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4.硫黄の匂いは愚者を暴く(1)

 警備隊長アスターが、職人街の視察に来るはずの日。

 午後になっても、彼は職人街に姿を現さなかった。


(三食お菓子だという男の匂いに興味があったのに。まぁ、そもそもこの店に確実に来ると決まっていたわけではないけど)

  

 セレネは、なんとなくがっかりして会計カウンターに肩肘をついている。


 十七歳の娘が男の匂いを嗅いでみたいというのは、どうなのか。

 自分でもうっすらそう思うものの、嗅いでみたいのだから仕方がない。


 実はあの日、元婚約者(あいつ)に言われた『香水バカ』という名は嘘ではない。

 それよりもっとひどい別名、たとえば変人や変態が付くもので呼ばれていることもセレネは知っている。

 そうは呼ばなかったのは元婚約者(あいつ)の優しさか。

 いや、ただ単にその言葉を口にもしたくなかっただけか。


 とにかく、香水を作るため、匂いに関することにならセレネは何でも知りたがった。


 それは、良い香りに限らない。

 石だろうが草だろうが、嗅いだことがない匂いがあれば嗅ぐ。

 人の体臭だってそうだ。


 そして、気になる香りがあれば文献で、時には取り寄せ、または現地に赴いて調べ尽くす。

 それらが香水になると思えば、眠る時間も惜しんで調香室に閉じこもり調香を繰り返す。


 人並外れた嗅覚と香りへの好奇心が自然とそうさせるのだとは、セレネ自身の分析である。


 ただ、セレネは調香師という仕事が心底好きだった。

 だからこそ、一所懸命だったというのもそうなった理由かもしれない。


(今日は事件もあったし。出来損ないの警備隊長とはいえ、事件の時くらいはおとなしくしているのだろうな)


 今日の昼頃、職人街では事件があった。


 ジャックの宝石細工工房から、宝石が一つ盗まれたのだ。

 ジャックは職人街でも名を知られた宝石職人。王都の貴族達からも注文が入るという職人である。


 工房の昼休み。いつもはしっかりと戸締りをして、宝石類は金庫に入れて休憩に出るのだという。しかし、今日に限って、窓の鍵を閉め忘れていたのだそうだ。

 

 その上、研磨を終えたばかりの宝石を作業机の上に置き忘れていたというのだ。

 それは、ある貴族から注文されていたペンダントにつける予定の希少な宝石だったらしい。


(不運というか、不注意というか。とにかく、見つかるといいけど)


 セレネは窓の外に目を向ける。

 警備隊員達が必死に聞き込みをしている様子が見える。


(この店に聞き込みに来た警備隊員は、「犯人は宝石を持ったまま職人街にまだ潜伏している可能性が高い」と言っていた。「ローブを着た旅商人風の怪しい男の目撃情報がある」とも)

 

 職人街も案外物騒だ。戸締りには気を付けようと考えながら、セレネは帳簿に目を落とした。


 その時のこと。

 開かれた店のドアから懐かしい香りが漂ってきた。


(鼻先に絡みつくような濃厚なバター。それなのにレモンの香りが初夏のような爽やかさを運ぶ。あぁ、これは王都のあの店のレモンケーキの香りに間違いない)


 うっとりとした顔で、セレネはその香りを吸い込んだ。


 それは、セレネの大好物。

 王都の貴族御用達の菓子店でしか買えないレモンの形をした焼菓子である。

 自分では買うのを躊躇する値段であったが、香水店の顧客であった貴族がよく差し入れてくれたものだ。


 ドアの方を見ると、そこには見慣れない男が立っている。


(レモンケーキなんて平民はそうそう買わない。彼は服装からして、王都から来た羽振りのいい旅の商人といったところだろうか? あっ! もしや、宝石を盗んだ犯人かも!)


