漂う、私が在るばかりだった。
私は再び、進むべき道どころか方向感覚も、上下の感覚すら失っていた。フラフラとよろめく様に闇雲に周囲を探ってみたが、手には掴み所の無い重い水の感触が返るばかりで、固形のものには何ひとつ行き当たらなかった。仮令どれだけ悍ましかろうと、それがどれだけ私の常識に、現存する世界についての知識の全体系に反していようと、あの異形のものには確かに生命の気配が有ったのだが、今やそれすらも鉄壁の暗黒の向こうに行ってしまい、私はこの無限に続く様にも思われる真っ暗な死の風景の中で、たった一人だった。不図思い出して、縋る様な思いで腕時計の照明を点けてみたが、今が二時十五分だと云うことが判っただけで、それ以上全く何にもならなかった。私は光からも重力の恩寵からも生命活動の息吹からも見放され、このちっぽけな時間の記憶を胸に抱いた儘、絶望することすら出来ずに固まった。それから圧倒的な闇の全てがぐにゃりと歪み、捩れ、私を呑み込んだ様だった。
それから暫くして私はまた再び泳いでいた。何処へ向かっているのかも、上へ向かっているのか下へ向かっているのかも判らない、全くの盲滅法の前進だった。私はひとつのがらんどうの空白と化して只機械的に両脚を動かし続けていたが、目は何も見てはいなかったし、手は無為にだらりと後ろへ伸ばされた儘、何を掴もうともしていなかった。私は未だ見ぬ出口へ着実に近付いているのかも知れなかったし、前人未到の恐怖の深淵へ自ら落ち込もうとしているのかも知れなかった。全く出鱈目にあちこち彷徨っているだけかも知れなかったし、或いは同じ所をぐるぐる回り続けているのかも知れなかった。自分が動いているのか止まっているのかも定かではなかったし、そもそも自分が生きているのか、それとも疾っくに死んで無明の冥界の巡礼を行っているのか、存在しているのか、それとも未だ分明ならざるものが存在しようかしまいか思案を続けている、没存在の変幻する境界領域の直中で迷子になっているのか、私には判断する術は無かった。私は失われたものどもの影に蠢く、硬直しくたびれた未決状態だった。世界は混沌以前の純然たる黒の凝集体で、未だ何物もそこから生まれてはおらず、また生まれそうな気配も無かった。前も後も無い、「永遠」とさえ呼べそうにない、全てのものを圧殺せずにはおかない虚ろな広がりの中で、曾て「私」と呼ばれていたものが闇と同化し、混じり合って、それ自体で充足した完全なる欠如として、静かに眠り続ける恐怖の卵と成った。
終末でも始源でもないものに抱かれて、私は何時の間にかまた眠っていたのかも知れない、或いは、闇が幻覚を齎したのかも、生命体としての私の自己保存の機能が、予想もしなかった形で奇怪な反作用を引き起こしたのかも知れない、気が付くと私は光の中を泳いでいた。いや、正確には、光り輝く軌跡が入り乱れる闇の中を泳いでいた。光はやがて様々の鮮やかな色彩に変化し、軌跡はやがて線から点に変わり、高速で自在に動き回る幾つもの光る物体へと姿を変えた。実に美しい色彩だった。まるでネオンサインの様に鮮明なのに人工的などぎつさはまるで無く、先程の謎の松明の光の様に明るいのに、あの冷たく突き放す様な感じは無く、寧ろ見る者を暖かく包み込む様な柔らかい感じがした。それはどうやら角度に依って、或いはもっと何か不規則なパターンに従って色を変えるらしく、一瞬前にはシベリアの黄昏の様な鋭く切ない深紅に輝いていたかと思うと、次の瞬間には溶鉱炉の中でくつくつと煮え滾る鉄の様な眩しい黄色に成り、熟れ切ってはち切れんばかりのオレンジかゴールデンイエローに転じたかと思うと、そこから更に深くまろやかな菫色から仄暗く神秘的な濃紺に変わったりした。全ての動きがあまりにも流麗で滑らかで、丁度浅い海底の発光生物が発する光の様な有機的な優しさに満ちていて、私は変色する特性の有る蛸や烏賊の変身する様を思い出したが、私の感激はそんなものを見た時の比ではなかった。そこには極上の絹の様な洗練された感じと、暴発した爆竹の様なドキドキさせられる荒々しさが同居していた。光は闇の中に長くうっとりとする様な尾を引いてあちこちへと動き回り、その度に目に綾な、しかし目が眩む程ではない美麗なる曲線が漆黒の上に描き出された。それは妖しくも余りにも荘厳な舞踏であり、まだ生まれて間も無い神々が、あらゆる美しいものをこれから創り出そうとあれこれ試している時の奔放な自由さと、それ自体で完成された、非の打ち所の無い完璧な秩序とを併せ持っていた。私はそれ程までに美しいものを見たことが無かった。文字通り胸が締め付けられて私はピクリとも動けなくなり、息が止まって卒倒しそうになった。それまでに経験したことの無い、その場で世界が大爆発を起こした様な激しい歓喜が私を襲い、それと同時に、その圧倒的な美から情け容赦の無い恐怖の放射線が放たれて来た。法悦と共に死が訪れて私の内奥の――自分でもそれまで知らなかった最深の内奥の扉を叩き、ゆっくりと抉じ開けようとしていた。だが眩暈のする様な激しい鬩ぎ合いの果てに歓喜が仮染めの勝利を収め、この美をもっとよく見たい、もっとよく知りたい、もっと近付いて唯ひたすらに崇めたい、跪いて讃えたいと云う衝動で以て私を探求へと駆り立てた。それは素晴らしくも恐ろしい体験だった。私はそれ以降〈神秘〉の持つ力を過小評価したことは決して無い。
