其の漆
事実だけを背骨として歩かなければならない新聞記者という仕事に嫌気がさしたことも、ウマが新聞社を辞めた大きな要因だった。推測や仄聞で物事が語れない窮屈な世界には元々住めない人間だった。
その夜、ウマはスナック『道草』のカウンターにいた。
奥のボックス席では四、五人の客がホステスとカラオケをしている。
太めのママがウマの相手をしていた。
「ママ、ダイテン鍋って知ってる?」
「えっ?聞いたことないわ」
「大という字に点を付けたら?」
ママが指でカウンターに字を書いた。
「太いってこと?わたしみたいな鍋?」
「そりゃあ大層美味いだろうなあ。でも点は上に付くんだ」
「犬?ワンちゃん。え~、ワンちゃんを鍋にしちゃうの?私もクーちゃんっていうチワワ飼ってるのよ」
「チワワじゃ、残念ながらまあお通し程度だな」
「やだ~」
「北の方では喰うために犬を育てたんだってさ。さすがに自分の家の犬の処理はよそに頼んだそうだが、『ダイテン』やるぞというと近所の人間がみんな集まったってさ。ほかに肉なんか手に入らなかったんだね」
一年の三分の一を雪の中で暮らしている土地の人間から酒の席で聞かされた話だった。
「可哀想~」
ママは両手を顎のあたりに持っていき、可愛いらしくポーズを作った。
「だけどよ、沖縄なんて、可愛いがってたヤギの頭を撫でて学校に行って、帰ってきたら親戚が集まってやぎ汁パーティーをやってたなんて、普通のことだとさ」
ウマの水割りのお代りを作りながら、ママは幾度も小さくうなずいたが、ブタを食べない宗教があったかな程度の事しか考えていなかった。客の話に真面目に付き合っていてひと晩もつ仕事ではない。
ウマもまた、深く考えてした話ではない。会話の流れを作っただけのことで、あとはその流れに目的の話題を浮かべるだけでいい。
「ところでさ、山城さんだっけ、ヤットウの先生よく来るのかい?」
ウマは袈裟掛けに刀を振る仕草をした。
「あら、お知り合いなんですか?」
ママが少し構えたような表情になった。
「なに、昔ちょっと世話になってね」
「そうなの、ときどき来るわよ。この間は警察の人の送別会で来ていたわよ」
ママがウマとの距離を広くして、語尾を投げるような口調になった。山城をあまり快く思っていない証拠だ。
「まあ、大した付き合いじゃないけどな」
ママの心の内を読んだウマは軽く笑って首を振った。まず安心感を与えてから相手が自然に話すように持って行くのも取材の基本だ。
「あなたも剣術なさるの?」
「いや俺の棒振りはもっぱら夜だけだ」
下手な下ネタにママが不自然な笑顔で付き合った。
「それと、あのお神酒徳利も来るのかい?」
「お神酒徳利って?」
「いつも一緒にいるやつさ」
「ああ川久保さんね。いつも一緒だけど、この前は来なかったわね。なにしろ警察のお偉いさんもたくさんいたから、来られないわよね」
「そうか、それで山城の先生はずっといたのかい?」
「ええ、宴会の始まりから終わりまで。だから六時ごろから十一時ごろまで、なんたって幹事だったから」
「途中で出かけたりとかは?」
「いいえ、そうねえ、電話するとかで五分くらい外に出たけど、それだけ。幹事でしょ、それに車だからって珍しくお酒飲まないで、ウーロン茶ばかり飲んでいたわ」
「あの先生、結構いける口だったよな」
「そりゃあ、もう。いつも焼酎のお湯割りばかりだけど底なしね。だから、飲まないのは珍しいと思ったもの」
「ふ~ん、あとママさ、生きたままのドジョウ鍋の作り方って知ってる?」
ウマは相手が深く考える前に話題を変えた。これ以上質問しても何も出て来ないとわかったこともあった。