あやかしは同居人
逃げるなよ。……そう言われたところで、逃げようもなかった。
なぜなら、リリィの化身は居座るどころか、
「岬、醤油が切れる。次の遣いで買ってくるのを忘れないように」
「は、はい……」
エプロンまで拵えて、すっかり家主の風貌だったからだ。
……でも、リリィの味付けってすごく好き。岬はすでに、胃袋を掴まれかけていた。
「いただきます」
「召し上がれ」
手狭な1DKに突如現れた同居人。それも妖、しかも異性。
はじめは抵抗があったものの、違和感はあまり覚えなかった。それに、妖花といえど人としての常識は弁えているようで、脱衣所でバッタリ、なんていうハプニングもない。
彼のお皿に添えられた生野菜にも、ここ一週間で随分と馴染んでしまっていたし、何より夕飯が日々の癒しになっていた。
温かいご飯。今日もまた、一汁三菜。母を失くしてから、カップラーメンと冷凍食品の往来が主だった岬にとって、それは紛れもなく絶景であった。
「んっ、おいしい……!」
ブリの照り焼きを頬張りながら、思わず目を細める。そして、添えられた長ネギの香ばしい匂いもまた、五感をくすぐる。
濃すぎない味付けも、岬好みだった。本当に……美味しい。
「今日は味見をしたからな」
「え……今まではしてなかったの……?」
「たまにしてる」
「たまにかぁ」
ということは、味見なしであのクオリティだったんだね……。岬は、底知れない彼のスペックに感嘆した。
「リリィって、器用なんだね」
「普通だよ。……それより、そろそろやめないか。その呼び方」
シャリッ。
玉ねぎを林檎のように齧りながら、彼は言った。それも、特段思いを込めたような口調で。
母と付けた名前は捨てがたいが、男性に“リリィ”という渾名は可愛らしすぎるのかもしれない。
「やっぱり……女性みたいで嫌だよね」
「草花だから、明確に区分けされているわけではない……が、確かに俺はオスだ。リリィという響きも正直、似つかわしくないとは思っている。まぁ、それより……」
草花と花の違いって、なんだっけ。岬は首を傾げながら、続く言葉を待った。
「“リリィ”単体では百合の意を表す。それが、どうにも引っかかっていたんだ」
引っかかっていた……ということは、彼は前から違和感を覚えていたってこと。
名付け親のお母さんも、私も……こういうところはとことん抜けている。何も知らず呼び続けていたことに、岬は顔を熱くした。
「それじゃあ……何て呼ぼうかなぁ」
「厘」
「え?」
「俺の名だ。好きなように呼べばいい」
小さく口を動かしながら、視線を逸らす。
出会ったあの日も思ったけれど、この仕草は照れ隠しなのかな……。岬はクスッと笑みを零した。
「わかった。厘って呼ぶね」
「ああ」
今度はキュッと閉じられる口元に、少しだけ胸が締る。この薄い唇にキスをされた、なんて……いまだにちょっと、信じられない。
岬はときおり彼を垣間見ながら、例によっておかずを全て平らげた。
「ご馳走さま、厘」
「ん」
同居人が増えたという新鮮味はあっても、ずっと同じ部屋で“生けていた”厘に対して、緊張感はなかった。
そう。あまりにも居心地がよくて、岬は忘れていた。
自分の体質のことを。
体調が変化を見せたのは、その翌日。下弦の月夜のことだった。