物体は素早く動き回るので目で追うのが難しく、精確なところは掴み難ねたのだが、数は少なくとも五つか六つ、大きさは私の拳より一回り大きい位で、形はそれぞれ球や正四面体、正六面体等だった。信じられないことに聞こえるかも知れないがこれは事実で、それらはまるで幾何学の教科書からその儘抜け出して来たのではないかと思わせる程に、驚く程整然とした形状をしていた。速度や軌跡、細かい動き方には、一見したところ特にこれと判る規則性は発見出来なかったが、それらはまるで妖精が戯れて飛び回る様に私の周りに集い乍ら、気儘に行き来している様に見えた。鰭もスクリューも無く、磁力や電気的な反撥力等によって動いている様にも見えないのに、そられが一体どの様な仕組みで動いているのかは全く不明だったのだが、よく観察してみると同じ色彩の様に見えても単なる陰影とは異なる微妙な濃淡がそれらの表面で絶えず変化しており、若しかしたらそれらは表面に於ける何等かの微細な運動か、或いは私には一寸想像の付かない、何か目には見えない力の変化の表れではないかとも思えた。それはCGで描いた様にすっきりとして斑が無かったが、或る種のロボットが時折そう見えることが有る様に、何故だか何処か意志と意識とを持っている様な、我々のものとは懸け離れてはいるが、それ独自の生命体系を有しているかの様な印象が消えなかった。
背中全体に貼り付いた奇妙な寒気に無視出来ぬ不安を覚えつつも、私は何度も何度もぐるりを遠慮無しに見回して―――それまで自分が泳ぎ続けていたのかそれとも立ち止まっていたのかは定かではないのだが―――、ゆっくりと前へ―――何処へかは自分でも解らなかったが、単に位置を変えてみようと云う以上の意志を以て、前方へ進んで行った。すると、その天上の積み木細工等は私が動くのに合わせて、飛び回る位置を急に変えて来た。そして私の頭の斜め上に球がふたつ飛び出したかと思うと、忽ち、その内の一方がチョコレートが溶ける時の様にぐにゃりと歪み、リング状に変化して、もう一方の球とぐるぐると円を描いて追い駆けっこを始めた。その動きに私は一瞬愛嬌を感じ、不安が笑いと成って一度だけ爆発しそうになったが、直ぐにその動きに魅せられ、そして、そこに何等かの意味が有ることに気が付いた。球とリングとは、私の手首の太さ位から私の頭がすっぽり入りそうな位まで、円の大きさを一定周期で変え乍ら、軽やかに上下に動き始めた。それが、こちらへ向かって来る時はゆっくりと、こちらから離れて行く時には素早く動くので、それは丁度、案内しようと私を誘っている身振りの様にも見えた。他の物体はその間動きが緩慢になっていたが、それは私に、頭上のふたつに注意を集中せよと促している様でもあった。何と云う狂気の沙汰だろうか、私がこの誘いに応じ、その円の方向へと動いてみせると、全ての物体は数瞬一斉にその光を強め、それから球とリングとが、更に私を誘うかの様に、一フィートばかり上の方へ移動した。私がその動きに従うと、私の周りを泳ぎ回っていた他の物体達も即座に移動を開始し、こうして私は、永遠の闇夜に訪れる奇妙な光明の御使い達と共に、何が待ち受けているのかも分からぬ深淵へ向かって、不可思議な巡礼を始めたのだった。
先導役の蛍光色の回転灯は数秒毎に次々と色を変えて行ったが、或る種の深海魚の様な、アクアマリンか、さもなくばもう少し明るいライム色に光ることが多く、どうやらそれがそれらの基調色なのではないかと私は推測した。不意に思い付いて腕時計の照明を点灯させてみると、途端に、正四面体のひとつが文字盤の上に駆け付けて来て、魚の鱗を思わせる、目の冴える様な銀色に光り輝き、それからその場でその色の儘数回明滅した。照明が時間切れで消えると、興味を失くしたのか再び青や黄色や紫に輝き乍ら、私の周りを回り始めた。
私は泳ぐことを止めはしなかったが、自分の目の前で展開されて行く非現実的な光の乱舞に質的な平衡感覚さえ薄れてしまったのか、泳いでいると云うよりは宙を漂っている様な気分がした。私は然乍ら気紛れな星々と戯れる迷子の宇宙飛行士であり、宇宙の深部での創世劇に巻き込まれた新参のガス雲の様なものであった。物体達は時に網に絡まったか口に釣り針を呑み込んでしまった鮫の様に身体を激しくくねらせたり、原子核の周りを回る電子の様に猛スピードで私の周りを回転したり、内省的な画家の躊躇いがちな絵筆の様に脆そうな曲線を描いて上昇してはまたジェットコースターの様に急降下したり、呑気に散歩でもするかの様にのろのろと遠くへ外れて行ってはまたふらりと近付いて来たり、実に一貫性の無い動きで私を戸惑わせたが、先導役のふたつの物体達だけは、その様な意表を衝く様な動きは少なく、基本的にその進行方向をブレさせることは無かった。これらは何等かの人工物なのだろうか、そうだとしたらそれは機械的なものだろうか生物的なものだろうか? それとも我々の思いも寄らざる数奇な進化の過程を経て来た奇怪な生物なのだろうか、それともそれらは外宇宙から飛来して来た、全く未知の生命体系に属する異種生命体なのだろうか、それともそこにそもそも「行動」と云うカテゴリーを当て嵌めることが適切に思えるなどと云うこと自体が初歩的な錯誤に由るものであって、実は全く別の次元の全く未知の原理に基付く振舞いが、この世界では偶々その様な見掛けを取るだけなのだろうか? 若しそこに意志や知性が介在しているのであれば、それらは一体何を目的にしているのだろうか? これらの背後で、全てを遠隔操作している何者かが存在しているのだろうか、それともこれらは各々が独立したロボットの様に行動プログラムを組み込まれているのだろうか? 