 ビクリとしつつ、セレネは男の様子を観察した。

 その男は旅商人風の長いローブを纏い、フードをかぶっている。フードのせいで男の顔はよくは見えない。

 わざと隠しているのかも。セレネは男を怪しんだ。


(それにしても……、お菓子の好きそうな体型だな)


 その体型はローブを纏っていても一目瞭然である。


 本来、ゆったりとしたはずのローブの腹部分。だけど、彼の場合は丸い腹の形が浮かび上がっている。

 そして、低い身長のせいか随分と体全体が丸く見える。


 つまり、彼は太っているのである。


(あれ? この人、手ぶらだ。じゃあ、レモンケーキはポケットの中? 自分用のおやつということか。かなりのレモンケーキ好きに違いない) 

  

 それでは太っても仕方がないと思いながら、セレネはレモンケーキの香りを密かに吸い込んだ。


 男は店内をウロウロとしている。


 この店は広くはない。

 だが、石鹸に鍋、インクに掃除用具といったあらゆる生活雑貨が売られている。

 茶葉やジャムといった食品まである。

 棚にはぎっしりと商品が並んでいるから、初めてきた客は店内をじっくりと見ないと何がどこにあるかわからないだろう。


 男が怪しい素振りを見せたら、警備隊員を呼ばなければとセレネは身構えた。

 

******


(まだウロウロしている。暇なだけだろうか?)


 レモンケーキの香りの男は、もう三十分も店の中にいる。

 さすがにセレネも、男を監視するのに疲れてきた。


(でも、レモンケーキはいい香りだ。まぁ、いいか)


 もう何度目だろうか。セレネは大好きな香りを吸い込んだ。


 そして、うっとりとしつつ、ニヤニヤしてしまう。

 好きな香りを嗅ぐと、セレネはどうも顔がしまらなくなってしまうのだった。


 香りを吸い込んだと同時に、店のドアが開くのが見えた。


「い、いらっしゃいませ」


 セレネは慌てて顔を引き締めた。

 まじめな店員で通っているのに、だらしない顔をしているわけにはいかない。

  

 入ってきた若い男はレオン。

 近所の食堂の息子だが、働きもせずにブラブラとしているドラ息子だ。 


 彼は派手なジャケットを着て、旅行カバンを持っている。悪い友人の家を泊り歩いていると聞くから、これから行くところかもしれない。

 

「おい、歯ブラシはどこだ?」


 レオンに言われ、セレネは窓側の商品棚へと向かう。

 レオンもセレネの後ろに続く。 


「はい」


 歯ブラシを差し出すと、レオンはあからさまにセレネを軽蔑したような顔をした。


「ったく。いつ来ても、この店の店員は不愛想だな」


「すみません」


 不愛想で結構。

 余計なことを言って、祝福の調香師と知られて街を出るよりよっぽどいい。

 セレネは表情を変えずに言った。


「ふん。わかってるなら、愛想笑いくらいしろ」


 嫌味な目つきでセレネを見ると、レオンは同じ棚にある石鹸を手に取った。


 セレネは無意識にレオンの匂いを嗅いでいた。


(レオンさんから、硫黄の匂いがする。一体、何の匂いだろう? それにしても、レモンケーキの香りのほうが断然いいな)

 

 今までなら『硫黄の匂いがしますが、何を持っていますか?』なんて、言ってしまっていたところ。

 

 しかし、今は堪えなければならない。


(とにかく無口に。目立たず静かに暮らしていくんだから)


 セレネは開きそうになる口をぐっと閉じた。


 とその時。

 ドアがガチャリと乱暴に開いた。


「レオンさん。ここにいたんですね。宝石盗難事件の件で、お話が。あなたの自宅はジャックさんの工房の向い。怪しい人物を見なかったか聞こうと捜していたんですよ。ご両親は食堂で仕事中で、自宅にはあなたしかいなかったと聞きました」


 そう言ってずかずかと歩いてきたのは、一人の警備隊員。

 どうやら、窓からレオンが見えたようだ。


「あぁ、その件か。怪しい人物。そうだな……。背の低い旅商人のようなローブを着た男を見たな。あっ、そこにいる人にそっくりだった」


 レオンは考え込む素振りを見せ、レモンケーキの香りがする男をチラリと見た。


 ちょうど、彼はセレネ達がいる窓側の棚の端で、インクを手に取ったところだった。


「旅商人風のローブ。怪しい男の目撃証言と同じ……。もしや、ラピスラズリを盗んだのはお前か! 話を聞かせてもらおう!」


 警備隊は男のほうへ近寄る。


(ラピスラズリ?)


 宝石の名を聞いて、セレネはどうもひっかかると首をかしげた。

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