2.無口でまじめな雑貨店の店員(1)
「いらっしゃいませ」
「今日はいい天気だね」
「そうですね」
「もう、昼は食べたかい?」
「いいえ」
店に入ってきた顔見知りの銀細工職人に、短い言葉で淡々とセレネは答えた。
ここはブルジュの町はずれ、職人街にある小さな雑貨店。
ブルジュはイースタニア王国の南、ドナウ川沿いにある商工業の盛んな町だ。
ファイストス侯爵領の領都で、王国でも五本の指に入る大きな町である。
数十代前の領主が優秀な職人を集め、工房を構えさせたのが職人街のはじまり。
今でも、多くの職人達が住居と工房を構えている。
セレネがこの町に来て、この雑貨店で働きはじめてもう三か月が経つ。
仕事にはすっかり慣れた。
銀細工職人が石鹸を手に持って会計カウンターに来ると、セレネは慣れた様子で会計をした。
「ありがとうございました」
「しかし、セレネちゃんはいつ来ても無口でまじめだね」
銀細工職人はこう言って出て行った。
『無口でまじめ』。
これが、今のセレネである。
この店の店長をはじめ、常連客達はセレネのことをそう言う。
実際に、セレネがこの店で話す言葉は『はい』、『いいえ』、『いらっしゃいませ』、『ありがとうございました』、『すみません』、『そうですね』、『なるほど』くらいだ。
さすがにセレネは学習した。嗅いだ匂いを口に出してはいけないと。
それで、無口になることにしたのである。
宿屋を解雇された後に勤めた、ある町の食堂でのこと。
そこでも、『ご主人、奥さんと違う石鹸の匂いがしますね。どこか別の家でお風呂に入ってきましたか?』なんて言ってしまった。
結果、主人の浮気が露呈し、妻はカンカンに。
そして、『余計なことを』と主人に怒られた上、『何時間も前の石鹸の匂いがわかるなんて、悪女と名高い祝福の調香師以外いない』と、解雇された。
もう嗅いだ匂いを口にする癖は出さない。セレネはそこで誓った。
しかし、長年の癖はそう簡単には治らない。
香水店では、客の名を体臭で当てたり、持っているものを匂いで当てると『さすが、祝福の調香師』と売り上げが伸びた。
この癖はセレネにとって、言うべきことだった。
気付けば自然と口から出るようなっていた癖を堪えるのはなかなか大変なこと。
そこで、セレネが考えたのが『無口になること』だった。
もちろん、仕事も一所懸命している。
無口になったところで、仕事ができないと解雇されてはかなわない。
どうやら、言葉少なに黙々と仕事をしている姿を職人街の人々はまじめな子だと受け取ってくれているよう。
(無駄なことを話さなければ、癖はでない。思ったとおりだった。それに、無口でまじめ。悪い評価じゃない。うん。無口になることは、我ながらいいアイディアだった)
無口になったことが功を奏したのだろう。
三か月も同じ店で働いているのは王都を出て以来、初めてのことだ。
しかも、この店は居心地がいい。
住み込みの店員であるセレネの部屋は、店の三階。
元々は人に貸していたという広々とした部屋だ。住み込み用の狭い部屋だった今までとは違い、簡単な台所もついているからかなり快適である。
二階に住んでいる店長は、夫を早くに亡くし長年この店を一人で営んでいた。
彼女は今、生まれたばかりの双子の孫の世話に忙しく、毎日のように娘夫婦の家へと出かけている。
セレネが仕事に慣れた今では、店に顔を出すのは週に二度ほど。
店長はこのために、店を任せられるまじめな人を探していたのだった。
(広い部屋なのに家賃はいらないし、店長も優しい。この店でずっと働けたらいいのに)
セレネは祈るように思う。
そもそも、祝福の調香師の噂は広がっていても、セレネの名や年までは耳にしない。
悪女に祝福の調香師というインパクトのある別名のせいだろう。
それに、容姿も噂と現実ではまるで違う。
祝福の調香師は艶やかな黒髪に飽満な肉体の美女。こんな噂が広がっているのである。
人々の話を聞く限り、悪女は美女だと思い込んでいる人が多いよう。だから、こんな噂が広がったのだろう。
噂を聞く度に、実物との差に本人は複雑な気分にはなるのだが。
とにかく、これなら合っているのは黒髪だけだから疑われるはずがない。
この噂のお陰で、経歴を少し偽れば仕事はすんなりと見つかった。
ちなみに、この店の面接では以前は王都の食堂で給仕をしていたと言った。
あとは匂いを口に出す癖にさえ気を付ければ、今までのように解雇されないはずだ。
セレネの望みは、今やただひとつ。
目立たず静かに暮らしていくことだけである。
貴族に立てついても、名誉と資格が戻ってくることはない。
祝福だと持ち上げられ、悪女だと騒がれる。嗅覚のせいで目立つのはもう懲り懲り。
それに、町を転々とするのにも疲れてしまった。
(無口でまじめに仕事を一所懸命すれば、解雇されずに目立たず静かに暮らしていけるはず)
セレネは「よし、がんばろう」と大きくうなずき、商品を棚に並べはじめた。