少なくとも回転する二体が統率の取れた様に見える行動を取っているのは、ひとつに意志に由るものなのか、それとも各々の意志に由るものなのか? それともそこに目的や知性などと呼べる様なものは存在せず、単に低次の習性や性癖、本能的な行動パターンの集積がそうさせているのに過ぎないのだろうか? 先程私が目撃したあの悍ましいもの、あの現生の人類文明とは全く別種の文明の存在を仄めかすあの人類ならざる人類との関係は如何なるものなのだろうか? これらは彼等が使用する道具なのか、使役する家畜の様なものなのか、それとも崇拝の対象となる神の様なものなのか、それとも隣人か、或いは敵か、或いは全くの没交渉でひょっとしたら互いにその存在すら知らないのだろうか? 尽きせぬ疑問が泉の様に湧いて来ては闇の中へと流れ去って行ったが、それらは一時私の心を掻き乱すことは有るものの、総じて深刻なものに成らぬ内に美と行動との前にその力を弱め、黄昏の最後の輝きが何時の間にか全く見分けが付かない内に夜の中へ溶け込んでしまう様に、時間と空間の背後に雲散霧消して行ってしまうのだった。
果たしてどれだけの距離を、時間を、私は泳いだのだろうか。漆黒の牢獄の中の賑やかな一行は、何度思い返してみても夢の様に幻想的で、現実以上に生々しく、それでいてこの世界内での出来事と云う気が全くしない、不可思議な泳行を続けて行った。途中何度か向きを変えた様にも思えた時が有ったが、夢現の儘ははっきりとは憶えていない。私は疲労の極みにあった筈で、確かに、肉体はもうすっかり固くなってまるで木製の操り人形の様な具合になっていたが、それでももう先へ進めないとは全く感じなかった。疲労は確かにそこに有ったのだが、まるで水族館の分厚いガラスの向こうでクラーケンが倒れて水底に沈んで行くのを眺めている様なもので、それは私自身には全く害を及ぼさなかった。一体何処からそんな活力が湧いて来るものなのか自分でも解らなかったが、私は彼等に遅れを取ること無く―――彼等の方で私の速度に合わせてくれていただけかも知れないが―――泳ぎ続け、時折彼等の光線によってぼうっと岩壁が照らし出されるのを、何処か遙か遠くのことの様に覚え乍ら、導かれる儘、従う儘に、ひたすら前へ前へと突き進んで行った。それは実に濃密な時間で、私は闇に閉ざされた何十トンもの水の中に居たのではなく、目眩めく色取りどりの光輝に抱かれていたのであり、曾て私がそうであったところのもの、今現にそうであるところのもの、そしてこれからそうなるであろうところのもの――それら全てが、その光の中に集約され、解体され、新たな生命を吹き込まれて、この夢幻の戦慄の境界、麗しく血も凍る恐怖の諸世紀の中で、静かに生き生きと息衝いていた。………だからこそ、彼等が突然居なくなってしまった時、私は急に夢の中から強制的に叩き起こされた者が、目の前のことが現実なのか夢の続きなのか区別が付かず、夢の続きであれば先程までのところからやり直そうと再び元の領域へと還帰しようと空しい努力に精を傾ける様に、あの光輝を必ずや取り戻さんと、再び訪れた完全なる闇と沈黙の中へ突進して行ったのだった。
彼等の消失はこんな具合だった。突然、先陣に立っているふたつの物体達が、薄赤色に二度明るさを増した後、それぞれの下部から、赤、次に濃紺、そして黄色と続く連続的な色のうねりが迫り上がって来て、気が付くと他の物体達も、同じパターンの光り方をしていた。そして全ての物体達が位置を変えて、それぞれの周囲に広がっている光輪が互いに連結し、ひとつの大きな光の輪を成したかと思うと、その輪が最初はゆっくりと、しかし直ぐに高速で回転を始めて移動し、前方へ二十フィート程動いたところでフイッと掻き消す様に消えてしまったのだ。その後は全く何も起こらなかった。光は完全に消失し、再び闇が、手で触れられそうな位実在感の有る絶対の闇が、もう何も言ったりするものかとばかりに取り付く島も無い無情な沈黙の帳を垂らした。死が、冷徹で不可侵にしてそれ自体で完結した〈死〉が、最後に世界を覆い尽くした。
混乱し、何も考えられなかった私は、殆ど自動的な衝動に従って、彼等が消えた場所へと奮然と移動した。だが空しく突き出された私の両手にぶつかったのは何の変哲も無い岩の壁で、何処かに抜け道や曲がり角は無いものかとその近辺を慌ただしく探ってみたのにも関わらず、成果は皆無だった。一足飛びに恐慌に陥ろうと騒ぐ心の中からようやっと冷静な判断力の切れ端を引き摺り上げて、本当にあの物体達は壁の中へ吸い込まれて行ったのか、何等かの未知の通路かもっと精妙な手段に依って通り抜けて行ったのか、それとも砂糖が水に溶ける様に急に分解して消失してしまったのだろうか、それとも単に光が消えただけで、物体そのものは光を発しない儘ひょとしたら不活性化してその辺の水の中を当て処も無くゆらゆらと漂っているのではないだろうか、と様々な想像を巡らせてみたが、そこから何等の有益な結論が導き出されて来る訳でもなく、私は、じわじわと爆発の時を待ち構え始めたパニックの芽を摘むことに意識を集中せざるを得なかった。
