新月と憑依
新月の夜。日が沈んでから、すでに二時間以上が経過している。
厘は腕を組みながら、しばらく無言で岬の身体と向かい合っていた。昼白色の電灯が照らす表情は、やはり“岬であって岬ではない”。
「何よ、黙りこくって……言いたいことがあるなら言えばいいじゃない」
岬はそんな風に眉間に皺を刻まないし、口調も刺々しくない。それもそのはず……いま目の前にいる岬は、みさ緒に身体を乗っ取られている状態だからだ。
これは、もう一つの憑依の種類。
岬が自我を保つことのできる半分憑依とは別の、完全に身体ごと乗っ取られてしまう形。いわゆる、完全憑依である。
「ああ……見た目は同じでも、随分違うものだと感心していたんだよ」
「どういう意味よ」
「岬は俺を睨んだりしない」
「……あぁ、そう」
ハァ、と視線を逸らすみさ緒。正確に言えば、岬の身体を纏ったみさ緒、ということになる。
新鮮と言えば新鮮だが、どうにも調子が狂う。表情と口調、声色というものは、中身でこうも変わるものなのか。建前ではなく、厘は改めて感心していた。
「それで、どうだ?」
「なにがよ」
「久しぶりに生身の身体を操れることへの、感想だよ」
みさ緒は怪しげな笑みを零し「そうね」と切り出した。
「思っていたより懐かしい感じはなかった。ただ、飲んだり食べたり……喉に伝う感覚には正直、戸惑ったわ」
「俺の手料理も、難なく食ってただろう」
「ええ。それでも、岬の身体でっていうのは、違うものよ。自分の本体とは」
「味覚も変わるものか」
「そうね。あと、咀嚼の回数も。岬は犬歯が小さくて、噛み切りにくかったわ」
ほら、と口を開けて見せられた歯並びに、厘は目を凝らした。確かに、顎も歯も小さい。……今度は少し、柔らかい肉で調理してやろう。
「まぁ、この感触が一夜限りっていうのは切ないわよね。岬には悪いけど、夜が明けるまで存分に使わせてもらうわ」
背伸びをしながら、みさ緒は言葉を弾ませた。
一夜限り。そう、岬に憑いた霊魂は、月の出ない新月の夜に限って完全憑依することができる。
黄泉へ繋がる、月灯りの導線。それが完全に消えた夜には、“入りやすく”なるらしい。逆に言えば、満月の夜には岬の身体を離れざるを得なくなる。導線が濃くなるからだ。
岬はおそらく、そこまで理解していない。完全憑依時の記憶は引き継がれないようだし、おそらく、宇美も黙っていたのだろう。
「ハァ……」
厘は深くため息をついた。
この完全憑依で、どれほど岬の生気が奪われるか……半分憑依なんて比じゃない。それに今回は、この女……みさ緒。
「お前、岬のことを気に入っているな」
「ええ……それがどうしたの?」
座椅子に身体を預けたまま、彼女は事もなげに首を傾げた。
「それならば、」
グイッ。
厘はその頬ごと顔を持ち上げて、半ば強制的に視線を捉える。
やはり、目の色もあいつとは違うな……。厘はほくそ笑み、みさ緒は目を見張った。
「この夜が明けたら、すぐに岬から出ろ」
言いながら、厘は今宵までの一週間を思い返す。
そう……端的に言えば、散々だった。
岬が指にケガを負い、事故を危機一髪で免れたあの日からずっと、同じような悲劇が続いていた。
予報にない局地的豪雨に見舞われたり、図書室の棚が岬に倒れかかったり……細かいものを入れると、まったく片手では収まらない。厘が間接的、または直接的に救わなければ、命に係わることも多々あった。
単に運が悪いのではない。まして、人為的なものでもない。すべてはこの、みさ緒が原因だったのである。
「な、なんでよ……私にはまだ、出るまでの猶予があるはずよ」
「岬を不幸にさらしてまで、中に居たいってことか」
ギュゥッ。
厘はより強くを掴んだ。伸びた爪を、食い込ませないように。
「……だって、こんなの二度とない機会かもしれないじゃない」
「つまり、自分の快楽が優先だと」
「そうよ。何が悪いの?……別にね、岬のことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きよ。それでも、この身体にはそれだけの価値があるの」
話しにくそうではあっても、口は変わらず達者だ。視線を揺るがす気もないらしい。
「お前、自分が何者か分かっているんだろう?……なぁ、黒闇天」
だが、その一言で彼女の目つきは変わった。驚きよりも、おそらく観念に近い。そんな眼差しだった。