6.どうしてこうなった(1)
(この男が出来損ないのアスター・ファイストス。出来損ないの香りは、レモンケーキ……)
出来損ないの匂いに興味があると、軽く思っていただけだったのに。まさか、その本人に祝福の調香師だと暴かれるとは。
絶句しているセレネをよそに、アスターは上機嫌の様子。ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「お前が事件を解決する様子を見てひらめいたのだ。お前の鼻は使えるとな。だから、お前。俺のために働け」
「そ、それは一体……?」
なんとかセレネは言葉を発した。
「俺が出来損ないと呼ばれていることも、弟のリアムがファイストス侯爵家の血を強く受け継ぐ美しい外見を持ち、知にも武にも優れていると称されていることも知っているよな?」
脂肪でパンパンに膨らんだアスターの顔。だが、その瞳の色だけは緑色で綺麗だ。
瞳だけなら、ファイストス侯爵家の血を受け継いでいるといってもいいかもしれない。
セレネには、その瞳が自分の別名を口にする時は一瞬辛そうに揺れたように見えた。
「はい」
「では、俺が廃嫡されるかもしれないという噂は?」
「知っています」
アスターがいずれ廃嫡されるかもしれない。
そんな噂をセレネは店の客からチラホラと聞いている。
『ファイストス侯爵家の当主はこの土地の領主。次の領主は出来損ないよりリアム様がいいに決まっている』という人もいる。
目立たず静かに暮らしていきたいだけのセレネにとっては、そんなことより目先の生活が大切ではあったが。
「なら、話が早い。俺は父上に本当に廃嫡されそうなのだ。だが、それは避けたい。俺は慣れ親しんだこの地で気ままに暮らしたい。廃嫡されれば、どこかの貴族の娘に婿養子出されるかもしれないからな」
「そ、それでどうして私が……」
「廃嫡を避けるためには、長男としてある程度の成果を上げる必要がある」
「成果を上げる?」
「そこで、お前の出番だ。お前がその鼻を使って事件を解決して、俺の成果とすればいい。そうすれば、廃嫡されずに済むはずだ。どうだ。いい思い付きだろう?」
それがいい思い付きだなんて、セレネはまったく思わない。
そもそも、『この地で気ままに暮らしたい』だなんて出来損ないの発言そのものだ。
しかし、アスターはクックックッとでっぷりした体を震わせている。
自分の思い付きに満足しているのだろう。
「私の嗅覚で事件を解決するなんて。そんなこと……」
『できません』と言おうとしたのに、セレネは言えなかった。
「お前は選べない。お前、自分が祝福の調香師だとバレてもいいのか? お前が俺のために働かないのなら、俺は躊躇なく『ここに祝福の調香師がいる!』と叫ぶが」
アスターがジロリとセレネを見て、セレネに言葉を最後まで言わせなかったからである。
弱みを握られたセレネは、もう彼に従うことしかできなかった。
「わ、わかりました。や、やります」
おずおずとセレネは答えた。
「ならばいい。お前の秘密は誰にも言わない」
「お、お願いします」
「期限は来年の六月、リアムの学校卒業までだ。今は九月だから、あと九か月か。リアムの卒業と同時に次期当主に指名し、俺を正式に廃嫡する計画があるようだからな」
「わかりました」
セレネには淡々と答えることしかできない。
祝福の調香師だとバラされるのだけは困る。無口でまじめな店員として、この町で暮らしていきたいのだから。
(この人の前でも無口でいたほうがよさそう。余計なことを言って彼の機嫌を損ねでもしたらどうなるか)
セレネはもはや、彼の言う通りにするしかないと諦めている。
「気まぐれに顔が隠れるこの衣装で視察に来てみたら、まさか事件の犯人扱いされるとは思わなかった。だが、祝福の調香師に会えたのはよかった。事件で忙しいと副団長と護衛がいないところを一人で密かに来たのが功を奏したな」
アスターは、大きな腹を揺らしながら嬉しそうに声を上げて笑った。
(気まぐれ。傲慢な態度。この体型に容姿。確かに出来損ないといっていい。でも、私を嵌めたあの言葉は出来損ないのものではなかった。廃嫡されないために事件を解決しろというのは、めちゃくちゃだけど。彼は一体?)
そうして、アスターは『また来る。解決して欲しい事件はその時に伝える』と、店を去った。
閉まるドアの先にある丸い後ろ姿を見ながら、セレネは思った。
もしかしたら、アスターも祝福の調香師と同じように噂と実物では違うのかもしれないと。
(それにしても、どうしてこうなった……。出来損ないを廃嫡の危機から救うために嗅覚を使って事件を解決するなんて)
ドアが閉まると同時に、セレネは大きなため息をついた。
ラピスラズリ盗難事件を解決した高揚感はとっくになくなっていた。
******
それから二日後。
雑貨店の閉店時間間際にアスターはフードで顔を隠してフラリと現れた。
慌ててセレネは閉店作業を済ませ、三階の住まいのキッチンへと彼を通した。
雑貨店の三階にあるセレネの住まいには、小さなキッチンと居間兼ベッドルームがある。
さすがにベッドがある居間に通すことは気が引けたのである。
「お好きなレモンケーキでなくて、すみません」
言葉はいつも通り少なめ。表情はいつも通りまじめなもの。
でも、ドンッと乱暴にセレネはビスケットを入れた皿をテーブルに置いた。
アスターは先にテーブルについている。
もはや、彼に逆らうことはできない。
これはささやかなセレネの反抗心であった。
「ん? レモンケーキとは?」
アスターは不思議そうな顔をしている。
ムチムチした腹が、テーブルとイスの間で窮屈そうである。
チラリとその腹を見つつ、セレネは彼の向かいに座った。
(しらばっくれて。今日だってポケットにレモンケーキを入れているのはわかっているんだから)
彼からは、今日もレモンケーキの香りがプンプンする。
セレネが祝福の調香師だと知っているのなら、ポケットに香りがするものを隠し持っても無駄だと彼は知っているはずだ。
今日も着てきた旅商人風のローブを脱いでも香っているということは、ズボンのポケットに入れているのかもしれない。
実は、先ほどからセレネはこっそりとその香りを堪能している。
香りを吸う度にうっとりとしてしまいそうになるが、セレネはなんとか堪えていた。
アスターは先に置かれていた紅茶を一口飲み、こう切り出した。
「早速、お前には俺のために働いてもらう。今日はお前に解決して欲しい事件を伝えにきた」
「はい」
いよいよ、彼のために働くということか。
セレネは諦めきった短い返事をした。
アスターは出されたビスケットをバリバリと食べながら、セレネにいくつかの事件を伝えた。
父親の目につきやすい事件だそうだ。
「では、しっかりと俺のために働けよ」
伝え終わると、アスターはさっさと帰り支度をしはじめた。
「わかりました」
「あぁ、そうだ。俺がここに何度も足を運ぶのは目立つ。だから、連絡役として信頼できる男を用意した。その男に調査も手伝ってもらえ」
帰り際にアスターが言った言葉にセレネは頷いたのだった。