一頻り心を落ち着け、その後でまたお世辞にも統制が取れているとは言い難い手順で、非効率的で甲斐の無い探索を再開し、やはり何等の進展も無く、しかもまたしても行き止まりに打ち当たったことで、また新たな進路を、今度は自分自身の手で発見しなければならなくなったことが明らかになると、腹の底に大きな氷の塊をすっと落とされた様に冷え切った恐怖が私を包み込み、私の思考も動作も停止させた。これまでに無かった程の巨大な孤独感と隔絶感が一気に膨れ上がり、私は、この暗黒の、場所も行き先も分からない牢獄の中で、本当に一人切りで、助けてくれる者は疎か、私の不安を察知してくれたり、私の存在を認知してくれる者すら絶無なのだと云う事実に、殆ど我を忘れて、その儘正気まで手放してしまいそうになった。慄然たる認識が、生理的な恐怖に遅れること一世紀にしてゆっくりとした足取りで遣って来て、招待されていない厚かましい客宜しく、平然と私の意識の中心にどっかと腰を据えて、知識を持つ者が座を占めるあの傲然たる高みから、にやにやと薄ら笑いを浮かべ乍ら、私の混乱と苦悩を悠然と見下ろして来た。私は突然沢山の警官に取り囲まれ、全く身に覚えの無い罪状で有無を言わせず逮捕されてしまった者の様に、急に保証を失ってしまった状況に頭も身体も付いて行かず、いきなり噎せて少し水を飲んでしまい、鼻の中を水が逆流して暫し苦しい咳き込みをし、大量の空気をその隙に無駄にしてしうまで、自分が呼吸をしていなかったことにも気が付かない始末だった。
どの位そこで呆然としていただろうか、直ぐに探索を再開する気にもなれずに、死んだ水母の様に無為に水中を漂う儘だった私は、しかし、そこで、変化が訪れていることに気が付いた。それまでインクですっかり塗り潰してしまった様に救い難いまでに圧殺的だった一面の闇に、斑が出来ていたのだ。そのノイズが何処から紛れ込んで来たのか、何が原因でそうなったのかは、私には解らなかったし、そのことについてあれこれと推測を逞しくする余裕も、その時の私には残されてはいなかったのだが、次第に目が慣れて来るにつれ、ぼんやりと霞む濃淡が私の錯覚や思い込みに由るものではなく、実際の知覚風景である様に思われて来ると、私の中に、光がまだ何処かに居るのではないかと云う、殆ど思考にもならない希望が湧き上がって来て、私の精神と肉体とを再びしゃんとさせ始めた。それが錯覚よりも尚悪い幻覚に因る虚像ではないかと云う疑問は、この時は欠片も頭を過らなかった様に思う。私の意識は、私に知覚されるあらゆる事象を全て現実の、と云うよりも唯一のものとして受け容れており、疑念や合理的蓋然性と云った代物が入り込む隙間は無かったのだ。仮令そうしたことどもが目を覚ましていたとしても、その時の私は、それらをも引っ括めて、全てが現実であるという結論に満足していたことだろう。私は走光性を持つ昆虫が当然そうするであろうのと同じ様に本能に導かれる儘、光を求めて、しっかりと再び泳ぎ始めていた。
自分では気が付かなかったが、私は恐らく、上へ向かっていたのだと思う。鼻の奥を中心に感じる苦しい閉塞感が、水圧が急速に変化していることを告げていたからだ。黯く蜷局を巻いた、ぼんやりと霞の掛かった闇は、程無くあの見慣れた、夜明け前の厳粛な暗さに変じて行った。そして一瞬一瞬の変化が来るべき曙光の訪れを予告し、闇が再び形と領域と影とを持ち始めて行ったかと思うと、突然、重く厚い水の壁を貫いて、神々しいまでの無数の輝かしい光の輻が差し込んで来て、ゴーグルの奥の私の両目をものの美事に射抜いた。私はまるで今生まれて初めて光と云うものを目の当たりにした者の様に思わず目を閉じようとしたが、何か見えざる力が私の瞼につっかえ棒をでも嵌め込んだかの様に、瞬きひとつすることすら出来なかった。
光は前方の右斜め上から真直ぐ私の方へ伸びて来ていたが、やがてその先に、半ば開いた口か目の様な、やや細めのアーモンド型の光源が見えて来た。あの光る物体達は方向を特定せず光を四方八方へ拡散させていたので、若しあの物体達がまた帰って来たのであったならば、恐らく岩陰か何処かに隠れているのではないかと思われたが、そもそもあのアーモンド型が、あの発光体に起因するものではないと云う可能性も考えられないことではなかった。事実、更に近付いてもっとよく見てみると、その凄惨なまでにどろりと赤く光るアーモンド型は、それ自体が光を発している訳ではなく、その向こうからの光を通す開口部に過ぎないのだと云うことが明らかになった。光はその窓の向こうの世界からこちらの闇の中へ手を差し入れ、フッと分け入る様に侵入して来て、透明な、不純物の無い大量の水を照らし出し、逆光になった岩壁を、黒い輪郭として切り刻んでいた。私がその無数の光の刃の中に手を翳すと、途端に幾重にも複雑に折り重なった影が指の間や掌の脇から流れ落ち、チカチカとまるで何かの戦いているかの様に瞬いた。
吸い込まれる様に私は上昇し、それにつれて赤い大きな目がぐんぐんと大きくなって行った。私はその外見に禍々しさを覚え乍らも、自分がそこへ近付き、そして洗礼を受けねばならぬことを知っていた。比較するものが何も無いので始めの内は距離感を掴めないでいたのだが、やがて私はそれが直ぐ近くに、自分の手の届く所にまで近付いたことを知った。それは悠久の静寂に閉ざされた分厚い岩の壁に開いた穴、と云うよりは裂け目で、長さは約三フィート強、抉れるかどうかしていたのかは定かではないものの、他の個所よりは薄くなっているらしく、縁の部分の様子が光に照らされてか微かにその周囲の様子を推測することが可能だった。そしてその向こうで光っている血の様な赤み掛かった色はゆらゆらと揺れており、私はそれが水面の揺らめきであることを確信した。
私はそこから外の世界へ浮上することを躊躇いはしなかった。裂け目の一番膨らんだ部分に手を掛けてみると、縁の部分が予想以上に鋭く尖っていたらしく、右手の掌を少し切ってしまった。恐らく血が流れたのではないかと思うが、私の右手の周りに漂う瘴気めいた妖しい影が、果たして自分の血液なのかそれともこの幻妖な光が疲れた目に見せた影の悪戯だったのかは私にも判らない。私はそれに魅せられて酔った様にぼうっとなり、傷の具合を確かめることもしない儘、もう少し安全そうな箇所を探してしっかりと手を掛け、自分の体を持ち上げた。
水の壁が雪崩を打って頭の上から落ち掛かって来るのが分かった。その重圧の中で、光と、外の世界と希望とが急速に私と見える為に近付いて来て、私を吸い上げ、呑み込もうとしたが、何故かいきなりその昇天は中断された。突然全身に激しい衝撃が走り、何かがぶつかる様な硬い音がして、何か見えない強大な手によって私の前進は阻まれたのだ。ここまで来て引き止められるのかと云う思いが一気に焦りを加速させ、興奮はその儘絶望へと転化して私の恐慌を煽った。私は無我夢中になって何度も外へ出ようと再試行した。だが何度やってみても身を引くことは出来るのだが、身を乗り出すことは出来なかった。私は激しい憤怒に狂った様になって突撃を繰り返したが、或る意味ではこのお陰で私は障害となっているものの正体に気が付いた。何度か全力でぶつかった為、肩に空気タンクのホルダーが食い込み、肉が千切れるかと思う様な激痛を引き起こしたのだ。問題なのはタンクだった。背中に背負ったタンクが裂け目には大き過ぎたらしく、私が裂け目を通過しようとする度に、上の方にぶつかって進行を阻害していたのだ。
痛みと合理的な説明とによって混乱と焦燥の直中に在り乍らも何とか冷静さの断片を取り戻した様に思った私は、どうにかして潜り抜けられないものかと身体の向きや位置を変えて試してみたのだが、やはり空気タンクを背負った儘だとどうやっても何処かにぶつかってしまった。焦りを倍加させた私は沸騰した怒りに気も狂わんばかりになって、タンクで裂け目の縁を壊して通れる所を広げようと、背中のタンクをガンガンと上側の岩に力任せにぶつけ始めた。後で冷静に思い返してみると、自分がどれだけ正常な判断力を失ってしまっていたが判って肝が冷えるのだが、これは勿論とんでもない暴挙であった。確かにタンクはその機能上可成り頑丈に造られいて、一寸やそっとでは壊れたりしないように出来てはいるが、若し破損でもしようものなら、中の圧縮空気が爆発を起こして、大惨事になりかねないのだ。それによくよく考えてみれば、何も無理をしてタンクと一緒に通ろうとせずとも、先ずタンクを先に押し上げて向こう側へ渡してしまってから自分が通り抜けるか、或いはもっと簡単に、タンクをサイドマウントにすれば良いだけの話なのだが、その時の私はこんな簡単な選択肢が存在することにすら気付かず、唯我武者らに強行突破を試みることしかしなかった。まぁ、後からでならどんなことでも言える。結局私は非合理的な怒りに任せて性急に重大な決断を下し、まだ心中に残る落ち着きを、これが最後の機会かも知れないと言う声によって押し殺して、固くなった腕を強引に回して、タンクを投げ捨ててしまった。手を離す際に私は一瞬だけ下を見たが、薄明かりによって照らし出された暗黒の深淵が、少しでも気を抜けばすぐにでも凄まじい吸引力で以て見る者を呑み込もうと待ち構えている様な不穏な錯覚が――錯覚と呼ぶには余りにも真に迫った実感が、私の心を疾風の様に掻き乱した。そして………これもやはり気の所為だろうか、鬱血している様に濁って蟠る闇の底に、何故か、青白い光が透けて見えた様な気がした。それは本当に目の錯覚だったかも知れないし、奔放な私の空想が暴走した結果、有らぬものが私の記憶の中に混入してしまっているのかも知れない。だが、赤っぽい霞の下に見える深い水の沈黙は、その時初めて、隠されていた本当の驚異の鱗片を私の前に現したか、或いは、これから目を覚まして恐るべきその未知の活動を開始しようとしているかの様に私には見えたのだった。自分が今、大地の支えの全く無い所をたった一人で漂っているのだと云う事実が再び私を捕え、凍り付かせようとしたが、この時は私が充分に意識的な行動を取っていなかったことが逆に幸いしたのだろう、私は私を深淵へ引き摺り込もうとする光景に脅威を感じつつも直ぐに背を向け、裂け目の縁に両手を乗せて思い切り自分の体を持ち上げた。私が押し退けた重い水と共に旧い世界が劇的な速度で流れ落ち、私が息を詰めて一瞬呆然とした後、ハッと気が付いてみると、それ自体で実体を持っているかの様な重苦しい闇は完全に背後の彼方へと過ぎ去って跡形も無くなり、代わりに、大量の血を打ち撒けた様な陰惨な色をした赤い水の光景が、見渡す限りに広がっていた。
鮮やかな血の色はゆっくりと妖しく揺らめいていたが、恐らく上方と思われる方角から差し込んで来る眩しい位の光の柱は、角度に依っては直接私の目を射抜いて来るので、私は断続的に盲目に成り、何色ともつかぬ痛いまでの染みが、瀕死の竜の様に目の中を激しく暴れ回った。頭の中では、実際には見えていない空気タンクがゆらゆらと暗い水底へと呑み込まれて行く光景が、取り憑いた様に繰り返し現れた。私はまるで自分の体から大量出血しているか、或いは私が何かに負わせた傷から出た血が世界を染め上げている様な忌わしい錯覚に惑乱し、水が入り乱れるゴボゴボと云う騒音の谺に気が遠くなりそうになり乍らも、悪夢の中でそうする様に必死になって、重さは有るが確たる手応えの無い水の壁に向かって空しく手を伸ばし、少しでも光の有る方へ近付こうと、闇雲に体を動かした。命綱である空気タンクを手放してしまったので、もう悠長なことはしていられなかった。若し直ぐに到達出来る所に水面が、空気が、地上世界への通路が存在していなかったら、何もかも一巻の終わりなのだ。私はこの様な大胆な賭けに出たことを後悔はしていなかった。いや、後悔するだけの正気すら既に持ち合わせてはいなかったのだが、一動作毎に苦しくなって行く呼吸と、重くなって行く手足は、是が非でも私の選択が正解であったことを要求して来たので、結果が判明するまでの時間は、それこそ無際限に続いて行くかに思われた。長い長い時間が過ぎ。赤っぽい光がより明るく、近くなって来て、そして遂に、大量の光が私の眼前で爆発した。
再び闇の中に舞い戻ってしまったのかと一瞬思った。だが直ぐにそれは急激な明度の変化によって一時的に盲目になっただけだと判った。だがまともに判断出来たのはそこまでだけで、後は唯、収拾の付かない混乱が暫く続いた。恐らく無茶な浮上をしたことで―――もう暫く前から浮力調整装置のことなど、その存在すら忘れていた―――急激な水圧の変化が身体が付いて行けず、重軽度は不明乍ら潜水病を発症したことに加えて、度重なる精神的なショックが事態を深刻化させたのだろう、それに長時間、やや暖かいとは云え水の中に浸かっていたことで、低体温症に罹っていたのかも知れない。それに極度の疲労と空腹が重なったのだ。具体的な症状としては、頭痛や目眩、腹痛や嘔吐感や平衡感覚の喪失、全身の細かい震えと痺れ、それに悪寒や発熱等が挙げられるだろうが、その時の私はそれらをひとつひとつ意識している余裕など全く無く、恐らく水から出たことでそれまで意識の辺縁に追い遣られていた故障が一気に噴き出して来たのだろう、とにかく何が何だか訳が分からず、全てのことがごちゃごちゃで自分の体に何が起こっているのか皆目見当が付かず、全ての感覚をいきなり硫黄の煙棚引く活火山の噴火口に放り込まれた様な大混乱に陥って、あらゆるものがバラバラになってはまた無秩序にくっ付いて来る様な、酷く具合の悪い混迷の直中で為す術も無く溺れてしまった。
血の海の中で踠き続けたあの経験は今思い出しても余り気持ちの良いものではないが、それでも体は多少なりとも何とかしようと解決を試みたのだろう、少し正気が戻ってみると私は、硬い岸辺に腕と頭を預けて荒い息を吐き、両目を貝の様にしっかりと閉じて、混乱が時間の経過と共に収まってくれるのを、凝っと辛抱して待っていた。その儘、眠りはしなかったが眠っていられた方が遙かに増しだった不快極まる錯綜した時間が過ぎて行き、私はどの時点でかは不明だが、水を吸った毛布の様にずっしりと重くなってしまって最早少し動かすだけでも一苦労の身体を、這々の体で岸の上へ引っ張り上げ、尚もぐるぐると回ったりグラグラと揺れたりする世界にひたすら耐え乍ら、私が知っている形の有る、はっきりと理解の出来る世界が少しでも早く戻って来て私をこの賑々しい争鳴から引っ張り上げてくれるのを待ち続けた。何時の間にか水を飲んでしまっていたらしく、熱い溶岩の様な咳が立て続けに噴き出したが、他にも、耳や鼻や全身の毛穴から、あのねっとりと重い闇の水の残滓が、瘴液の様にじわじわと滲み出して来るのが感じ取れた。その衝撃が判別出来る様になって来ると、今度は全身に豪雪の様に降り積もった疲労が、熱いのか寒いのかよく判らない乍らも私の身体の不安定な境界をさんざんに弄び、噴火寸前の海底火山の様な気分にさせた挙げ句、肌に当たる岩の凹凸を、まるで千尋の谷の様に感じさせて私を竦ませた。
更に暫くして、私は何時の間にか金床の様に重くなっていたゴーグルを外してしまったものらしい、苦しい息の底から水に濡れた儘の瞼を薄らと開けると、あの凶々しい赤い色が更に鮮やかさを増して無遠慮く直接目に飛び込んで来た。その余りの毒々しい痛烈さは物理的な衝撃として私の脳天を貫き、私が反射的に頭を起こそうとすると、途端に、あらゆる重力の法則が崩壊して好き勝手に歪み、捩れ、天地が引っ繰り返ってしまったかの様な何もかもが意味を成さない不均衡感が襲って来て、私を色々な方向へ撓め、潰し、岩の中へ連れて行こうとした。私はどうバランスを取って良いかも判らず、その壊れたジェットコースターに翻弄されるに任せ、春先の泥の様な睡魔と必死で戦っている時の様に有りっ丈の意志を掻き集めて、私が私でいられる時間を少しでも多く長くしようと奮闘した。大気中のものだと判る、あのまごつかせられる掴み所の無い谺によって、只でさえ断片的な視覚情報は更に分断され引き裂かれたが、それでも何とか数をこなしている内に、今自分が居るのが天井の低いドーム状になった洞窟で、ざっと見たところ最大直径が二百フィートは下るまいと云う、赤く輝く地底湖を縁取る、細長い岸の上だと云うことが、何とか判って来た。そしてその全てに充満している赤く物憂気な光は、全て何処か一箇所に開いている裂け目から発しているのだったが、奇妙なことに、それは私がここの水面へ出て来る時に潜った裂け目と同じ、ぱっちりと見開いた目を思わせるアーモンドの様な形状をしていた。場所を特定するのにまた可成りの混乱を要したが、やがて天井が鋭角に岸と交わる辺りだと判明し、私は、世界そのものをぶんぶんと振り回している様な狂乱の直中で、必死で自分にしがみ付き乍ら、死に物狂いでそちらの方向へ向かって這い擦って行った。
裂け目の近くに辿り着いてみると、これまたおかしなことに、裂け目の形ばかりでなく大きさの方も、先程私が潜り抜けた水中の裂け目と略同一のものであることが判った。若しその時の私がもっと冷静であったならば、当然最初の裂け目と二つ目の裂け目との関連性について好奇心をそそられ、観察と考察を行ったことだろうが、その時の私は一桁の足し算さえ出来ない程の悪性の酩酊に苦しんでおり、とてもそれどころではなkった。あの機会を逃してしまったことは残念である。私は前と同じ様に縁に手を掛けたが、最早どの形が自分の手なのかも覚束無かった。それでも私は裂け目に沿って斜め上に自分の身体を持ち上げ、これで最後になる筈の――そうであって欲しい――地底世界からの出口を潜り抜けた。
瞼の裏側の光景と区別の付かない光の洪水に圧倒されて、私は岩だらけの斜面を崩れ落ちる様にふらついて足を滑らせて尻から倒れ込み、次々と圧し掛かって来る光の矢に手を翳し乍ら、癲癇の発作でも起こした様な全身の細かい震えに硬直して、激しく絶叫する瞬間達の直中に捕えられた。それから徐々に目が慣れ、万物の色や形や輪郭や境界が混沌の中から浮上して来ると、凄まじく魁偉で壮観な光景が眼前に展開して行った。
先ず真紅の球体の形をした玉座が有った。夕陽か朝陽かだったのかは定かではない。それは大量の積乱雲をたっぷり身に纏って堂々たる光景の中心を占め、その過酷なまでに截然とした形態を分厚い水の壁の向こうに透かし見せ乍ら、燦然たる光輝を雲や空や地上のあらゆるものの上に注ぎ掛けて、凡そ人の想像の限界を試す様な過剰なまでに多様な色彩に万物を染め上げていた。巨大な血球の様な深紅の周りを、溶鉱炉の様な目の眩む灼熱のオレンジ掛かった黄色が縁取り、その上方を最も美しい時の月さえも凌ぐ冴々とした白銀が取り囲んで、その下を切ないまでのカーマインや目の覚める様な絢爛たる黄金色が漂い、それら全ての周辺で所々、ワインレッドからマゼンダに掛けての美事な深みの有る色が、躊躇いがちに彩りを添えていた。広大な背景にはセルリアンブルーからミッドナイトブルーまでの広がりを纏った黯々とした夜空が広がっており、個々の星々の色が各々の来歴を雄弁に物語る程に闇を通してくっきりと透かし見え、真紅の光の爆発の方に近付くにつれて、両側に菫色と藍色を従えた妖しい紫色が何か強大な陰謀でも巡らせているかの様に闇と混じり合って如何にも形容し難いグラデーションを展開していた。そして境界線では様々な種類の青や水色や信じられない程鮮やかなシアン色が入り乱れて輝き溢れる雲の大勢力と覇権を争い合い、粗雑な感性によっては到底捉えられないであろう、千変万化の微細な混合色を次々と休むこと無く生み出していた。そして滲んで下方に広がった赤の勢力圏と黄の勢力圏が幽玄に粧いをした黯々とした闇と接する所では、清冽な蛍光色の様な透明感の有るライム色が、棚引く層雲を傍目に見乍ら、この世のものとも思われない非実体的な濃淡の膨らみを見せていた。虹やプリズムや様々な種類や年齢の星々から抽き出し得る限りの色彩を抽き出し、それ自体が独立した生命と成るように慎重に培養し、それを深遠なる思惑を持った偉大なる造化の手によって全宇宙に鏤めた様な夢幻的な一大有機絵画が、生命と理法の神秘と驚異、恐怖と法悦を謳い上げ、無限の宇宙の隅々にまで届くようにと、力の限りフォルテシシモで活性化していた。究極の謎と解答が、呼び掛けと応答が、覗く目と覗かれる目とが共にそこに在った。宇宙は宇宙を見ていて、見られている宇宙は見られることに先立つ宇宙であると同時に見られることに因って初めて存在する宇宙として、見掛けの堅固な矛盾の遙か彼方に聳え立ち、無窮の空漠を哄笑と慈愛とによって超越していた。その光と闇との一大響宴は無言の、言葉の不要な次元で絶望と希望とを共に乗り越え、あらゆる調和と意味の有る沈黙を残らず拾い上げ、呑み込み乍ら、それ以上何等の説明も解釈も必要とせずに、一心不乱に爆発していた。それは一種の啓示だったのかも知れない。だがそれはそうだったとしても、恐らくは「解読を許さぬ」啓示だったのだ。余りの生命のエネルギーの目的と方向の過剰に圧倒され、何も言えずに座り込んでいた私は、それが一体何を意味するものなのかさっぱり解らなかったし、今になっても全く解ってはいない。但、それは確かに私の全存在が創り変えられた瞬間であったし、それまでの旅の全てが焦点を得てはっきりとした形を取った瞬間であった。これ以降私は以前の私ではなくなったし、洞窟に入る前の私と出て来た後の私とでは、単にそれまでの記憶と肉体の連続性を共有しているに過ぎず、私は全く別次元の存在と化してしまったのだ。あれが純然たる幻覚だったのかそれとも現実の光景だったのか、今もその時も判り様が無いが、私は私である限り決してあの光景を忘れないだろうし、あの瞬間が言うなれば私の、最も神に近かった瞬間であった。宇宙はあの瞬間に生まれ、あの瞬間に死んだのだ。何処までも高く遠く伸びる空が私の頭上で悠然と無限を開き、私は至高の恐怖がやがて顕現するであろうことを知ったが、しかしその更に彼方に、未だ知らぬものの影が広がっていた。
その後のことは本当に断片しか憶えていない。私は荒涼たる無人の山脈の中腹に居て、そこから道無き道を下りて行ったのだが、あの光景を見た後私が気を失ったのかそれとも目覚めた儘だったのかは明らかではない。憶えているのは唯、道無き道を素足の儘足を血だらけにしてよろめき乍ら進んだひたすらに辛く苦しい道中のイメージと、事前に地図で頭の中に叩き込んでおいた地形と出会えた時に力が抜け、近くの木に凭れ掛かって暫く動けなかったこと、そして到頭洞窟の近くに停めておいた私の車を発見した時、とてもそれが現実のものとは思えなかったこと等、切れぎれのことばかりである。頭上には常に薄く光る乱層雲が垂れ込めていたので、私の強行軍が行われたのが昼だったのか夜だったのかは判らないのだが、明るさが何度か大きく変化したことから、その間に数日――最低でも二日間は経過したことは、可成りの率で確言しても良いと思う。私は車を見付けると近くの岩陰に隠しておいたバッグからキーを取り出し、その儘休むこと無く運転を開始して、凡そ丸一日半もの時間を掛けてようやっと、人間の居る街に辿り着いた。どうやら私は街の病院の前の電柱に軽く衝突して、その儘気を失ってしまったらしいのだが、衝突の瞬間のイメージは余りにも整然とし過ぎているので、この辺りの記憶は後で病院のスタッフから聞いた話を基に再構成されたものかも知れないと、私は疑っている。とにかく私がその後で気が付いたのは病院の白く固いベッドの上で、その後何日もの時間を掛けてゆっくりと治療を受け、そして私は、私が水中洞窟に潜ってから病院に担ぎ込まれるまでに、優に十二日近くの日時が経過していたことを知ったのだった。
これが私があの大いなる謎と邂逅した最初の体験である。発狂したと疑われることを怖れて、病院でも病院を出てからも真相は秘め隠し、全て、酔狂な探検行の最中に一寸した事故が起き、死にそうな目に遭って這々の体でようやっと自力で脱出した、と云うことにしておいた。あの地下の水中洞窟の存在も、その闇の底に潜むものどものことも、そしてその更に下に広がっているであろう、目眩めく戦慄の光景のことも、知っているのは今でも私一人しか居ない。今後もこのことを誰かに明かす積もりは無いし、今となっては、この秘密を守り通すために自分の命を懸けても良いとさえ思っている。と云うのも、私は再度あの地下世界へ単身降りて行ってみる積もりであり、自分自身の目であの謎を解くか、解くことは叶わないまでも、更なる深淵を直接自分の目で覗き込むことを、固く決意しているからだ。私はこの使命を他の誰の手にも委ねる積もりは無いし、誰にも助力を請おうとも思わない。今や私とあの謎とは一体であり、その深秘こそが私の何であるか、何であり得るかを規定するものであって、私以外の誰にも、このことが含意する重大な帰結について、理解出来ようとは思われないからだ。
あの時、あの黯黒の洞窟の中で私が目にしたものは、純然たる恐怖であった。混じり気の無い、見る者全てを石にせずにはいかないゴルゴーンであった。人は、自分達とは異なる者を忌み嫌うものだ。異なる人種、民族、国籍、宗教、信条、言語、風俗、行動様式、思考様式、観念体系、利害、価値観、外観、性別………それが偶然の怪我や病気、事故や事件等による一時的な差異であったとしても、そこに人は自らが安住している世界の綻び、或いは自らのものとは異なる世界の広がりを予感して戦き、その結果それを排除し、抹殺することによって、自らの安寧を図ろうとする。だが同時に人間は、より広い世界を求める様にも出来ているものだ。例えば人間と云う概念や人権の思想と云ったものは、そうした局所的な偏狭性を、理性に支えられた想像力が次々と突破し、自らとは異なる者、即ち他者を、より包括的な次元から自分達と同じ構造を持った存在として捉え、仮令共感は出来ないまでも、理解する可能性の開かれたものと規定し直すことによって、更なる観念的地平へ向けて新しい領土を獲得せんと征服し、併呑し、和解し融合して行った軌跡のひとつの結果であると言える。だが、一度その想像力の限界が試されようとする時、それまで営々と築き上げて来た拡張性を有する成功した観念体系が、世界観が、根底からその存在意義を問われようとする時、人はどう振舞うものなのだろうか? 我々の営為の全体の意味が括弧に括られ、疑問符を付けられ、「未決」の箱に放り込まれる時、人はその事実から逃避し、無視しようとするのだろうか、様々な心理的トリックによって認知的不協和を埋めたり軽減したりしようとするのだろうか、抵抗して頭から否定するのだろうか? 私は知りたい、そして見えたい、もう一度あの果てし無く暗い深淵の住人達に、世界の新たなる姿の可能性を拓くかも知れない、あの身も凍り付く様な恐怖に、私を激しい渇えによって苦しめて已まない、深甚なる大地の記憶に、あの大いなる存在の深奥の秘密に。
今晩私は装備一式を整え、今度は万全の体勢を以て再びあの闇の底へ降りて行く予定である。潜水の訓練も受け直したし、私が地上へ出て来たもうひとつの入口の位置も既に確かめ、前回私が辿ったルートの凡その想像図も作成しており、リールを固定する予定の場所も候補を列挙してある。些か無理をして性能の良い小型のソナーも手に入れたし、狭い所を潜るのにより便利なタイプのタンクも積み込んだ。それ程スピードは出ないが持久力が有って音の静かな水中バイクも用意した。護身用の銃は流石に入手することは叶わなかったが―――尤も果たしてそんなものが本当に役に立つのかどうかは疑わしかったが―――、代わりに殺傷能力の高い圧縮空気式の銛を持って行くことにした。そしてあれが、あれらが、どう云った存在なのか、思い付く限りの情報を集めて、頼り無いが、或る程度の予習は済ませた。人類とは何なのか、この地球に住まう生命とは何なのか、知識を求めることの本質とは………今日か明日、全く新しい問いの形式が作られることになるだろう。彼等の活動領域が、偶然か何か意味が有るのかまでは推測することも儘ならないが、ここまで地表近くまで伸びていると云うのは極めて珍しい事例の筈だが、現代の文明社会に属する、少なくとも知的な訓練を受けた生きた人間が直接接触出来る確率は恐らく天文学的になるだろう。願わくば私の脆い肉体が全く未知のエネルギーの奔流に流され活動を停止してしまう前に、閉ざされた真実の一端なりとも目にする機会が得られますように! 今夜は満月で条件は良好である。生きて再び地上世界の大陽を見られると云う保証は無いが、私は確かめねばならない。間も無くだ。出発の時間は近付きつつある。